129話
だが、まだ勝負はついていない。ほんの数ユーロぶんの安いプライド。シシーはイスに座り直し、はたからは体調不良にすら見えないほどに、佇まいを正す。
「最後まで、付き合ってもらうぞ……オレが死ぬかどうかは……まだわからないんでな」
チェスでの勝ちはほぼ確定している。それまで命が繋がれば、本質を理解したこのゲーム自体の勝ちにも。
手番は自分。もうチェスの負けは見えている、いや、最初から勝てると思っていなかったし、勝つ必要もなかった。ジルフィアは◆ルークを握る。
「……大丈夫……あなたは生き残る」
◆ルークc6。ポーンをテイク。
この瞬間、ほぼ、ではなく、シシーの勝ちが確定した。
「……その◆ルークc6は致命的だ。◇ルークd8。これでわかるだろう? チェスは目の前のニンジンを狙う競技ではない。奥に潜むリンゴを狙う競技だ。ま、オレの持論だがね」
優しく手解きする。もう必要ないのかもしれないが、この先の対局に活かせるように。
だが、それでも最後までジルフィアは反抗する。
「……それでも、私は、ニンジンを狙って相手の駒を減らすほうがいいと思う」
ゆえにこの負けに悔いはない。付け焼き刃の知識での対局であったが、それなりに楽しめた。もっと早くからチェスを知っておけばよかった、と今では思う。
「なぜ?」
自分とは違う論理。シシーも興味を持つ。
足を組み、無理をしながらも相手と対等になるように。ジルフィアもしっかりと座り直した。
「私はリンゴアレルギーなんでね。ニンジンのほうが好きだ」
これが持論。誰にも侵せない自分だけの領域。サッカーにも堅守速攻型や、パスでボールを支配するポゼッション型が存在するように、強さの方向性は色々あっていいはず。
「……!」
曲げないジルフィアの信念を汲み取ったシシーの目は、大きく見開いている。そして。
「……くっく……く……」
と、屈託なく笑う。まさか柔軟に返されると思ってもみなかったので、思考が停止してしまった。
「ふふ……はは……!」
つられてジルフィアも厳かに朗笑した。こみ上げてくるものを我慢せず、体全体で表現する。
「なら、どんな手がよかった? 個人的には、◇f4のビショップも干渉してこれないし、悪い手じゃないと思うんだけど」
前のめりに盤を覗き込む。もしかしたら近づけばいい手が、なんて調子のいいことは言わないが、食べてしまいたいくらいにのめり込んできた。なにがある? どんな手が?
命を賭けた相手。そんなことはどうでもよくなったシシーは、ただ純粋に、今はゲームを楽しみたい。勝ち負けではなく、この競技を隅々まで。
「だが、それだと◇d5のルークがd8まで移動し、チェックがかかるだろ? 当然◆g8のキングはf7に逃げるが、◇f3のナイトがe5にいけば、◆g8のキングと◆c6のルークの両方にフォークがかかる」




