218話
空気。ギャンブルをするのであれば、空気の変わる潮目が敏感に察知できるようになる。相手を騙し、惑わせ、狂わせる演技。なにも悟らせないポーカーフェイス。あえて欺瞞を演出する胆力。様々な要素が絡み合って、その者達だけのギャンブルが生まれる。
リベレことダヴィド・フュルクルクは、対局開始から不思議な感覚に包まれた。数が少ないとはいえ、相手の棋譜は二局ぶん存在する。そこから見えてくるもの。若さゆえの自由な、型に囚われない策略。ポーンのみ、などまさにそれ。
つまり。本当の目的を隠して。隠して。撹乱するタイプ。無理に攻めるから盤面全体が見えなくなるのであって。ゆえにじっくりと。牛歩で進行していけば、自ずと砂浜に寄せては返す波のように侵略していける。そう思っていた。だが。
(……随分と丁寧に指す。まだ底は見せていなかった、ということか。子供らしからぬ老獪さ。素直に砂山でも作っていればいいものを)
パラソルの下でオイルを塗り、体を焼くような。もっと大人になってから楽しむほうが、よっぽど可愛らしい。
キャスリング。◇キングg1、◇ルークf1。◆ナイトe4。◇ルークe1。◆ナイトd6。◇ナイトe5。◆ビショップe7。◇ビショップf1。◆ナイトe5。◇ルークe5。キャスリング。◆キングg8、◆ルークf8。◇ポーンd4。◆ビショップf6。◇ルークe1。◆ルークe8。
流れるような手順。一切の澱みなく。うち合わせてあったかのようにスルスルと。このスピード感に、駒を動かすだけの遊戯に大きな歓声が上がる。チェスクロックを叩く音さえも、美しい鳥の歌声のように。
「見事だ。少しキミを見くびっていたことは謝罪しよう。しっかりと定跡を研究しているとは。曲芸にばかりパラメーターを振り切っていると思っていた」
無数にあるルイ・ロペスの定跡のひとつではあるが、ほとんど余計な時間を使わずにこの形に持っていったこと。ダヴィドは素直に敬服する。一手でも間違えればもちろんたちまち崩れ去る、先人達が研究を繰り返してきた定跡。
「……」
顎に手を当てて深く盤面を読み込むサーシャ。ここから足のつかないほどの深海へと変貌するのがチェス。定跡のなくなったあと。如何にして相手を引き摺り込むか。
序盤は研究、中盤以降は才能などと揶揄する声もあるが、それも全て努力でカバーできるのがチェス。才能など。チェスにおいて三パーセントも占めない不純物。緊張感がフロアに伝染する。心なしか歓声や雑談が減ってきている。深い海の底。そこに踏み入れた。
◇ビショップf4。徐々にチェスが牙を剥き始める。枝分かれしていく未来。すでに次の行動を決めているサーシャは右手が宙を舞う。
「……」
前の対局でほぼポーンのみで勝利したとは思えないほど、基本をベースとした密度の高い読み合い。




