279話
「敵ってのはなにも悪いものじゃない。自分を写す鏡だ。見えないところまで見せてくれる。お金を払ってでも置いておくべきだと思うがね」
だからツケたりはしない。敵のために支払うこと。これも時には必要となるというのがマスターの言い分。というかただ単にお金を貸しておきたくないだけ。
いつも世話になっていることもあり、目で喧嘩を売りつつも、最終的にはドゥ・ファンが先に逸らす。
「……はぁ。厄日だな」
適当にポケットからユーロ札を取り出す。いくらかは数えない。大体だが、少し多めに。そして席を立つ。しかし怒りなどはない。勉強した、その程度には前向き。
「引き取りに来たら一旦店閉めるから。先に帰るのか?」
できれば寝ている人を外に引っ張り出していってくれれば、マスターとしては有難い。二四時間営業というわけではないので、キリのいいところで閉めたいから。
胸ポケットを弄りタバコを一本咥えるドゥ・ファン。今日あったこと。なんだかんだで実りがあったのかもしれない。どう捉えるかは人それぞれ。
「変質者だと思われても嫌なんでな。あとは頼む。こんな時間に迎えに来てもらうんだ、一杯くらい奢ってやってくれ」
寒空の中、呼び出されるなんて自分だったらたまったもんじゃない。ましてや担いで帰ることになるだろう。労ってもバチは当たらない。イタリアのナポリでかつてあった、誰かのためにコーヒー代を奢る『ソスペーゾ』という助け合いの習慣。そのようなもの。
恋人を追いかけてきたという。好きな人の背中は追いかけたい、というのはもしかしたらわかるかもしれない。もう、今後会うことはないだろう。適当に幸せにでもなってくれ。
受け取った札を数えるマスター。違和感しかない。
「だいぶ多いと思った。わかった。だが珍しいな。ファンがここまで会話したり、面倒を見てやることなんて」
ある程度のことはすでに知っている。賭け事も。ヤバいことに足を突っ込んでいることも。だから、というわけでもないし、性格的なところもあるのだろうが、絡まれたらすぐに帰っていた。それなのに。
そのことは当の本人もよくわかっている。今日は気まぐれ。二度はない。だから。
「……思い出したこともあってな。困ったヤツは見捨てておけない。じゃあな」
見捨てておけない? 散々捨てておいて? 自分で言ったことを鼻で笑う。きっと、ララをあいつに重ねてしまったからだろう。そう、あの時の——
「ここにいると聞いたのですが」
ふと。ドアが開く。若い女性の声と共に。白い息を吐きながら。店内に入ってくる。
発言からもわかるように、飲みにきたわけではない。迎えに来ただけ。少し文句を含んでいそうな目で、眠る人物を認める。
「迷惑をかけてしまいすみません。キツく言っておきますので」
そんな言葉も足して、脱力したララの体を揺する。起きそうにない。やれやれ、と軽く愚痴をこぼす。
咥えたタバコ。口の端から落ちそうになるのをドゥ・ファンは外した。そのまま帰るつもりだったが。見覚えのある顔に目を細める。そして。
「……ギフトビーネ」
と、ひと言だけ。侮蔑が混じったような、ドス黒い声色。
それに反応する女性。一瞬驚いたが、それよりも喜びが勝る、とでも言うかのようにゆっくりと笑みを浮かべた。
「あぁ、あなたが。どこかの『毒蜂』、ということでいいのかな?」
飄々と。危険を纏って。




