五章 努力の証
村に起こしたのが嵐だとするなら、返ってきたのは芽吹きと春一番であろう。
村民と話した日の夜。
警戒して前に出ていたカクミが首を傾げた。テラスも理解が追いつかなかった。
「『申し訳ございませんでした!』」
押し寄せた村の男性陣が揃いも揃って土間に土下座し、頭を下げたのである。
男性陣が言うには、村民は昼から時間を置いて夕方に再集合、子どもも交えて話し合いをして、掟の見直しを行ったそうである。纏まった意見にはテラスが考えたことと近い要素、「他民」であっても主神テラクィーヌとなら言葉を交わしたであろうことが含まれていた。また、テラスであっても主神時代であれば話した可能性があると若い世代は漏らした。主神という世界の統治者に対する特例ということも考えないではなかったが、それなら今後モカ村より財力のある都市の長や権威ある術者、実力ある戦士などなど特例対象と成り得る存在が出てくる可能性が広がってしまう。要は、他民と通ずることを禁ずる二つ目の掟が「話すこと」を実質禁じていなかったことを全世代で認識していたということである。勿論、自覚の有無という差はあったが、改めて話し合うことで認識を共有し、掟の正しい形を見定めることができたことが大きな前進であった。漠然としていた世代間ギャップや男女間の認識相違を埋め、いつしか村民を縛りつけていた掟の影のようなものが取り払われ、子どもにお金の存在を隠すといった弊害がなくなっただけでなく、掟を強いるような動きも今後薄れていくことが見込まれ、あらゆる面で好転したのである。
一方で、話し合いを促したテラスをぞんざいに扱っていたことや怒りに任せて詰め寄った事実が足下にあった。テラスの内心を酌めなかったことを、村民は暗転と捉えた。
「テラスリプルさん、申し訳ありませんでした」
と、言ったのは、テラスを受け入れ、皆を集めてくれた長老のコウジであった。精鋭であるマコトは村の警戒のためここにおらず、女性や子どもは家にいるが、皆の総意をコウジが伝えてくれた。
「あなたは村の皆に受け入れられました。マコトさんも受け入れると嬉しそうに言っていましたよ。これから儂らは、同じ村民として一緒にやっていきたく思っています。だが、それだけでは、儂らは一緒に生きてはいけないのだとも思っています。テラスリプルさんが儂らを受け入れてくれるか……、これからの村にはそれが大事なんです」
想像もしていなかった急展開に、テラスは気持が追いつかなかった。相反するようだが、思いが伝わっていたことに胸が詰まってもいて、言葉を返すどころか声も出せなかった。
ぱちっと炭が鳴く。
息を整えて応えようとしたテラスに、思いもせぬ事実が明かされることになる。
「応えにくいことは承知しています」
「え──」
「儂は、一時とはいえ村長や一部村民とともにあなたを暗さ──」
「ほぎゃーーーーッ!」
カクミが突如叫んだので、一同目を丸くした。
「カクミさん、どうしたんですか」
「あ、いえ、変なクシャミなので気にしないでくださ〜い、あははは……」
カクミが笑ってコウジに何やらジェスチャをした間に、同席していた男性が頭を下げた。
「きちんとした挨拶は初めてとなります。わたしは村長のティンクと申します。暗殺の件、申し訳ございませんでした」
今度はカクミが妨げる間もなかった。
テラスはそんな話を聞いていないから、当然の疑問が湧く。
「誰を殺めようとしたのですか」
「テラス様を、です」
「わたしですか」
事情を知っていそうなカクミを窺う。「どういうことですか」
「それはその、……じつは、──」
隠しておきたかったようだが、暗殺未遂の経緯をカクミが話してくれた。
「──、と、いうことで、現状、暗殺なんて真似をすることはないと思います。お金のことも子どもに周知されましたし……。そうよね、ティンク」
「はい……。しかし、許されざる行為に、我我は及んでしまったんです」
カクミが話しているあいだも頭を下げ続けていたティンクと村民である。暗殺の件を知っていたのは一部を除く大人のみであって、村の総意ではなかったが、村を守るための収入源を失うわけにはいかず、顧客契約が更新できないという恐怖は村の纏め役である村長や長老の双肩に重く伸しかかったことだろう。
テラスは狙われた実感がないのでスパッと許したかったが、それで彼らの心が軽くなるかといえば恐らくそうはいかない。
ぱちっぱちちっ……。
罪悪感は燻る炎。
「わたしは無事だったので許したいです。皆さんはそれで、納得できませんか」
「『……』」
許されたいと思う以上に彼らは償いたいと考えているようである。その気持を酌むべきだ。
テラスは両手を合わせた。
「こうしましょう。わたしが望んでいるのは皆さんと話すことですが、それでもきっと狙われたことを打ち消すことはできないので、命と等しいもの──、村のお仕事をわたしに教えてください」
「村の仕事、……モカ織を、ですか」
ティンクが顔を上げて警戒を覗かせた。モカ織はこの村でしか作られない特産品。何を賭しても守るべき価値があるそこへ、テラスは一歩踏み込みたかったのである。村民として受け入れ合うということはそういうことではないか、と。
「生まれながら傍にあり、ともに生きてきたモカ織は、皆さんに取って家族や友のように大切なものであると思っています」
テラスは、昼の種子をポケットから取り出し、皆に見せた。
「それは──」
「はい、種です。『大切にして』と、不思議な声に託されました」
「まさか」
コウジが目を見開いた。「〈森の声〉を、もう聞いたと仰る」
「村では、あの女性の声を森の声というんですね」
「あんた達と話したあと、村の西で聞いたらしいわ」
と、カクミが言えるのはテラスが経緯を伝えていた。
コウジが語る。
「森の声は、儂ら村の者の中でもほんの一握りの者にしか聞こえないもの、と、言う儂も聞いたことはなく実感がないんですが、聞いたのはみな女性です。彼女達の話によれば、森に住まい森を守る神霊であろうということで、皆、非常に敬っています」
「わたしに種をくれたのもきっとそのひとです」
お蔭で思い至ったこともあるから、村の女性が敬うのもテラスは理解できた。
「ティンクさん、森へ入る許しをわたしにください」
「内層であれば構いません。外層となると相応の力が必要ですし、その外となると村の者は出ませんが……」
「はい、内層まででいいんです。主神として知り得た情報の確認ですが、森で採れる木の実はモカ織を染めるのに使うのではありませんか」
「……なるほど、それで、仕事を教えてほしいと仰った」
コウジが察した。「木の実採取に協力したいとお考えなんですね」
「はい」
機織りや縫製は専門職。他民であったテラスができることはどちらかといえば単純な労働である。それが、染料を作るための木の実の採取である。
「村の外からやってきたわたしにはもともと許されないお仕事だと解っています。でも、わたしは、ここに住みたいんです」
村のひとびとに最も近く、最も深く根づいているモカ織の生産に協力できれば、それが村民のためになる。一方、村民に取っては村民の血を持たないテラスが仕事に携わることに技術流出も含めたリスクを感ずることだろう。そのリスクを打ち消すために、テラスは彼らの償いを活用することにしたのである。最後には、彼らの心が軽くなり、テラスも村民として暮らしていくことができる。安直かも知れないが、テラスはそう考えたのだ。
何度かうなづき、ティンクと目を交わしたコウジが切り出した。
「一つだけ、誤解があるので理解していただきたいことがあります」
「なんですか」
「採取も単なる木の実拾いではなく、存外大変な専門職です。モカ織の完成度を高める一要素だといえば、重要性も理解していただけるでしょう。こういっては不遜のようですが、それをあなたは責任を持ってやらなければなりません。……できますか」
相応の覚悟が必要だ。コウジがそう教えてくれたのである。覚悟が必要なのは、仕事を手伝わせる彼ら村民も同じであり、テラスがそれを促した。互いに、覚悟を決めて歩み寄り、対等な立場で踏み込む。そうしなければ同じ村で生きていくことはできない。
テラスの答は一つしかない。
「できます!やらせてください、お願いします」
頭を下げたテラスに、反対の声が掛かることはなかった。反面、
「……ますます、変わったおひとだ」
と、ティンクから感心が漏れた。「顔を上げてください。この場の皆が、テラス様の覚悟を見届けました。ご協力について、ほかの者を加えて話し合ってきますがよろしいですか」
「はい」
時間が掛かっても構わない。「一歩一歩、踏み締めていきましょう」
「そうですな……わたし達も、そうしていきたいと思います」
ティンクが皆と目配せ、夜の警戒に合流する運びとなると、「あ、先程の種子ですが、申し訳ございません、一度、しっかり観せてもらってもいいでしょうか」
「はい、どうぞ」
モカ織の染料となる木の実を生み出す森はモカ村の財産。森の声から託された種子もモカ村の財産であるから、自由気儘に扱うつもりがテラスにはない。
ティンク達が種子を観察する様子を眺めて、テラスは訊く。
「そちらの種を使いますか」
「そうですな……、あ、失礼しました、お返しします」
種子をテラスに手渡したティンクが意外なことを口にする。「そちらの種子は、テラス様が預かってくれますか。森の声に託されたということは、テラス様が持っていることに意味があるものかも知れません」
「そうなんですか」
「……と、意味深に申しましたが、じつをいいますとこの場の皆にはなんの種子か判らないんです」
「村民なのに?」
カクミがツッコんで、「採取も専門職ってのはホントみたいね」
