148話
「それなら、人の対局に割り込んで勝手に勝負をつける、ってのは彼女からしたら日常茶飯事かもな」
今後は常に派手な服の人間がいないか、確認してからチェスをせねば。シシーは肝に銘じた。
うんうん、とマスターも首を縦に振る。
「序の口だね。ただ、性格はそんなだけど、棋譜は恐ろしく美しい。対局が始まった瞬間に、エンドゲームまで見えたこともあるそうだし」
そうなったら、道筋をなぞるだけ。つけ入る隙などない。圧倒されて対局は終わる。
眉唾だな、とシシーは吐き捨てる。
「今のあんたなら勝てるのか? 今はどっちが強い?」
比べても意味はないとわかってはいるが、本人達の意見が聞いてみたい。どうせ向こうは「あたし」と言うだろう。
思ったよりも熟考し、マスターは結論づけた。
「どうだろうね。相性もあるし。ブランクもあるだろうから、ギリ僕?」
やはり、とシシーの予見通り。強気強気の妖怪達。
「キミが守りを堅め、隙をうかがって相手が攻めてきた時に毒針を刺す毒蜂だとしたら、彼女はのらりくらりと立ち回り、いつの間にか毒針を刺している毒クラゲ……ってとこかな」
さらに深く踏み込んだ解説を、どちらとも戦ったことのあるマスターが挟む。自身の認識なので、絶対の基準ではないが。
それを受け止め、シシーはぎゅっと凝縮してひと言にまとめる。
「……厄介だな」
ゆらゆらと攻めと守りの中間で漂い、いつの間にか準備を完了して照準を合わせている。引き金を引くだけのビショップが、ルークが、クイーンが、そこにいる。
まぁまぁ、とマスターが場を落ち着かせようとする。
「でも大会には出てないし、戦うことはないと思うよ? 気になるなら昔の棋譜とかならネットにあったりするから、探してみたり——」
「……そんなすごいヤツが、あんた以外にもこんな近くにいるんだ。ヤラなきゃ勿体ないだろ」
愚問だった。強ければ強いほど、毒蜂は攻撃性を増す。クラゲを捕食し、栄養として体内に取り込む。それはすなわち成長。
腕を組んで、自身の発言を嗜めつつ、マスターはひとつ提案をする。
「うーん、火に油だったかな。ま、とりあえず一局指す?」
せっかくいい雰囲気だし。指したくて武者震いしているし。抑えつけるのも大変そうだし。
「当然だ。ブリッツでいいな」
店の備品からチェス盤と駒とチェスクロックを借りる。よく見ると、猫の雑誌や写真集、カーテンやシャンデリアなどに猫のグッズが大量に散りばめられていることにシシーは気づいた。たしかに、好きな人には天国だろう。
涼しげな顔でマスターは承諾する。
「いいよ、なにか賭ける? ここのコーヒー代でも」
なにか賭けないと本領発揮できないのは、弟子の悪い癖。それも可愛いところではあるけど。
ひとつひとつ、確かめるように駒に触れ、殻を破るためにシシーは決断をする。
「……わかった。それとひとつ、試してみたいことがある。あんたが本気でやってくれることが条件だ。そうでなきゃ意味がない」
吉と出るか凶と出るか。なんにせよ、今のままではいられない。ピリついた空気に黒猫が反応し、下りてどこかへ逃げていく。朗らかに触れ合いを楽しみに来ている他の客とは、空気感が違う。チェスは遊びであって遊びじゃない。
なにかがきっかけで、弟子がチェスに張り巡った血液を入れ替えようとしている。イチから。ゼロから。きっとそれはマクシミリアンのせいか。面倒なことを、と苦い顔をしつつもマスターは、その下には喜びをひた隠す。自分が白番。さて。
「それもいいよ。じゃ」
◇ポーンe4。
「やろっか」
二人の空間にある音。チェスクロックと駒と息遣いと、猫。




