233話
いつもの当たり前の光景。オープニングの中でもよく見る部類。やはりシシーにはこの六四マスの宇宙に没入する瞬間が好きだ。一度辞めるチャンスはあったが、結局それを逃したらチェスの持つ熱量に縛られ続けている。
「余計な言葉はいらないね。◇ナイトf3」
シシリアンディフェンスは激しい攻防になる。望むところ、と見えない盤上を睨んだシシーは早い段階から打ち合いを覚悟する。
会話は駒が行う。ひとつ動かすだけで相手に伝わるもの。一手ごとにグウェンドリンも感じ取る。
「ですね。◆ポーンe6」
すでに交戦的。『私は激しい性格です』なんて宣言されるよりも、よっぽど知ることができる。まだまだ定跡の範囲内。チェスは序盤は交渉。シシーも例に漏れず。
「クイーンとビショップを空けるルートを選んだか。◇ポーンd4」
この動かし方はつまり『お互いにポーンを交換しましょうか』という合図。乗るか。それとも独自の路線を進むか。
ふふ、と吹き出しそうな口元を覆い、グウェンドリンは展開していく。
「◆ポーンd4」
「◇ナイトd4」
その後、お互いのことを知り合うように、仕掛け合い、潰し合い、語り合う。一時間の会話より、真剣師には一局の対局。序盤、中盤、終盤と進むにつれて、複雑さを増していく中、目からの情報を抜きにして探り合う。
三つの対局を脳内で完成させることができるシシー。マクシミリアン戦ではそんな離れ業をやってのけながらも、しっかりと違った戦法を、世界を知る相手にぶつける。より深く潜る感覚。ポーンが。ナイトが。ビショップが。自分の意思で動くかのような。
「……いや、完敗です。私じゃ相手にならない。降参、降参。これなら百ユーロ取られてもしゃーないです」
財布から札を取り出すグウェンドリン。真剣師同士の対局。もし相手がいらないと言ってきてもポケットにねじ込む予定。
テーブルに置かれた百ユーロ。それを見ながらシシーは軽く感想戦に入る。
「そんなことはない。◆ルークc8からのオープンファイル。あれは非常に嫌な一手だった。グウェンドリンさんこそ、並の指し手ではないね」
ルークを自由にさせると好きに荒らされてしまう。紙一重だったと強調。
しかしその紙が相当に分厚い物だということは、対局したグウェンドリンが一番わかっている。誘われ。結局はルークとナイトとポーンに押し込まれた形でリザイン。弁論の余地もない負け。
「そんなことは。でも力量は見せていただきました」
それでも収穫はある。力感もなく、するりと自然に負けた。場を完全に支配されていたということ。非常に高い実力。




