七章 求む鼓動
目覚めたカクミを伴って湖周辺の裾野を散策すると、瞬く間に帰りの時間が迫った。カインが待つ四阿に戻ったとき、かつての主神が伝えたであろう真の景色を、テラスは目の当りにした。太陽が山に隠れるほんのひととき、情熱的な輝きが山山に美しい陰影を齎し、湖の淡い煌めきと手を取って自然の偉大さを伝えるようだったのである──。
翌日の夕方、村の広場に集めた村民に現地の様子を報告したあと、テラスは提案した。
「皆さんでテラリーフ湖へ行ってみませんか」
モカ村の民が行けないことを知りながらかつての主神が秘境の場所を伝えたことにテラスは疑問があった。掟を破らせるため、などという強硬なあるいは残酷な考えがあったのではないだろう。ただただ、その景色を皆に観てほしかったのではないか。かつての主神が自分と同じように宮殿で閉塞的な生活を送っていたわけはなく狭い世界で暮らす村民を不憫に思ったとも考えにくいが、宮殿に売るモカ織を作るためだけに森に閉じ籠もるようにして暮らす民に少しでも広い世界を観せてあげたかったのではないか、とは、思えたのである。
ほかならぬテラスがテラリーフ湖の景色に圧倒され、胸がすっとするようだったから、皆にその気持を味わってほしかったというのも大きい。極端な手段で村の存続を目指したこともあるモカ村のひとびとにこそ、摑み取れる可能性に思いを致してほしく、それをなんとか伝え、示したかった。
思いを切切と語ったテラスに、村長ティンクや長老コウジが時間を求めた。掟を破る村外活動を簡単に認めることはできない。テラスは皆の意見が纏まるのを待つことにした。
意見が纏まったのは約一週間後。結論から言えば、テラスの意見が通った。ただし村民全員が村を離れるとあっては村を守る者がいなくなってしまうので、全員で出掛けるわけにはいかないということだった。その点についてはカインが指摘していたこと。村民が全面的に提案を聞き入れてくれたに等しい決断であったから、テラスは感謝の意を伝え、誰を連れていくかの相談に移った。防衛力や産業に影響が出にくいため子どもから選ぶこととなり、結果、長老の孫マイと、幼馴染のシンが選ばれた。マイはモカ織の将来を担う注目株であるからその点でも得るものがあるだろうと期待が懸けられていた。一方シンは父親マコトと同じ槍の使い手で、将来は村の防衛力の要として期待されているのでマイの護衛をかねての選出だ。
して、再びテラリーフ湖へ遠足する日がやってきた。朝早くから調査に出てくれたカインに代わって本日はカクミのみがテラスに同伴、マイ、シンを合わせて四人での遠足だった。
テラリーフ湖に着くと、ほかの仕事が入っているというツィブラが別所へ向かい、モカ村の面子のみとなった。帰村時刻の夕方にツィブラが合流するまでテラリーフ湖を散策する予定だったテラスは、初めて村の外へ出たマイとシンの感動に一つ一つ寄り添った。初めての馬車に乗り、感じたことのない空気を感じ、森以外の景色を眺めて、感動の坩堝だったマイとシンは、村にも通ずる自然豊かなテラリーフ湖に到着するといよいよ興奮が振りきったようだった。テラス達も驚いた聖水の成す湖、三方を囲む山山、清らかな空気と風。モカ村と似て非なる自然を、普段は落ちつきのあるマイも走り回って観察した。
子どもである彼女達を選んで連れてきたのは、テラスの考えも多分にあった。湖周辺に広がる裾野の一角、森の中にあった一本の木に、四阿から景色を眺めていたテラスは気づいたのである。同じように四阿からその木を見つけさせようとしたが、マイとシンは気づけなかった。ならば近くで観ればいい、と、その木を目指してテラスは歩いた。カクミに殿を任せて先頭を歩いたテラスは、湖を北へ回り込むようにして進む道中、動植物と触れ合うマイとシンと一緒になって愉しんで、お昼どき、一つの目的地に辿りついた。
「この木は──」
「まさか村の──」
近くに来て観察すれば、モカ村に住む二人が気づかないはずがなかった。テラスだって、最初に見つけたときは半信半疑で、カインとカクミに付き添ってもらって間近で観て確信した。
「間違いありませんよね」
と、テラスは二人を窺いつつ、木の幹を触れた。少しざらついた触感、たっぷりの樹液、伸ばした枝には丸い木の実がたくさん。
「そう、これは、モカの森を作るペンシイェロの木なんです」
「なんでここにあるんでしょう」
と、マイが首を傾げたのも無理はない。モカ村の育てている木は、モカ村にしかないとされているものだったからである。
「これはテラス様の推測だけど、これがテラリーフ湖の目印ってことよ」
と、カクミが木の実を拾った。「昔の主神が当時のモカ住民に伝えたとき、モカ住民が木の実か苗を渡して植えてもらったんだわ」
「ワタシ達は掟で村から出られないかも知れないから、せめて村の支えになっている木を育ててもらった、ってことですね」
「その昔から立ってる木だったらスゲェけど、小さい気がするぞ」
シンが槍の穂先で木の実を捥いで、ぱくっと齧る。「味は……まあ、うまいし、似てる」
「木自体が育って朽ちてを繰り返して、何代も跨いでんじゃないか、ってのもテラス様の推測よ。その証拠に、そこかしこに倒木があるじゃない?」
カクミが指差すところに、朽ち果てた倒木。虫が食ってすかすかになり色が白っぽく変色してしまっているが、背丈や幅は森内層の巨木に等しい。
テラスはペンシイェロの木の性質を話す。
「カオルさん曰く、木の実が落ちて芽が出るまでに何千夜も掛かります。モカ村ではそれをひとの手で助けられますが、こういった自然界では芽が出る前に食べられてしまったり、種が腐ってしまったりと、根を張るに至らないものが多いということでした。根を張ることができた木の実が、次の木の実を根づかせていく、遠くて大きな営みです。とっても尊いですね」
齧った木の実を片手にシンが気まずそうだったので、テラスはうんと手を伸ばして彼の頭を撫でてあげた。
「シンさんは偉いですね」
「え」
「自然界では食べてあげるのが助けになることもあるんですよ」
「た、食べたらヤベェんじゃねぇの」
「おいしい実を食べて、その中にある種を土に植えてあげればいいんです。木になるための大きな力は種の中に蓄えられていますから」
「あ、そっか……、それで、種を植えるだけでも生えるってことか」
「はい。土に落ちさえすれば根づいてくれることもあるそうですよ」
