一七章 とけない氷
大地は木の実を包み、そっと空へ押し上げる。
大地は小川をいだき、すべらかな巡りを見守る。
暖かな大地は、全ての者に──。
「お姉さ〜んっ」
「むぅ、飛びついてくるな。今は川を作っているのだ」
女性は川の流れを予想して大地を手で掘っている。背中に乗っかったやんちゃな妹分を引っぺがして作業に戻ろうとするも、
「ま〜たそんな手間なことをしているの」
と、妹分が指先をくるくる回すとどこからともなく枝の束が列になって押し寄せて女性の手間を省いてしまった。
「随分と大きくなってしまっている」
「大河よ、大河。大きいほうがいいわ、きっと!」
「一直線はよくないのだ」
「なんで文句ばっかなの」
「曲線がなければ川の流れが急になる。押し流される者が多くなって住みにくくなる」
「弱っちい生物も知恵を絞って生き延びるって」
時折摂理を説く妹分。女性は、彼女を邪険にしない。
「この川はこの川で残しておく」
「やった!じゃ、遊ぼ〜!」
「曲線の川を作るまで待っていろ」
「え〜っ、それじゃあ手伝った意味がない〜」
「嫌なら見ていろ。我はやりたいからやっている」
「もぉ〜、アホみたいに働き者なんだから〜」
「アホで結構」
女性は、曲線の川を作り始める。山で雨が降れば自然と水が流れ、じきにここを水で潤す。荒れ果てた地も少しずつ緑をいだき、空へ押し上げていく。
「土弄りっていっていいのかビミョーだけど、お姉さんはなんでそんなことが好きなの」
「考えたこともない」
「えぇ〜、そんなんでよく続くね、しんどいのに」
「逆ではないか」
「逆」
「考えず、自然と一体になり、生かされていることを感じる。それだけでいい」
「う〜ん、よく解んない」
「我もよく解らん」
「何ソレっ、あははっ、お姉さんやっぱりアホだぁ」
「アホで結構。我は、やりたくてやっている」
そうすることでなんの得もないわけでもない。
「そっか、供物が届くもんね。前にもらった木の実もおいしかったよ。また食べたぁい!」
「あれは我を崇める者達からのもので、貴様のものではないのだが」
「いいじゃんケチぃ」
「やらぬとはいっていない。我一人では食べきれない」
「だったらじゃんじゃんちょうだいよぉ」
「この川ができたらな」
「そういってぇ、前は森を作るっていって山を作って、今は川を作っているじゃない。供物だってそろそろ腐っちゃっているかも」
「供物というのは、食べることに意義があるものではない」
「イギ……」
妹分は無理解だ。
女性は、川となる筋を掘りながら、嚙み砕いて説明する。
「供物は、ひとびとが我我を崇め奉る気持を示す物品だ。食べさせることを主としているわけではないから金品であることもある。なんの恩恵を感じてきたか一部を献上して示し、感謝する意があるのだ」
「おいしければなんでもいいけど、物は要らないなぁ」
「貴様は解りやすい性格をしているな。ひとびとも、貴様には食物を捧げよう」
「毎日木の実が届くよ〜」
妹分は森の成長を助け、ひとびとの生活を支えている。
「そういえば、このあいだシュシンとかってひとが来てああだこうだいっていたなぁ」
「シュシン……ひとびとの崇める同胞、星を統治しているという主神のことか」
「そう、そう、確かそんな感じのひと」
「ああだこうだとは」
「気になるの。どうでもいい話だけど」
「対等のはずの同胞に崇められる。さぞ苦労があろう」
「お姉さんに比べたら大したことしていなさそう」
「そう、か……」
循環の摂理。これを守り、「ひと」に限らず数多の生命を平等に守り育てているのが女性である。妹分がいうように、主神の統治などひとびとの主導する世界をほしいままにするための矮小な体制でしかない。
「ただ、それも必要なのだろう。ひとびとは、我我と違って肉体と力を持っている」