「長年採取を行っている妻なら判るでしょう」
と、コウジが言った。「拾ったのは村の西でしたね。あの辺りの木からして恐らく青や紫に染めるものでしょうが、儂らでは詳しくは判りません」
「あえていえば機織りや縫製を担う者も判らないでしょう。モカ織は分業制です」
と、ティンクが言うので、カクミが反応した。
「つまりよ、テラス様が採取役をやることは存外ハードル高くないってことよね」
「森の構成などを覚える必要があるので簡単ではありませんが、機織りや縫製に比べれば、ええ」
「だそうですよ、テラス様、よかったですね」
「まだ皆さんの話し合いが終わっていないので、よい知らせを待ってから悦びましょう」
「そうでしたっ。でも、結果は観えてる気もしたんで」
「それもそうですな」
と、ティンクがうなづく。「この機会に宮殿依存からの脱却を、と、考えています。他民であるテラス様を加えることを変化の象徴とさせていただくも同然であるからには、わたしどもも村民との交渉に全力を尽くす所存です」
暗殺に関わった村民に取っては償いもある。
「気負わないでくださいね。もし木の実を拾うお仕事が許されなくても、別の力添えを考えていこうと思います」
「テラス様……、お心遣い、痛み入ります」
ティンクら男性陣とこの場にはいなかった村民とのあいだで結論が出るまで、テラスは自宅待機となった。
カクミが予想したように村内での意見は一つとなった。神界宮殿を唯一の顧客として暗殺などという手段を講ぜねばならなかった弱い立場からの脱却を目指し、モカ織の顧客拡大を狙おう、と。その上で、村の大きな変化に寄与したテラスがモカ織製作に携わることがまず大事な契機となると考える者が多かったのである。また、「追放された主神」と接した自分達の実感を信じ、モカ村を想う一人のひととして受け入れよう。そんな考えが広まり、移住から一週間も経たぬうちにテラスはモカ村の産業を担う若手の中核的存在となっていた。
テラスの希望が通り、染料となる木の実の採取を担う〈摘師〉の修業がただちに始まった。まずは、森で魔物に襲われないよう、薬草と炭を練って魔物除けを作るところから始まり、いざ森に入ると今度は植生を乱さないよう自生する植物を荒らさないように歩くことを覚え、そんな中でも足下に転がる木の実を見落とさないこと、腐ったものと新鮮なものを見分ける方法、新鮮なものでも使えないものもあるし腐っていても使えるものもあるというような実践的な部分まで、幅広く学ぶこととなった。魔物除けを作るのに三日、歩き方を覚えるのに三日掛かったテラスは、木の実を見つけて篩に掛ける眼を養うのは一生の目標であるという話を聞いて、これは気が抜けない、と、気を引き締めるばかりであったが、先生役となってくれた摘師のカオル──コウジの妻──の、
「最後は愉しんだ者が一番上手になるものだよ」
と、いう言葉を励みに木の実採取をした。この木の実は鮮やかな原色が出るのだとか、この木の実は食べてもおいしいのだとか、一つ一つ覚えて、カクミやカインに覚えたことを話すと嬉しそうに聞いてくれて──。
村の収入は知っての通り年に一度、宮殿騎士団に納品するときであるが、引っ越してきた際に無銭であったテラスには村民が分け合って集めたわずかながらの給金が与えられた。
「まだ見習いなのに、もらってもいいんですか」
「働く悦びってのは働いてるときばかりでもないからね」
指導中は厳しいカオルがにこにこと笑って、「働いて得たお金で何を買おうか、誰に何をしてあげようか、って考える。何もない村だが、そうやって生きてるんだ」
「──」
主神として働いていたとき、ほとんど何もできていないようなものだったのに村民のくれた給金の何倍ものお金をもらっていた。主神として得ていたお金は思えば宮殿に置きっ放しで、いくらあったかすら覚えていない。それが無頓着さと幼さであり、物の価値を見出せなかった軽薄な罪であったのかも知れない。今のテラスが当時のお金を振り返れば重みも価値も変わったのだろうが、量ではなく、込められた意味や思いにテラスは何倍もの重みを感じた。
……こちらはまこと、大切なお金ですね。
皆の優しさと期待がたくさん詰まったお金。いつも見える自室の棚に置いて、これからの修業も一所懸命こなすことをテラスは誓った。
と、ここまでは総合的にいいことの纏めであるが、別のほうへ目を向けると、いいことばかりでもなかった。寝るのを惜しんで顧客獲得に奔走した甲斐も虚しく、カクミとカインの当てが全て外れたのである。
議会の手が回っている、とは、契約寸前まで漕ぎつけていたカインの推察であり、カクミが当たった顧客候補の暗示であった。
カインによるティンク達への聞取りによれば、テラス暗殺を持ちかけたのは議員に付き従う秘書──カインがいう「犬」の一員──である。宮殿の中のあらゆる予算を決定しているのが議会であるから、お金の絡むことは全て議会が関与しているといっても過言ではない。カインやカクミは自身の交渉能力を疑わないでもないようだったが、宮殿騎士団を派遣して魔物討伐を行っている宮殿もとい議会の影響力は絶大で、魔物の脅威に曝されることが解っているから顧客候補──各町村の資産家や有力者──も楯突くようなことはできないという実状がある。
悪いことは重なるというが、テラス暗殺にも関連しているであろう事実が、村外の状況を調査していたカインによって届けられた。
「──、新しい主神が決まりましたか」
早朝の起き抜け。のんびり屋のテラスでも目が覚めた。カインと異なるのは、悪いふうには捉えていなかった。
「フルヤモントさんが捜したひとですよね。きっと素晴らしいひとです」
「……そうだとよいのですが、気になることがあります」
夜間警護に当たってくれているカクミも就寝前で、テラスの部屋に同席しており、
「気になること」
と、カインの言葉に応ずる。「あんたがそういうってことは、まともな主神ってことはなさそうね」
「……」
「黙っちゃうと話が進まないんだけど?」
「すまぬ、わたくしも混乱している部分があるのだ」
「カインさんが……」
怒っていても冷静な目を持ち、先のことをしっかり考えている。そんなカインが語るのは想像だにしない事態だった。
「新たに主神となったのは、テラス様の妹、テラスプル様です……」
「プルさんが!──」
テラスは、驚きのあまり次の言葉が出てこなかった。
その横で胡座を搔いていたカクミが首を傾げたのは当然のこと。
「テラス様の妹?誰それ、聞いたこともないんだけど」
「それはそうだ。チーチェロ様の疑惑同様、いや、それ以上に、宮殿内では自然発生的に禁句となっていた事柄だからな」
「タブーか。それを取り立てて追放した癖に」
「追放動議は一般公開されておらず、議事録は宮殿関係者しか閲覧できぬ」
「公にさえならなきゃ利用する、か、やり口サイテーね……。と、ごめん、脱線したわ。テラス様の妹もなんかヤバイことやった疑いがあったの?だからタブーになったってことよね」
「いや……、何もしなかった、何も、できなかったからタブーとなったのだ」
「意味不明。ちゃっちゃと話してよ」
「うむ、──テラス様」
促されたカインに代わって、テラスは話す。
「わたしが生まれた二年後に生まれたのが、妹のプルさんです」
「どんなひとなんです?宮殿で見かけたことないから知らないんですけど」
「はい。……早くに亡くなってしまいました」
「……え」
「死産だったそうです」
「え、っはい?」
カクミも混乱したが、状況を捉える。「カインがいう新しい主神って、まさか偽物……!」
「そうともいいきれません」
「どうしてです?」
当時の記憶をしっかりと持っているカインが話す。
「亡骸をわたくしも見ておらぬし、テラス様も幼く記憶がない。埋葬した、とは、わたくしがテラクィーヌ様から伺って皆に伝えたが、主神の子の逝去だ……」
「みんなが自然に口を噤んだ。テラス様のお父さんやお母さんの心を酌んで……」
「うむ。そして、肝心の亡骸だが、埋葬されたのが〈宮殿陵墓〉ゆえ手をつけられない」
「墓を暴くなんて一般でだって罰当りよ」
テラスが主神となってから一般神の入場も可能となった宮殿であるが、地下にある宮殿陵墓には主神とその家族以外が立ち入ることを許していない。言わずもがな、墓を暴くことなどできないのでテラスプルの遺骨を確認することはできない。埋葬を行ったというテラスの父テラクィーヌ以外に事実を確認した者が存在しない。
「お父様を疑うわけではありませんが、何かのわけがあってプルさんが生きていたなら、宮殿の外で生活していて、新しい主神として呼ばれたことが考えられます」
「いや、でも、死産ってのは誰かが確認したことなんですよね」
「当時の治癒術者がな」
と、カインが腕組をして、「テラクィーヌ様の言いつけで噓を言った可能性が残る。その後老衰したため証言は取れぬな」
「周りのひとからは?」
「患者の個人情報を、さらにはタブーを言いふらしたと思うか」
「それは、そうか……。テラクィーヌ様が我が子を死んだことにするメリットなんてある?」
「テラス様の状況と似たようなものといえば解るか」
「っ、暗殺を警戒した?」
「誰に狙われていたかは知らぬ。が、主神候補が二人なのだ。それに絡んで神界宮殿の実権を握りたがっている者が現れたとしてもおかしくはない」
現に、テラスを暗殺しようとした議会の動きがある。
「じゃあ、テラス様の追放はテラスプル様を祭り上げた議員の陰謀だったってこと?」
「そこまでいわぬが無関係とも考えにくいな。テラス様を亡き者とすれば、主神の血を継ぐ者はテラスプル様ただお一人となる。実権を、早早に握ることができる」
