273話
ドアを開けて軽くマスターと挨拶。今日は……人がいる。いや、店としても売り上げが上がるし、なによりここがなくなったら静かに飲めるところがないからいいことではあるが。聞こえないように舌打ち。だが幸いにもひとりだけ。女性。左端に座っているので、自身は右端へ。
「聞いてもらえますか?」
座ろうとした瞬間、先客が右から二番目、つまり隣に移動して腰掛ける。足元に置いてあったキャリーケースはそのまま。すでにだいぶ飲んでいるらしい。
ドゥ・ファンも腰掛けてしまった手前、なんだか席を変えづらい。グラスを磨くマスターをチラッと見るが、無関心を決め込んでいて放置。ため息をついて断ろうとしたが、それよりも先に女性が話を重ねる。
「……せっかくパリに来たんですけど……」
そう、ここはパリ。フランス。華の都パリ。にも関わらず、女性はドイツ語で話す。酔いが回っているため余裕はない。考える時間などなく、思ったことを口にするのみの酔っ払い。
一応、ドイツ語も学生時代にかなり勉強していた語学。最低限話せる。が、聞くつもりなどないドゥ・ファン。とりあえずマティーニを注文。
「砂糖も追加で。故郷じゃこうして飲んでる」
嘘をつきつつ。ただ静かに飲みたいだけ。フランス語で意地悪く。意地が悪いやつ、性格が悪いやつがチェスは強い。そんなことを考えつつ。
「あ、それじゃ私もそれを」
勝手に女性も追加。フランス語も実はまぁまぁできる。喋りはドイツ語。もはやなんでもいい。さらに酒が進めば、背後の酒棚を指差して「ここからここまで」という注文すらしそう。やってもいい、そんなやぶれかぶれな心境で今現在。
「……」
目を瞑り、怒りを鎮めるドゥ・ファンだが、横目で姿形を初めて確認する。すると随分と、いや、相当に美人である。スタイルもよく、こんな時間に女ひとりでなにをやっているんだ、と自分のことは差し置いて、なんだか心配になってくるほど。ほんのり……は通り越して、朱に染まりつつある肌がより艶かしい。
しかし唐突に無言になる女性。するとまたも唐突にハッと声を上げる。
「マティーニに……砂糖、ですか?」
マティーニグラスに入っていればなんでもマティーニ、というのを聞いたことがある。その店の顔となるカクテル。それに砂糖を入れるというのは流石に聞いたことがない。少しだけ頭がシャキッとする。もう頼んじゃった。
「モンローマティーニ。名前の通り、マリリン・モンローが主演した『七年目の浮気』という映画で、故郷ではこうしていると嘘をついて飲みやすいマティーニを作ってもらった。そこからできたカクテル」
ひっそりとマスターもドイツ語を話せる。外国語必修が多い国の教育制度。こんな時に役立っていた。ちょっとだけぶっきらぼうな口調はいつものこと。別に怒っているわけではない。




