163話
◇ポーンe4。おそらく、世界で一番指されているであろう、チェスの最初の一手。ここから様々な手に派生するため、『とりあえず』の手としての代表格。
「変な手でくると思った? 残念、普通だ」
サーシャが自身でも言うように、まずは挨拶代わり。色々と常識を無視した立ち回りできたが、さすがに手堅く開始。
ここではまだ考える必要はない。狙いもわからない。基本を念頭に、コンラートは◆ポーンd6。
「いえ、そのうちギアを上げてくるでしょうから。今のうちにゆったりと展開させてもらいます」
どうせただのオープニングにはならない。ただの◇ポーンe4の裏に、なにか策略が。その間に虎視眈々と守りを固める。
力強く一手目を指すコンラートに、サーシャは肩をすくめた。
「疲れない? もっと気を抜いてやればいいのに」
◇ポーンd4。自分なんかほとんど寝てないもんで、そんな力出ない。頭は冴えてるからいいけど。
「いつギアチェンジしてくるかわかりませんから。対応できるように、気は抜けません」
なにを考えているかわからないタイプは、不思議な形で駒を組む。だとすると、ひとつひとつに意味が隠されている可能性を捨てきれない。◆ポーンg6。ピルツディフェンス。コンラートは盤面全てに神経を張り巡らせ、違和感を見落とさないようにする。
その後、◇ポーンh4、◆ビショップg7、◇ポーンh5。静かな立ち上がりを見せる。まだ浅瀬でパシャパシャと遊んでいる状態。ここまでなら今も世界のどこかで全く同じように指されているだろう。
◆ポーンg6で◇ポーンh5をテイクすると、自軍のキングサイドの駒組みが悪くなる。ここはまだぶつかるところではない。ならば、と逆サイドの展開。◆ポーンa6。
そしてそのまま◇ポーンg4、◆ポーンb5。サーシャ側は全てポーンの移動のみ。さすがに不気味に思えてきたコンラートは、少しずつ考える時間を増やしていく。
(いや、まだこちらも体勢が整っていない。受け身になってしまうが、向こうが痺れを切らすまで——)
「まだだよ。まだ焦らす。この時間が大事なんだ。早いと雑に思われちゃうからね」
◇ポーンh3。なにやら深い意味を持ちそうなサーシャの発言。官能的に聞こえる。
(くっ……まだ踏み込むのか……?)
この◇ポーンh3はテイクできない。◆ビショップg7でテイクしたら、◇ルークh1もしくは◇ビショップc1にテイクされる。だが、これ以上このポーンはなにもできない。無視していい。◆ビショップf8。元の場所へ。




