156話
驚いた表情で、逆にサーシャが足を止めた。
「? あの人を知ってるの?」
止めたはいいものの、シシーが止めてくれないので、すかさず追いかける。少しくらい話し相手になってくれてもいいのに。
隠すこともないので、マスターから得た情報をシシーは横流しする。
「元だが、女性としては世界一位の実力だそうだ。世界王者も破っている。全盛期を過ぎたとはいえ、簡単に勝てる相手ではない」
口に出してみて、より狂った成績だと笑えてくる。チェスに限らず、ボードゲームは男性がほぼ全て上位を占める。理由は脳の作りだなんだと言われているが、明確にはなっていない。競技人口で男女の偏りもあるのだろうが、それでもマクシミリアンは伝説的なプレーヤーだ。
それを聞き、驚愕するかと思いきや、むしろサーシャは余計にやる気を見せた。
「へぇ……もっと早く知っておきたかったよ。よりアドレナリンが出たのに」
ペロっと舌を出して、唇を舐める。最高級の食材。次は煮てみようか、炒めてみようか。どちらにせよ、胃に入る過程で楽しめる。
チラッと一瞥したシシーだったが、それでも速度を上げて歩き続ける。家がバレないように迂回することを決めた。その途中で消えてほしい。
「案外、驚かないんだな」
世界の壁の高さを知って、意気消沈でもするかと思えば。無駄に火をつけてしまったか。
「いーや、驚いているよ。まさかそれほどだったなんて。どーりで強いわけだ」
うん、とサーシャは頷く。なにをやっても弾き返されるような。手の上で踊っているような。圧倒された、というよりも「あれ? 負け?」という嫌な後味を植え付けられた。届きそうで届かない。そんなもどかしさ。
コイツがそこまで言うか、とやはりシシーも興味は湧く。今はコンラートに集中しなければいけないのに。だが、よく考えればコイツはマクシミリアンのほうに流せばいいのでは? と妙案を思いつく。
「俺のこと追ってないで、彼女のところに行ったらどうなんだ? リベンジするんだろ?」
当然、と強くサーシャは意気込んだ。
「でも今日は婦人会でお茶に行っちゃうんだって。だから暇。明日こそ勝つよ」
敗因もインプット済み。夜通しリディアと作戦を練った。どこまで通用するか。それともしないのか。いずれにせよ、お預けをくらってしまったら、欲望の捌け口を探すしかない。シシーはお釣りがくるほどのド本命だ。
ふぅ、と歩き疲れて少し止まるシシー。運動はいいが、疲れは残したくない。しっかり休んで、脳をリフレッシュしたい。だが。
「俺と対局したいのか」
少し、抑え込んでいるのも、これはこれで疲れる。
やっと重い腰をあげてくれた求愛相手を見やり、サーシャは肯定する。
「うんうん」
本当は自分だって、歩きながらヴィエナゲームの棋譜を作成していたんだろう。もしくはミルナーバリーギャンビット? それとも、じっくりと世界を味わうならロンドンシステム? いずれにせよ、彼女が黙って話を聞いているだけなんてない。
シシーにとっても、話を聞いていて排熱しなければ明日まで熱で保ちそうにない。ちょうどいいか、とここいらで諦める。
「……いいだろう、だが」
「だが?」
なにかしら条件をつけられるのは、シシーとの勝負では慣れっこ。こうなると思っていた。お金、ではないだろうね。
「ひとつ、要求を呑んでもらおう」




