一章 自由の身
惨憺を知らぬ無垢な笑みが歪むことになるのか。
そんなことを考えると亡き主神の死の真相を伝えようとする者は現れず、それはカインとて同じであったといえる。吸い込まれそうなほどの黒く丸い瞳に輝く黒髪、少し低い鼻、亡き主神と同じ特徴を数多く備えていたから余計に故人の面影を感じて口が開けなかった、とは、体のいい言訳であったか。
皆にテラスという愛称で呼ばれて、良くいえば大切に、悪くいえば過保護に、テラクィーヌとチーチェロの娘テラスリプルは育てられた。
南向きの窓は日差を取り込んでペン先を照らしていた。小さくも大きな言の葉は、読み返すこともなく机の引出しに収める。
澄み渡る空を見上げたテラスは、いつものようにのんびりと踏台を上がって石窓に腰を掛けて、やってきた小鳥にパンの切れ端をあげた。
「いい天気ですね」
ちょんちょん。ぴぃぴぃ。ひょっひゅっ。
それぞれの鳴声で応えてくれる小鳥を撫でてあげると、
「もっとちょうだ〜い」
と、テラスの脚にオペラグローブを纏った手を置く者がいた。小鳥ではない。「神」という種族が果してその呼称通りの存在かテラス自身が首を傾げないでもないが、テラスも脚に手を置いた少女も、紛れもなく「神」といわれる存在である。神の世界でも人型生命体を「ひと」と広く称しているので「人間」と大差ないのではないかと思わないでもない。
「テラス様ぁ、反応してくださいよ〜」
と、少女がじゃれてくる。宮殿騎士団で銃士長を務める猛者であるが、小難しいことを考えるのが苦手で仕事のストレスが溜まっているのかテラスの前ではいつもふざけている。本名が少し長いので、彼女がそうしているように、テラスも彼女を愛称で呼んでいる。
「カクミさん、ごめんなさい、ぼーっとしちゃってました」
「ぼーっとしちゃってもフォロしてくれればOKですっ。と、あ〜ん」
「あ、なるほど、あ〜ん」
「あ〜ん、って、あたしが食べさせるほうですかっ」
ノリで食べさせてくれてもいいが、「ダメですよ、その手には乗りません」と、食べさせてはくれない。「テラス様如きの運動神経であたしの瞬発力に敵うと思ってます?」
「わたしは歩いていてもこけちゃいます」
「敵いっこなしでしょ」
「走ると顔から床にこんにちはです」
「前は壁にやってましたしねぇ」
石窓に並んで座ったカクミが、小鳥の頭を撫でる。「食事の準備なら食堂で済んでますよ。一緒に行きましょ〜」
「解りました、行きましょう」
「ちょーっ!」
石窓から下りて部屋を出ようとしたテラスの手をカクミが慌てて引いた。「服、服!」
「あわっ、そうでした」
テラスは姿見の前に立って万歳、後ろに立ってワンピースをするっと着せてくれたカクミに会釈した。
「今日もありがとうございます、カクミさん」
「いいえ〜、大したことじゃないですから」
「では──」
「ちょーっ!髪、髪!」
「あわわ、そうでした」
ドレッサ前に座って、髪を梳いてもらったテラスは、さらに「ちょーっ!」を三回ほど聞いて立派な主神の姿で食堂へ赴いた。そこは、カクミの部下でも一握りの実力者が万全の警備をしている。豪奢なシャンデリアや大きな窓に照らされた数数の調度品と美しいクロスに反して、大きなテーブルの使用面積はテラス一人分である。
亡くなった父。
遠くで暮らしているという母。
二人がいない代りに、カクミ達が見守ってくれているとテラスは毎日感じて、
「いただきます」
両手を合わせて挨拶。ナイフとフォークを手に取る。一流のコックが作った料理の数数は、彩色・栄養・味に至るまでバランスがよく、飽きも来ず、一口で幸せな気分になれる優れものである。
「カクミさん達も一緒にどうですか」
「あたし達は先に食べたんでOKですよ」
先程カクミがパンをほしがっていたのはお腹が減っていたからではなく、テラスと触れ合いたかった。それなら一緒に食事を摂ってもいいのに、組織図的に主神の配下という宮殿騎士団は主神と食事することも許されないから規則は厄介だ。
一人で食事を済ませたテラスは、カクミを護衛役として宮殿議会に足を運んだ。開場時刻より早いくらいだったが、一五三名の議員が既に着席していた。議場中央に位置する主神用の席が、遠く感ぜられた。
「テラスリプル様がいらっしゃいましたので、これより採決に入ろうと思います」
「ちょっと待ちなさいよ」
主神席の後ろ、カクミが声を張った。「こっちは開会時刻に合わせてる。採決って何、聞いてないわよ」
「ご連絡申し上げたはずですが」
と、議長フルヤモントが両掌を合わせて険しい顔。「カクミルフィともあろう方がご連絡していない、あるいは確認していないと」
「いや、ちょっと、話が──、テラス様……」
動揺したカクミを、テラスは掌で制していた。議会が始まっていたのは事実のようだ。カクミの反論によって議決が妨げられ、民に皺寄せが生じてはならない。
「すみません、フルヤモントさん。採決をお願いします」
「……では進めます」
フルヤモントの声が重く響いた。
「議論『主神テラスリプル・リア・フリアーテノア追放』に関して採決を行います」
「追放って!」
「静粛に。退場していただきますよ、銃士長カクミルフィ」
「っ、テラス様……」
「見届けましょう」
「……、……はい」
追放。理解し重く受け止めたテラスは至って冷静だった。理由はいくつかあった。自分の意思で神界宮殿から出ることが許されなかったテラスは、民の意見を直接聞くことがほとんどできなかった。議員は各地区の代表者。彼らの意見は貴重な民の意見だ。それを聞きたくて毎回議場に足を運んでいた。主神は体制や生活に係るあらゆる議決内容を公布するだけで決定事項に物を言える立場ではないが、民の意見を聞けることが何より重要だった。
「採決を。賛成の方は挙手を」
次次に手が挙がり、気づけば、「──満場一致ですね」
カクミが愕然とした。
「噓、でしょ……。こんなの、どうかしてるわ」
「銃士長、静粛に」
「黙れ!あんたら、テラス様がいるお蔭で──」
「民意を無視して発言していることをお気づきか」
フルヤモントがカクミを見据え、「議会は、民意で成り立っている。議員ではないあなたに発言権はありません。いうまでもないでしょうが、主神、あなたにもです」
「はい」
テラスはうなづき、一度だけ口を開いた。「わけだけ、教えてください」
「議事録をご確認ください。理由が解らないのだとしたら、こうなって当然でしょうが」
フルヤモントの刺すような目差は、議員のものと一致している。
