10 待ち人は来てくれました
「タジーク様、タジーク様、タジーク様!」
ボロボロと泣きながら、何度も来てくれないと思っていた思い人の名前を呼ぶ。
「……煩い。もう暫く静かにしててくれ」
私に背を向けたままチラッとこちらを見て、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
来てくれた事が嬉し過ぎて、一気にテンションが上がってしまっていた私だけれど、彼の視線を浴びて今はそんな場合ではなかったと頷き口を閉じる。
気を付けつつ周囲を観察すれば、私を切り殺そうとしていたあの侍従は少し離れた所で倒れ伏し、彼の持っていた剣は彼の手を離れ、壁に突き刺さっていた。
派手に砕け散った窓ガラスの破片は周囲に散乱しているけれど、幸いな事に、比較的窓から離れた壁側にいた私の方まで飛んできている物はそう多くなかった。
しかし全くないわけではないから、未だに縛られた状態で思うように動けない私は、下手に暴れて余計な怪我を増やさないように大人しくしていた方が良さそうだ。
折角、タジーク様が来て下さったというのに、何もお役に立てず、むしろ足手まといにしかなれない自分が情けない。
「これはこれは、タジーク様。お久しぶりですこと」
タジーク様の突然の登場に驚き慌てた様子だったカルミア様だけれど、すぐに落ち着きを取り戻して笑みまで浮かべてタジーク様に挨拶をする。
そんなカルミア様にタジーク様が鋭い視線を向けた。
「……貴様は相変わらずのようだな」
怒りと憎しみを必死でかみ殺すように、唸り声のような低い声でタジーク様が返事をする。
そこにあるのは、あの日私に向けたのとは比べ用のない程、重く強い感情だった。
「お会いしとうございました。あの日、些細なすれ違いで嫌われてしまってから、会って下さらず、お手紙にもお返事を下さらないのですもの。今回、偶然お知り合いになったコリンナ様に間を取り持って頂いたのですけれど……約束の場所とは違いますが、こうして来て頂けたのですもの、正解だったようですわね」
「なっ!?」
カルミア様が突然歌うように語り出した、事実とは全く異なる内容に思わずギョッとしてしまう。
そんな私の反応にチラッと視線を向けてきたタジーク様に、慌てて全力で首を振った。
もし、万が一にもタジーク様にカルミア様とグルだったのではないかとほんの少しでも疑われてしまったらと考えたら、一気に血の気が引いていくような気がした。
カルミア様の仲間と思われるのも嫌だし、タジーク様にこれ以上警戒されたり嫌われたりするのはもっと嫌だ。
涙目で首を振り続ける私を見て、タジーク様は少し呆れた様子で「わかっている」とでも言うように小さく頷いた。
「この状態で俺がそれを信じるとでも思っているのか?」
「昔のタジーク様でしたら信じて下さいましたでしょ?」
「……子供だったからな」
笑顔で楽し気に語るカルミア様に、タジーク様は苦々し気に答える。
この二人の会話を聞いただけで、彼等の中にとても親しくしていた時期がある事は容易に察する事が出来た。
真っすぐに慕い、信じ、共に楽しく過ごしていた時間。
しかし、彼女はそれを何の躊躇いもなく己の欲望の為に壊し、タジーク様から多くの大切なものを奪っていったのだ。
それはただの悪人が彼から大切なものを奪っていくよりも遥かに罪深い事のように私には思えた。
「それで、私のお願いした物は持ってきて下さったのでしょうか? もしまだのようなら私の手のものにお屋敷に取りに行かせますけれど?」
まるで子供にお使いがちゃんと出来たか尋ねる母親のように優しい笑みで首を傾げるカルミア様に、嫌悪感と共に言いようのない恐怖のようなものを感じる。
この人はこの状況で何故ここまで余裕に振る舞う事が出来るのだろうか?