女性も、妹分も、肉体がない。手で掘っている地面も、じつは、物理的には掘れていない。妹分が枝を操って掘ったところは跡が残っているが、女性が掘ったところは飽くまで「そうなるように願っている」に過ぎない。ただし、女性がそれを願えば、意図した状態にゆっくり導くことができる。肉眼では見えない女性や妹分を、ひとびとは自然環境の変化から察して崇める。供物はそうして、少しずつ捧げられる。
ひとびとは肉体と力を持ち、やろうと思えば自然環境を素早く大きく変化させることができる。願いを懸け、祈りを捧げ、天に委ねることなく、川を作り出すことも、木を伐ることも、野を焼くことも、その手でできる。そんなひとびとだから、ときには自然環境を破壊・汚染した挙句、放棄してしまうことがある。そんなことにならないよう、主神が一定のルールのもとでひとびとを纏め上げ、自然環境を破壊・汚染しないよう、見張っているということだ。
「ひとは、ひと同士で殺し合うこともあるそうだ」
「野蛮だなぁ」
「自然の中でもないことはない」
「まあ、たまに拗らせている動物がいたりするけど、ひとは道具を作るから、そういうのも使っちゃうんだろうなぁ」
「暗いな。悲惨ですらある。体一つでぶつかれば痛みを知ることができる。道具を使うと傷つくのは道具だ。結果、己の痛みが減り、相手の痛みに鈍くなる」
「だからシュシンがいるわけね」
「そう。道具を使える者同士でなら、同じ野で話し合うこともできるだろう」
「ひとは野じゃ話し合わないと思うけど」
「細かいヤツだ」
「お姉さんよりはひとの生活を知っているだけだよ」
妹分の育てる森にはひとびとが暮らしている。家を建て、火を熾して、暖かい空気の中で一生を暮らせる。
「で」
「あ、そう、そう、ああだこうだ」
「内容は」
「なんか、森に囲まれた泉がどうのこうのとか、なんちゃらスイがなんちゃらとか」
「なんのことやら」
妹分の話は全く要領を得ず、理解できなかった。主神のことが少しは聞けるかと期待したがそちらも全くであった。
女性の願いは、手に込める。指で搔くことで大地に霊的な変化を齎し、ゆっくりと物理的な変化を招くことができる。それこそが女性の力であるといえるが、時代は流れていく。いかに山を盛り、大地を均し、川を作り、森を育てても、供物が減っていった。ひとびとは目に見えるものを信じ、縋り、頼るようになっていく。同時に、目に見えないものを忘れ、その癖、ときには罪を着せる。ひとびとの手で自然を変えていく世界、ひとびとは自然を畏れず、自由になるとさえ考えるようになる。そんな悲しみが、やってくる。
……そのとき、我はひとを、ひとは我を、どう思うのだろうな。
願い、形作ってきた大地を、女性は見つめる。自然の化身たる自分が、ひとびとには無用とされてしまう時代が迫っている。
瞼が重い。
「ど〜んっ」
「むぅ、飛びついてくるなといっている」
妹分が背中に突撃したので、胡座を搔いた女性は前屈みになってしまった。
「聞いてよ、聞いてよ」
「貴様は我の言葉を聞かぬが。どうしたのだ、耳許で大声を出さずとも聞こえるぞ」
「最近すごく眠いの〜」
「そんなことか。いや……、貴様もか」
「お姉さんも」
「まあ、な」
「なんでだろう」
「さあな。自然界が、我らを排除しようとしているのかも知れない」
「どういうこと」
「我我が時間を掛けてやることを圧倒的な個体数と速さで成し遂げるひとびとさえいれば自然の摂理が守られると判断された。そのお達しなのかも知れない、とな」
「ムチャクチャな話だね」
「支離滅裂は自覚している。単に、眠さの理由を都合のいいように解釈した」
「……なんか、間違っていない気もする」
「そうか」
「なんとなく」
妹分が後ろからぎゅっとする。「お姉さんがいたら寂しくないなぁ」
「何をいっている」
「うん。なんだろうね、なんか、眠くて……。急いで来たのは、お姉さんと会えないまま、起きられない気がして」
「縁起でもないことを」
「……」
「……おい」
「……起きているよ、まだ」
「……縁起でもない、な……」
そう言いつつ、女性も眠い。あるいは本当に自分達を排除しようとしている偉いひとがいて安楽死に導いているのか。苦しくはないが、何か嫌な感がする。眠い。いやに、眠いのだ。