震えていたカクミの腕をちょんちょんとつついて、テラスは議場をあとにした。見送りの拍手は盛大であった。
私室へ向かう。いや、追放が決まった時点で主神に与えられたものを全て失ったも同然であるから、私室ではなくただの部屋というべきだろう、そこへテラスは向かう。追いかけてきたカクミが、怒り半分で拳を握っていた。
「連絡なんか全然なかったのに……。なんなんですかアレ、議会の不正利用なんじゃないですか、マジで!」
「決まったことです。従いましょう」
「何いってんですっ、追放ですよ、追放!今まで我慢に我慢重ねてきたのに、いきなりこんなのって……」
不満しかなさそうなカクミだ。テラスはそんな彼女の拳を、花弁を広げるようにほどいた。
「逞しく美しい手です。笑ってくれると愉しいです」
「こんな状況でどう笑えと……」
「考え方一つで変わりますよ」
廊下を歩くと、宮殿内で働く者と擦れ違う。多くの者は気まずそうにしている。それはなぜか。追放の議論が行われること・行われたことを知っていた、または、議論の結果を知っていたか・知っているか、だ。何にせよ、皆がテラスの追放について一定の理解を示しているから「大丈夫ですか」の一言も掛けてこない。
「わたしが追放されればもっと世の中がよくなるかも知れません」
「んな馬鹿な」
「わたしは物覚えが悪いですから宮殿のお仕事に差障りがあったんだと思います」
「それは……」
カクミも否定しきれない欠点がテラスにはある。
「新しい主神は誰でしょう。きっとすごい主神さんですね」
「……テラス様以上の適任者は絶対いません」
「カクミさんなら素晴らしいです」
「いや、いや、あたし、肩書とか興味ないんで。それより」
と、カクミが先を歩いて問う。「どうするんです?引越しとか、しないとダメでしょ。運び出すものとかも見定めなきゃだし、そもそも引越し先だって見つけなきゃだし」
テラスは、物心ついたときには主神だった。何が自分のものかもはっきり判らないが、却って判りやすいではないか。
「引越し先は宮殿の外に出てから考えます。持ち出すものは特にありません」
「……」
振り向いたカクミが悲しそうだ。「先代、お父さんの遺品やお母さんの持物だってありますよね。一つ二つ、持っていってもいいと思うんですけど」
「思ってもみませんでした」
「だったら、」
「外に持っていけるものならきっと役に立つ品物です。カクミさんは足が速いので、ひとのために宮殿で使ってもらえるように伝えてください」
「テラス様……」
「お願いしますね」
「……はい」
嬉しそうな、悲しそうな、微妙な表情のカクミの護衛もこれで最後。元私室に到着すると、
「カインさん、おはようごさまいます」
「おはようございます」
テラスの服をテキパキとバッグに収納しているカインに、カクミが右手の銃を向けた。
「勝手に部屋ぁ入り込んで下着漁ってんじゃないわよ」
「変な言い掛りをつけるでない。テラス様のパンツなどオムツも同然であろう」
「ドン引き」
「興味がないといっておるのに理解せぬか、軽妙銃士」
「家捜しみたいなマネしてるから悪いんでしょ、ヘンタイ若作り」
「身支度だ。して、若作りでなくほぼすっぴんだ」
テラスはバッグを覗く。
「ありがとうございます。さすがはカインさんですね、綺麗に収まっています」
「お褒めに与り光栄です。日用品の類も調達しましたので、これで一箇月は暮らせましょう」
「ちょっと待て、あんた……」
カクミがカインの側頭部に銃口を突きつけ、躙る。「なんでそんなに準備がいいのよ。まるで、こうなることが判ってたみたいじゃない。あんたまでグルなわけ」
地響きがするような怒気を発しているカクミに、カインが動ぜず答える。
「議論については今朝知った」
「なんで止めないの。あのゲスどもに同調してるわけ?」
「テラス様は心をお決めのようだが」
「テラス様は受け入れちゃうだけよ……」
「そう思うなら、お主は見損なっておる」
「……」
銃口を下ろしたカクミの腰に、テラスは抱きついた。
「カクミさん、健やかに過ごしてくださいね」
「テラス様……」
涙を怺えて頭を撫でてくれる優しい彼女に、テラスは微笑みかける。
「町の暮しを天が恵んでくれたんだと思います」
「……寂しくないんですか、あたしと離れて。ちゃんと、自分で着替えられるんですか」
……どうなんでしょう、できるんでしょうか。
「そこで詰まってる時点で心配ですよぉっ」
「あわわ、泣かないでください」
カクミに笑ってほしいがテラスはうまい言葉が浮かばない。大粒の涙が降り注いで、彼女の感情を抑えようがない。
カインが言葉を足してくれる。
「煩わせるでない。お主がそんなふうでは外出の機会が台無しではないか」
「そんな軽いもんじゃないでしょうが」
「テラス様はそうお考えということだ。祝賀行事や公務でしか宮殿の外に出して差し上げられなかった……、宮殿暮ししか体験させて差し上げられなかった。わたくし達、周りの者全員の失態に、テラス様は目を瞑ると仰っているのだよ」
「そんなに深くは考えていません」
と、テラスは断っておく。「これから、皆さんのためにできることが必ずあります。そっちへ目を向けて歩みたいんです」
「……テラス様は、どんなときでも、テラス様ですね」
カクミが目許を拭って、「解りました、もう、泣きませんから、安心してください」
「鼻水が出ておるぞ」
「黙って拭うくらいしてよっ」
塵紙で洟も拭って、カクミが部屋を出ていく。「顔洗ってきまーす」
「いってらっしゃい」
「テラス様、──」
手を振るテラスに、カインが何か言おうとしたとき、
「失礼します」
と、議会の使いがやってきた。「出立の準備はお済みですか」
カクミと同様にカインも内心穏やかではない。
「自発的な旅立ちに掏り替えるとは、いい度胸だな、議会のイヌ」
「こちらは意思決定を伝えるのみです。民があなたの出立を望んでいる。ただそれだけです。決定を伝えることがイヌの役目であるとするなら、あなたは民意を下に観ているということになりますが間違いないでしょうか」
「民意を否定するつもりはないがな、民意をねじ曲げている下衆どもはイヌでも上等であると褒めてやっているのだ。理解できなかったとはまことに言葉が通じぬイヌであったか」
「イヌですから仕事をしましょう。テラス様の移住先が決まりましたのでお伝えします」
「ありがとうございます。どこでしょう」