自分に付き従っていた従者はタジーク様に倒され、あっという間に意識を失い頼れない。
この部屋には私とタジーク様、そして彼女の三人のみ。
つまりは二対一で彼女の方が不利な状態のはずだ。
「持ってくるわけがないだろう? 何故お前に俺が従わなくてはいけない?」
不快そうにグッと眉間に皺を寄せるタジーク様に睨まれても、やはりカルミア様は笑みを浮かべるのみ。
「例の書類と彼女を交換だとお手紙で書きましたでしょう?」
「コリンナ嬢はもう取り返したが?」
「まぁ! 面白いご冗談を。ここは私の秘密のお城。この部屋以外の所には私の命令を聞いてくれる沢山の兵士がいるのですよ。ついでに言うと、貴方がここに向かった後、ちゃんとお使いを熟せているかを確認させる為の者も、ご自宅の方に待機させてありますからね」
「っ!」
カルミア様の言葉を聞いた瞬間、私は思わず喉の奥で小さく悲鳴を上げそうになるのを飲み込んだ。
言われてみればその通りだ。
私は薬で意識を奪われていたから、ここが何処かはわからないけれど、こうして彼女が主のように振る舞っている時点で、ここは正しく敵のアジトという奴なのだろう。
私は目に見える人だけを意識していたから、こっちが圧倒的に有利だと思い込んでしまったが、よく考えればここにいるのが彼女とその従者だけの可能性の方が低いのだ。
要するに、この部屋を出た所には見えない敵がわんさかといるという事。
そしてこちらはと言えば……タジーク様と明らかにお荷物とか言えない私のみ。
その上、タジーク様のご自宅の方にも彼女の手の者が行っていると考えると……。
最早、私達に逃げ道はない。
「タジーク様……」
もし可能であれば、お荷物でしかない私を置いて、タジーク様だけでも逃げて欲しい。
そして、ご自宅の方の守りを固めて、あの優しい使用人の皆を守って欲しい。
そんな気持ちを込めて彼の名前を呼んだ。
「……大丈夫だ」
不安に震えながら声を掛けた私に、彼はやはり呆れた顔をしたままそう短く告げた。
けれど、状況が大分見えて来た私にはその言葉が事実のようにはどうしても思えず、「どうしよう」という言葉だけが頭の中をグルグルと巡り続けていた。
「さて、どうなさいます? お屋敷に常駐する護衛をこちらに連れて来ていれば、お屋敷の方の守りは手薄に、反対に置いてきていれば貴方はここから逃げる事も出来ない。結局、貴方は私に私が望む物を渡すしかないのですよ?」
まるで獲物をいたぶって楽しむ肉食獣のように、コロコロと笑いながら告げるカルミア様をギッと強く睨み付ける。
この人、本当に見た目に反して性格が悪い。
彼女の「ちょっとした行き違い」なんて言う言葉を何故私は信じてしまったのだろう?
ミモリーにも警告されたし、タジーク様のあの過剰なまでの拒否反応を目の当たりにしていたというのに、何故もっと警戒し、拒否する事が出来なかったのだろう?
いくらタジーク様との仲が拗れて焦っていたとはいえ、あまりにも迂闊過ぎた。
過去の自分を殴って蹴ってけちょんけちょんにしてやりたい。
「貴様は何故、俺が一人だと思っている?」
タジーク様が片方の口角をクッと上げて不敵に笑う。
絶体絶命の状態のはずなのに、カルミア様同様、タジーク様にも余裕が感じられた。
私はその事を不思議に感じつつも、今の自分に出来る事は本当に危険な状態になったら自分を置いてタジーク様に逃げて欲しいと伝える事位だと思い、無言でその様子を見ていた。
「何ですか? 虚勢のつもりです?」
「いや、単純にお前のその自信は一体何処から来るのかと思ってな」
瞳に憎しみを宿しつつ「ククッ」と不敵に笑うタジーク様に、カルミア様もクスクスと笑い返す。
彼等の様子を見ても、私にはどちらが正しいのかなんて事はわからなかった。
