131話
怯えるようなそのアリカに対して、優しくジルフィアは頼み込む。
「ミネラルウォーターをひとつ、頼んでもらえる? よろしく」
水だけで胃の洗浄など、もうすでに手遅れでは? と思いつつも、アリカは承認した。
「う、うん……わかった」
いつもなら「なんでアリカがそんなこと?」と反発するのだが、今の彼女はただの小さな女の子。自分の立ち位置がわかり、ただの観客になった。
「ありがと」
「……いいか? ◇e3にキングは逃げる。さぁ、次はどうする」
互いに顔を近づけて、より深くチェスに、相手に潜る。潜りつつ、策もバラしあう。もう勝敗など忘れて、思考することそのものが自身に活力を与えてくれる。
「ここで◇a2のポーンを狙うのはどう?」
「攻めるなら、フォークを常に意識したほうがいい。相手の駒を誘導するように、自分の駒を動かすことが大前提だ」
「なるほど」
この状況でも勉強。新しい戦術を学ぶと、細胞が喜ぶ感覚。ジルフィアはスポンジのように吸収していく。
「面白いね。チェスクロックありでやればよかった」
「たしかにな。三〇秒が適当だ」
「まぁ、初心者なんだから、多少は曖昧でもね」
だが、それでも終わりの時はくる。いつまでも遊び続けることなどできない。夕暮れ時の子供のように、名残惜しくも、別れを告げる必要が。
達成感と充足感を手にしつつも、尋常ではない速度でチェスの成長を遂げていったジルフィアは、あとどれくらいで終わってしまうか予想できつつも、その手を緩めない。
「◆ルークをc2へ。ポーンに攻撃を仕掛けるよ」
シシーも手を抜くことなどできない。相手は初心者とは考えない。強力なライバルと捉えた。どこからでも隙があれば、その小さな穴から決壊させにくる。
「だが◇c6のポーンをc7へ。もしこれを◆c2のルークでテイクすると、◇f4のビショップでテイクされるがどうする?」
とても丁寧に。
「……なら◆キングf7へ。でももうこれ……」
とても抒情的に。
「あぁ、◇ルークd8。もう、そちらに逆転は……ない」
とても残酷に。幕が閉じる。
「……そっか、なら仕方ないね。私の負けだ」
あー、と伸びをして悔しさを見せつけるが、ジルフィアの体は小刻みに震えている。我慢も限界を迎えている。
「楽しかった。もったいない。本当に……もっと早く、チェスを始めていれば……ね」
「……」
あえてシシーは言葉をかけない。この状況だからこそ、きっと芽生えた感情。ならば、できることは、最後まで勝者であること。