「チーチェロ様への疑いも込みでテラス様を追放しておいて、今度は妹を祭り上げるって。実権を握りたがってるのは議会に決まってるけど、節操がないにもほどがあるんじゃないの?」
「同感だがな、テラクィーヌ様ほどの威光をテラスプル様が持ち得たとしたら」
「本人はまっさらなわけだから七光りの恩恵も授かりやすいわよね。それも計算に入れてるわけか……、議会の連中が考えそうなことよね、これ」
「いつテラスプル様を見つけ出したのか、テラス様の存在を隠したか、それとも伝えた上で主神になることを求めたか、そういった交渉事にも時間と手が込んでいるだろう。各地での捜索や交渉……、議員の能力の及ぶところといえばそうだな」
カインの言い方は、少し引っかかるものであった。
「プルさんは、騙られているんでしょうか」
と、テラスは気になったことを訊いた。「妹のプルさんなら、わたし、会いたいです……」
追放されたのは自分の能力不足と考えて割りきっているテラスである。充実し、まだまだ先のある今の生活から離れるつもりもない。ただ、それと実妹との再会は別問題だ。
「プルさんならいい主神になります。きっと忙しくなるでしょうから、できればその前に、一目でも会って、どうしていたのか、お話を聞きたいです」
「『テラス様……』」
うなづくカインとカクミであるが、
「偽物という可能性もまだあります。テラス様のお人柄は議会も知るところ」
と、カインが難しい顔で懸念を伝えた。「テラスプル様を祭り上げ、テラス様が下心なく接触を求められることも込みで、誘い込んでいるのやも」
「暗殺の舞台を宮殿に移してるわけか。今度は村民なんかじゃなく──」
「宮殿騎士団に任せるつもりであろう」
「あたしの元部下を暗殺なんかに……どこまで腐ってんだ、あの連中!」
「カクミさん、落ちついてください」
カインとカクミの考えたことはあり得る危険性であるが、事実ともいいきれないのである。その段階で行動を決めることもないだろう。
「機を待ちましょう。カインさん、探りを任せていいですか」
「無論です」
と、カインが応ずる。
テラスプルが議会の操り人形になっていないとは考えにくく、自発的に動いていないなら助け出すことを視野に入れなければならない。
「村民による暗殺未遂以降テラス様を害する動きはありませんでしたが、テラスプル様の威光を盾にそんな動きが激化する危険性があります」
「プルさんに限って、そんなことを許すとは思えませんが……」
「飽くまでテラスプル様、いいえ、『主神』の威光を盾に議会が先行するのです。テラスプル様のお気持と合致しなくても、実行は不可能ではありません」
テラスが主神だった頃と同じ体制なら可能なことだ。主神は議会の決定を公に伝える役割を持つだけで、議決を左右することはできないし、決定に逆らうこともできない。村民の弱みに付け込んで暗殺を促したような議会ならテラスプルの気持を無視した議決を行ったとしてもおかしくはない。その皮切りがテラス追放の決定であったのだとしたら、テラスは、テラスプルの不幸に一枚嚙んでいたも同然だ。
「プルさんに、わたしを殺めると公に発せさせてしまうのだとしたら……」
「自分にも責任があると?」
カクミが苦笑した。「そうだとしても、一番悪いのは絶賛暴走中の議会でしょう。無闇に責任しょいこまないでください、テラス様なら簡単に潰れますよ、筋肉痛なんでしょ?」
「う、はい……」
歩きづめであるから、ここ一箇月毎日筋肉痛だった。
「調査とかはあたしやカインに任せてくださいよ。今日はテストなんでしょう?」
「はいっ」
「テストというか、試験だがな」
「同じじゃん」
「う〜む」
村民には受け入れてもらっている。それを一つの結果として評価することは大事だが、さらなる行動と結果もまた大事だ。モカ織に携わることができないのでは、名ばかりの主神だった頃と何も変わらない。正式な摘師としてモカ織に携わるため試験を受けることとなっている。これを突破し、微力でも力添えして、村にしっかりと貢献せねば。
「プルさんのこと、とっても気に懸かります。カインさん、カクミさん、新しいお客さんのことも難しいと思いますが、どうか、よろしくお願いします」
「ドーンと任せてくださいっ」
「お主がいうと爆弾に火を点けるようでうまく行く気がせぬが」
「火が広がっては事です!水を撒かなくてはいけません!」
「喩えなのでバケツを持ってこなくても──、って、もう持ってきましたか……」
バケツを取り上げたカインが、慌てたテラスを落ちつけ、「テラス様は村民ゆえ村を出られません。村外の事柄はわたくしどもにお任せください」
「はい。頼りにしています。ところで火は、」
「ありません、なのでご安心を」
掟を破ってまで宮殿に出向くという選択肢はない。掟の解釈が是正されても、森から出てはいけないという内容と意味合はそのままなので、項目が削除されない限りテラスが村を出ることは許されないだろう。
「わたしはテストを頑張ります」
「わたくしは早速調査に向かいましょう」
「あたしは寝る!」
カインとカクミは三六時間以上の労働のあとに眠る。体が持っているのは強靭な肉体と精神のお蔭だろう。
玄関で見送ってくれたカクミに手を振ったテラスは、東の森までカインと歩いた。カインが村外へ走り去ると、摘師の師匠であり試験官を務めるカオルが現れた。
「カインさんがいたようだね」
「はい。外の様子を調べに向かってくれました」
「テラスさんの警護や新しい顧客の獲得に調査業務、か。忙しいのはいいことってよくいうけどね、カインさん達は忙しすぎるね」
「……カオルさんもそう思いますか」
カインとカクミは、テラスのお客としてモカ村に逗留中という扱いである。掟に従わなくてもいい立場で自分の意志に従って働いているとは言え、体の限界に抗うようにして働きづめというのは毒だろう。
カオルがにこやかに言う。
「ただね、ひとにはやらなきゃならないときが必ずあるものさ」
「やらなきゃならないとき、ですか」
「ああ。それがテラスさんを暗殺する、なんてことなら止めるべきだった」
「……」
「だが、そういうことでもないなら、自分ができる範囲でしっかりやらないとね」
「田んぼや畑を作るのと同じようなことですか」
「そう、テラスさんが手伝ってくれて、ウサギュマや〈モカモ〉達が悦んでいるよ」
モカモというのは田畑の害虫を食べてくれるカモのことで、ウサギュマと同じようにモカ村で飼われている。テラスは修業の傍らカオルから田畑の仕事や動物の世話も教わっている。村民・動物双方の糧になる野菜は年二度水田で育てる米と並んで村を支えているので、それらの世話をすることで主要産業たるモカ織に携わる前から村に貢献させてもらえた。村民だけでなく動物達も悦んでくれているようなのでテラスは嬉しい。
「テラスさんの心身を守り、テラスさんが嬉しいと感じてくれることを続けられるようにするのが、カインさんやカクミさんには何より嬉しいことなんだ。だからね、テラスさん」
「はい」
「試験、頑張りなさい。あなたが今やらなきゃならないことは、立派な摘師になることだ。それが、あの二人の悦びになる」
「──はいっ!」
カインとカクミの努力に応えたくもあるから、結果を残したい。
「カオルさん、試みの内容を教えてください」
「いいだろう。よく聞きなさい」
カオルがテラスの横に並び、森を指差した。「摘師が常日頃やっていることをそのままやってもらう、それが今回の試験だ。今から森に入って、染師が必要としている木の実を集めてきてもらうよ」
摘師が採取した木の実を染料として布を染め上げる、それが染師である。摘師が採取すべき木の実は染師からの指定で決まることが多く、指定通りに集められなければ分業制であるモカ織はその時点で作業が停滞してしまう。摘師の仕事、また、今回のテラスの試験は、指定通りまたはそれに極めて近い木の実を集めることである。
「今日の染師が必要としているのは『中明度・中彩度の橙色を二%』と『低明度・高彩度の青色と紫色をそれぞれ四%』、それから、『高明度の白を六%』だ」
「高明度……」
「怖気づいたのかね」
カオルに付き添ってもらっていたこれまでも入ったことがない外層に、高明度の出す素材があるとテラスは教わっている。カオルが纏めた秘伝の素材図鑑でどの素材が当て嵌まるかはすぐに察したが、実際に採取できるかは発見できるかどうかに懸かっているだろう。なお、白から黒は明度のみの色であるため彩度の指定がないことをテラスは勉強済みである。
「素材採取の途中に致命的な傷を負っても素材だけは染師に届ける。摘師は、そんな役割だ。村のために、命を懸けてもらうよ」
魔物除けを頼りにこなす危険な仕事。魔物を斃す力があるだけテラスは有利とさえいえる。怖気づいていては、摘師の先人に申し訳ない。それに、これはカクミやカインに守られているテラスに取って、彼女達に頼らず力と度胸をつけるチャンスでもある。
「いうまでもないが危険な試験だよ。摘師でも、外層まで入れる者はわたしを入れて数人だ。けれどね、だからこそあなたにはこれをクリアしてほしいと思っている」
「期待してくれているんですね」
「テラスさんは、村の未来そのものだからね」
「村の、未来──」
正しく変化し、長く続いていく村。
「決意が固まったら森へ踏み出しなさい。予め言っておくと、テラスさんは座学が優秀だから『白』がなくても合格ラインだよ」
「解りました。……」
試験の意味はなんだろうか。合格することが大前提だが──。
「わたしも仕事があるからね、お先に失礼するよ」
「お忙しい中、ありがとうございます」
「そっちも気をつけるんだよ」
「はい」
テラスとお揃いの小瓶を腰に下げたカオルが素材籠を背中にしょって森へ入っていった。植物を踏み荒らさないよう最小限の足運びで奥へ向かっていく背中は、ウサギのような機敏さと身軽さである。