「テラス様、礼は不要ですし、愉しそうに促さないでください。それでイヌよ、いずこだ」
「モカ村です」
「元主神をインフラ整備もままならない村に押し込めると言うのか──」
カインが怒り心頭に発する横で、テラスは理解した。
「〈フロートソアー〉に挟まれた辺境の村ですね」
フロートソアーはテラスが生まれるよりずっと前、父テラクィーヌが主神を務めた時代よりも前にできた底の見えない大地の裂け目であり、魔物の出現が最も多い場所でもある。そんなフロートソアーを北・西・南に望み、発光鉱石に関わる利潤の影響がほとんどない辺境中の辺境がモカ村である。
「危ないといわれて一度も赴いたことがないので、幸いですね」
「幸いどころか災いです。イヌよ、フロートソアーがどれだけ危険な場所か、知らないでもあるまい。宮殿騎士団の調査団も一度として帰ってきていない、曰くつきの場所だと」
「民意です」
「よくも同じ掏り替えを」
「それが社会というものです。大義が必要なんですよ、何事も」
「それこそが民意を足蹴にしていると理解してのことか」
「これが民のためとは考えているから従っているのですよ。御霊のイヌであるあなたには受け入れがたいでしょうが、ね」
「貴様──」
「では失礼をば」
お辞儀して去っていく使いを見送り、拳を握っているカインをテラスは見上げた。
「掌をぱたぱた振りましょう」
「できません。あのような輩は、主神司令型議会制を悪用しかねない」
主神の威光でもって議会の決定を広く世に知らしめ、その効力を浸透させる。それが主神司令型議会制である。先にも触れた通り主神は発言権がなく投票権もないが、神界を統べる者という肩書を有するため民が信用を置き、敬い、従う存在である。民意で選ばれた議員による決議と、それを伝える主神、主神を信ずる民、その循環でこの神界は成り立っている。が、議員によれば民が主神追放を望んでいる。それが真実なら、テラスは民の信用を欠いている。すると、テラスの主神としての威光はなくなり、決議を浸透させることはできない。「法的拘束力だけでひとは従わない」という考え方が、その根拠である。道を間違えそうになったとき、ひとは何かに頼るものである。それが信ずる主神の威光であればひとは心豊かに平和に過ごしていける。そこで初めて、法的拘束力が後押しとなるのである。法的拘束力で雁字搦めになったところで、ひとはいざとなればそれを撥ね退けてでも強行な手段を採り得る。それを防ぐために主神の威光が必要なのだ。
威光を議会が捏造して悪用するのではないか、と、いうのがカインの懸念だ。
「フルヤモントさんとは親しい友でしたね。信ぜられませんか」
「テラス様追放の案を出すと耳にし、疑念のみとなりました……」
「新しい主神さんが盛り立てるべきです」
「テラス様以上の威光を持ち得る存在がいる。あなた様は、そう仰るのですね」
「お父様の血があって主神になりましたが、わたしは皆さんに尽くせませんでした」
「テラクィーヌ様によく似ていらっしゃる。それだけで、器としては十二分です」
「似ているからなれる主神なら代えるべきです。民の意が正しいですよ」
「いいえ」
カインは追放案を耳にしてすぐ宮殿の外へ出ていたらしい。「調査不足ではありますが、民意ではなく議員の暴走です。それでも、民の意と断言されますか」
テラスは迷わずうなづいた。
「カインさん達の話してくれるお父様はすごく立派な主神です。わたしと違って血だけでなったひとではないから、いろんなことを知っていて、いろんなひとを支えて、いろんなひとから想われている、素晴らしいひとなんだと。だから、今も求められているんだと」
「……」
「いつも助けてくれるカインさんがそうだから解るんです。お父様は素晴らしい主神でした。できなかったわたしは、皆さんの声を聞くことを忘れてはいけないと思います」
「ゆえに、議決に従われる」
「はい」
「……テラクィーヌ様以上の器です。少なくとも、わたくしはそう思います」
「ありがとうございます。カインさんも、優しいですね」
その優しさに甘えてきたのがこれまでのテラスだった。それを失って生きていけるのか、なんて、根本的な問題が観えたが、手放すべきである。彼らの優しさに甘えてよかったのは主神だから。主神として得たものの一つが彼らの優しさだったから、宮殿を去る今、新たな主神にその優しさを引き継ぐべきだ。
「カインさん、新しい主神さんのこと、これまで以上に支えてあげてください。慣れないことや、もしかするといろんなところとの仲違いもあるかも知れません」
「……」
応答なく、カインがお辞儀して部屋をあとにした。振り分ける、と、いうのは何か物質的であるが、優しさを振り分ける相手を見定める時間が、彼には必要である。
ちょんちょん。ぴぃぴぃ。ひょっひゅっ。
朝食の時間でもないのに小鳥達。
「見送りに来てくれたんですか。礼を尽くす子達ですね」
石窓に寄って、置いていたパンを抓んで与える。ひとまず、この日課は今日で最後になる。食事を作るのもコック任せだった。このパンだってコックに焼いてもらったものをこっそり持ってきた。調理の技術がテラスにはない。食べるにはお金が必要だろうが経済力もない。
「まずはお仕事を探さないといけませんね。いいお仕事があったら教えてください」
ちょんちゅ。ぴぃぅ。ひょひゅっ。
首を傾げる小鳥達。
「はい。自ら探さないといけませんね」
これからは何事も一人でこなさなくてはいけない。服を着るのも、体を洗うのも、ベッドメイキングも。
……大変そうですが、なんとかしないと。
なんでも一人で。そんな想像ができてくると、カクミに言ったことと反するようだが、寂しく思わないでもない。
テラスは、両親の部屋を訪ねた。と、いっても、主を失って久しい部屋は殺風景である。両親は物にこだわるほうではなかったらしく、亡くなった父に関しては遺品がほとんどなく、父が亡くなったあと失踪したという母の数少ない私物は廃棄されてしまったとのこと。部屋を歩き回ってみても両親に思いを馳せられそうなものは一つもなく、石窓に背を預けて眺めるしかなかった。
最近になってカインから聞いた。主神テラクィーヌ殺害の罪が母にはある、と。それが真相かといえばきっとそうではなかったが、カイン曰く「宮殿の皆がそう思っている」と、いうことだった。追放決定の民意をテラスが否定しないのには、そんな背景もあった。