「フフッ。私はずっとあの書類を手に入れる為に貴方の事を見張っていたのよ? だから当然、貴方がずっと屋敷に引きこもっていて、外界との接触をほとんど絶っていた事も知ってるの」
ご両親の事があってから、ずっとずっと屋敷での引きこもり生活を送っていたタジーク様。
つい最近出会ったばかりの私は、他の人から聞いた話でしかその事を知る事はできない。
けれど、彼女の言う事が本当なら、彼女はその事の裏付けを長年かけて取って来たのだろう。
きっとそれ以上に信じられる情報はない。
「屋敷の人員も私の事で人を信じられなくなって、かなり減らしたのでしょう? 屋敷に籠城してただ守りに徹するのは問題なくても、人員を割いて私の兵達を抑え、彼女を守り、屋敷の守りも行うなんて事は出来ないはず」
「……」
ほんの少しの躊躇いもなく語られる彼女の言葉は、確かな自信に満ちていた。
それはもう、推測というよりも確信と言って良いだろう。
でも、彼はそのような立場に追いやられたのは……引きこもらざるを得ない程の心の傷を負ったのは、確実に彼女のせいなのだ。
そう思うと、胸が苦しくてやるせない思いでいっぱいになる。
「その上、今回の発端は王家に関する表に出てはいけない裏書類。貴方がそれを持っている事がバレれば、王家を敵に回す。下手すれば貴方の命もないわよね?」
「そんな危険な物を手に入れて、お前はどうする気なんだ?」
私にはその書類とやらにどのような事が書かれているかはわからない。
けれど、王家を脅す事が出来るような代物だとすると、持っている事がバレた時点で完全にタジーク様の身は危険に晒される。
タジーク様としても、それは避けたい……いいえ。避けなくてはならない事だろう。
でも、だとしたら、彼は……彼のご両親はそんな物を持っていたのだろうか?
私だったら、即燃やすかあるべき所に返却する。
だって、命を危険に晒すような物、持っていたくないもの。
「私は大丈夫ですよ。だって、きちんとそれの使い道をわかっているもの。引きこもりの貴方と違い、それなりに必要な人間関係は築いているわ。危険な時に逃げ込む先も、助けて下さる高貴な味方もいるもの。それにその書類をお渡しすれば、褒賞を頂ける上に守っても頂ける手はずになっているの」
……つまり、彼女には既に頼りになる味方がいるという事か。
確かに私も少し話しただけだけれど、彼女の社交の力はかなり高いと思う。
今回私は人質というポジションだったから、彼女はすぐに本性を曝け出したけれど、きっと隠そう、騙そうと思っていればもっと長く私は彼女の意図に気付けず、掌の上で転がされていただろう。
これは私が騙されやすいという理由だけでなく、きっと彼女の能力の高さの問題もあると思う。
だって、そうでなければ幼い頃のタジーク様や彼の家族、使用人達が彼女に信頼を置くはずがないのだから。
「でも、貴方は違うでしょう? もし助けを求めるとすれば、貴方自身の味方になってくれる人や信頼の置ける相手ではなく、騎士団や上官等の貴方の秘密がバレたら不味い相手しかいない」
「随分と俺の事を侮ってくれているんだな」
タジーク様の冷ややかな視線がカルミア様を捉える。
彼女は彼のそんな反応で更なる確信を得たのか、意気揚々と語り出した。
「侮っているのではなく事実を言っているのですよ。私は貴方の教育係も兼ねた乳母ですもの。貴方の事はよくよく知っているのよ」
彼女の知っている彼の現状は「乳母だから」ではなく彼の身の周りを常に調べていたから知った事なのは、彼女の発言で明確だった。
それなのに「乳母だから」と言ったのは、タジーク様の気を逆撫でする為に他ならない。
事実、彼は苛立ったようにギリッと音がする程奥歯を噛みしめていた。
「……タジーク様」