……なぜだ。我は、眠りたいのではない。
まだ、やりたいことがある。息づく大地を育てたい。そう、願っていたいのだ。
……なのに、なぜ──。
眠い。
……我を、眠らせようなどと、するな。
誰だか判らないが、願いを潰しに掛かっているなら、抗うまでだ。
「おい、起きろ。行くぞ」
「ん、あぁ、ごめん、眠いよぉ」
「……死ぬか」
「解んない、眠くて、頭が働かぶふっ、って、鼻に指を突っ込まないでよ!」
「そうでもしなければアホのように眠ってしまいそうだったからな」
「鼻の穴が広がったらどうしてくれるのっ」
「少しはまともな顔になるのではないか」
「ひどいっ、わたし可愛いのにっ」
「キモイ……」
「お姉さんの語彙に『キモイ』があったなんて……」
「目は覚めたであろう」
「ちょっとだけっ」
妹分がぴょんぴょん跳ねているので、女性も立ち上がった。
「ついてこい。たまには、本気で我我の威光を届けねばな」
「神様みたい」
「崇められていたのだ。真の神は、我我であろう」
「あ、確かにそうかもっ。お姉さん頭いいっ!」
「ふっ。ついてこい、少し急ぐぞ」
「どこに行くの」
「──判らない。とにかく急ぐ」
「……ついていくね」
女性と妹分は、野を南へと駆け出した。
眠気もそうであるが、女性は胸騒ぎがしている。築き上げてきた大地が異様な静けさに包まれている。
「なんか、変だね。草木が眠っているみたい」
と、妹分も異変を察していた。
「貴様も感じているか」
「お姉さんも」
「囁きが聞こえない。山も、川も、森も、動きを止めて……、こんなことは初めてだ」
「まるで死んでいるみたい」
「嫌な表現だが……、我もそう感じている」
「草も、花も、木も、全然、何も話しかけてこないよ。いつもは煩いくらいに話しかけてくるのに、なんで……」
「貴様の騒がしさは草木の影響だったか」
「いっぱいいて応対で忙しいんだもん。影響されないほうが難しいよ」
そういうものなのか。大きなものばかりを相手にしていた女性にはその感覚が少ししか解らなかったが、自然の声が聞こえないことの不自然さ、肌に馴染んだ感覚が突然に歪んで失われたことへの不安感を、妹分と同じように感じている。
「貴様、葉を使わないのか」
「え。あ、それが……」
「使えないのか」
「うん……」
やんちゃな妹分は、大きな葉っぱで空を飛ぶ。急ぎのときは特にそうだったが、今日はそれがなかった。使えない。その意味するところは、排除ではないのか。女性の中で疑いは濃くなる一方である。
「自然を眠らせるか封じるかして、貴様から間接的に力を奪っている者がいるのか」
「お姉さんがいま向かっているのは、そのひとのところってこと」
「そこまでは断言できないが、あっちには、何か、嫌な気配がするのだ」
自然の声が聞こえないが、一つ、女性には聞こえている声があった。
(──ああ……、限界だ……、逃げろ……皆、逃げろ……!)
……いったい、何から逃げろという。
遠い、遠い、自然の声。それは、警告に近く、悲鳴にも似ている。
自然の声とは、女性や妹分を含めた一種族の声である。女性や妹分のように具現化さえすればある程度の移動が可能であるし、積極的に同胞へ声を掛けることもできる。そうでない個体は自然の摂理に則って緩やかに動くのみで、多くは一定の場所から動けないままだ。警告か悲鳴か、それを発する声は動けない個体であろうことを女性は察した。眠気の理由を問える相手がそのくらいしか存在しなさそうだからそちらに向かっているのであって、眠気の原因や排除の動きの元凶かは不明だ。
(……こちらに向かってくるのは──)
と、声の主が察したのを契機に、女性は対話を求めた。
(聞け。貴様はいったい何を伝えようとしている)
(時間がない。大地の──、テラインか)
(知っているのか)
(お前も逃げるほかない。否、お前だからこそ逃げなくてはならない)
(いったい何をいっている。詳しく話せ)
(テライン。お前が無事であることを、願おう。──)
(おい。応えろ。おい!)