「解ったよ。けど、その、頭なでるのやめてくれ……」
恥ずかしそうにテラスの手を下ろしたシンが果実を食べきり、残った種子をまじまじと見つめる。丸くて硬い、そのままではとても食べられないものだが、土を得ることがある。
「テラス様が見つけたのはこの一本きりだけど、もしかしたらほかの場所に種が運ばれて生きてる木もあるかもね」
「動物の排泄物に紛れて、ですね。お祖母さまが言っていました」
「ハイセチュなんちゃらってなんだ」
「むう……」
マイがシンの持つ種子を手に取り、やにわにぶん投げた。
「あ、何するんだ、オイラの種っ!」
「いいんですー、これで」
「何がいいんだよ」
「テラス姉さまも言ったじゃない。種が土に落ちれば根づくことがあるんだよ」
「そんなぁ。せっかくだから植えたかったのに」
「男の癖にメソメソしないの。ほら、新しい木の実」
「拾ったのを食わせようとすにゃぁんむんむ……うまいけど」
「よかったね」
「いや、土も食ってるからジャリジョリしてんだけどな……」
苦笑で済ませるシンはなかなか大物である。
落ちていた木の実をみんなへのお土産に一つ拾うと、次の目的地へ向かう。
「テラス姉さま、次はどこへ向かっているんですか」
「すぐに着きますよ。ほら、ありました」
ペンシイェロの木の側でたまたま見つけたものだが、
「これ……人工物みたいですね」
と、マイが屈んで観察すると、シンが槍先でつつく。
「ボロいな。葺き替えてるときの家みたいだ」
「あ……」
マイが気づいて、テラスを見上げた。「もしかして、これって──」
「はい、たぶんですが、お社だと思います」
小さな、小さな、社。みんながくぐる鳥居があったり大きな拝殿や本殿があったりというものではないが、崩れ落ちたそれは自然の神霊に祈りを捧げるための社であろう。
「モカの森にも似たものがありますね」
「聞いたことはあるぞ」
シンがえっへん、と。「北の森にあるんだよな。摘師のみんなや村長なんかはよくお参りに行くって言ってたし、テラス姉ちゃんもか」
「摘師として初めてお仕事した日、ティンクさんとカオルさんに連れていってもらいました」
女性陣が聞く森の声を神霊として祀ったのがペンシイェロの森にある社〈森社〉。場所は見習いの頃に聞いていたが移住者であるテラスは正式な摘師になって初めて参拝資格を得た。モカ村に取って、森社は主要産業を支える聖地だ。
「いいなぁ、オイラはまだ行ったことないや」
「シンはモカ織に関わってないからじゃん?」
カクミがにししっと笑った。「槍ぶん回すだけじゃ神霊にゃお目に掛かれないのよ」
「カクミ姉ちゃんだってお参りさせてもらってないクセに」
「あたし村民じゃないし〜」
「むぅ〜、お参りしてないのは同じじゃんっ」
「っはは、安心しなさいよ。あんたも正式な槍職人になったら案内してもらえるわよ」
「職人を目指してるんじゃないけどっ」
カクミとシンが言い合っているうちに、テラスはマイとともに崩れた社に合掌した。
「綺麗だった頃に観たかったなぁ……。きっとたくさんのひとが参拝したんでしょうね」
「そうですね。森社のように木の実を供えたりもしていたのかも知れません」
ものを置くための祭壇らしき板が虫に食われている。社とともに崩れているが、テラリーフ湖にはかつてのモカ住民か主神あるいは別の誰かが通っており、社へのお参りをしていたことだろう。
「森の声は森社があるからいてくれるんだと思いますが、ここの神様はどこに」
と、マイが疑問を上したのは、社が神霊の住む家とされているためだ。
「どこか安んぜられるところに住んでいてくれると嬉しいですね」
「テラス姉さまみたいに移住している可能性もあるんですよね」
手を合わせてマイが言う。「こんなに朽ち果ててしまっていると、つい悪いことを考えてしまいます」
「悪いことですか」
「ここに住んでいた神様は社を壊されて出ていってしまったんじゃないかとか、壊れた社を直してもらえなくて、出ていかないといけなくなってしまったんじゃないかとか」
「マイさんに想ってもらえた神さまは、どこかで悦んでいると思いますよ」
「家を追われていても」
「はい。神霊といわれるような神さまには体はなくこの眼で見ることができないそうです。その替り、世の中のいろいろなことを感じていると思います、森の精霊さんが村の皆さんを気に懸けているように。なので、ここに住んでいた神さまも遠く離れたマイさんの心や想いを感じていると思います」
「えへへ、そうだったらいいな……」
神とはテラス達「神」という種族を指す言葉でもあるが、本当の神はそうではないだろう。姿がなくとも、いつもみんなのことを想っていて、いつもみんなの想いを受けている。そんな存在こそが「神」ではないか。主神という立場にあって誰より神たらねばならなかったテラスがそうはなれなかったから、より強く、おもう。
……あなたに、新たな社がありますよう──。
改めて合掌し、神霊の無事を願うと、四阿に戻った。
元気いっぱいに先頭を走っていたシンだが、
「腹へったぁ……」
と、溶けるようにベンチに横たわった。
「社の感想もなくお腹のことなんて、もう」
と、マイが呆れて、シンの額をタオルで拭う。「体力の無駄遣い。そんなだから夜の警備につかせてもらえないの、もしかしてまだ解ってない」
「だから体力つけようと走り回ってんじゃん」
「カタキンね」
とは、マイではなく弁当箱を広げつつカクミが言った。
「カタキンってなんだ」
「偏った筋肉の略よ。走り回ってるだけじゃほぼ脚しか鍛えらんないでしょ。腹筋・背筋・腕立て伏せ三〇〇〇回ずつ三セットくらい追加したら?」
「いっ、九〇〇〇回もできるわけないじゃん!」
「残念、二万七〇〇〇回よ。マコトはきっとできるわよ?」
「と、父ちゃんができるならオイラにもできるぜ!」
「っはは、いい顔じゃん。ま、無理すると続かないから一〇〇回ずつくらいから慣らしなよ。筋肉が悲鳴を上げたら鍛える前に動けなくなるし」
「いろいろ知ってるんだな……。天才だったんだな、カクミ姉ちゃんっ!」
「そうよ〜、あたし天才なの。敬え、敬え〜」
「ははぁっ!ウヤマウ、ウヤマウっ、だからオイラを鍛えてくれっ!」
「いいわ。体を作るにはまず食べることよ。と、いうことで、」
弁当箱の蓋を意気揚揚と取るカクミ。「これを食べなさいっ!」
「『なっ──!』」
シンだけでなく、マイも目を見開き、固まってしまった。