あそこまでの身のこなしはできないテラスだが、決意はとうに固まっている。
……わたしも行きましょう。
カオルからもらった小瓶に魔物除けの練薬が入っている。一旦取り出した練薬に火打ち石で点火、漂う煙で魔物を寄せつけない。太陽が四五度ほど動く──およそ三時間──までが効果持続時間であり、往復することを考えると半分以上の時間を残して木の実採取を終えておくのが理想的だ。
持参した素材籠を背中にしょって、いざ森へ。
……今日もいい香りです。
森独特の草木と土の香りを感ずると、修業を想起して体の内側から緊張感が張りつめると同時に、村に貢献できることへの悦びが湧き上がって心が和らぐ。
モカ村の樹木は根が強い。その根を頼りにして歩く〈根上探索〉なら植物群を荒らしたとしても最小限で済む。また、枝をぶら下がったり枝と枝を跳び移ったりして移動する〈枝間跳躍〉も行う。どちらの移動手段も足下を見下ろせば目的の木の実を見つけやすくなるため、摘師として非常に効率的な移動方法である。正式な摘師は枝間跳躍を行うことがほとんどだが、そんな芸当ができないテラスは根上探索がメインだ。
移動に集中し、嗅覚と聴覚を働かせる。
……今日は静かで、少し湿っていますね。
魔物除けの煙が届く範囲は限られ、魔物と絶対に遭遇しないというほど絶対的な忌避効果もない。動くものがいないか聴覚で広範囲を捉えて常に警戒し、遭遇しそうになったら逃走・討伐などの判断を早期に下せるようにする。湿度は木の実の落ち具合や鮮度・発色に影響するので採取時の参考にする。急激に湿度が上がるようなら枝や根の湿潤や露・雨に注意、事故を防ぐため手足を滑らせないようにする。事故といえば、ときたま樹液に手や足を取られることもあるのでベタついたら炭の粉末をつけておく。つけすぎると枝や根を傷つけたり、逆に滑りすぎることもあるので適度につけるとよい。
……あ。
枝を跳び移れないテラスなので根を渡り歩くが、外層目前で「中明度・中彩度の橙色」を出す木の実が見つかった。草の生い茂った中にあるので、根の弱い草株の周りを踏み固めないようにして歩み寄り、素材籠をひっくり返さないように膝を折って屈んで、木の実を拾う。
……こんっ、こんっ、──と、これならいいですね。
木の実を指で叩いて乾き具合を確認する。……よく乾いています。
モカ織の素材は乾いているほど色が鮮やかになる傾向がある。だからといって鮮やかなものなら薄められるからいいということではない。モカ織は自然発色が前提であるから、素材に含まれた水分以外で色を薄めることができない。ほかの素材を混ぜて彩度を下げることはできるが変色しやすくなるため指定された彩度の同じ素材を集める必要があるのだ。一方、素材に含まれる水分が多くなると色素が抜けたり色が薄まって別の色になってしまうこともあるので、水分量を見極める必要がある。中彩度の採取が試験に出されたのは、含水量の見極めが難しいからである。
……ほかにもたくさん落ちています。
カオルが色指定のあとに言っていたパーセンテージは、摘師が規格統一した素材籠の全容量を一〇〇%としたときの採取量を示す。橙色を出す木の実は二%とのことだったので、大きさからして三つもあれば十分だ。地面にたくさん転がっている同素材には手をつけない。それを食べた動物が自然の肥料を作ってくれるので、森を育てるために摘師は指定通りの量を採取する。動物の増殖を後押ししてしまうこともあるので採取量を増やすこともあるが、今回はそういった指示が出されていないので指定されたもののみだ。
一つ目の素材を集め終えたテラスはいったん道を引き返した。次の木の実は西の森にあるので村を横断したほうが安全かつ短時間で移動できる。
村に戻ると採取済みの木の実を自宅玄関の日陰に置いて、西の森へ踏み込んだ。
……次は低明度で高彩度の青と紫でしたね。
低明度素材は内層のどこにでも観られるものだが、先にも触れた通り彩度は水分量に左右されることの多い要素であるから、素材の見極めが大事になる。橙色を出す木の実があった東の森と正反対で、青色や紫色は西の森で採れる素材だ。カオルがそれを求めたのは、東西どころか東西南北あらゆる方角の素材を採りにいくことが要求される仕事であるから「正反対の方角くらいは時間内に移動できて当り前」という考えがある。時間短縮を狙った森の横断や素材の発見と見極め、それらも考慮すると時間に余裕があるわけではないので全身筋肉痛ではかなりシビアな道程であったが、それが苦にならないテラスであった。
……ありました。
西の森に入ってすぐ青色の素材を見つけた。……が、これは、湿っていますね。
求められたのは低明度・高彩度。低明度は内層の村寄を探せば簡単に見つかるが、しっかり乾いていないと高彩度が出にくい。草陰に隠れた木の実をいくつも拾ったが、全体的に湿っている。
……夜、雨の音がしていたとカクミさんが話していました。
今日はその雨の影響で寝起きから森の香りを強く感じていた。 東の森は乾いていたが、西の森は降り方が激しかったのか、土がぬかるんでいる。
……泥を被った木の実は傷んでしまうんでした。
傷んで鮮度が落ちた木の実では青系の発色が悪くなるので鮮度がいいものを選びたい。浸かっていた泥に少しだけ色が移っているのが色素の薄まっている証拠。指定された色を出すことができないと推察できる。
……泥に落ちていない木の実となると。
テラスは頭上を観る。明るい日差に、丸いシルエットが観えた。
……同じ木の実ですね。
モカ織では熟した木の実を使うことでみだりに採取することを防いでいる。高い枝先に生った木の実を鳥獣が食せるように、と、いう配慮でもある。
足下を見回す。落ちている木の実は全て泥を被っており、条件を満たせるとは考えにくい。
もう一度、頭上を観る。
……条件に合いそうな木の実は、あれだけです。
村の者なら誰もが知る摘師、森を知り尽くした摘師、それがカオルである。そのカオルが出す試験であるからその日の状況に適さない試験を出すとは考えにくく、熟した木の実が全滅している可能性を見越していないとも考えにくい。
……ここは、枝から採る必要があるんですね。
むやみやたらでなければ枝から採ってもいいことになっている。これまでにテラスが高い枝から木の実を採ったことがないのも試験に盛り込まれた理由の一つだろう。
難しくなければ、試験の意味がない。
根の上を歩くことも慣れるまで大変だった。木登りも練習しているが完璧ではない。木の実を選んで採取するとなるとさらに難しい。テラスには達成不可能に近いほどの難題であった。
「乗り越えないといけませんね……」
大樹の幹は、ところどころ凹凸がある。出っ張ったところに足を掛けて登ることになる。いつかカクミが扱き下ろしたズボンを穿いているので脚が傷ついたりはしないが、テラスは運動能力に疑問符が付き纏うので落下の危険性は大いにある。それに、全身筋肉痛は大きな枷である。不完全な体力に頼って登ったら最悪は落下事故である。
……どうしたものでしょうか。支えのようなものがあれば、もしかすると──。
木の幹に手をついて考え込んでいたテラスは少し遠目に幹を観察しようとして、
「あ、あれ……」
手がべったぁ〜、と、「樹液が……」
足腰に力を入れると手が離れた。
「炭をつけないと。あ──」
テラスは閃いた。靴と靴下を脱ぐと、樹液を手足に塗りたくって、
「準備完了です!いざっ」
樹木の出っ張りにぺたっと。「やっぱり、足が吸いついて……、これならいけますっ」
自然との一体感(!)を感ずるが如く、べったべたの手足を出っ張りに掛けて、
「よいしょっ、よいしょっ──、うんしょっ、うんしょっ──」
上へ登っていった。樹液は大木の中腹辺りから流れ出ていたようで、そこまでは手足にべたつきを補給しながら進むことができた。
「ふぅ。たくさん登れました……」
木の実まで残り五〇メートル、下を見下ろしても五〇メートル。自然との一体感(?)で不思議と恐くはないが、落ちればただでは済まない。
「お腹が空きましたね……」
ここから上は樹液に頼りきれないので、せめてお腹を満たしておきたいところ。
……木に毒はないはずでした。
毒がなければ食せる。そう割りきるとテラスの行動は早い。
樹液をちゅ〜っと。
「ふぁぁ〜、おいしいです……」
カラメリゼしたように香ばしくて完熟の木の実のように甘い。地上五〇メートルの高所にいることを忘れそうになるほど、これがおいしいのである。手足につける分にはしつこいほどべたつくが、口に含んでみると案外あっさりしており疲れた体に染み渡る。
ふと、微風が吹いて、
(頑張って)
と、森の声が聞こえた。修業中もたまに聞こえた声は空気を伝って耳に入ってきているふうではなく、心の中の独白かのように聞こえてくる。
(ありがとうございます、頑張りますっ)
と、返事をするも向こうは別のほうへ意識が移っているのか、反応がない。いつものことだからテラスは自分のやることへ目を向ける。
「これならまだまだ登れそうです」
満腹とはいかないが、ひとときの休息に癒やされていく。
「あ、そうです」
テラスはまたも閃いた。魔物除けや炭粉末の小瓶と採取籠以外に容器がなく、手足に塗るには限界がある樹液だが、口に含んでおけば少しは持ち運べる。唾液が混ざっていくことを考えると長持もしないが、ないよりは確実に上を目指せる。
「もう少しお力を貸してくださいね」
(どうぞ)
と、森の声はマイペースである。
(では、いただきます)
花の蜜を吸う虫になったような心地で、ちゅ〜っ、と、できるだけ多く樹液を口に含んで、
(おいしいっ!これでもう少し頑張れます!)