私は小さな声でソッと彼の名前を呼ぶ。
本当は怒りと悔しさ……そして悲しみに耐えてカルミア様と対峙しているだろう彼を抱きしめて上げたかった。
彼とカルミア様の間に割って入って彼の盾になってあげたかった。
しかし、縛り上げられたまま彼に庇われている私には、「私は貴方の味方だ」という思いを乗せて、彼の名前を呼ぶ位の事しか出来ない。
「結局、あの時から貴方は全く変わっていない。自ら立ち、守りたいものを守る力も助けを求められるだけの人脈も何も持たない子供だったあの頃と何も変わっていない。部屋に閉じこもる事で、成長の全てを止め、逃げ隠れするだけの存在。そうでしょう?」
勝ち誇ったように言い切ったカルミア様は、もうタジーク様に勝機は少しも残っていないと思っているのだろう。
タジーク様はそんな彼女を暫くジッと無言で見つめた後、小さく息を吐き、無意識の間に怒りで入ってしまっていた体の力を抜いた。
そして、挑むような視線を向ける。
その視線は、私には彼女の言うような弱く頼りない存在にはとても思えないものだった。
……彼は今、自分が長年抱え続けてきた心の闇と戦っている。
否。きっと彼は私がずっと通い続けたあの扉の向こう、彼の城である自室に籠っている間もずっと戦い続けていたんだろう。
だからこそ、今の彼はこんなにも……強い。
「変わっていないのは貴様の方だろう? あの時と全く変わる事なく、狡猾で卑怯で……醜い」
「まぁ、どうやら口だけは悪くなったようですね。昔のタジーク様はそれは素直で可愛らしかったのに、残念ですわ」
頬に手をあてて眉尻を下げるその様子は、一見すると本当に残念がっているように見える。
しかし、明らかにこちらを挑発するものだった。
「お前に残念がられるという事は、それはとても良い事だという事だな」
負けじとタジーク様もカルミア様を馬鹿にするように鼻で笑う。
言葉だけの応酬。
互いに互いの様子を窺い、実際には全く戦況が動かない時間。
タジーク様もカルミア様も口調には余裕があるのに、その場を占める空気は張り詰めていた。
何か一つ変化があるだけで、一気に状況が変わる。
そんな状況がどれくらい続いただろうか?
変化を呼び込んだのは、この部屋に唯一ある扉をノックする音だった。
……コンッコンッ。
控えだけれど、しっかりと耳に届く程度の音量を持ったその音が部屋に響く。
「カルミア様、ニューゼンです。入室してもよろしいでしょうか」
続いて聞こえたのは比較的若い印象の男性の声。
おそらく、十代後半から二十代前半位だろう。
その声を聞いた瞬間、私はビクリッと体を震わせ、カルミア様は何処かホッとしたような満足げな笑みを浮かべた。
「タジーク様、久しぶりの会話を終えなくてはならないのは非常に残念ですが、どうやらタイムアップのようですわ」
スッと立ち上がったカルミア様が会話の終了を告げる。
その様子を見て、私はやっと彼女は自分の部下がこの状況に気付くまでの時間稼ぎをしていたのだという事に気付いた。
よく考えればすぐにわかる事だった。
いくら彼女はこの屋敷やタジーク様の屋敷の周辺に戦力を持っていたとしても、この部屋には私達三人……と気絶して使い物にならないカルミア様の使用人一人しかいない。
タジーク様がご自身の被害を顧みず、彼女の命を奪う事にだけ重きを置いたとしたら、彼女の命は確実に奪われる。
だって、彼女の命を守るべき盾は既に床に伸びているのだから。
だから、彼女は会話を続けつつ、仲間を呼ぶチャンスを待っていた。
仲間さえくれば彼女の勝利は確実。
タジーク様一人で対処できる人数は限られている上に、私というお荷物がいるのだからそれは明白だ。
……何故もっと早くタジーク様に逃げて頂くように言えなかったのだろう?
