142話
少し温くなったエスプレッソを口に含んだシシーは、甘く苦い液体が喉元を通り過ぎると、重く破壊力のある手を選ぶ。
「さっさと終わらせたいんでな。正義のヒーローも、たまには敵との戦闘で視聴者を盛り上げることもせず、ひたすら殴り続けて倒しても面白いだろう」
◆ポーンc7をc5へ。中盤を厚く、一旦展開を見据えて手堅く。
「ヒーローは、わざわざ相手に毒を盛ったりしないでしょ」
◇ポーンd4をc5で、相手ポーンをテイク。開戦の合図。大規模な戦闘ではないが、静かに、だが確実に始まる。
「勝つからヒーローなんだ。勝ったほうが正義だろ」
◆ビショップb4をc5へ。ポーンをテイク。相手陣営に圧力をかけていく。この勝負のキモになるのは、お互いにビショップ。切り込むスピードが大事になってくる。
「たしかに。じゃあ僕だ」
確信を持ってサーシャは◇ビショップc1をb2へ。フィアンケット。
「相手に不戦敗を提案するヒーローはいないだろ」
最初に会った時を思い出しつつ、シシーはキャスリング。◆キングe8はg8へ。◆ルークh8はf8へ。
「香水に毒を混ぜるのもね」
そのせいで死にかけた過去を思い出しつつサーシャもキャスリング。◇キングe1はg1へ。◇ルークh1はf1へ。
ここまでは互角。本当の勝負はここから。お互いに読み合い、騙し合い、挑発し合いながら中盤戦へ。
チェスクロックはない。時間は適当。だが、ここがターニングポイントとなるとシシーは踏んだ。長考する。
(……強いな。以前も負けかけたし、底の見えない怖さがある。踏み込んでいいのか、それも罠なのか。罠であれば、一瞬で持っていかれる)
(嫌なところで止まるね。ちゃんと見極められてる。攻め急いでいるようで、その実、したたか。毒針は刺されたか)
ちゃんと本気でやってくれているじゃないか、とサーシャは喜びつつも落胆。気を抜いてくれていれば、簡単にご褒美がもらえたのに。
この後、お互いにナイトを展開して、駒の配置は完了となる。導火線に火がつく。限界がきたら、お互いにアドレナリンと欲が漏れ出してくる。
「今日は来てよかったよ。適当に引っ掛けた相手だと弱くて。シシーとヤッた後だと、もうキミ以外じゃ無理だ」
もう完全にエスプレッソは冷めた。代わりにサーシャの熱はどんどんと駆け上がる。先を指したくてたまらない。チェスが面白い。お金など賭けずとも、ただ目の前に恋人がいるだけで、幸せになれる。
先の展開を想像。このままいけば、いや、いかないだろう。だからチェスは面白い。学校とか留学とか、そんなものは今はシシーにはどうでもいい。
「誤解を招くような発言はするな。全く……考え事をしたかったんだがな」
◆ナイトb8をc6へ。
「こい」
全てを受け止めてくれる相手へダイブの準備。サーシャは「ははッ!」と笑う。
「死なないでよ」
そして◆b1のナイトをc3に——