献立は、テラスが大好きな玉子ハムサンドを始めとするサンドイッチ・唐揚げ・焼魚・野菜の煮物・温野菜、そして白米であるが。
「な、なんだこの色……」
「姉さま方、これは食べ物ですか……」
胃酸が干からびたかのようなシンと、冷や汗を流しているマイである。あらゆる食べ物が鮮やかな原色または食材本来の色を失っているのだから、ひとによっては食欲減退を避けられない。
テラスは両手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ、どうぞ」
好物の玉子ハムサンドをぱくっと。
「んふぅ……、んむんむ。やっぱりこれですね。鼻を抜ける優しい香りがなんともいえない深い味を引き立てています」
「玉子ハムサンドって、優しい香りとかするもんだったっけ」
と、シンが訝るが、「これを食べたら、ホントに体力がつくのか」
「詳しいことは父ちゃんにでも聞きなよ。けどマジよ、玉子も肉も筋肉を作るのに大事だし、パンは速やかな栄養補給ができて、これまた筋肉に必要なのよ」
「よく解んねぇけど、カクミ姉ちゃんみたいな細マッチョになれるってことか」
「それは地雷よコラァッ──」
「カクミさぁんっ」
胸のなさを気にしているカクミが暴走する前に、テラスは彼女の振り上げかけた腕に跳びついて止めた。
「っとぉテラス様、解ってますよぉ、お子ちゃまなシンに大人の魅力は判らんとぉ」
カクミがテラスを下ろして怺え、力瘤を作った。「この筋肉はあたしの料理でできてるわ。疑う前に食ってみなって」
「……筋肉作りにこんな勇気が要るなんて。けど、これで強くなれるなら!」
震える手でサンドイッチを手に取ったシンが、指まで食べる勢いで勢いよくかぶりついた。
「んむ……んむ……、」
恐る恐る咀嚼したシンが、不思議そうに目を丸くした。「な、なんだこれ……めちゃくちゃにうんめぇっ!」
「ウソっ」
と、横のマイがシンの両肩を摑んで揺らす。「ヘンになっちゃったんじゃないのっ」
「いや、マジでうまいよ。マイも食ってみろって」
「えぇ〜……」
その味の虜になったシンがぱくぱく食べるとマイがますます怪しむ。「カクミ姉さまを疑うわけじゃないんですが、どれも、食べ物には観えません……」
「材料は全部モカ村のもんだけど」
「それでなぜこんな色にっ。村でこんな色、見たこともないです」
「カクミさんの技ですよ」
テラスは玉子ハムサンドの一〇分の一を食べ進めて、「どんな食べ物も色鮮やかに仕立てることができるんです」
「それ、必要なワザなんでしょうか」
「料理は見た目っていうじゃん?」
「むしろ悪くなってますけど」
「ふふふっ、マイ、あんたまだ青いわね」
「あ、青いですか」
「そうよ、シンが食べ残して投げ捨てられた種より青いわ」
「そんなにっ」
「見た目に惑わされて本質を知らないなんてまさしくじゃない?」
「言ってることが正論すぎて逆にひどいですが……」
マイが料理の安全性を分析する。「調理法からして一番手を加えていなさそうなのは温野菜のはずですね。なのに着色は発生してしまっている。工程の量と彩りの深度には因果関係がない。ならば、一番熱が通っているものを選ぶのが安全、の、はず……、……」
溺れそうなほどの冷や汗を流したマイが狙い澄ましたのは真黒な大根の煮物。箸で摘まむと簡単に崩れそうなほろほろ加減。箸使いが上手なのが裏目に出たか、一片も欠けることなく口へ運ばれた。
一口含むと、一瞬にしてなくなるような口溶けで、
「──っ、お、おぉ、おいしい……なんでっ」
泣き笑いだ。「ワタシが作ったものより明らかにヘンなのにっ!」
「一言余計。でも解ったでしょ。見た目以上の鮮烈な味、それがあたしの料理よ」
「ど、どうやって作ってるんですか」
「いろんな植物をぶち込んでるわ」
「雑っ」
「説明したくてもできないや。だってテキトーに選んでやってるんだもん」
「それでもこの味になっているんですね……」
「素晴らしい技ですよね」
テラスはカクミの料理の腕前に心酔している。「もっと早くカクミさんの作ったものを食べていたら、宮殿の皆さんにも食べてもらったことでしょう」
「公益とかに支障が出そうなのでやめたほうがいいと思いますけど、確かに味は……」
味を証明したのはマイの肌。冷や汗がすっかり引いている。
「体は正直ね。うまいもんはうまいのよ。色は愉しむべきよ。ね、テラス様」
「はい」
今日の玉子ハムサンドは玉子が真赤、ハムが黄色くて、パンが真青だ。「彩り豊かで木の実のようですね」
「玉子ハムサンドは玉子ハムサンドの色がいいです……」
と、言いつつも、マイが次の野菜へ箸を伸ばしていた。
奇抜な彩り。されど、誰の舌も唸らせる。そんなカクミの料理を一度食べたなら箸が止まらない。本日も一〇分と経たず皆が完食である。
「『ごちそうさまでした』」
と、満足そうに両手を合わせたマイとシンをカクミが嬉しそうに見つめる。
満腹のシンがお腹を撫でつつテラスに気づく。
「テラス姉ちゃん、まだ食ってんの」
最初の玉子ハムサンドをようやく半分ほど食べ終えたところだった。
「皆さんより食べるのが遅いみたいで、いつも最後に食べ終えるんです」
「テラス姉さま、体もそうですが口も小さいですからね」
「あと、テラス様は一口一口ゆっくり嚙んでるからね、あんた達と違って」
「カクミ姉ちゃん、ばあちゃんみたいなこと言うなよ」
「シン〜、次に地雷踏んだら湖に落とすわよ〜?」
「いっ、ジライってなんなのかわかんねぇけどごめんっ、──って」
シンが思いつく。「湖で泳いだりしないのか」
「泳ぐって、そこを?」
と、カクミが湖を指差して、「無理じゃない?あれ、水じゃないし」
「水じゃないならなんなんだ」
「もう、ちゃんと教えたのに。あれは、魔力であって浮力があるかどうか。──」
テラス達から聞いていた聖水の話をマイが伝えたが、シンの好奇心が優っている。
「──。見た目が水だし泳げそうじゃね」
どうしても泳ぎたいようだ。
テラスはまだ食べているので無理だが、
「せっかく村の外まで来たんです。シンさんとマイさんを湖に入れてあげましょう」
「いいんですか」
マイが控えめに、「濡れると風邪を引きそうなんですが、じつは、ワタシも入ってみたい気はしていました」
「なーんだ、マイも同じなんじゃん」
と、シンが起ち上がった。「テラス姉ちゃん、入っていいんだよな」