女性改めテラインの言葉に応答がなくなり、気配も消えた。
その途端、空が傾いた。
「きゃっ!」
「くっ……!」
何が起きている。自然の化身たるテライン達が、大地に足を取られて横転していた。
「馬鹿な……、これほどの地震が」
「お姉さん……!」
「飛びついてくるな、と、いいたいところだが、」
この揺れでは突き放せない。テラインも、片膝をついて揺れに堪えるので精一杯だった。
事態はそれにとどまらない。
空は青い。だというのに、雷か、凄まじい轟音が聞こえる。頭を貫くような痛みとともに、その轟音が迫ってくる。
「ぐァっ……!」
「お姉さん、どうしたの!」
「体じゅうが痛む……、なんだ、これは……」
まるで、斬り裂かれたかのように。
……っ、まさか──。
痛みに堪えて立ち上がり、睨み据えた南方。轟音が迫るより先に、視界に飛び込むもの。
……大地に、亀裂だと。
大地を分け入るように突き進んでいる。
「お姉さん。あれ、何」
「どうやら、あれのせいらしい。我らが眠いのは」
「どういうこと」
「あれが、排除の正体ということだ」
亀裂というにはあまりに大きな底の見えない黒い影がテライン達のもとに見る見る伸びる。雷鳴に似た轟音と地震の原因は、あれだ。
「摑まれ!」
「っ!」
妹分を抱えて、テラインは北西に向かう。後ろを黒い影が追いかけてくる。
「お姉さん、痛みは」
「ある。が、やりたいことも、ある……」
「そんな……。休んでいたほうがいいんじゃ」
「休んでいたら二人とも死ぬぞ!」
「っ……」
テラインは、大地の化身であった。妹分は、草木の化身であった。密接に繫がった二つは、どちらが欠けても滅びに向かう。
「あ……」
「どうした」
「……──」
「……」
妹分が言葉を失い慄えた理由を、テラインは察した。妹分が育てた森と村が、黒い影の向かう先にある。
……本当に、我我を排除しようとしているのだな。
猶予がない。亀裂を止め、森と村を救わなければ──。
……いや、待て。我我は、ときに、滅びゆく者ではないのか。
滅びを否定することができるのか。生けるモノは必ず滅びる。それも摂理だ。大地の亀裂を止め、森や村、ひいてはひとびとを救う理由として、命が失われることを挙げられるのか。生命の循環を守らなければならない。が、循環には、死が含まれてしかるべきではないのか。屍は新たな生の苗床と成り、繁栄の礎になるというのにそれを妨げるのか。
そうだ。妨げる必要はないはずだ。一直線の川があるのと同じだ。世には、想像し得るあらゆる形が存在し、あらゆる摂理が存在する。生と死、あらゆる始終があってしかるべきではないか。それを、大地の化身というだけで、己が痛い思いをしているというだけで、ねじ曲げていいのか。いいわけがあるまい。
脚を止めたテラインの耳が、囁きを捉える。
「……嫌だよ」
「っ……」
「あのひと達が、死んじゃうのは嫌だよ……」
「……」
「あのひと達だけなんだよ、わたし達に、まだお供えをくれるの。本当に、わたし達のことを知ってくれているのは、あのひと達だけなんだよ……。それなのに……」
「…………」
何を妨げるべきで、何を妨げるべきでないのか。
摂理とは、なんのための摂理だ。
摂理が摂理だけで成り立つなら、そも、自我を持った化身も、己の力でモノを作り出すひとびとも、存在し得ないはずではないのか。
……わたしは、なんのために、ここにいる。
何を守りたくて、何を願いたくて、ここにいる。
「お姉さん……!」
「……解っている。我が、全てを守ってみせる」
地震と轟音。体に伸しかかるそれらに、テラインは立ち向かう。
「我には、初見の影如きに、奪われるものなど一つもない!」
後方に森が見える。黒い影の前に躍り出るや、ありったけの力を両拳に乗せて地面に叩きつける。拳が大地を鼓舞し、黒い影の侵攻を妨げるが、
「しぶといな……」
「亀裂が曲がった……!」
西へ逸れたのに、意志を持つかのように森と村の方向へ回り込もうとしている。一直線に星を割ろうとしているのだとしたら、どこかで止めなければ、直撃を免れても滅びゆくだろう。
……させるか!
