174話
「なんだ?」
なにかの名前か? 新しいマスコット? 無視しようか悩んだが一応聞き返す。
目線が合うとマティアスは笑顔。孫の成長を楽しむ祖父のそれ。
「次の相手。全然確認しないんだもん。僕が場所も相手も教えてるし」
まるでマネージャーのように、元とはいえドイツ王者を扱う。女王の威厳がそうさせる?
それはたしかに甘えている部分。だが、そういったことも含めてシシーはこの男の要望に乗っている。これくらいは妥当であろう。
「誰でもいい。強ければ。クー・シーとはどんなヤツだ? 男か? 女か?」
アジア系? 別に誰でも参加可能の非公式大会。まぁ、三回戦まで残っているということは弱いわけがない。楽しめるかどうか。それだけ。
だがマティアスの詳しい説明は名前についてのこと。
「スコットランドに伝わる犬の妖精のことだね。ケット・シーってのは聞いたことあるでしょ? あっちは猫。こっちは犬」
犬。この子は蜂だし。自由な大会だなー、としみじみ。裏で大金が動いているとは思えないほどほのぼのとしている。表面だけは。
しかし当然シシーが聞きたいのはそんなことではない。少し言葉に怒気を孕む。
「名前なんぞどうでもいい。特徴、その他なんでもいい。ないならないでいい。それも……面白い」
最後は艶美な笑み。知らないほうが緊張感が増す。矛盾しているな、とはわかっている。勝負ごとなど、勝てばいい。卑怯という言葉など存在しない、と思う自分と、より勝負にスリルを求める自分。今の自分はどちらだ。
教えている身としてマティアスは鼻が高いが、初めて出会った時よりも格段に強い。そろそろ対策が練られるところだが、初戦のぶんしか棋譜がバレていないことはおそらくいい方向に働くはず。二回戦は反則だし。
「ここを勝てば次は四回戦。注目度が一気に上がる。そうすれば——」
「先の話をするな。してどうする。仕合はひとつずつだ。先のことなど考えない。目の前だけだ」
油断もシシーにはない。いい意味で先のことは見ない。一局に集中する。
半世紀以上も若い子に教えられることもある。マティアスは苦笑するしかない。
「……それもそうだね。とりあえず事情は説明して、少し間を空けてもらうことにするよ。学生は学業が本分だ」
こういうのが非公式のいいところ。融通がきく。毎日のようにサイトでは対局がアップされる。どこかで行われたもの。視聴数は多い。予定が変わるなども日常茶飯事なので、クレームなども入ることはほぼないと言っていい。
ドイツという国は娯楽が少ない。スーパーなどで売っているものもどこも変わり映えはなく、祝日に大半の店は閉まってしまう。ゆえにこういった家の中で楽しめるものに人気が集まる。休日の贅沢な使い方に『太陽』と『自然』を挙げる人は驚くほど多い。
「それには礼を言う。向こうも退屈しなさそうだ。遊んでくるさ」
チェスは非常に人気のあるマインドスポーツ。お金もかからず、対話にもなる。それを骨の髄まで楽しもうと、シシーはまた、踵を返して公園から出て行った。