「はい。ただし、ゆっくりですよ。底に足がつかないかも知れませんから、溺れないように気をつけてください」
「解った〜っ」
「あ、ちょっ、シンっ」
四阿から跳び出したシンが湖へ。
ボシャッ。
「なんか変な水音ね……」
「シン、大丈夫っ!」
カクミとマイが隅に寄って様子を窺う。シンが落ちたところだけ煌めきが密集、チカチカしていたが、それが落ちつくと、
「おっほ〜いっ」
と、シンが湖面に浮かび上がった。「水ん中とあんま変わんないっ、風呂みたいだぜっ!」
「そうなの。服のまんまだけど、沈んだりしない」
「あぁ、脱ぐの忘れてたけど、濡れてないみたいだし大丈夫だな、軽いくらいだぜ〜」
用意するどころか村に水着があったかも怪しい。普段着のまま入れるなら問題なしだ。
「じゃあ、ワタシもっ」
マイも湖にポシャッと入った。「わ、浮遊感がすごいよぅ、空に押し出されるみたいで、変な感じ〜っ」
テラスはベンチに座ったまま、湖に浮かんだ二人の笑顔を眺めた。
「なるほど、聖水は体を浮かせる力が強いんですね」
「テラス姉さまもどうですか、入ってみませんか」
「しっかり食べ終えてからにしますね」
「そうですね。あと一〇分は掛かりそうですが……」
マイの予想通り時間を掛けて食べ終えたテラスは、先に入ったカクミに支えてもらって湖に入った。聖水が満たされた湖は、爪先で搔くと軌跡を残すホイップのようななめらかさだが、浸かってみるとその煌めきのまま摑みどころがなく、重みを感ぜぬ不思議な感触だった。
ただ、
……なんでしょう、この、感じは。
食べたあとすぐに動いたからか、浮力を感じているからか、胸焼けのような、体の内側から張りつめるような、かと思えば軽い泡が弾け続けているような、そう、異物感が込み上げてくる。
それを感ずるとともにみんなの声が遠くなって、頭が重くなって、こっくりして、
「っ!」
聖水に溺れていた。口に入って、飲み込んだ聖水にむせて、テラスは目が覚めた。
「──ま、テラス様ッ、大丈夫ですか!」
慌てて頭を支えてくれたカクミに縋りついて、息を整えた。
「っ、はい、取るに足りません……」
「……顔色悪いですね。食べたばっかでしたし、上がりましょっかね」
ひょいと戻った四阿からカクミが手を伸ばして引き揚げてくれて、テラスはベンチで一息ついた。
マイとシンが心配して駆けつけると、テラスは三者に手を振った。湖を出てから、気のせいだったのかというほど体内の異物感を感じなくなっていた。
「わたしは観ての通り健やかですから、遊んでいていいですよ」
「顔色も戻ってきましたし、やっぱ食べたばっかで入ったのがまずかったかもですね」
と、カクミがお腹を撫でてくれるので、テラスはくすぐったくて笑ってしまった。
「憂いを掛けました。まだまだ体が弱いようです」
「テラス姉さまがゆっくり食べるのは、消化が遅いからかも知れません」
と、マイが推測して、「消化を助ける薬草を採ってきます!」
「オイラも行くぜ。護衛練習ってことで」
「じゃ、お土産の薬草を山積みで持ってもらおうかな」
「それはなんか嫌だ……」
年下二人を見送って、テラスは笑みが零れた。
「マイさんもシンさんも、ほんにいい子ですね」
「シンなんてあたしのこと天才だの師匠だのとヨイショしますしねぇ」
「カクミさんの心が伝わったんだと思います」
「だとしたら、きっかけはテラス様の優しさだと思います。あたしが、フリアーテノア全土の民に伝えたいものです」
「力添えをしてくれるひとを探すことに通ずるお話ですね」
簡単に纏めると、テラス追放に動いた議員の意識を変えるため有権者・支持者たる各地の民をテラスの味方にしよう、と、いう作戦だ。モカ村とテラリーフ湖以外に出歩けないテラスがほかの地域に住むひとびとと交流することは事実上不可能で味方を増やすなど夢のまた夢。問題となっているのは、テラスと民とが交流を果たすための場所がないこと、並びに伝達手段がないことである。
「確かなことが摑めるまで秘するつもりだったんですが、カインさんが皆さんと話す手について調べてくれています」
「それって伝達手段を、ってことですよね、マジですか。カインがなんか思いついたと?」
「はい」
ほかの神界で暮らしていた頃に知った魔法で、フリアーテノアで使えるかどうかは不明だそうだ。フリアーテノアで使えるのであれば、テラスがモカ村にいたとしても遠い土地にいる民と顔を観てやり取りすることができるかも知れないとのことであるから、
「──、それって、わざわざみんなを集める必要がないってことですよね。やるじゃない、カイン!そんなの知ってるなら早く言えばいいのにな」
「その魔法を教えてもらえるかどうか、そこにまず難があるそうですから」
「教えてもらえなかったら糠悦びってことですもんね」
カインがカクミに伝えなかった理由はそれ。テラスに伝えたのは飽くまで報告だった。
「場合によっちゃ、その魔法の構造を推測してこっちで作り出すって手もなくはないし、教えてもらえなくても悲観的になることないですね」
「はい。そのときは魔法に明るいひとの力添えを求めることになります」
「テラス様じゃダメなんですか」
「カインさんがいうにはわたし一人では扱えないそうです」
「ピンと来ました。属性違いですか」
「その通りです」
ひとは宿した魔力の属性により、使用可能な魔法の属性が限られてくる。カインが思いついた伝達魔法には雷属性と光属性が同時に用いられるとのことで、魔法技術が理解できてもテラス一人では扱えない。
「わたしは光魔法を使えます」
「雷ならあたしが使えますねぇ。テラス様とあたしの力を合わせればなんとかなりそうっちゃなりそうですね」
「その辺りをカインさんは考えてくれていると思います」
テラス単体やカクミ単体で考えたときに用いることができないから最初はその伝達手段を除外していたのだろう。カインはしかし、その手段を採れると考え直して調べに行った。つまるところ、
「あたしらの仲良しパワを集めておけという暗示ですねっ!」
「今のままでもきっと満ち満ちていますね」
カクミが頭を撫でてくれるので、テラスは彼女の頭を撫で返した。
「二人以上で使う魔法を合体魔法なんていうらしいです。マリアが高度なもんだっていってた気がしますから、伝達魔法の前に別の魔法で練習しときます?」
「皆さんとお話をするための要たる魔法です。誤りのないようにしっかり身につけないといけませんね」
