140話
「ということでさ、もう一局。いいでしょ? もしなんなら、賭けようか? シシーが勝ったら、もう僕は現れない。負けたら、そうだね……学院の前で僕にキスしてもらおうかな。挨拶みたいなのはダメだよ。ディープなやつね」
より危険度が増せば、シシーという女性は釣りやすくなるとサーシャは考えた。普段はガードが堅いのに、そういう脆さがあるところも好きだ。さぁ、果実は目の前だ。
「断る。そんな気分じゃない。他を当たれ」
頑なにシシーは心を閉ざす。口車に乗るのも癪だ。無視していればそのうち消えるだろう。しかし。
「じゃあ僕が白番ね。はい、◇ポーンd4」
「……」
やりたいように好き勝手するサーシャ。いつの間にかチェス盤なども準備完了。チェスクロックはない。初手は基本のd4。それに対して沈黙するシシーだが、諦めて展開を思考する。
「決めたことは守れ。俺が勝ったら二度と会うことはない。そっちが勝ったら、キスでもなんでもしてやる」
◆ナイトf6。だが、賭けるものがあるほうが血が滾る。今はゆったりと考え事をしたかっただけなのだが、脳の運動にはちょうどいい。相手の力量の高さも承知している。
「そうそう。その顔だ」
それでこそ毒蜂。ただの一手でも、サーシャにとってはピリピリとした緊張感が伝わってくる。こんな相手はそういない。やっと見つけた、剣の鋒を交わし合う恋人。◇ポーンc4。
「お前は一体、毎日なにをやっているんだ? 学校には行っていないんだろう?」
◆ポーンe6。シシーは相手の実態を掴めていない。まだ三度会っただけ。常日頃からこんなことをしているのか?
「僕に興味を持ってくれてるってこと? 嬉しいね」
◇ナイトf3。ウキウキでサーシャは指す。オープニングは、インディアンゲームという種類を見据えた手で進む。序盤は研究。勉強。履修している者同士のオープニングは美しい。
はぁ、とシシーは嘆息した。
「興味はない。が、ベルリンの治安を守るのも優等生の役割なんでな」
全くの嘘をつきながら、シシーは◆ポーンb6。クイーンズ・インディアン・ディフェンス。守りのほうが得意な彼女にとって、仕留め方を練る作業は好きだ。蜂であり、蜘蛛。自身のテリトリーに踏み込んでくるのであれば、ジワジワと気づかないうちに、相手を苦しめる毒を放つヴァイオリン・スパイダー。
「その優等生を好きにしていい、ってのはそそるよね」
◇ポーンg3。狙いはフィアンケット。b筋やg筋のポーンを押し上げることで、斜めに進むことができるビショップの稼働範囲を広げる動き。盤面でのサーシャの主役は決まった。