鼻で深呼吸、上を向き、再び登り始めた。
一言に、過酷であった。カインやカクミが毎日洗ってくれる服が後戻りできない汚れ方をしていたし、その汚れが示すように体力をどんどん消耗して息が上がると、口に含んでいた樹液を少し飲んでしまって、登れる距離が短くなったことを察すると焦りが湧いた。自然との孤独な耐久戦であった。地上から見上げた木の実が確実に近づいてきている。ペースを乱せば体力が一気になくなることを解っているので動きに焦りを反映しないように気をつけて、着実に、安全に登っていった。地上八〇メートルの高さか、口に持っていた樹液がなくなり、八五メートルほどのところで手足のべたつきが木肌のざらつきに負けつつあった。すると、それまでのべたつきが噓のようにするすると手足が滑って自然との一体感は相反する疎外感のようなものに取って代わった。大木がテラスを跳ね除けるということはないが、自然落下を促しているようではあった。
……もう少し、もう少しなんです……。
ここまで来てなんの収穫もなく落ちたのでは努力が水の泡だ。
体力はとっくに使いきっている。疲労感に手脚が震えてやまない。大木にへばりついているだけでやっとだ。氷魔法で足場でも作ろうか。登る前にもそう考えてはいたのだが、氷を支える設置点が必要になり冷気で植生を乱す危険性があるので選択肢から除外した。唯一の得手を最初から禁ぜられていたも同然であるが、
……それでも、なんとか、しないとっ!
摘師にならなくてはみんなに尽くせない。村の一員には、程遠い。
……んぅっ。
ぱたたっと羽音がして、テラスの肩に小鳥が止まった。その衝撃が思った以上に大きくてテラスはバランスを崩しかけたが、
「あなたは──」
ひょっひょっ、ひょっひゅっ。
鳴声にも、姿にも、憶えがある。宮殿で餌をあげていて、モカ村への移住後しばらくして庭先に現れるようになった小鳥の一羽である。
テラスは、はっとして、
「小鳥さん」
と、上を見た。「あの木の実を六つ、籠に入れてくれませんか」
ひょっひょっ。
首を傾げて、尾をぱたぱたと振る小鳥。無言で見つめ合う恰好で数秒が過ぎた。
「ナイスアイデアかと思いましたが、いけませんよね」
さすがに都合よく採ってきてはくれない。言葉を解していたとしても食べてしまうのが落ちだろうし、木の実はそれなりに重いので、採れても落としてしまうか。
……ここから観て判りましたが、状態はよさそうです。
高彩度を出せる可能性が高い、ほどほどに乾燥した木の実だ。もう少し待てば、自然に落下すると観られるので、時間を掛けて地上でキャッチする手段もありかも知れない。
……、……。
ここから登る判断は、死に直結する。命を懸けてもらう、と、カオルはいっていたが、それで死んでしまっては本末転倒。見越した危険を回避できる自信がありその行動が必要であるなら踏み出せと説いているのであって、モカ織のために死ね、と、いう意味ではないのである。
……ここは、引き返しましょう。
青色素材の早期採取を断念せざるを得ないが安全のためには諦めが大事である。時間が押しているので合格ラインすら怪しい。ここで粘って挽回のチャンスを逃してはいけない。
小鳥を肩に載せたまま、テラスは木をゆっくり下り始めた。するすると滑る足と手。途中、ずるっと滑ってひやりとした場面もあったが、木の出っ張りを頼りにしてなんとか五〇メートル地点まで下りると、樹液の助けを借りて安全に引き返すことができた。
「あふぅ……、立派な摘師には、程遠いですね……」
肩で息をする。小鳥が木の実をついばんでいる姿を眺めると、八五メートル地点で粘らなくて正解だったことをなおのこと実感した。小鳥に頼っていたら体力が削られ、木を下りることができず、試験とともに人生が終わっていただろう。
「はぁ……はぁ……」
汗が零れ落ちて、服が重い。体力が尽き、歩くこともままならないが、まだまだ歩く予定があるので時間を掛けてでも休憩しなくては。
ちゅ〜っ。
樹液を吸って、
「生き返りますぅ……」
とは言っても、行きのように元気満満とはいかなかった。どうしても体が震えて、幹に寄りかかって呼吸するのが精一杯である。
一五〇万年超の宮殿生活。体を鍛える時間がいくらでもあったはずだが、体を動かすような仕事がなかったので目立った運動をしていなかった。そのとき必要でなくても、しておくべきだった。何事も、積極的に動かなければそれに対応する能力は鍛えられないということだ。
……これからは、もっと動かないと。
声が掛かったのは、呼吸が落ちついてきた頃のこと。
「テラス姉さま」
声の主は、隣の木の幹で器用に片脚立ちしているマイであった。彼女はテラスよりずっと年下であるが、摘師の試験をクリアしているので仕事上ではテラスの先輩に当たる。彼女に限らず村民全員と既に面識を得ているテラスなので、誰と会っても挨拶を欠かさない。
「マイさん、おはようございます」
「おはようございます。ひどくお疲れみたいですね。服もボロボロで、まさか魔物にっ!」
「いいえ、木登りをしていまして」
「なるほど、今日はテラス姉さまの試験でしたね」
「マイさんはお仕事ですか」
「ついでに飛ばされた洗濯物を回収してこいとお祖父さまにいわれまして」
と、マイが苦笑した。
マイの祖父コウジはモカ織の生地を織る職人〈織師〉であり、縫製を行う〈縫師〉でもある。祖母に当たるカオルが摘師・染師を担うことで、摘み、織り、染め、縫いの全工程をこなせるのがマイの一家である。マイはまだまだ未熟といわれているが、祖父母から全行程を学んでいるため産業への貢献度が現時点で高く、将来性もあるので幼くして立派に活躍する職人である。
「ありました」
と、マイが跳んだ先に、一枚の大きな布。それを拾って折り畳みつつテラスの隣に下りた彼女が目を丸くした。
「小鳥が休んでいますね」
「宮殿にも来ていた仔なんです。可愛いですね」
ひょっひょっ。
「テラス姉さまはウサギュマ達にもすぐに懐かれていましたし、村の子どもに加えて自然にも愛されるひとなんですね」
元主神というだけでも尊敬してくれる村民がいたが、その中でもマイはテラスを年上としても特別慕う存在である。
「テラス姉さまの試験、途中ですよね」
「はい。ただ、もうつまづいてしまって、──」
へたり込んだ経緯を聞いたマイが目を輝かせた。
「──、難しいことにも果敢に挑戦する……!やはり、テラス姉さまはすごいです」
「まだまだです。木の実を採ることができなくて、……」
マイの持つ布が微風に揺れる。「思ったんですが、マイさんの持つその布もモカ織ですか」
「はい、お祖父さまが折った布なんですよ」
繊維の色そのままか、仄明るい内層の中で薄黄色のように観えている。
「そちらを染めるとマイさんの着ている服のような鮮やかな色が出るんですね」
花の数数に深い藍色が対照的で、とても美しい仕上がりの着物だ。
「モカのみんなは自分や家族が作った服を着るのが普通で、これはお祖母さまが染めてくれたんです。お祖母さまは摘みだけでなく染めの技術も一級品なんですよ」
「新しい布は洗って干していたんですね」
「はい、染める前に一度。染めの作業中も必要に応じて洗いますね。これは次の作業の前にもう一度洗わないと……」
一部に泥がついてしまっている。不意にびゅうっと強い風が吹き抜けて、
「わぁっ」
ばふっと布が煽られたかと思うとパラシュート状に広がってマイが飛ばされそうになってしまった。
「テラス姉さま、ありがとうございます」
「いえ、いえ」
恰好よく片手で抱き寄せたりできればよかったが、マイの両脚に跳びついて顔から泥水に突っ込んで不時着したテラスである。その辺りに根の弱い草株がなかったのが幸いである。
起き上がると、
……広がる布──。
「テラス姉さま、どうせ洗い直すのでこれを使ってください」
と、布で顔を拭こうとしてくれたマイの手を止めて、テラスは閃いたことを口に出す。
「ごめんなさい、この布、試みが終わるまで借りてもいいですか」
マイがテラスの小瓶を一瞥、
「もしかして──」
「はい。洗って返します」
「解りました。頑張って、テラス姉さまっ!」
何に使うか察してくれたマイ。布を貸すと仕事へ出発した。
接地しないように布の端を三本の木に括りつけたテラスは、採れなかったあの木の実が布の直上にあることを確認した。
……落ちてくる木の実を、これで受け止められれば、帰ってくる頃に採れます。
そう思った傍から、丸いものが布に落ちてきた。ぽんっとバウンドしたが、それを見越して緩めに設置したので布の中に収まってくれた。
……うまくいきました!