更なる窮地が目の前に迫った時、私が後悔したのはその一点だけだった。
もちろん、自分が死ぬのは怖い。
けれど、あれだけ迷惑を掛け、嫌われていたのにこうして助けに来てくれた彼の恩に報いたかった。
「タ、タジーク様。ど、どうか逃げて……」
もっときっぱりとした口調で、笑顔で言えれば良かったのに、私の声と体は震え、強張った笑みしか浮かべる事が出来なかった。
「何を言っている? 逃げる理由など何処にもない」
私を見下ろしてきっぱりとした口調で告げるタジーク様は、こんな時でも凛としていてほんの少しの怯えも見せなかった。
「フフフ……。愛しい女性を前に強がるなんて、その点については少しは成長したようでようございますね。まぁ……、もうこれで終わりなのですけれどね」
カルミア様はそう告げると、パッと扉に視線を向けて口を開いた。
「ニューゼン! タジークが来たわ! さっさと捕まえなさい!!」
声を張り上げて告げるその言葉は、私には死刑宣告のようだった。
「タジーク様……」
弱い私には何も出来ない。
けれど、せめて一太刀だけでもこの身で受け止め、彼を守れれば……。
そんな私には似合わない後ろ向きな気持ちを抱え、私は少しでも彼に近付く為に、身を捩った。
「……全く、君は本当にジッとしていられないんだな」
そんな呆れを含んだいつもの苦笑で私を見下ろしたタジーク様が、ゆったりとした動作で腰に下げていた剣を引き抜き、私の傍らに膝をついた。
そして、その剣であっという間に縄を切り、私の拘束を解き、立ち上がらせる。
「タジーク様、このような事をしている間にでもお逃げ下さい!」
彼の状況にそぐわないのんびりした動作に軽い苛立ちを感じつつ、声を張り上げる。
「……だから、逃げる理由などないと言っている」
眉間に皺を寄せ、まるで困った生徒に言い聞かせるかのように言ったその時、ガチャッという音を立てて、部屋の扉が開いた。
タジーク様ものんびりだけど、どうやらカルミア様の手下ものんびりした人らしい。
その扉の開閉音は、主が侵入者を捕らえろと命じた後とはとても思えないほど、ゆったりとしている。
「それじゃあ、失礼しますよ~」
「ほら、さっさとそいつらを捕まえなさい」
間延びした口調で入室を告げた赤毛の男は、特に警戒した様子もなく軽い足取りで室内に入ってくる。
その手には……
「あ、貴方、何をしているの!! それはゴルンワークでしょ!?」
彼が掴んでいたのは自分の体の1.5倍はありそうな大男。
その大男は既に意識を失っており、赤毛の男に襟首を掴まれ引きずられている状態だった。
当然のように、自分の味方が自分を守る為に急いで入って来るものだと思っていたカルミア様は目を見開き、驚いた表情を浮かべた後、顔を真っ赤にして赤毛の男に対して怒鳴り始める。
「喧嘩をするなら後になさい! 今はそれより仕事が優先のはずよ。何の為にお金を払っていると思っているのよ」
苛立ったように手に握り締めた扇に両手で力を籠める。
ミシッという小さな音が聞こえはしたが、カルミア様の非力な手ではそれ以上力を籠める事は出来なかったようだ。
……これが私だったら、扇は間違いなく真っ二つになっていただろう。
こう見えても、私は実家でそれなりに力の必要な仕事もしてきたから、腕力はそれなりにあるのだ。
いや、今はそんな事はどうでもいい。
重要なのは大男を引きずって来たこの赤髪の男だ。
「へいへい。じゃあ、ちゃんとお仕事させて頂きますよ、……ボス」
高めの声で怒鳴りつけるカルミア様に対して、大男の襟首を掴んでいない方の手で、耳を掘りながら心底面倒くさそうに答える赤毛の男。
そんな彼の視線が一瞬タジーク様に向いた気がした。
しかし、その視線は私が予想していたような敵対する相手に向けるものではなくて……。
「よっと」
赤毛の男は大男の体を軽く前へと投げ捨て、腰に巻いていた紫の上着を取る。
あの色、何処かで見たような……。
そんな事を考えている内に、赤毛の男はバッと上着を広げて袖を通した。
「……あっ!!」
驚きに思わず声を上げてしまった。
カルミア様の目も、これ以上開かないんじゃないかと思う程、見開かれている。
そんな中で、タジーク様だけが唯一一切動じる事なく、当然の事のように静かに場の流れを眺めていた。
「ガーディナー隊長、無事にこの屋敷及び、隊長のご自宅周辺でうろちょろしていた破落戸の制圧、終了いたしました~。だからお家に帰らせて下さ~い。これから、ミランダちゃんとのデートの予定が入っているんすよ」
右手の拳で左の胸を軽く叩く、騎士団特有の敬礼の姿勢をビシッと決めつつ、相変わらずの間延びしたやる気のなさそうな口調でその男はタジーク様に向かって報告を行った。