合体魔法は万全でなくては身につかないだろう。マイ達と薬草の到着をテラスは待つことにした。
遍く世の頂点に立つ者が創造神であるなら、創造神の寵愛を受け、神の頂点に立つ者がかの主神といえよう。
その地位と肩書を持つ者に相応しい白亜の巨塔。荘厳にして美麗なる外観とすっきりとした内観は訪れたカインを拒むことなく静穏そのものであった。
「──。もう帰るか」
「心配ですから」
テーブルと長脚の椅子、ティーセットにお菓子。脚を組んで優雅に食している男性がカインの訪ねた人物であり、この神界トリュアティアの主神アデル。
「情報を役立てるがよい」
「必ずや。突然の訪問にお応えいただき、改めて感謝申し上げます」
「オレは嬉しく思っている」
男ですら見蕩れる、美しくも勇ましい笑みでアデルが言ったのだった。「姿を消す直前、お前が憔悴しきっていたとミントが心配していた」
「ミント様が……」
カインが生まれ育った神界の主神で、テラクィーヌ以前に仕えていた主でもある。
「ご心配をお掛けしました」
「いずれでよい、本人に言ってやれ」
「……申し訳ございません」
亡くなった恋人の親に、カインは二度と来るなと言われている。その土地だけでなく、生まれ育った神界に踏み込むことすら、カインには難しかった。
「オレから伝えておこう」
「……重ね重──」
「帰れぬことを察するべきであった。聞くまでもないが、身を置いた神界はよいところなのだろう。同じ失敗をせぬようにな」
「……はい。お心遣い、痛み入ります」
「例の件は、くれぐれも慎重にせよ」
「はい」
伝達魔法以外に、カインは必要な情報を彼から聞いていた。テラスの身に関わることであるから慎重さに輪を掛けなければならない。
フリアーテノアに帰る前に、カインは尋ねたいことがもう一つあった。フリアーテノアが魔物や魔竜以外の外敵に曝されることはないか、その懸念を払拭しておきたかった。
「悪神についてですが、アデル様は動いていらっしゃいますか」
「キルア、ジーン、両名健在ゆえ、動かざるを得まい。が、心配するには及ばぬ。まだ足りぬとのことだからな」
「何がでしょう」
「宿命に分化するその全て、だな。言っているオレが理解に苦しむところだ」
神の頂点、神の中の神がそう言うのだからカインには及びもつかない。
「わたくしどもの神界に魔の手が及ぶことはありましょうか」
「ないとはいいきれぬ。オレが見張っておこう」
「よろしいのですか」
「旧知の仲だ。そのくらいさせてくれ」
「主に代わり、感謝を申し上げます……!」
テラスもそうしたであろう、アデルの厚意にカインは深く頭を下げた。
マイとシンが採ってきてくれた薬草を飲んで普段の調子を取り戻したテラスは、湖に入って愉しんでいるみんなと合流しようとしたが、思わぬことが起きた。
ドドドドド……。
地響きがする。地震かと思われたが、音源が少しずつ近づいてくる。
「マイ、シン、上がりなさい」
警戒したカクミが先に四阿に上がって、二人の手を引くと、「テラス様は二人とここにいてください。ちょっと観てきます」と、桟橋を駆けていった。
「なんか、嫌な音だな……」
「テラス姉さま……」
槍を構えるシンと、怯えて抱きついてきたマイを、テラスは落ちつける。
「南から来るようですね。深く息をして、動けるように備えましょう」
魔物の気配はないが、……近づいてくるようです。
大規模な魔物討伐を宮殿騎士団が行うという情報がツィブラからも入っていたが、それにしては時期が遅いか。
……においは……お一人でしょうか。
宮殿騎士団が魔物討伐を行うときは一〇名以上が参加する。大規模であれば五倍以上が動員されるだろうが、感ぜられたにおいはたったの一人分。テラリーフ湖は周知されていないはずなので、たまたま入り込んでしまった旅人か、「テラリーフ湖」とは知らずにたびたび訪れているようなひとか。どちらにしても、魔物の巣窟と疑われる山あいにやってくるのだから尋常ならざる人物であろう。それゆえにここへ侵入する勇気が湧いたであろうことも窺える。
「テラス姉さまを狙う暗殺者でしょうか」
マイがテラスを窺うと、シンが南を睨み据えた。
「村のみんなみたいに、ギカイってのに操られてるのか」
「かも知れない。でも、この物音はなんだろう……」
震えるマイの腕を撫でて、テラスは様子を見守る。
「カクミさんが応じてくれています。今はじっとしていましょう」
もし暗殺者であるなら、マイやシンが巻き込まれないように離れることを考えなくては。
約一・九キロメートルの桟橋をカクミが渡りきり、入口となっている鬱蒼とした谷で待ち構えると、じきに物音の正体が現れた。
「『!』」
地を這う機械が突入し、木木を圧し折って地面を削り、カクミの眼前までノンストップだった。
ガンッ!
カクミが足蹴にして停めた無機物は、趣味の悪い金色の重機であった。操縦レバを握る小男がカクミを鬱陶しそうに見くだしている。
「あんた何者?」
「汚い足を退けてもらおうか」
「もう一度訊くわ。あんた何者?」
「二度いわせるな、ガキ」
「……じゃあ、黙って──」
「──退け」
カクミが脚に力を入れると同時、小男が操縦レバを倒して発進する。と、双方の力が拮抗してカクミの足下が割れ、重機の無限軌道が土埃を立てる。
「機械に頼ってるオヤジに負けるほどあたしは弱くない」
「ガキ相手に拳を使うほど落ちぶれてもいねぇよ」
「減らず口ね」
「貴様もな。こっちが誰だか知っててやってんだろうな」
「は?性格が出てる顔の典型例が偉ぶるんじゃないわよ。ここはあたし達に取って大事な場所よ──、入りたいならせめて名乗りな」
「世間知らずのガキが」
「ガキしかいえない無能なわけね。解ったわ」
レバを緩める気配のない小男に、容赦することはない。秘境を荒らされては村民に示しかつかない。カクミは右手の銃を抜き、二メートル先の小男の首を狙う。
「猶予は三秒。二秒以内に下がらないなら、最後の一秒で撃つわ」
「障害に容赦は要らねぇだぜ、ガキ」
「っ」
小男が別のレバに手を掛けた瞬間、重機の横から管のようなものが伸びて湖に突き刺さる。
「あんた、何やってんのよ!」
「こっちは正当な業務だ。業務妨害で宮殿に訴えれば貴様は逮捕されるが」
「は?何よ、それ」
神界宮殿が許したなんらかの仕事を小男がこなしている(?)管を観ていると、聖水を吸い込んでいる様子だ。
……まさか、奪うつもり!