木の実を地上で受け止めることを想定していたが、マイと遭遇しなかったらこんな手段は思いつかなかったし、布を持ってくるという発想もなかった。樹液を頼って木登りをし、疲れ果てて休んでいたことが幸いした。
休憩を挟み、状況が好転したこともあって、テラスは足が軽くなったようだった。
……慌てず急いで次です!
紫色素材を探して内層を北上。そちらは地面が乾いており、素材の質が低下していなかったため難なく必要量を採取できた。
残るは、高明度の白色を出す素材。試験の中で最高難度の採取対象であり、
……外層へ入らないといけません。
小瓶と風景を観る。……時間が、残りわずかですね。
練薬の残りと木の影で時間の流れを割り出せる。
青色素材を除いて順調に来たものの、筋肉痛に追打ちを掛けた木登りが祟って体力の全快を待つ余裕がない。内層に仕掛けた布で青色素材が六つ確保できているかもまだ判らないので、最高難度の白色素材に使える時間は三〇分ほど。仕掛けた布の回収に時間が掛かることも考えられるので、残りおよそ一時間というのは決して多くない。練薬が燃え尽きたら、本当の意味でタイムアップ──。それ以前に体力が尽きそうな予感もするが、その点も含めて早めに動いたほうがいいだろう。
魔物と遭遇してしまった際の懸念は残るが、テラスは外層へ向かった。
モカ村にやってきたとき以来、初めて入る外層。そこまで足を運ぶことに難はなかったが、
……この暗がりは、強い心が要りますね……。
対面したのは闇そのもののようである。空を雲が覆ってしまったのか外層に向かうにつれて内層も暗くなっており、樹木が密集する外層は折り重なった葉が光を遮ってなおさら暗い。息を吞む圧迫感に足が竦む。以前そこへ踏み込めたのはカクミが躊躇いなく突き進んでくれて、カインが後ろで守ってくれていたお蔭──、二人にどれほど助けてくれていたか、テラスは闇と対面して改めて実感した。
……立ち向かわなければ。
昼夜を問わず働いてくれる二人に報いるには迷いが邪魔だ。
ひょっひゅっ。
肩に載った小鳥が励ましてくれる。
「ありがとうございます。ついてきてくれるんですね」
ひょっひょっ。
……頑張ります!
テラスは練薬の残量を確認して外層へ踏み込む。内層・外層の境目の一部には渦状に纏まったロープが設置されており、これを伸ばして進むことで迷わず内層に引き返せる。
来たときもそうであったように、外層も草が生い茂っている。内層に比べると利用価値の低い植物が多いため踏みつけて歩いても問題ないとのことだが、根上より複雑な力が脚に撥ね返ってくるので今のテラスには軽視できないダメージになる。毒草もあり、皮膚・粘膜・傷口から毒成分が回ることもあるので、なるべく草を踏まないよう、また、転ばないよう木の根を頼りにして歩く。通り抜けようとした日に体験したことだが、暗がりもあって方向感覚が失われやすいのも外層の特徴である。ロープを伸ばしつつ進んでいるが、振り返ってみると横に大きく波打っており直進できていない。白色素材となる木の実は限られたところにしか生らないらしいので木を一本一本確認して進む。
……これも、違いますね。
黒い皮で、中身は真白という木の実だ。暗がりに紛れた黒い皮の木の実を見つけること自体がなかなか難しい。厄介なのは、モカ村の木がじつはどれも同じ〈ペンシイェロの木〉だということである。ちょっとした環境差で外見の色・形・大きさがさまざまに変化するので、まだ知らない木の実が存在する、と、カオルが話していた。
……あの種は、カオルさんも知らないようでした。
テラスが森の声から託された二〇角形の毬状種子。カオルを始め熟練の摘師や染師でも知らず、今は用意してもらった鉢に植えてテラスの自室で芽が出るのを待っている。同じ木しかない森で発見されたのに、ほかの木の実と明らかに異なる毬状の外見だ。外来種の可能性を無視できず、外来種と確認できたら同種の近くに植え替えてあげなくてはならない。
話を戻そう。この森は同じ木で構成されているために、木の種類で生る木の実を判別することができない。木をぱっと見ただけでは違いがないので、微微たる枝ぶりの差や生っている木の実を直接観察して目的の木の実を探すほかない。外層に踏み込んだ経験がないので、テラスは木の実を観察するしかないが、その木の実も色からして見つけにくい。まさしく最高難度である。これができなくても合格ラインとカオルが言っていたが、
……せっかくのチャンスです。
千載一遇とまではいわないだろうが、二度とない初めての試験。テラスは、挑戦してみたいのである。木登りからの採取もそうであったように、目的を達成できなくても、やれるところまでやってみたいのである。それこそが試験で最も大事な部分ではないか。自分の限界を知るために、自分の限界まで頑張る。そうでなければ、受ける意味がない。手抜きや手加減をしていては自分の力がどこまで通用するのか解らない。
テラスは、そのために一箇月勉強してきた。
黒い皮の木の実。食べると渋くて酸っぱいというその皮は黒色を出すのに使える素材の一種で、白色素材となる果肉部分とともにモカ織の貴重な素材だ。
……必ず、見つけます。
目を凝らして木を見上げて歩く。闇に眼が慣れてきて枝先を観ることはできたものの、木の実が少ない。日照・開花及び花粉の移動が少なく実が生りにくい環境になっている。
村民が他民と通ぜぬため森の中に暮らしていることを考えれば、手の及びにくい外層をあえて作っていることは明明白白であるが、外からやってきた他民が迷いやすい高密度の森林は弊害としてモカ織の素材の生育にも悪影響を及ぼしているともいえるか。ただ、白色・黒色・高明度などを出す素材が外層でしか採れないことを考えると、弊害も弊害とはいいきれない。密林状態だからこそ、そこでしか採れない素材が生まれている可能性があるからだ。下手に間伐を行って動物を含めた生態系が変化することでそれまで採れていた素材が絶滅する危険性があるなら、木の実が生りにくいという理由で外層に手を加えるのは誤った判断となるだろう。魔物が多く生息しているのが外層であるから悩ましい側面は残るが。
感覚を研ぎ澄ませて歩くこと二〇分強。湿気が増して、
サー……。
「雨が……」
天然の傘が囁いている。次第にぽつぽつと零れてくる雨粒に、頰が濡れた。
「っと」
練薬用小瓶に手を翳して雨粒が入らないようにする。火が消えたら魔物除けの効果がなくなってしまう。しかし、鎮火しなくても困った状況だ。
……雨降りには魔物除けの効き目が薄まるはずです。
雨に濡れて服が重くなっていくのも消耗しきった体には厳しい。
……早く見つけないと。
急く気を抑えて目を凝らす。なんとしても見つけ出し──、
……いいえ、これは、いけません!
素材籠の蓋を閉めて雨を除けていたが、それだけでは万全とはいえなかった。恐らく内層でも雨が降っているだろう。青色素材が泥に落ちていないとしても、雨に打たれて含水量が変化したら、条件に適わない素材になってしまう可能性が高い。
……ど、どうすれば──。
白色素材。これは、無論獲得したかったが、布を借りてまで採取を試みた青色素材を手放すのでは恩に報いることができない。さらには、青色素材から抜けた色で染みを作って染色前の布を台無しにしてしまう恐れまである。
……引き返しましょう。急いで!