「……ご苦労」
タジーク様は、男の態度に眉間に皺を寄せ、軽く片眉を上げて文句を言いたそうな表情をしていたけれど、その点には敢えて何も触れず報告を受け入れていた。
「なっ……なっ……なっ……」
目の前で繰り広げられる光景が信じられない様子のカルミア様は赤毛の男を指差して何度も口をパクパクさせつつも、次の言葉が出てこないようだった。
「……どうやら、貴様の予想は大きく外れたようだな」
眩暈でも起こしたかのように、体をフラッとさせその場に力なく座り込んだカルミア様。
ずっと驚きに目を見開いたまま赤毛の男に向けられていた視線が、今までにない怯えの色を含みつつタジーク様へと向けられる。
「な……何故? 貴方が助けを求める事なんて出来ないはずでしょ?」
自分が信じていた事実が大きく変わった事が受け入れられない様子のカルミア様は呆然とした様子でタジーク様を見上げる。
「これでも俺は第六騎士団の隊長だからな」
私を背後に庇いつつ、タジーク様がゆっくりとした動作でカルミア様へと近づいていく。
それに合わせて、彼女は逃げ場を求めるように周囲を見回してたじろいだ。
「だ、第六騎士団なんてただの実態のない名誉騎士団でしょ? 貴方が動かせる武力なんてないはず……」
「貴様が知っていた事の全てが事実とは限らないだろ?」
座り込むカルミア様のすぐ手前で足を止めたタジーク様が軽く首を傾げる。
まるで、何故そんな簡単な事もわからないのだ? と咎めるような仕草だった。
「で、でも、貴方だってアレの存在を知られたら不味いのでしょう? そうでしょう?」
「……さぁ、どうだろうな」
まるでその事に縋るように必死な様子で同意を求めるカルミア様に、タジーク様はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた。
形勢逆転。
今度はタジーク様がカルミア様を追い詰める。
「わ、私には、味方がいるのよ? それも貴方より余程地位の高いお方が」
「あぁ、知っている。そのせいで今まで手間取っていたからな」
カルミア様が未だに名前すら口にしていない、彼女の背後に控えている高位貴族の存在を匂わされても、タジーク様は全て承知しているとでもいう様子で一切動揺する様子も見せない。
「困る事になるのは貴方なのよ、タジーク様」
「別に俺は困らない。困らないように……今度こそ確実に貴様とその背景にいる奴を捉えられるように準備してきたからな」
「……え?」
カルミア様が再び驚きに目を見開く。
タジーク様がまるで異国の言葉を急に話し始めたかのように、彼女は彼の言葉が理解出来ないとでも言いたげな表情をしていたい。
「な、何を……。貴方はただご両親の死を受け入れられなくて引きこもっていただけでしょう?」
「敵を欺くにはまず味方から。……父上と母上がなくなってからのこの数年間、準備をしていたのは貴様だけではなかったという事だ」
「そ、そんな……」
カルミア様が信じていた事が全て目の前で跡形もなく崩れ落ちた瞬間だった。
「ニューゼン、カルミア・ウルーバを王家への反逆の疑い及び、子爵令嬢誘拐の罪で捕縛しろ」
ガックリと項垂れるカルミア様を見下ろし、背後で「隊長~、早くしてくださいよ~」と不満を口にしている赤毛の男に彼女を捕えるように命じる。
「了解っす」
赤毛の男――ニューゼンと呼ばれたタジーク様の部下の男性が自分の足元に転がしてあった大男を跨いでこちらに来て、手早くカルミア様を捕える。
こうなってしまえば、ただのか弱い婦人でしかないカルミア様は抵抗する事すらままならない。
腕を掴まれた瞬間、嫌がるように身をよじったが、逃げられないと察すると項垂れたままニューゼン様に腕を縛られ、促されるままその場を退出していった。
カルミア様が部屋を出た後、いつの間にか部屋の前に待機していた他の紫の騎士服の男性が部屋に入ってきて残りの伸びているカルミア様の部下達も連れていかれる。
最後、部屋に残ったのは私とタジーク様の二人だけ。
「……タジーク様?」
ニューゼン様にカルミア様が連れていかれ、誰もいなくなった足元の空間をジッと無言で見つめ佇むタジーク様。
「……やっと終わった」
その瞳には目まぐるしい程色々な感情が駆け巡っていた。
彼はずっとカルミア・ウルーバを憎んでいた。
憎んでいたのに捕まえる事が出来ず、のうのうと普通に生活を送っていた彼女の存在を感じ続けていた。
そんな終わる事のない悪夢が遂に終わったのだ。
今、彼の胸にはどのような思いがあるのだろうか?