父の築いた威光に甘え、母の疑惑を否定できなかった。それが追放の真相ではないか、と、テラスは考えたのである。碌に本を読めない。身の回りのこともできない。調理の技術もなく威光がなければ経済力もない。そんなひとを崇めることなど、できようはずもない。その上、信頼できた前主神テラクィーヌを殺害したとされるチーチェロの娘である。簒奪者といっても過言ではなく追放が適切だ。
気づけば、水を被って清めた身で、宮殿陵墓に訪れていた。暗がりの地下にぽつんと佇む墓石に歩み寄り、屈んで、両手を合わせた。母がここにいるはずはなく、亡くなったひととて同じ。だが、心を届けてくれそうな場として、これ以上の場所がない。
「わたしを見守ってくれるなら、どうか皆さんへ。さようなら──」
期せずして立場を失う。碌に世界を知らない眼で真実を見定められるかも判らないといえども、自由になることで観えてくることもあるのではないか。そのために、
「頑張りますね」
決意を零した。
後任主神の私室となるであろう部屋に戻り、カインが用意してくれたバッグを、
「うんしょ」
と、抱えたところで、
「馬車が参りました」
と、先程の使いが訪れた。
……出発です。
追放の事実よりも、テラスには気になることがあった。カインのいうような議員の暴走があったとして、テラスを迎え入れるモカ村の民意は無視されていないのか、と、いう点である。馬車が待つ宮殿前までに、テラスは使いにそれを尋ねた。
「──。住民の許可は得ています。元とはいえ主神ですから歓迎でしょう」
「村の皆さんが嫌というなら、わたしは道や野でいいんです」
「困ります」
「なぜですか」
「議事録をご覧ください」
「車につきました」
「ご覧になれませんね。宮殿を出た今、通行許可証を持たず入ることは不法です」
「はい」
カインにでも調達させ──、られないので諦めるほかない。追放決定から時がなく、議事録を取り寄せたところで読書が苦手なテラスは何回も眠ってしまって読み込めなかっただろう。
テラスは御者に挨拶をして、つやつやな毛並の馬を撫でてから荷台に乗った。窓がついた乗降口が側面にある荷台は、向き合った長椅子のついた四人乗り。なんと広いことか。乗合馬車でないことが元主神に対する最大限の配慮であろう。テラスは使いにお礼を言おうと顔を出したが、使いの姿は遠かった。
……ありがとうございます。健やかに励んでください。
神界宮殿は忙しい。議会を開くだけでなく、統治機関として役所や治安維持の業務を数多く担っている。テラスが役所窓口を通して行った要望で宮殿外に住む〈一般神〉の出入りを可能にしたことで、観覧者が増えて業務内容の増加に繫がっている。去るテラスを見送る時間などなく、みんな忙しい。日日懸命に生きているひとを咎めるのはお門違いである。
「あわわっ」
馬車が動き出した。席に座って間もなく、自分が動いたのでもないのに体に圧力が掛かる感じがこそばゆい。
「(あ、そうです。)御者さん、聞こえますか」
木製の壁を挟んでいるが、
「聞こえますよ、お嬢さん。なんですか」
「御者さんのお話を聞かせてください。いいですか」
「あははは、ワシなんかの話でよければいくらでも」
年輩の御者が嗄れた声で笑った。「お嬢さんはどんな話が聞きたいです」
「いつもどんなふうにお仕事をしているか、聞きたいです」
外のひとびとがどのように働いているのか、実際に働いているひとびとから聞いたことがほとんどない。主神として聞いた作文のような情報ではなく、宮殿内では得られない現場のひとびとの声をテラスは聞きたかった。
「お客さんを乗せて走るのが御者の仕事というのはお嬢さんも解るでしょうな」
「はい」
「ざっくりいえば、愉しいですよ、いろんなところを観て回れる。それを仕事でできるんですから役得ですなぁ」
「いろんなところを。野や山、川や海も観ますか」
「普段は町の中が主なんですがね、お嬢さんのように遠乗りのお客さんがいるとゆっくり眺めながらです。こういっちゃ道楽のようですが散歩気分・観光気分ですよ、ははははっ」
「いいことだと思います。お客さんとこうして話したりもするんですよね」
「ええ、ご覧の通り最大四人乗り、ワシを含めて五人でガヤガヤやりながら、ときにゃウマに休憩をやるんでその間に同じテーブルで食事を摂ったりもしてね、やぁ、賑やかなのはいいことですなぁ」
「一緒に、賑やかに」
テラスがひとと同じテーブルで食事をするのは公務のときくらいだった。それも概ねフルヤモントのような宮殿内の重役や名士との業務連絡を受けつつだったので私語を挟む余地がなかった。父親のように接してくれたカインや友人のように接してくれたカクミとは別別で、賑やかに食事を摂ったことはない。
「御者さん達はどんなものを食べていますか」
「座ってるだけに観えて肉体労働ですからなぁ、よく肉を食べますよ、そう馬肉をっ」
「あわわ……っそれ、それはもしかして、いま走っているお馬さんを──」
「あはははははっ、冗談ですよ、豚肉・魚肉がメインですなぁ。馬はさすがに抵抗があって食べたことがありませんぞ」
「そうなんですね、よかったです……」
脚を痛めた馬などは生きられないと聞く。そうして走れなくなった馬を食べてしまっているのではないかと考えたら血の気が引いたテラスであった。
「付け合せに野菜も多いですな。しかしまあ最近はやたらと物騒でしょう。物流が悪くなって野菜も肉も高くなって買控えしておるところですよ」
「……」
主神司令型議会制が施行されたのは、幼いテラスが主神になったあと。父の代では父が提案を出し、議会で論じて、世界に影響を及ぼす決議を行っていたという。そのお蔭もあって、発光中央坑道放棄後も浮上していたフリアーテノア経済だが、テラスの代になって停滞、横這いが約一五九万年も続いている。伝え聞く父のように能動的だったら何かが変わっていたかも知れない、と、テラスは思わないでもない。神の一五九万年は人間の一六年弱に相当、テラスも相応の年齢ということになるが、いかんせん箱入り娘で具体的な方策を提出できなかった。主神という立場を失って必然的に社会へ出ることができ、積極的に世に影響を及ぼすこともできるのではないか、と、テラスは前向きだ。
「どうしたら物が安くなると思いますか」
「やっぱ魔物ですかねぇ」
「と、いうと」
「ほら、あちこちで見られるでしょう。ここはまだ町の中だから魔物は入ってこられないが、町の外へ一歩でも出れば、いつ命を奪われるか判らない。そんな状況だから運送業のひとでもワシなんかを頼りにすることがあるくらいですぞ」