テラスは踵を返した。小瓶に雨粒が入らないよう、また、転ばないように、ロープを手繰りながら足下に気をつけて駆け抜けると、思ったより距離を歩いておらず、すぐに内層に戻ることができ、青色素材の獲得を目指した布の回収に漕ぎつけた。急いだ甲斐があって布に染みがなかった。木の実の数が一つ足りなかったが短時間にしてはよく収穫できたほうで、雨に濡れた部分をタオルで拭えば目立った変質がなかったことも幸いである。回収した青色素材を体で庇うようにして運んだテラスは、先に採取していた全ての木の実と布を自宅に保管して森へ舞い戻った。
……時間はまだあります。
魔物除けの状態を観るに残り時間は三〇分を切っている。ここまでのようにうまい採取手段を閃いていないものの、当たって砕けるくらいの気持で挑まなくては手に入るものも手に入らないとは青色素材のときに勉強した。白色素材を諦めるには早いのだ。
……そういえば、小鳥さん──。
外層から引き返したときまで肩にいてちょくちょく鳴いていた小鳥が、テラスの遽しさについていけなくなったか姿を消していた。雨を嫌ってどこかで雨宿りしている可能性もあるか。
……風邪を引いてもいけません。ゆっくり休んでください。
低体温で雨にずぶ濡れのテラスであるが、普通の動物が体温を奪われると危険であることくらいは知っている。肩に載っていてくれるだけでじつはとても心強かったことを、外層を再び前にしてテラスは思い知った。
……煙の効き目、ちゃんとあるでしょうか。
今度は小鳥もおらず、独りだ。不安になる。……でも、進まないと。
迷っている時間がもったいない。タイムアップはデッドライン。試験の結果がその時点で決まるという意味だけでなく、魔物除けの効果がなくなり文字通り命に関わる事態に陥ってしまう。巨大ヘビ以降、一度も魔物と戦っていないので魔物討伐の腕を磨いていないというのも不安要素だ。魔物除けが効いているあいだに可能な限りの探索をこなさなくては。
決意を新たに、ロープを伸ばして外層へ踏み込んだ。暗がりに雨粒が滴り落ちていく。空は暗く、森は闇そのもののようであるのに、なぜだろう、わずかな光を集めているのか、雨粒が煌めいているように観えた。
……これは──。
不思議なことに、雨粒の煌めきに照らされるようにして、いくつかの木が光っている。木肌が光っているのではないが、闇の中ではあり得ないほど浮き立っていたのである。光っている木に手をつき、煌めきの軌跡を遡るようにして頭上を観ると、木の実がある。
……濃い紫です。
低明度の紫色素材に観えたが、……色が、変わって──。
雨の滴る木の実は、紫色から変色して、
……高明度の、青ですね。
染めのときに色が変わるのかも知れないが、観た限りでは、カオルの図鑑に載っていた高明度青色素材の木の実と同じ色だった。つまり、木の実はもともと低明度の素材であって、雨に打たれることで高明度の素材に変化している(?)それだけなら内層でも起きそうな変化である。それに、闇に浮き立つような木、これはなんだろうか。不可思議だ。
……木の実が煌めいて、まるで星のようです。
森を見上げてそんな感想を持つことになるとは思いもしなかった。
「とっ、もう少し奥へ……」
ロープを伸ばして、伸ばして、伸ばして、光る木を一つ一つ確認していく。どれも外層でしか採れないといわれる高明度の木の実が生っており、一部は雨に打たれてもいなかった。木が土中から雨を吸い上げて木の実を高明度に変化させたことも考えられるが、それならところどころに見かけられる低明度のままの木の実に説明がつかない。
……この森は、じつに不思議ですね……。
と、悠長に感心している場合でもないか。白色素材と成り得る黒い皮の木の実がまだ見つかっていない。
……森の観察は、摘師になったらじっくり進めましょう。
モカ村の仕事に携わる愉しみに、森の観察という新たな愉しみを見つけたテラスである。
……さあ、木の実を見つけましょう。
意気込んだ瞬間、
じゅっ!
と、嫌な音がした。
「ほ……」
恐る恐る腰許を見下ろすと、小瓶から煙が出ていない。──テラスはロープを手繰って一目散に外層を抜けた。なんとかロープ置場に到着したが内層でも魔物に襲われる危険性があるので休まず脚を動かした。疲れた体は感覚が鈍る。聴覚・視覚・嗅覚、利用できるものは全て使ってモカ村まで走りきった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
気づけば雨がやんでいた。地べたにお尻をついて、両手を泥んこにして、座り込んで休む。
瞼を開き、木洩れ日で察する。
……もうじきタイムアップですね。
採取作業を行う時間は、もうない。
終わってみれば、採取できたのは一四個。指定四種のうち、指定数に達したのは二種類、数の未達成が二種類。テラスの観た限りでは木の実の品質は完璧であるが、条件に合ったものかどうかはカオルの判定によるだろう。
「お疲れさま」
と、村のほうからやってきたのは試験官たるカオルである。息が整ってきたところなので声こそ発せられるが、疲れきったテラスは立ち上がれない。
「カオルさん、摘師のお仕事が終わったんですね」
「ああ、ちょっと前にね」
なんという機敏さか、カオルが採取籠を示して、「余った素材を森に還しに行くんだよ」
「あ、あの……」
「解っているよ、試験だろう」
カオルが力強い手で頭を撫でてくれた。「採取した木の実は家にあるんだろう。そこで待っていなさい、すぐに戻って確認するよ」
「はいっ、お願いします……」
森へ入っていくカオルを見送ったテラスは、震える手脚で四つん這いになって、木の幹を頼りによたよたと立ち上がると、溜息のような深呼吸で体を引き摺り自宅へ向かった。
試験中も感じていたはずの筋肉痛が今になって物凄い重さで全身に伸しかかって、気を抜くと倒れ伏しそうだ。疲労感が全神経を爛れさせるようでもある。これらは頑張った証拠でもあるがどこからともなく重い考えが湧いてくる。合格は厳しいだろう、と。さまざまなことを前向きに考えられるテラスだが明らかに合格ラインを満たせていないことを理解している。よろよろと自宅に戻ると、集めた木の実を一つ一つタオルで拭って、採取籠に入れ直し、品質の再確認をする。劣化はしていない。けれども数が足りない。また、指定されたものが半分も揃っていない。熟練摘師のカオルなら遠目でも一瞬で合否を下すだろう。
……これが、今のわたしですね。
みんなに守られていたテラスの、これが限界だ。目を背けても結果は変わらない。力不足を自分で理解しているから、木の実を隠しても意味がない。玄関に敷いたタオルの上に、一つ一つ、並べる。
……、──恥じることは、ありませんでしたね。
思い上がった挑戦だとしても、挑戦できたことは大きかった。少し前のテラスは摘師になろうとも思っておらず、それが村民への貢献に繫がるとも考えていなかった。すると、以前の自分が何も考えていなかったのではないかとすら思えて恥ずかしかった。今はそうではない。合格はできなくても、また次の機会を得て、挑もうという気持が湧き出し始めている。
……そうです。ちゃんと帰ってこられました。
村に戻ってくることすら少し前のテラスならできなかっただろう。宮殿の外に一人で出たことがなく、箱入り娘もいいところだった。みんなに残念な結果を知らせることになるが、カクミやカインが新規顧客獲得のために駆けずり回っているように、挑戦し続けることを諦めたくない。いつか必ず手が届くと信じたい。
「……ん」
早く、みんなの期待に、応えたかった。
それが、本音だった。
息を殺し、瞼を固く閉じる。
……あとで、マイさん達にもお礼を伝えましょう。
忙しい中で時間を作って試験官を務めてくれたカオルにも、テラスの挑戦を受け入れてくれた村のみんなにも、感謝を。
「──……」
呼吸を止め、天井を見上げて、しばらく、どこでもないところを見つめた──。穏やかな木と炭の香りが漂う、ティンクがくれた我が家。
木の実を再び見つめたテラスのもとに、カオルが訪れた。と、疲れた体を吹っ飛ばすような勢いでぱたたっと小鳥が飛び込んできて、テラスの肩に止まった。
ひょっひゅ、ひょっひょっ。
「カオルさん、お帰りなさい。小鳥さんはカオルさんと一緒にいたんですね」
「テラスさんの家の玄関先にいたんだよ」
「そうなんですね。あ……、その」
「皆までいわないの」
カオルが玄関を閉めてテラスの座る板間に腰を掛け、タオルの上に並んだ木の実を観た。
「指定した基準通りに、見事に木の実を選び出したね。ここへ来て一箇月とは思えない素晴らしい眼だよ」
「……ありがとうございます」
「数が足りないね。指定した素材が揃っていない。残念だ」
「はい」
テラスは結果を吞み込んだ。「わたしの力が足りませんでした。マイさん、ひいてはコウジさんからこの布を借りてまで集めたのに、報いることができませんでした」
「なるほど、布が木に渡されていたのはテラスさんの仕掛けだったか」
カオルが一部経過を観ていた。「そのときの状況に応じてきちんと対応したのは偉いね」
「雨で濡れないよう早く片づけることになって、数を集められませんでした」
「そんなところだろうね。しかしテラスさん、顔から爪先まで全部泥塗れだね」
「あ……、すみません、こんな恰好で待っていて──」
合否を聞くような恰好ではなかった。結果が判っていたとしても、気持を示すように綺麗にしておくべきだった。
カオルが笑って許した。
「いいんだよ。駆出しの頃はみんなそんなものさ」
「え」
「自分が泥塗れになったとしても木の実が一つ一つ綺麗にされているね」
「質が変わってしまってはせっかくの木の実が台無しです」
「そこが解っているなら採取手段の閃きといい技術を疑う余地がないね。小瓶を観せて」
「はい。どうぞ」
効果が途中で失われた練薬を、カオルが取り出した。
「雨に濡れたようだね。テラスさんが村に戻ってきたときには消えていたみたいだから、時間的には──、なるほど、無茶せずちゃんと引き返したわけだ」
「魔物に襲われて傷を負ったりしては村のひとびとを怯えさせてしまうかも知れません」