田舎の領地で父母と兄達に守られ、のんびりと暮らしていた私には到底想像が付かなかった。
ただ、目の前に佇む彼の姿は『嬉しい』という感情一つでは表せない、とても不安定なもののように思えて、つい不安を感じてしまい、確かめるように彼の名を呼びその腕に手を添えた。
「……コリンナ嬢」
何処か虚ろささえ感じさせた彼の目が、しっかりと焦点を結び私に向けられる。
その事に、何故かとてもホッとした。
「タジーク様、ご迷惑をお掛けしてすみません。助けに来て下さって、本当に有難うございます」
ホッした瞬間、彼の腕に添えていた手が震えている事に気付いた。
私は怖かった。
……そう、怖かったのだ。
その事に、改めて気付いた瞬間、ポロリッと涙が零れ落ちた。
「……」
つい縋るように彼の騎士服の腕の部分を握り締めてしまった私の手を、タジーク様はジッと見詰めた後、少し躊躇いがちに私を抱きしめる。
「いや、俺が悪かった。あんなに真っ直ぐに俺に感情を向けてくれていた君を信じられず、追い詰め、不安にさせた」
まるで懺悔するように告げられた彼の言葉に、私は彼の胸に額を押し付けるように強く抱き付きながら首を何度も振った。
今なら何故彼が私に対してあのような態度を取ったのかよく理解出来た。
無作為に人を疑い、感情をぶつける事は決して良い事ではないけれど、彼がそうならざるを得なかった理由はもうわかっているのだ。
だから、私はそんな彼を含めて全て受け入れている。
彼を責める気などもうほんの少しもない。
「今回の事も、君は単純に巻き込まれただけだ。……悪いのは俺だ」
「それは違います! 悪いのは、こんな事を引き起こしたカルミア様です。タジーク様は被害者です!!」
何かに耐えるように眉間に皺を寄せ、表情を暗くしたタジーク様を彼の腕の中から見上げ、必死で首を振る。
「いや、俺はまた過ちを犯し、大切な事を見落とし、大切なものを失う所だった」
私を見下ろすタジーク様の顔が今にも泣き出しそうにクシャリと歪む。
それは、両親を突然奪われてから一人悲しみに耐え続けていた、子供の頃のタジーク様が悲鳴を上げているかのような表情だった。
「タジーク様、大丈夫です。今回は何も失っていません。貴方は頑張って、やり遂げたのです」
彼の事情はまだはっきりと理解は出来ていないけれど、引きこもりのように過ごしていた彼が裏で必死で足掻き、頑張っていた事は、さっきのやり取りだけでも十分伝わってきた。
そして、その結果が今日のカルミア様捕縛と、私の救出へと繋がったという事もわかっている。
「俺は……俺は……」
私の肩口に頭を寄せ、呟く彼の背を私はそっと撫でた。
幼い日に、お母様が泣く私を宥めて下さった時のように、そっと何度も。
どれくらいの間そうしていただろうか?
