162話
いい空気を纏っている、とマクシミリアンは感じた。グランドマスターや過去の世界王者と同じような、チェスに没入している獣のような。
「なら、チェス盤を取って来てくれる? 受けてあげるから」
善は急げ。彼女のグラスから、欲望というワインがこぼれ落ちる前に。だが。
「その必要はありません。ブラインド、でやりましょう」
まさかの脳内での決戦。あえて自分に不利になる道をシシーは選ぶ。いや、不利ではなく、楽しくなるための険しい獣道。
それを聞いたマクシミリアンの眉が寄る。
「あらあら。あたしに有利じゃないの。いいの?」
もう隠そうともしない、優等生の仮面の下。それは自身の血を、数十年前の第一線で戦っている時のものに戻すのに充分だった。吐くまで考え、指し、熱を出しながらも考え、指していた頃。輝かしい青春の日々。
「えぇ、ぜひ。最強を味わってみたくて。こちらも、負けたら死ぬ、という決死の覚悟でやらせてもらいます」
屈託のないシシーの笑顔だが、内側からは欲が滲み出す。賭け事でギリギリの緊張感を得ていた頃とは違い、強い人物とチェスをしたいという欲。本来なら危険な賭けもしたいところだが、マスターと約束してしまった以上、破るわけにもいかない。普通の対局。
なにやら危険な語が出てきたところで、マクシミリアンが人生観を伝授する。
「チェスに負けても死なないよ。けど、負けたら大声で叫んだり、胃の内容物全部吐き出したり、家に帰るまでの道を忘れたり。そこまでやっとプロのチェスプレーヤーだ」
全部吐いたことはあったな……と昔を鑑みつつ、世界を制した人物の言葉をシシーは心に刻む。
「プロになるつもりはないですけど、覚えておきます。さぁ、やりましょうか」
お喋りはここまで。ここからは、ただチェスで遊ぶ。大会を捨てることになったとしても、選ばせてもらったんだから。とことん今日は。