「荷も運ぶんですね」
「大型輸送と違って小口だから、その分、コストが掛かっちゃう。それでもワシに頼むのは、大型輸送より小回りが利くし、荷物が少ない分、速いんです」
魔物との遭遇率低下、遭遇した際の離脱を考えて、速さが大事ということだ。
「だから軽くても高価なものを扱うひとなんかがワシのお得意さんです。彼らは一回の商品運搬に何箇月分かの生活が懸かってるから大型輸送を避けて確実な商品搬送や納入を心懸けてるわけですなぁ」
「物騒、と、いうのは」
「ああ、一トン級や二トン級を超える大型輸送をしてる荷馬車がよく襲われてるんですなぁ」
話には聞いている。議会でも問題視されていたが、フロートソアー付近の街道で頻発することから魔物の仕業と考えられ、保障もできなかった。ひとの仕業なら返却・賠償などをさせられるが、魔物がお金を返してくれるはずもない。
「馬車の宿命だねぇ。装備で横目を禁じてるから、前を塞がれると進めなくなる。御者が怯えれば何十頭っていう馬の統率も執れない」
「その間に荷物を奪われたり、壊されたりしてしまうんですね」
「仲間の商品がまるまるなくなってしまった、って、ワシを呼んでくれる商人達が嘆いてた。けどもね、倒せる力を持ったひとが一緒にいなきゃ魔物は対処しようがないでしょう」
「襲ってくるのは魔物で間違いないんですね」
「目撃者がいてね、悍ましいことに山のように大きなヘビだったらしい。荷を守るためについてた傭兵が丸吞にされたって話も聞いたよ」
「っ……」
初耳だった。誤解が広まったか、事実が誇張されて御者まで届いたか、あるいは、幼いテラスに配慮して議員が口にしなかったのかも知れない。
魔物討伐の任も一つ一つ議会が承認を出している。追放の事実も踏まえると、テラスに配慮した結果、議会での承認と現場の対策が遅れてしまったのかも知れない。だとしたら、魔物による被害を助長してしまったのはテラスだ。議長フルヤモントは議場で厳しい口調に終始していたが信望のある優秀な人物である。宮殿業務の足枷になっていると感じてテラスの追放を考えたのは、議長フルヤモントである可能性がある。無論、そこに私情はなく、民を想ってのこと。新たな主神にはフルヤモントらが優秀と認めた人材が配置され、魔物対策が速やかに行われると期待できる。
「宮殿の皆さんがきっと策を立ててくれています。それで事を防げると思います」
「だといいんですが」
「……」
知合いの商人も被害を受けているのだろう。御者が浮かない声だった。その遠因にはテラスの越度があるから謝りたい気持が湧いたが、御者がテラスを元主神と知らないのはこれまでの話で察するところである。自己満足の謝罪をして憎悪を煽るようなことをしては意味がない。最後まで気持よく過ごしてもらえたほうがいいだろう。
風景が流れ、ひとの行き交う町並から原っぱに移り変わっている。ハイナ盆地にある首都テラウスから非常に緩やかな坂を上って流通拠点テラウス・ニーズに向かう馬車。進行方向に対して右の窓からハイナ大稜線が、左の窓から〈トメリア霊峰〉と〈ネオギス山脈〉が観える。それら稜線を捉えて平たいハイナ、尖ったトメリア、丸いネオギスと一般神に親しまれている。どっしりと構えた自然の造形美はテラスの暮らした宮殿や町と比べても雄大で、いかに小さな世界にいたかが解るようだった。といえども、小さな世界に生きているのがテラスであるから御者と話すことをやめない。
「魔物から荷を守れるなら物が安くなりますか」
「景気は発光鉱石が握ってる」
「えっ、発光鉱石には手があったんですか。知りませんでした」
「んっ、あ、いや、そうだねぇ、そう、発光鉱石の利潤を滞らせる魔物の襲撃は物価に直接影響するわけだ。それに連動して、み〜んな物が高くなって悪循環ってわけですなぁ。斯くいうワシも馬の餌代が嵩んできてて、乗車賃を値上げしたばかりですわ、ごめんね〜」
「お代は生きる上で大切です。しっかり上げましょう」
「っははは、お嬢さんはしっかり者だねぇ。そんなふうに言ってくれるひとはなかなかいないから、ほっとしたよ、うぅ〜」
御者がやにわに震えたようだった。
「外は寒いですか」
「空を観てご覧」
「空を」
前座席に移ってハイナ大稜線をぼんやり眺めていたテラスは窓に寄って視界を上に広げた。
「雪ですね」
「曇ってきたと思ったらこれだよ。まあ、上着は用意してあるんだけど」
衣擦れの音が遽しい。「お嬢さんは大丈夫かね、上着が必要なら着ておきなさい」
「ありがとうございます。そうですね」
荷台は閉めきられているので冷気が入ってきにくい構造だが、ハイナ大稜線の寒波はハイナ盆地の北半分を雪原にするほどの強烈さとはカインもよく言っている。切り立ったハイナ大稜線から落ちるように広がる寒気は同盆地にある首都にも流れつきやすく、首都中央の宮殿に暮らす者も気を配る。また、ハイナ大稜線の周辺からハイナ盆地北部に掛けて氷属性の魔力結晶が産出する。その結晶の影響で空気が冷え込むことも魔法に通ずる者なら知るところである。ひとより体温が低いせいかテラスは昔から寒さに強く心配されるほどの薄着で平然と暮らしていたが、御者の気遣いを無下にするのはもったいないではないか。
バッグを開いて服を取り出そうとすると、
……さすがはカインさんです。
こういったこともあろう、と、予測してくれていたようで、上着が一番上に入っていた。それを取り出して腕を通そうとするが、
「……どこがどこに通るんですか、この服は」
「どうしたんだい、お嬢さん」
「それが、その、服がよく判らないことになっていて」
手を通してみたら、服が前に垂れただけで頭が入っていない。頭を突っ込んでみたら袖に手が入らない。
「大丈夫かね」
「はい、諦めます」
「いや、いや、いや、上着くらいでなんでそうなる」
「いつもカクミさ──、仲のいいひとに着せてもらっていたのでどう着たらいいか判らないんです」
「そ、そうなのかい。お嬢さん、宮殿から出てきたみたいだし、どこぞの上流かい」
「今日から家がありません」
「はいぃっ!ちょーっ、」
御者が驚いた。「ちょっと待ちなさい。宮殿の依頼でモカ村には向かってるが、お嬢さん、何をしに行くんだ」
「移住します」
「いや、ややや、ちょっと待ちなさい」
御者が慌てる理由は、「あの村は余所者を入れない閉鎖的な村だ。とてもじゃないが移住者を受け入れるなんてことはないと思うよ」
「知っています」