途中から無言になったタジーク様を、それでも私は抱き締めそっと背を撫で続けていた。
「……俺は」
そんな中、やっと落ち着いたのかゆっくりと私の肩から顔を上げた彼がジッと何かを探るような、警戒するような視線で私を見下ろす。
その口調は、今までの意味のない呟きとは違い、言うべき言葉をしっかりと見付けた、はっきりとした口調だった。
私は、そんな彼の言葉に耳を傾け、真摯に向き合うべく彼と視線を重ねる。
「俺は……君を信じていいのだろうか?」
どんな重大な事を言われるのかと身構えていた私は、彼のそんな言葉にキョトンと目を丸くしてしまった。
……意味がわからない。
そう思ったのは一瞬だった。
次の瞬間には、大切な人に裏切られ、一部の人しか信じられなくなった彼の、その言葉の重さを思い出し背筋が伸びるのを感じた。
けれど、私の答えなんてもう既に決まっている。
それこそ、彼と出会ったその瞬間から決まっていたのだ。
「もちろんです! 私はタジーク様が大好きなんです。だから、日々のちょっとした嘘……例えば料理を失敗した事を誤魔化すとかそういうのは吐くかもしれないですけれど、貴方を裏切るような事はしません! ……だって、好きな人を裏切って嫌われるなんて絶対に嫌ですから」
満面の笑顔でそう答える。
敢えて、「嘘は吐かない」なんて事は言わなかった。
私は家族にもミモリーにも小さな嘘なら吐く事があるもの。
大概……というか、ほぼ全部バレるけれど、それでも嘘を吐く事には変わりない。
ここで「嘘を吐かない」と言えば、それこそが『嘘』になるのだ。
折角、私を信じようとしてくれているタジーク様にそんな事はしたくない。
「……嘘は吐くのか?」
「小さな嘘くらい誰でも吐くでしょう? まぁ、私の場合は嘘を吐いてもバレない事の方がまれですけど」
「まぁ、君の場合はそうだろうな」
唇を尖らせて告げると、タジーク様は苦笑した。
「良いんですよ。人を傷付けたり裏切るような嘘じゃなければ」
ブツブツと呟くように告げた言葉は、何処か言い訳めいていたけれど、事実、私はそう思っているのだから仕方ない。
だって、嘘を一切吐かなかったら誕生日のサプライズだって出来ないし、お世辞も言えない。人間関係だってきっと円滑にいかなくなるもの。
必要な嘘だってあると思うの。
「……まぁ、それもそうか」
私の返答を聞いていたタジーク様は何処か肩の力が抜けたような様子で、今まで見た事のない程穏やかな表情を浮かべていた。
それから私達は、お互いに向き合ったまま小さな笑みを交わした。
その後、不意にタジーク様の表情が真剣なものへと変わる。
「コリンナ嬢、君は秘密を守れるか?」
「もちろん、タジーク様が望むのであれば」
間髪を入れず答えた私に、タジーク様の視線が「本当に大丈夫か?」と疑うようなものになったけれど、私が慌てて「本当です!」と何度も頷くと何とか納得して下さった。
「君に……。君に聞いて欲しい事がある。ただし、これを聞いたら俺は君は逃げられなくなる。それでも聞いてくれるかい?」
「はい、もちろんです! タジーク様が秘密を打ち明けて下さる。こんな光栄な事はありません」
真剣な表情で何度も頷く私に、やはりタジーク様は何処か心配そうな様子を見せたけれど、結局は「本当に絶対外に漏らすなよ」と釘を刺すだけに留めてくれた。
「ならば、場所を移そう。いつまでもここにいるのは気分が悪い。それに、屋敷では君の侍女が心配して今にも飛び出そうとしているからな。早めに元気な姿を見せてやった方が良いだろう」
「ミモリーが?」
そうか。私について来たいというのを無理矢理タジーク様の所に送ったしな。
すぐ追うって言ってくれてたけれど、この感じだとカルミア様の手紙で事情を知ったタジーク様が保護してくれたに違いない。
ミモリーが駆けつけて危険な目に遭わなくて良かった。
「君の危機を知って、すぐに君の許へと行くと言ってきかないのを、ジヤルト達に無理矢理抑えてもらっている。……君は主思いの良い侍女を持ったな」
「はい! ミモリーはちょっとアレな所もあるんですけど、私にとって最高の侍女なんです!!」
いつも一緒にいるミモリーの顔を思い浮かべて、フッと力が抜けた私は笑顔でそう宣言する。
「そういう事でしたら、早く帰りましょう。……私も今は少し引きこもりたい気分です」
本当の意味での引きこもりではないけれど、今は安全な場所に引きこもって少しのんびりしたい気分だ。
もちろん、タジーク様の話も聞きたいしね。
「ならば帰ろう。我が屋敷へ」
「はい!」
それから私は、タジーク様に守られるようにソッと肩を抱かれ、ミモリーが待つ彼の屋敷へと彼の乗って来た馬車で向かったのだった。