希少な聖水が大量にある場所だ。その存在を知ったなら金に換えようとする輩が現れたとしても何もおかしくはない。
「ちょっと、やめろってば!聖水を売り捌くつもり!」
「世の役に立つのになんの問題がある」
重機を操る男性と対したカクミが、引金を引かんとしていた。
「問題ないわけないでしょ!是が非でも止めて──」
「銃を下ろしましょう」
「テラス様……」
「よいしょ」
重機の足許を管ごと氷漬けにして動きを止めると、テラスは操縦席の隅に座った。席を立っていた男性が眉を顰める。
「貴様は、」
「初めまして、テラスリプル・リアといいます」
「……元主神」
「桿を放しましょう。疲れてしまいますよ」
「ふん、いいだろう」
重機を足で抑えつけたカクミが心配そうにしているので、テラスは男性の意図を速やかに聞くことにした。
「名を教えてください」
「バルハム・パンドムだ。主神だったんなら、聞き憶えがあるじゃねぇか」
「はい」
「テラス様、知ってるんですか?」
「いろいろなことに使える秀でたものを作り出すことで名高いパランドの長さんです。わたしも初めて会いました」
「えっ、パランドっつったら『金のマッ町』の異名を轟かせる工場地帯の──」
「なんだそのダサい名は……」
「最後まで聞けっての。──ゴリマッチョ系労働者がひしめく金が集まる町だからそう呼ばれてるんでしょ、たぶん。長ってことは、あんたが引籠りの総統?」
「誰がヒキコだ」
「誰も顔を見たことがないって聞いたことがあるから、てっきりヒキコかと」
「総統室で一手に業務をこなせるようにした。健全な効率化の結果だ」
「身長が縮んだのも効率化?」
「これはもとからだ」
「それはごめん。しっかし、性悪そうなヤツが総統だなんて町のイメージ落ちそうね」
「ふん、ガキには解らん知性が詰まった顔だ」
「自分でいうか」
「知性は全てを築く。事実、地位・権力・金がある。お前は一日どれだけ稼いでる。わたしは三〇〇〇万以上だ。部下への配当も含めれば軽く億を超えるが」
「この小男、マジでゴールデンマッチョーの総統なのか、信じらんない、くそぉ……」
現在無職のカクミは反論が続かない。
テラスは両手を合わせて男性バルハムに感心した。
「とっても頑張っているんですね」
「不出来な元主神、お前と異なりわたしは世に貢献してるんだ。敬え」
「はい」
「素直か、無知か、それとも建前か」
「皆さんのために働いていることは、とっても素晴らしいことだと思います」
「……」
バルハムが鼻を鳴らして、「そうかい」
「ときに、聖水をどのように使うお考えがありますか」
「売るのだ」
「どちらにですか」
「相手があることは明かせんな」
「宮殿と繫がってるみたいです」
と、カクミが口を挟んだ。「こいつがここでこんなもん乗り回して聖水を奪いに来たのは、正当な業務ってことらしいんです。宮殿が許可を出さないとこんな工事みたいなこと、未開拓地域でできませんよね」
「そうですね。バルハムさん、神界宮殿の許しはどちらですか」
「上だ」
バルハムが指差す。重機の天井に張られた一枚の紙を、テラスは確認した。
「〔作業用侵入許可状〕ですね。〔聖水の採取の許可〕……と、許しが出ているようです」
カクミが眉間に皺。
「話は通るわけですね。でも、こいつ、あたしを轢き殺そうとしてましたよね、明らかに。業務妨害で相殺できる罪じゃないです」
「わたしからは貴様が見えなかったのだ」
「はぁ?見えてんじゃん!」
「それはわたしが──」
操縦席に座るバルハム。すると、カクミからも、バルハムからも、互いが見えない。操縦席の隅に座っていたテラスは既に気づいていた。
「──座っていたから気づかなかった」
「と、いいますが、そのあとに桿を倒したのはわたしが観ていました」
「……何がいいたい」
テラスは操縦席から降り、カクミの踏み潰した重機の正面を観た。
「こちらを凹ませてしまってすみません。ですが、カクミさんを轢こうとしたことは見逃せません。なので、お互い退きませんか。それで争いは終わりにしてもらいたいと思います。カクミさん、いいですか」
「あたしが頑丈でたまたま、たまったま、無事なんで、テラス様がいいならいいです」
不承不承ながらカクミが許してくれたので、テラスはバルハムを仰ぐ。
「退いてもらえませんか」
「こっちは許可状がある。仕事はやらせてもらう」
「聖水を求めていることは解っています。観てください」
テラスは管の奥、聖水を溜める予定だったであろうタンクを示した。煌めきが立ち昇るようにして漏れ出している。
業務に正当性があったとしても、自身の行動に意味がないとしたら。タンクの蓋を開けたバルハムが、目を張る。
「聖水が……」
「消えていますか」
「……」
「採れないんです。わたしが初めて訪れたとき、知らず知らず気づいた聖水の在り方です」
聖属性魔力の塊である聖水。これは、一定の量を保っていないと消えてしまう性質を持っているようなのである。だから、テラスの手で汲んだとき消えてしまうものがあった。マイやシン、カクミが遊んでいるときも、ちょこちょこ消えているようだった。総量が多いので正確な消失量は定かでないが、タンクに溜めるほどの量でも消えていくのなら、湖にとどめておくほか保存方法がないと考えられる。
「こちらから持ち運ぶことはできません。消え続ける聖水を汲み続けたらどうなりますか」
「なくなるわね、確実に」
と、カクミが答を言い、重機から足を下ろす。「あたしは退いたげる。あんたはどうする。轢き殺してまで無駄なことを続ける?」
「……」
重機から降りたバルハムが、凍りついた箇所を確認して、「時間と金の無駄だ。ここは退いてやろう」
「ここはぁ?」
「聖水は必ず手に入れる。手段は改めて考えるまでだ。元主神」
「はい」
「退いてやるから魔法を解け」
「ありがとうございます」
「テラス様、頭さげる必要ないですって」
「いいえ。話を聞いてもらったお礼をちゃんとしなくては」
カクミがぐいんっと持ち上げた上体を下げ直して、テラスはお礼を言った。「バルハムさんのお仕事について、時の許すときにゆっくり聞かせてください」
「話ならパランドの名を知らしめる記者とともに聞きに来るんだな。わたしは忙しい。とっとと氷を解け」
「はい」
あっさりと氷を消したテラスに一番驚いたのはバルハムであった。
「本当に消すか」
「バルハムさんはいいひとですから、その言の葉を信じてもいいと思いました」
「……その無知は、近いうちに負債を招くぞ」
「どういうことですか」
「行動しないのは何よりの負債だがな、知らない、ってのは、それに並ぶ負債なんだよ」
「知っていれば儲けられるということですか」
「知性は金になる。そういう意味で、お前は貧者だ」
「ちょっ、あんた──!」
カクミが摑みかかろうとするも操縦席に乗り込んだバルハムが重機を急発進、訪れたときと同様の凄まじい速度で去っていった。
土煙を食ったカクミが咳き込んで、