「そうだね、わざわざ危険を招いてみんなに心配を掛けるべきじゃない」
カオルが木の実を一つ一つ手に取って観察しつつ、テラスに質問していた。
「テラスさんはこの村を好きかね」
「はいっ。皆さん、とても優しくて、仲間想いで、ウサギュマさん達も元気で、森のように賑やかで、温かくて、大好きです」
「森のよう、か。嬉しいことを言ってくれるね。と、脱線だね、ちゃんと試験結果を伝えないといけない」
「はい」
「と、その前に最後の質問をするよ」
「っ、はい、なんですか」
カオルが見つめて尋ねたのは、
「テラスさんはこの試験、不合格と考えているかい」
「はい」
「迷いがないね」
「カオルさんが訪れるまでに、いろいろと考えていました。森の中では思いもしないことがたくさん重なって、カオルさんとともに入っていたときのようには木の実を集められませんでした。魔物除けを濡らしてしまったのも、雨除けの備えが足りませんでした。もしも魔物に追いかけられていたら、村の皆さんが危ない目に遭っていたと思います。わたしは、摘師の域に達していません」
「もう一つ、質問ができた」
「はい。なんですか」
追加の問は、険しい表情で放たれた。
「まだ試験に挑む気持はあるかい」
カオルに問われるまでもなく、テラスは自分から望んでいる。
「まだまだできない見習いですが、機を与えてほしいです」
「そのボロボロの体で」
「はい。体を引き摺ってでもやり遂げます」
みんなの期待に応えたい。応えられないのが悔しいから何度だって挑んで、何度だって合格を目指す。それに、
「少し、解ってきたんです」
「何をだい」
「樹液がおいしかったんですっ」
「ん。ああ、前に教えたね」
「疲れた体に染み渡るようでした。大きな木は星さんのようにわたしを受け止めてくれて、ときに厳しくも樹液で守ってくれました」
「ほぉ、そうなのかい」
「はい。……森が、とても愉しいです」
カオルとともに森で学んだことも多いが、一人で挑んだ試験の中で学んだことはそれにも増して沁み渡った。
「とっても難しいお仕事だと解りました。でも、とっても不思議で、愉しいお仕事だとも思ったんです。わたしは、だからいくらでも挑みたいです」
受け入れてくれた村民と村への貢献。それを考えて摘師になることを目指したテラスだが、気づけば、摘師の仕事の愉しさに目覚めていた。ひとのためになり、自分のためにもなるのだから、一石二鳥だ。
険しい表情だったカオルが、ふっと頰を緩めた。
「一つね、ワタシは心配していたことがあったんだ」
「カオルさんの憂い。マイさんやコウジさんのことですか」
「っははは、そちらも勿論心配しているよ。でも違う。言いたかったのは、テラスさんのことさ」
「いろいろ教わったのに、できないままですみません……」
「いや、」
にこりと笑ったカオルが、泥塗れのテラスの頰をそっと撫でた。「こんなに小さな子なのにね、ひとのことばかり考えて、自分のことは後回しにしているようだったから、何か、愉しめることができないかと思っていたんだ」
「──、わたしが、愉しめることを」
「そう。ここは、モカ織以外に何もない村だ」
カオルが申し訳なさそうに、「ワタシに教えられるのは摘師や染師の仕事くらいだし、ほかの村民だって似たようなものだ。そんな狭い世界で、テラスさんが心から愉しめるものができるかどうか、正味な話、不安だった」
卑下するようなことはない。テラスは、そう思っている。
「モカ村は、とってもいい村ですよ。外から来たわたしを受け入れてくれました」
「……、それは逆だよ」
「どういうことですか」
「テラスさんがね、ワタシ達を受け入れてくれたからだ。暗殺の件、本当に、……本当に、申し訳なかった……」
木の実を置いたカオルがテラスを見つめている。その眼には強い謝意が宿り、同時に決意が漲っている。
「合格だ」
「……え」
「試験結果だ。受け取りなさい」
「っ──、でも、」
唐突に告げられた試験結果にテラスは目を白黒させる。「始める前にカオルさんが示してくれたラインに全く達していません。罪滅しの決なら正しいものとはいえません」
「こっちも誇りを持ってやってきた仕事だ。採点に加減はないよ」
カオルがまじめに語る。「テラスさんは摘師として大事なことをちゃんと理解している。可能な限りの手を尽くして仕事をしつつ限界を見極めて時間内に手を引くというのは、存外難しいものだよ。テラスさんくらいの歳だと欲張るのが普通だしね、合格が掛かっているからなおさら欲が出る」
「そういうものなんですね」
「ワタシもそうだったし、村のみんながそうだったよ。それにね、ワタシは、罪滅しなんかで生業を共にする仲間を選んだりしない。それで誤った判断を下して碌でもない者を引き入れようものなら、伝統に傷をつけることになるからだ。テラスさん」
「……はい」
ふんわりと笑ったカオルが、テラスの顔を拭った。
「よく頑張ったね。改めて、あなたを村に歓迎する。時間だけはやたらとある村なんだ、ここは。ゆっくりじっくり、経験を積みなさい」
「──はいっ」
目差からカオルの心を感ずるようで、自然と笑みが零れた。未熟でも、摘師としてみんなのために役立てる。できることからやっていける。いつか自分が望むほどの貢献ができるように経験を積めばいい。そのように教えてもらえたから、心が軽くもなれば、重怠かった体が悦びでほぐれもした。
「あ、そう、そう、これ」
と、カオルが黒い木の実をタオルに置いた。
「それは、白色を出す木の実ですね」
テラスがついに見つけられなかった木の実だ。「どこでそれを……」
「その仔だよ」
と、カオルが小鳥を指差した。「その仔が外で銜えていたから預かったのさ。どうやら、テラスさんに渡したかったみたいだね」
「この仔が、わたしに……」
ひょっひょっひょっ。
目を交わすと笑うように鳴いた小鳥である。
「テラスさんは不思議な子だね。村の子にも懐かないウサギュマ達があっという間に懐いた。この素材だってなかなか見つけられないが、自然界を生きる鳥獣が力を貸してくれたようだ。あなたは物凄い強運か、そうでなければ、強い魅力を持っているんだろう」
「お父様の子だからでしょうか」
「それはあるかも知れないが、きっとそれだけではないと感じるよ」
木の実を一つ一つ採取籠に入れたカオルが、「これはもらっていっていくよ。ワタシが使う予定だったんだ」
「染師のお仕事ですね」
「ああ。一部残るだろうから、試験合格の記念品として返しに来るよ」
「ありがとうございます。いい思い出になります」
「テラスさんが頑張ったからだよ。望むままでなくても、強く願えば望みは叶うものだ」
カオルの言葉は、全力を出し尽くしたテラスの胸を全力以上の何かで満たしてくれた。
染師の仕事に向かったカオルを見送ったテラスは道具一式を綺麗に洗って干すと、自分のこともしっかり洗って、用意し忘れた服を取りに寝室へ向かった。
「あ──!」
日光に当たるようにと窓際に置いていた鉢植え。合格を祝うように、一つの芽が出ていた。
日差が象る天使の梯子が村を元気にする。
ちょっとずつ、少しずつ、確実に、一人でできることが増えてきた。鉢植えの芽を愛でるようにいつまでも観ていたら、起床したカクミに「下着くらい来てくださいよっ!」と叱られたりもしていつものように服を着せてももらったが、翌日から摘師としての仕事をもらえるようになって、筋肉痛と疲労感を押し退けるようにして仕事を愉しみ、カクミとカインに、それから村のみんなに試験合格のお祝いをしてもらえて、毎日が充実した。
その充実感を目に見える形にしてくれたのは試験の一週間後、早朝に家を訪れたカオルだった。その両手で差し出されたのは同じデザインの二組の着物であった。
「歓迎の印として、ワタシ達村民からテラスさんに贈ろう」
「これをわたしに」
「モカ織だ。ワタシが染め、コウジが縫ったものだよ。村民の意見を纏めて作り上げたから、デザインなんかはみんなの総意さ」
「……麗しいですね──」
紫から青のグラデーション。中央に際立つのは、朝日。その鮮やかさはほかの村民が着ているモカ織とは一線を画しているようだった。しかしながらなんの意味もなく派手にしているわけではないことを、テラスは使用された色からすぐに察した。
「この色は、試みの日に求められた木の実が出す色ですねっ」
「頑張って採った色は忘れないものだ。試験合格の証としても受け取ってほしい」
「わたしの、モカ織……。足りなかった木の実は、カオルさんが補ってくれたんですか」
「余計なお世話だったかね」
「いいえっ、とっても嬉しいです!」
着物をぎゅっと抱き締めると、機織りの村と森を聴くよう。
「それと、そのデザインには使用した色以外にも意味がある」
カオルが告げる。「カインさんから聞いたよ。『テラスリプル』とは神界の古い言葉で『明るい姫』という意味だそうだ。ご両親が心を込めてつけた名だともね」
「──」
闇を照らす朝日のように。両親のくれた名前が示すそれを、テラスは改めて見つめた。
「わたしはお日さまではありませんが、皆さんを明るくできるでしょうか」
「できるさ。ワタシはテラスさんと話しているといつもあったかい気持になるからね」
「本当ですかっ」
「本当も本当。いつもほっこりさせてもらっているよ」
カオルがモカ織の着物をテラスの体に当てる。「サイズは目測だったんだが、ぴったりだ。よく似合いそうだね」
「カオルさん、時が許せばお願いしたいことがありますっ」
テラスはモカ織に袖を通すことにした。カオルに着方を教えてもらい──案の定覚えられなかったが──着せてもらえれば立派な村民の風貌であった。
「これからはこの服でお仕事にも出ることにしますっ」
「テラスさんが毎日元気に過ごす姿、愉しみにしているよ」
そう言って、鏡を翳したカオルがにこにこと笑っていた。
村のひとびとの心が込められたモカ織。鏡に映った姿が違和感なく目に馴染む。村民の想いが詰まった服を受け取れたこと、それを身に纏えたこと、悦びは大きく、
ひょっひょっひょっ。
テラスの心を読んだように小鳥が唄っていた。
──五章 終──