モカ村以外には何度か公務で足を運んだことがある。それ以外にも、カインなどが調べてきてくれる各地の情報がちょくちょく入ってきており、中でも、情報に関して最も量が少なく、最も変化がなく、最も更新が遅かったのが、モカ村だった。あまりに変化がないので、本当にひとが暮らしているのか疑ったこともあるが、調査を行っていたのはカインであるから疑う余地はない。端的に表現するなら、独自の伝統を重んずる村、それがモカ村だ。
「やめておいたほうがいいよ、お嬢さん。ほかにもっと住みやすい場所はたくさんある」
「そうですか」
「そうだよ。上着も着れないようなお嬢さんが行くような場所じゃないことだけは確かだ。噂には、女も子どもも屈強な戦士で力ある者しか認めないなんていわれてる」
「皆さん、お強いんですね。フロートソアーの近くに住んでいるからでしょうか」
「そうだろうね。噂もあながち間違いじゃないと思うよ。お嬢さん、農作業とか、魔物退治とか、そういった仕事はしたことあるかね」
「いいえ」
「あちゃ〜。じゃあ、いっそ危険だ。フロートソアーに近づくのだって、できればワシは控えたいくらいだが、それと同じくらいモカ村に近づきたくない。なんだか恐ろしいじゃないか、噂のほうが過小評価ってこともあるからなぁ」
「村のひとびとと会ってお話を聞いてみたくなりました」
「どうやったらそんな流れになるんじゃい。お嬢さん、頭がお花畑でできてるのかね」
「お花畑でできていたら素的です。どうやったらできますか」
「既にできてるようだから安心していいぞ」
「そうなんですかっ。自分では観えないんですが……どうやったら観えるんでしょう」
「瞼を閉じれば、かのぅ」
「やってみます!」
無論、観えなかった。御者のいうお花畑は比喩であることをとんと気づかなかったテラスこそが真性のお花畑。御者が心配するのも無理からぬことである。
「上着は着れたかね」
「いいえ、そのままです」
「そのままと」
「頭が出ません。どこが何か判りません」
何度か着ようと試みていたら袖に頭が入って抜けなくなってしまったテラスである。
「もうっ、ちょっと待ってなさい」
痺れを切らしたか、馬車を停めた御者が荷台に入って、上着を着せ直してくれたのだった。魔物が出没する地帯であるから、すぐに手綱を握って発車、心配もしてくれる。
「その調子じゃ、ワシの孫より心配じゃわぁ」
「御者さんのお孫さんは──」
「御者さんのお孫さんはいいにくかろう。ワシのことはツィブラと呼んでくれ」
「解りました。ツィブラさんのお孫さんはどんなひとなんですか」
「お嬢さんみたいに、おっちょこちょいで危なっかしくて目が離せん子だよ」
「ツィブラさんのように笑顔の素的なひとなんでしょうね」
「こんなジジイの顔を素的だなんて。お嬢さんは、本当にいい子だよ。だからこそ言いたんだが、あの村への移住はやめんのかね」
乗客相手だから親切にしているという部分はあっただろうが、テラスはそれ以上の親切心を感じていた。
「ありがとうございます。お孫さんのように心を砕いてくれるんですね」
「危ない目には遭ってほしくないのさ。危険かも知れない、その可能性が高い、そう判っている道へ、ワシがお嬢さんを運ばなくてはならない」
「ツィブラさんは悪くありません。全て、わたしの責任です」
「責任問題どうこうじゃないんだ。ワシは、安全な分岐路へ送り出してやりたいだけだよ」
「安全な分岐路ですか」
「この先、〈情報都市アイジ〉行きの街道と、街道もないフロートソアー行きがある。ワシなら治安のいい前者を勧めるよ」
「お孫さんはどこに暮らしていますか」
「今はパランドだ。治安はまあまあかな」
テラウス・ニーズを南下したところにあり、道路関連事業や建設業を非常に多く請け負っている町、それが〈工場地帯パランド〉である。アイジに比べると治安がいいとはいえないが、聖域なので魔物の脅威が取り除かれている。一方、聖域ではないモカ村は年じゅう魔物の脅威に曝されているという情報がある。
安全か危険か、と、いうツィブラの二択ではないが、よくよく考えると、議会が移住先にモカ村を選んだ理由が気になった。特に理由もなく選んだのか、危険な場所をわざわざ選んだのか、はたまた、
……変化を望んでいるんでしょうか。
一〇〇万年以上在位して大して役に立たなかったとは言え元主神。テラスを送り込むことで変化の乏しい村に何かしらの改革を期待してのことなら、主神追放すら議会の機能としては正常だろう。
変化や改革がモカ村に取っていいことなのかは不明であるから、一度現地を観て回る必要がある。
首が疲れて俯くと、開けっ放しのバッグにふと目が行った。
……これは。
着替の下から覗いていたのは、議事録だった。それも、今日の、テラス追放に関する議論の内容を記したものであった。
〔──殺害容疑者チーチェロ・リアの血を引くこともかの主神のお子であることと相殺し、幼い主神を見守ることを考えたかつての我我であるが、最早猶予がないと訴えたい。議会運営の停滞は著しく不満の声が上がっている。特に魔物対策における宮殿騎士団派遣、この緊急性の高い全案件の議論を深めたかったが、戦闘経験の乏しい現主神が参加する議場では刺激の強い被害報告がままならず、その先にある重要事項の議論に進めなかった。ひとえに健全育成の観点に基づく社会的配慮であるが、我我も厳しい予算の中で幼さに甘んずるような態度を執り続けたことを省みなければならない。
我我の執るべき姿勢についてここで結ぶことにする。現主神の在位継続は神界宮殿の権威・信用を失墜させかねず、それを看過し続けていた我我議員にも責任の一端があるものと考えたとき、前主神テラクィーヌ・ログの血族である現主神テラスリプル・リアが一六星霜に満たない少女であることも踏まえて結論するならば、急ぎ追放することが双方の罪を償い責任を果たす決断となる。我我がこれでもって罪を濯ぐことに一片の疑いもない。求めるのは、現主神の誠意ある態度、すなわち追放快諾であり、それは得られるものと期待している。ゆえに、快諾得られしときはせめて辺境の村モカで穏やかに過ごすことを認め、送り出すこととする。万一、追放を拒むようであれば、「簒奪者」としてただちに処刑するものとし、今案の採決に移る。──〕
議会は、追放した反面テラスを信頼していたことが窺えた。同時に、魔物対策が遅れたことに対する責任の取り方としてテラスの処刑も考えていたのは大事なことだろう。神界宮殿は統治機関として厳たる姿勢を貫かなければならず、その一環としてあらゆる手を考えてしかるべきだった。実際に処刑となっていたら悠長なことを言っていられなかっただろうが。
