168話
「……リザインです、負けました」
天井を向き、楽な姿勢でシシーは目を閉じた。ブラインドチェス。想像以上に脳を疲弊させる。すごい世界だ。それをずっと続けてきた、いや、彼女にとってはそれが普通。改めて、その凄さを実感した。
老体に激戦は堪える。マクシミリアンも焼き切れそうな脳に糖分を与えつつ、対局後の会話に踏み切った。
「……あんた、マティアスの弟子なんだろ? 面倒なのを育てちまいやがって……」
ブツブツと文句。そして糖分。甘いシュネーバルをひと口で頬張り、ガリガリと噛み砕く。ちなみにシュネーバルは『雪玉』のこと。その名の通り、丸っこいクッキーのようなお菓子。優しく染み渡る。
「マティアス?」
ひとつシュネーバルをもらい、シシーも口に運ぶ。しかし少量ずつ齧りながら。初めて食べたが、美味いかもしれない。
「カフェのオーナーやってる。あんたに教えてるって聞いたけど」
名前を出してヒートアップしたのか、一気にマクシミリアンは二個食す。リスのように頬を膨らませながらも豪快に。老体だというのに歯はどうやら相当に強いようだ。
あぁ、そういう名前だったのかマスターは、と今まで調べてこなかったシシーはひとつ知識を得た。元、チェスの国内王者でマティアス。ネットの発達した今ならすぐにわかることだが、どうでもよくてやってこなかった。
コーヒーで流し込み、マクシミリアンはひと呼吸おく。
「……昨日、あたしのとこに連絡があったよ。たぶん近いうちに行くだろうって。明日にでも、って本当に来るとはね」
また文句を言い始めた。お互いに実力は認めつつも、敵対心があるのだろう。どこか嬉しそうな気がしないでもない。
その内容に、一瞬止まったシシーだが、薄く笑みを浮かべた。
「……明日、つまり今日ですか。なんでもお見通しですね」
今日の二回戦のことは当然、彼も知っているはず。だが、それも先読みされたということか。じゃじゃ馬の扱いに慣れているマスターには、色々な意味で敵いそうにない。
早くも雪玉を飲み込んだマクシミリアンは、小言が止まらない。若かりし頃の対局でよっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。
「昔からそういうやつだよ。全く、なんでもかんでも思い通りに動かされているような」
文句から過去の愚痴に。育てている弟子までひねくれている。
そうこうしているうちに、もういい時間だ。勝っていればサーシャがまもなくこちらに来る頃だろう。
「今日はありがとうございました。またぜひ。それと、大変失礼なのは承知ですが、全盛期のあなたと対局してみたかった」
と、支払いを済ませてシシーは席を立つ。最後まで凛として。最初からいなかったかのように、静寂を置き去りにする。
「……」
残されたマクシミリアンは、ウェイトレスを呼び、追加の注文。
「シュネーバル。大盛り。じゃんじゃん持ってきて。コーヒーも」
飲み食いしなければ、腹の虫が治らない。先ほどまでいた、一七、八程度の小娘。マティアスの弟子。シシー・リーフェンシュタール。
「……」
待っている間も落ち着かない。それもそのはず。
『ブラインドで、しかも同時に三面指し』
それを提案された。盤面が複雑になればなるほど、当然記憶など怪しくなる。
「……師匠にそっくりだよ、全く……!」
結果、まさかのシシーの二勝。三局目だけはなんとか盛り返せたが、負け越した。一勝二敗。
《一敗でもしたら、俺が支払いますよ》
生意気にもそう垂れたが、見合う実力はあった。たしかに自身に年齢による衰えやブランクはあるが、それでも慣れ親しんだ世界。そう簡単に負けるものではない。
シュネーバルが届く。ここからは実費ではあるが、お金に糸目はつけず、店の小麦粉が切れるまで平らげてやろうか、と息を巻く。
「あんたはとんでもないのを育ててるよ、マティアス」
いつか世界に届くであろう毒の針。もし世界を征するなんてことになったら。そんな甘い世界ではないが、生きているうちにもう一局。そんで勝ち逃げしてやる。未来の世界王者に勝ったまま死ぬ。そうすれば、あたしが一番強い。マクシミリアンはそう企てつつ、コーヒーを一気に飲み込んだ。