「なんなのよアレ、失礼なヤツねぇ。テラス様に敬えとか何様よぉっ!」
「カクミさん、落ちつきましょう」
「これが落ちついてられますかって!あたしのプリンセスに向かってぇぇぇ!」
どすどすと足踏みするカクミを宥めるのは一苦労だ。
「わたしはもう村のひとですから、バルハムさんの言ったことは正しいと思います」
「素直すぎるのがテラス様のいいとこですが、あんな性悪のいうことまで鵜吞にしなくていいですよっ」
「彼は優しいひとですよ」
「どこがッ?」
「わたしに『しっかり勉強して働きなさい』といってくれました。大切なことだと思いませんか」
「動かないことや無知は負債ってヤツですね。テラス様はそう捉えたわけですか。どんだけ善なる耳してんですか、もう……」
がくりと肩を落としたカクミだが、一つ溜息をついて納得した。「ま、テラス様のいいとこですよね。確かに、働かないのは大きな借金を作るのと同じとはよくいいますし、釈然としませんが、いけ好かない小太りチビマッチョの言葉ってのを無視して本質だけを捉えますよ」
「ありがとうございます」
「いえ、いえ、一〇〇%テラス様の神徳ありきの納得なんで」
「それでも、ありがとうございます。カクミさんも優しいですね」
「っ……、もう、……その笑顔だけであたしには一兆の価値がありますよ」
お金に喩えた言葉がテラスには理解できなかったが、カクミが褒めてくれたことだけはなんとなく理解できて、また感謝を述べた。
バルハムが去ったのを見計らってマイとシンが桟橋を渡ってきており、合流するや削られた地面を痛ましそうに観た。
「秘境の大地をこんなふうに荒らすひとがいるなんて……」
「姉ちゃん達、大丈夫だったか」
「はい、わたしは健やかそのものですよ」
「あたしも平気。けど、あいつ、また来そう」
カクミの懸念はテラスにもある。
「聖水を運ぶ手を考えたらバルハムさんは必ず戻ります。許しを出した神界宮殿もテラリーフ湖のことを知っているでしょうから、バルハムさんが来なかったとしても聖水を採るひとは現れるかも知れません」
「えっ」
マイが口に手を当てて、「そんな……ここがまたこんなふうに荒らされるんですか」
「マイさん……」
沈んだ表情。モカ村のみんながいつかそんな表情になるのかと思うと、テラスは息が詰まった。
……バルハムさんを止めることはできません。
許可状がある以上、業務の正当性は担保されている。今回バルハムが退いてくれたのは運がよかった。聖水の採取技術が開発されたら、または、採取技術開発のための研究・調査を行う者が訪れれば、どうやってもテラリーフ湖が秘境であり続けることはできない。
「テラス様、どうしたらいいと思います?あいつを止めるのは、無理、ですよね……」
「……」
荒らされることを看過したくはない。「バルハムさんだけなら、手があります」
「なんです?」
「宮殿に訴えましょう」
「いっ。それ、正気ですか」
「はい。テラリーフ湖のことを宮殿が知っています。許しを出しているなら、取り下げてもらうことを考えましょう」
「なるほど、免罪符さえなけりゃチビマッチョも黙って引き下がるしかないはずですもんね。あ、でも、そんなことできます?テラス様は追放されてるから一般神とはいえ入場許可証がもらえないかもですし、あたしじゃそういうことには頭が回らんっ……」
「カインおじさんに頼んだら」
と、シンが荒れた土を手で均しつつ言った。マイも土均しを手伝う。
「カインおじさまはいろんなことを知っているので、妙案を出してくれるかも知れませんね」
「そうね、若作りジジイならなんとかしてくれるかも」
「カクミさん、」
「はい、はい、解ってます、悪口はよくないですっ。が、あたしのこれは飽くまで親しみを込めてますんで」
「それならいいですね」
「聞分けよすぎるのもイカンですよ」
カクミが苦笑するも、疑問を上す。「生き字引に相談するとして、あの小男バルハムは聖水をなんで売りたがってんでしょうね」
「聖水の効き目にもとがあると思います」
「聖水の効き目」
マイが湖を振り返る。「秘境を形作る湖、煌めく美しさに心癒やされる……と、いうことですか」
「わたし達に取ってはそっちも大きな効き目です。売るとなると、少し変わります。聖水は魔物除けになっていることはもう知っていますね」
「この辺りに魔物が出てこない理由がそれですね。町のような聖域になっているんです」
「では、なぜ魔物がここへ入って来られないか、もともとのわけを考えてみましょう。それが聖水の効き目そのものなんです」
「聖域さえ作っている聖水。要するに、魔物は聖水が嫌いってことですよね、姉さま」
「はい。でも、嫌いなだけならモカ村で作る魔物除けのようにときどき魔物が現れてもいいと思います」
モカ村で作っている魔物除けはじつに高性能で、めったに魔物が近寄ってこない。が、煙とにおいが効果を及ぼしているから、ときに風や雨の影響で効果が低下することを避けられず、効果範囲外から魔物が攻めてくることもある。
「じゃあ、聖水には、魔物除け以上の忌避効果があるってことですか。……もしかして」
頭のいいマイが察した。「聖水は、魔物を倒せるんですか!」
正解。テラスはうなづいた。
「魔物だけが持つという魔力が聖水によって打ち消されてしまい、魔物はその命を失ってしまうから触れられないということだそうです。なので、よほどのことがない限り、聖水の魔力に満たされたこの辺りに魔物が姿を現わすことはないでしょう」
カクミが腕組をして思い出す。
「そういえばあいつ、世の役に立つとかなんとか言ってました。あれはそういう意味だったんですね。とはいえ、重機でずかずか入ってきていい理由にならないですよね」
「次からはゆっくりのんびり来てもらえるよう頼んでみましょう」
「そもそも来てもらっちゃ困るんですけどね」
「わたし達のように景色を愉しむためならいいと思いませんか」
「ときどき思うんだけど、テラス姉ちゃんってチョー天然だよな」
と、シンがツッコむと、マイがシンの後頭部をぽこんと叩いた。
「テラス姉さまはシンと違ってすっごく素直で優しいだけ」
「なんだよ、素直で優しかったらぶたれずに済むのか」
「シンがシンである限りはぶつと思う」
「ひでぇ、オイラはサンドイッチじゃないっ」
「シンも相当テンネンだよ……」
「えぇっ」
自覚がないシンをカクミが笑い飛ばして、
「まあ、いいじゃん、天然であろうがなかろうが、あんたはあたしらを和ませてくれたよ」
「よく解んねぇっ、どういうことさぁ」
「シンさんが優しくていい子ということですよ」
「う。テラス姉ちゃん、頼むからいちいち撫でないでくれ」
そう言って照れているシンが嬉しそうであるから、テラスはつい撫でてしまった。
ツィブラの馬車がやってくるまでにまだまだ時間があるということで、再び湖に入って遊ぶことになり四阿へ戻った一行だが、さらなる異変が起こった。今度は重機の鳴らす遠い地響きという前ぶれはなく、
ドッッーーーーンッ!