議事録を読み終わるまでに随分と風景が変わっていた。進行方向左手にネオギス山脈、右手遠目にフロートソアーが垣間見えた。ハイナ盆地を抜けて低緯度であるナゴエド平野南部まで来ているようだ。この〈高速馬車〉は時速一五〇キロメートル前後で走行しているので、時間にすると首都を発ってから一時間五〇分ほど経過している計算だ。小さな星であるから太陽を追いかけるようにして赤道に寄っており気温が上昇、雪が降っていた地域から脱して晴れ渡っている。油断すると惰眠を貪れそうだ。
「すみません、眠ってしまいました」
「いいよ、いいよ、結構揺られて疲れるだろう」
「いいえ、思ったより静かで驚きました」
高速馬車は荷台に掛かる衝撃が強く揺れるのが普通、書類を読むことはほとんどできず、常人では居眠りなどしていられない。
「ワシの魔法で荷台を浮かせてるんだ」
「そうなんですね、だから足下に気配が」
荷台の下方にテラスは魔力を感じていた。荷台を浮かせて乗心地を向上させていたようだ。
「素晴らしい魔法ですね」
「よく利用してくれるお客さんもこの魔法を悦んでくれるよ。でも、全く揺れないわけじゃないし、慣れない土地に行って気疲れすることもあるだろう。今のうちに休んでおきなさい」
「ありがとうございます」
議事録を読んでテラスが気になったのは、議員が突き動かされたであろう民意である。
「ツィブラさんは、今の主神についてどう思いますか」
「ん、テラスリプル様のことか」
「魔物への策が遅れているのは主神の責任だと思います」
「なるほどねぇ。お嬢さんにしては何か突飛なことをいうね」
「そうでしょうか」
自覚がなかった。
「主神司令型なんていっても決定してるのは議会だよ。何があったとしても、議会のせいさ」
と、いうのがツィブラの意見。彼の意見が全てということはないにしても追放に結びつかない少数の意見にいきなり当たるだろうか。民の本音を忖度してテラス追放を議員が考えたというなら納得であるが、ツィブラはこうも言うのである。
「主神の威光を笠に着て胡座を搔いても許されるなんて楽な仕事だよ」
噓には聞こえなかった。
「それは違います」
と、テラスは間髪を容れず否定した。議事録によればテラスの同席によって審議ができない案件があった。
「幼い主神のせいでいろいろなことを決められなかったと議事録に書いてあります」
「そうなのかい。じゃあ、テラスリプル様のせいってことか……。政治は難しいんだねぇ。まだ小さいのに堅苦しい議場に足を運ばないといけない上に、ちゃんと成果を出さないといけないなんて。テラクィーヌ様の血を引いてるってだけなのに期待過剰な気がするよ」
「ツィブラさん、優しいですね」
「ワシの孫は遊びほうけてるんだ、テラスリプル様も遊んでていい歳だと思うねぇ。ましてやタヌキやキツネとなんて若い子のする仕事じゃないよ」
「議場にタヌキやキツネがいるんですかっ。一度も観たことがありませんでした……」
「あいや、野生じゃないんだが。簡単な話、議会が一概に悪いわけじゃないって議事録に書いてるわけか」
「はい」
「じゃあ、そういう部分もあるのかも知れないな。噓を書いたらばれたときに収拾がつかないし、頭のいいひと達がそんな阿呆なことをするとも思えん」
「ありがとうございます」
「なんでお嬢さんが礼を言うんだ」
「あ……」
正体を明かして謝罪することと同じ。お礼を伝えるのも、自己満足だった。
「議会の皆さんのせいではないと解ってもらえて、嬉しかったんです」
「お嬢さんは純粋だね。ワシにもそんな頃があった。懐かしいねぇ。──」
しばしツィブラの昔話を聞いて、窓が切り取る風景を眺めていたテラスだったが、
……なんでしょう、何か、嫌なにおいがします。
「──、いやぁ、あそこで口説いておいてよかった。じゃなきゃ、ワシは今も独り身だった」
「ツィブラさん」
「おぉっとワシのことばかり話してしまったね」
「いいえ、知らないことばかりで、素的で、ありがとうございます、とっても愉しいです。ただ、ちょっと確認を」
「確認。なんだい」
「近くに、何かいませんか。魔物とか」
「いや、フロートソアーがあるが、今のところは何も──、どぉっ!」
馬車が急旋回、一時、テラスはバッグと一緒に遠心力で壁に押さえつけられていた。
「何か出ましたね」
「ままままも魔物じゃあっ」
慌てふためいたツィブラが馬に鞭を入れる音が数回。高速馬車が規制速度を超えて加速、凄まじいGが掛かっていく。議事録を収めたバッグは荷台から落ちなかったので、テラスは扉を開け、顔を出して後方を確認した。
「大きなヘビさんですね」
「か、顔を出しちゃいかん、転落したらタダじゃすまんぞ!」
腰の曲がった長身を活かしてツィブラが注意してくれたが、テラスは迫る巨大ヘビを見つめていた。白くて大きなヘビだ。フロートソアーから這い出ており、その全長は数キロメートルに及ぶのかも知れない。巨体に不釣合な速度で出現したのは何かしらの反動で一気に移動したからか、と、考察はあとでいい。
「ツィブラさんは魔物を討てますか」
「むむむりムリムリっ、あんなのと戦うのはムリだよっ」
「そうですよね。……」
ツィブラの馬車がいかに速くても、追いつかれるのは時間の問題だ。
……こういうとき、宮殿の皆さんが民を守ってくれていたんですね──。
ここに騎士はいない。ツィブラを守れるのは、……わたしだけです。
体が固まるような緊張感が走るが、テラスは瞼を閉じ、
──テラス様。いざというときは、まず深呼吸してください。
……深く息を──。
──実体を見失えば怯える。怯えは隙になる。敵から目を離さないことです。
……敵さんから、目を離さないこと。
──あとは、──。
カインから教わったことを思い出し、テラスはツィブラを声で窺う。
「ツィブラさん、ありがとうございました」
「なんだい、いきなり」
「騙すつもりではありませんでしたが、わたしが、主神テラスリプルなんです」
黙っていることができなかった。謝りたいのではなかった。素直に、自分としてお礼を言いたかった。
……あとは、──。
テラスは瞼を上げ、荷台から跳び出すや目に捉えた巨大ヘビの後方に躍り出る。テラスが跳んだ地点から現れた空中まで一直線に氷柱が伸び、大地の鳴動とともに巨大ヘビを氷漬けにしていた。
……できました!
