220話
◆ビショップf5。◇ポーンa5。◆ナイトd6。◇ナイトb3。静かに波打つ海。だが着々と。沖では大波が少しずつ姿を見せ始める。
◆クイーンf8。◇ナイトc5。すでに眼前で睨み合うナイト同士。なにかひとつ。なにかひとつの衝撃で、グラスの水の表面張力が崩れる。
「……」
観客も自身のギャンブルそっちのけで、この対局に釘付けになる。中にはかなりチェスに傾倒している者もいる。だがすでに自分なりの解を出せる域にはいない。それほどまでに高度に牽制し合う二人。
映像が送られているドイツでは、画面にAIの評価値が出し、ネットを介して中継中。画面越しに観戦しているチェス好きも固唾を飲んで見守る。
そして中二階。駒を移動する音と、チェスクロックを叩く音がここまで聞こえるほどの静寂。モニターを見つめるシシーだが、違和感は彼女にも波及している。対戦相手も感じ取る、サーシャの違和感。
(……妙だな。いつものあいつであれば、すでに罠を仕掛ける、もしくは急戦で仕掛けに行っているはず。基本に忠実。まるで別人——)
と、そこでひとつの案に思いつく。サーシャの言っていた言葉。ICEの中で。あいつは——。
「……そういうことか」
ひとり、合点がいったことで、胸につっかえていたものがスッと押し込まれた。これでやっと盤面に集中できる。
「思った以上に優しいヤツだな、あいつは」
この流れ。おそらくは数手先で——。
そして対局している二人。
すでに駒同士がぶつかっているため、いつ始まってもおかしくはない状況。おあずけを食らっている、というのは、冷静なダヴィドにも、チリチリとした胸焼けにも似た不快感が常に付きまとう。
「そろそろいくぞ。身構えろ」
その宣言通り、動かした駒は◆ルークe8。相手のクイーンまでのeファイルがガラ空き。なにも手を打たなければ、最強の駒が丸裸。最奥からの静かな開戦。
観客もそれに気づき、一斉に止めていた呼吸を再開する。ここが分水嶺。事前準備はもう終わり。血の湧き上がるような肉弾戦が。ついに。やっと。
そうしてサーシャは氷も溶け出して、少し薄くなったコーラで喉を潤す。我慢していたのはこちらも同じ。やはりチェスはいい。腕力では絶対に叶わないような、財力も人間性もなにもかも上の相手と対等に会話できる。口の端についた甘い液体を舌で舐めとる。
「……ずっと言おうと思ってたんですけど、随分と喋る人なんだな、と」
医者、というからには沈着な人なのかと思っていたし、最初も重い語り口だったこともあり、静かにプレーすると思っていた。だが、思えばオフでは全く喋らないコメディアンもいるとするならば、ベラベラと喋りすぎる医者もいるはずだ、と考えを改めた。