凄まじい炸裂音だった。湖を震わせるような轟きにカクミ達がびくっとして、音の発生源である北を振り向いたのはいうまでもないが、一人、テラスだけが音の鳴る前にそちらを向いていた。音が鳴ることを予測していたとか、もともとそちらを向いていたとか、ではない。なんとなく、懐かしいにおいがして、そちらを振り向いていた。その直後の炸裂音である。瞬間を切り取るなら、「山の一部が弾けて」いた。
「モカの木と社が!」
マイが叫んだ。崩れゆく土砂に押し潰される──。
「いったい何が。テラス様。……、テラス様?」
振り向くと、そこにテラスがいなかった。
……まさか。
カクミは崩れた山のほうを今一度観た。そのときには、崩れゆく土砂が氷漬けにされて動きを止めていた。氷がテラスの魔法であることは間違いない。テラスの気配も、あちらにある。
……どうやってあそこまで移動を?
明らかにカクミの認識を超えた移動だったが、考えたところで理屈が判らない。
モカの木はぎりぎりのところで土砂から守られているよう。よかった、と、落ちつきたいところだがそうはいかない。
……あれは!
カクミはあることに気づいて、「マイ、シン、そこを絶対動くんじゃないわよ、いいわね!」と、指示して四阿から跳び出した。
テラスの直上。カクミよりも肌の黒い人型の「何か」が翼を広げて飛んでおり、悠然と降下していく。
……何、あいつ。悪魔?いや違う、この気配は、魔物?
カクミは湖面に一回下りて跳躍、湖を越えて山を駆け上がりざまに魔弾を差し向けた。
……弾かれた……!
目線をこちらに向けることはできたが。……くそ、こっち来いッ!
木木が邪魔だ。奥が観えず、テラスの姿は確認できない。黒い人型のみを目で追い、全速力で北上しつつテラスの気配を探り当てた。
……魔物の軌道の先は、間違いない、テラス様だ!
聖水の湖の近くに現れることがないと考えていた魔物。イレギュラな出現だが現れた以上は速やかに対処せねばならない。しかしその魔物の気配が、尋常ではない。
……なんなんだ、この異常な威圧感は……!
痙攣のような震えを全身に感ずる。眼前の魔物にさえ子どもの頃から怖気づくことがなかった。ましてや、遠く離れた魔物に対して震える。こんなこと、カクミは初めてだ。
……あの魔物は──!
魔弾を弾かれたという事実もあるが、何より直感が危険を告げ、カクミは叫んだ。「テラス様、そこから離れてくださいッ!」
さらなる魔弾を放ったが気づけば、
「ッ!」
テラスの直上にあった姿が、背後に──。それを認識したか否か、カクミは一度斜面に叩きつけられ、巨木を突き倒しながら跳弾のように山の向こう側へ吹き飛ばされていた。
……何が、起きた……?
銃を手に取る隙もなかった。刹那の景色はあまりに膨大で、薄れかけた意識と眼では認識することもできず、
……、……──、……!
目を覚ました瞬間、全身の痛みとともに景色の歪みを感じた。眼がいかれたか。倒木に手をついてなんとか起き上がると、霞む視界、山の斜面に自分が転がったであろう痕跡を漠然と。
折れたか。踏み出すと、膝から下がガクッと崩れて、思うように歩けない。
「……テラ、スさま……っ」
砂を撒いたような屈折の景色。一つの影を見つけるためだけに、片脚を軸に這って進んだ。ごつごつとした岩や砂礫が刺さるように体を甚振るが、気にせず這った。
夕焼け、か。
……もうすぐ、ツィブラが到着しますよ。
気配を探って進むと、
……テラス様の──、よかった!
無事だ。テラスが生きている。……待っててください、今すぐ、そっち行きますから。
思いとは裏腹に、体が重い。血が流れすぎているか。
テラスがきっと心配している。残してきたマイとシンも心配しているだろう。
……村民でもないのに、心配かけたら、いけませんよねぇ。
ひたすらに、根性で進む。
意識、薄れゆく。
時を経たか、視界、暗し。
テラスの気配が、とても近い。
……ああ、もう少し、もうすぐですよ……。
這って、這って、這って、……見つけ──。
その体を触れて、闇に沈みつつあった意識が急浮上するようだった。実際は逆。より深い闇に沈むようだった。
……なんで。
服を、着ていない(?)自分で着れない癖にテキトーになら脱げるとは言え、外で脱ぐようなことは決してなかったのに。
眼が見えない。瞼をしっかり開けているつもりなのに、暗くて、確認できない。でも、この感触は、夜な夜な触れているあの肌だ。間違えるはずがない。
抱き起こし、感覚で、ぼろぼろながら自分の服を着せる。と、指先を伝う液体に気づいた。
……何、これ。
水の感触ではない。もう少し粘性のある液体だ。
……血、か。
血。なぜ。
あり得ないところに付着している。否、付着ではない。なぜ。今もまだ、流れている。テラスの──。なぜ。なぜ、そんなところから──。
「ーーーーーーーーーーーッ!」
カクミは、その小さな体を抱き竦めて、耳が潰れるほどの、聞き取ることのできないような絶叫を上げ、意識を闇に落とした。
その間際、圧巻たる輝きの下、自分の胸に縋るような彼女が見えた気がした。願望であったのだろうか。何事もなかったかのような、心穏かな寝顔だった。
──七章 終──