実戦経験など一度もなかった。が、カイン達に手伝ってもらって訓練はよくやっていた。曰く「できる」。テラスはその実感がこの瞬間までなかった。
──言ってるじゃないですか、テラス様にはすごい力があるって。
……ありました、本当に。これなら──。
幼い主神。議会の足枷になっていた自分を、追放された今、変えないでいつ変える。ツィブラのいうように慣れない土地での生活が疲れを嵩ませるだろう。今までのように、カクミやカイン、議会含め宮殿のみんなに守られているわけではない。外へ自由に出られるがゆえに責任が付き纏う。ならば、
……わたしは、やれることをやります──。
薄黄色の光の粒子を散らせて消えていく巨大ヘビを眺めて、テラスは落下していく。正面は空。浮遊感が心地よかったが、はたと気づく。
「あ、あれ、ど、どうしましょう」
数百メートル上空から落下し始めて、間もなく地面であった。手脚をバタバタさせてみるが脚が地面を向かない。背中からの着地を避けられそうにない。
……こ、これも、自らの行いの末ですね。
着地のことを考えて行動していなかった。カクミとカインに魔法の腕前を認めてもらっていたが、
──いやぁ、テラス様、運動は下の下ですね〜。
──魔法だけ使ってください、いいですね。
……そうでした、そうでしたね!
ちゃんと注意されていたのに忘れていた。
短い人生であった。追放直後の死亡は、どのように伝えられるのだろうか、と、考えているあいだに、
「ったく、ホント、世話の焼けるひとですね」
「まったくだな」
聞き覚えのある声がした。浮遊感がないことに気づいて固く瞑った目をこわごわと開くと、テラスは、言葉が出なかった。
「あれ、驚かせちゃいました?」
「仕方があるまい。追放にはさすがに動揺しておられたのだろう」
カクミとカイン。
「どうして、お二人がここに」
テラスはカクミに抱えられて、ツィブラの馬車の天井に乗っていた。その脇でカクミを支えているのがカインである。
「お二人ともお仕事ですか」
「『……はぁ』」
溜息が重なった。じきに停まった馬車を降り、テラスを立たせてカクミが笑った。
「テラス様がいない宮殿にいても意味ないんで辞めてきました」
「右に同じです。わたくしは宮殿に仕えているわけではないのでお伴します」
「……でも、お二人とも、暮しが──」
生活基盤は首都テラウス。仲間は宮殿にいる。それらを擲ってきた、と、いうのはテラスの主観であって彼女らの意見は異なった。
「あたしがいなかったらテラス様、あのまま落ちてましたよ」
「して服もまともに着替えられず、湯船に頭からお入りになる。いつどこで果てられるやら」
「っ……、ついてきてくれるんですか」
「今の魔法、すごかったですよ〜。地響きで足を取られかけました」
「我我はテラス様の従者ですが、単純に守りに来たのでもありません。そもそも、守られるだけの方が、あれほどの魔法を使いますまい」
カインが誇らしげにテラスを見下ろした。「この数時間で大きく成長されましたね。わたくし、ほんに嬉しゅうございます」
「カインさん。それに、カクミさん、お二人の教えのお蔭です」
氷漬けにした巨大ヘビが消え、残った氷を消すと、原っぱの一部が禿げ上がっていた。「お二人が鍛えてくれたから、力を使ってみようと思えました」
「んふ〜」
「カクミ、動きが奇怪だぞ」
「悦びの表現よ」
「変態でよかった」
「どういう意味よっ」
「そんなことより」
「そんなことて」
「そんなことより、」
と、強行のカイン。「御者よ、お主に礼を言おう。貴殿の馬がなければテラス様の救助が間に合わなかった」
「いや、それは、いいんだが……」
御者席から降りたツィブラが、テラスを一瞥、カインに尋ねる。「彼女が、本当の本当にテラスリプル様なのかい」
「先程宮殿を追放され主神の座から降ろされたがな」
「追放とな。しかし本物なんだな」
「疑う余地はあるまい。あれほどの魔法を瞬時に使えるのはフリアーテノアでもテラス様とチーチェロ様くらいだ」
ツィブラがテラスを向き直る。
「そうか、やはり、そうか……。お嬢さん、すま──」
「ごめんなさい」
ツィブラが頭を下げる前に、テラスは頭を下げた。「お話を引き出すようなことをしていました。次もツィブラさんの車を呼びますから、また、お話を聞かせてくれませんか」
「テラスリプル様……」
「気さくに呼んでください」
「じゃあ、テラス様と」
「はい」
腰を撫でながら、ツィブラが笑った。
「ワシは宮殿のことはとんと解らないが、テラス様がその手で魔物からワシを救ってくれたことは、紛れもない事実だ。上着もまともに着られない子だが、何か深い事情があって追放の憂き目を見たんだろう。こんなジジイの話でよければ、いつでも聞いておくれ。それで、テラス様の慰めにでもなれば、御者冥利に尽きるってもんだ」
老夫の笑顔が日差に輝く。
テラスは何からどういえばいいか判らず、
「ありがとうございます」
と、笑顔で応えた。ぱっと浮かんだ言葉でこそ、何より自由に気持を伝えられた。
──一章 終──