守ってきた摂理。それによって自分が死ぬことは百歩譲って受け入れるとしても、妹分が守り育てたモノが失われていくのは許せない。
テラインは二度、三度、四度、体の負荷に堪えながら亀裂の侵攻を妨げた。開けないほどに両拳が崩れたが、亀裂がまだ止まらない。
……勢いは、明らかに衰えた。あと一息だ。
「お姉さん、それ……それ以上は、」
「煩い。我はやりたいことをやっている。我の脚を止めようとするな」
「でも!」
「っ、摑まれ」
テラインが妹分を抱えて跳び退いた場所を、炎の塊が焼き尽くした。
「何、今の!」
「招かざる客のようだ」
炎の軌道を読むと、遠い北、上空に黒翼の影。
「……魔竜か」
「魔竜」
「そっちはあとだ。今は、亀裂を止める」
「亀裂のほうは、あとはわたしが引き受ける。お姉さんは魔竜をお願い……、あっちは、わたしにはどうにもならない気がする」
「やにわに勝手だな」
「間違っていない気はする」
……確かに。
草木を用いたとしても、炎の塊に焼かれたらお終いだ。一方、テラインは炎に弱くはない。
「大丈夫なのか。力を揮えないのではないか」
「試してみなきゃ判んない」
「それもそうか」
睡魔から逃れたテラインは、地の力を呼び起こすことができた。ならば、妹分も力を使うことができるようになっているかも知れない。
背を跳び降りた妹分が手探りで力を揮うと、地面に、植物が茂っていく。
「力が戻っている……、ちょっと弱いけど、今ならなんとかなりそう!」
「ならば任せる。我は奴をやる」
魔竜が発射する炎の塊を、地中から迫り出させた岩盤で防ぐとともに、岩盤の一つに載ってテラインは魔竜に突撃する。
「黙って落ちろ」
「グォォォォッ!」
……言葉も持たない無我の存在。いっそ、此奴のほうが摂理に近いのだろうな。
摂理に逆らった結果がこの魔竜の到来なら、納得だ。テラインは鋭爪をその身に受けて怯むことなく、岩盤から飛び出した勢いのまま魔竜の脳天に拳を叩き込むと、流星より鋭く抉った寒地に魔竜を沈めていった。
「このまま死んだとていい末路だ。我の滅びにより大地の亀裂は恐らく止まる。彼奴を焼く貴様を葬れば、全てが治まる」
妹分と、妹分の育てたモノが生き残る。
……それで貴様が衰え、滅びるのなら、我を怨め。
妹分の怨念は甘んじて受けよう。
……これで、終りだ。
突き破った大地の奥の奥、己の力が届く限界まで大地を閉じ、魔竜を生き埋めにした。
……本当に、これでよかったのか。
地表に這い出たテラインは、曲がった拳を開き、絶望した。
魔竜を落とし、全てが丸く治まると考えていた。妹分のお蔭だろう、大地の裂け目は途中で止まっていて──。
呼ばずとも飛びついてきたやんちゃな妹分は、どこを捜しても見つからなかった。彼女が育てた村や森を捜しても影も形もなかった。祭壇には腐った供物がのこされていた。
ひとびとの波に視線を流せば、崇め奉られている一人のひとを見た。
「──、そう、テラフィリ様こそが成せる業でございます!」
「大地の裂け目を止め、我我の窮地を救ってくださった偉大なる主神に、乾杯ッ!」
「『乾杯ッ!』」
口口の賛美と祭のような音頭。
……押しとどめたのは、彼奴だというのにな。
ひとというのは、ときに偽りも真実とする。計り知れぬ脅威が去ったときだから、事実誤認を咎めることもすまい。テラインは、妹分を捜したかった。真の功労者を労りたかった。
捜せど、捜せど、見つからなかった。
……いったい、どこにいる。どこへ、いってしまった。
疑問の答を、テラインは大地の亀裂の先端に観ていた。
千切れた蔓。落ちまいと手を掛けた崖の痕跡。これを、見まいとしていた。
……我がついていなかったから。我に、摑まっていれば、こうはならなかった。
妹分は、いなくなってしまった。それが、現実だった。
……なんという、ことだ……。
ここに落ちようか。テラインは両膝をつき、大地の裂け目を覗き込んだ。
もう聞けないのか。草木や川や空が囁いているというのに、あの騒がしさは聞けないのか。守らねばならない摂理は、妹分のみを排除して満足したということか。
……なぜ、我ではなかったのだ。
力なら、圧倒的にテラインが上だった。強い者を排除すれば弱い者は消えていくだろう。なのに、なぜ、弱い者から排除した。強い者が生き残ればいいのか。摂理が、テラインを求めたということか。
……我は、願っているというのに──!
テラインには、山川草木の全てが必要だ。そのうちの一つが彼女だった。特に彼女が、必要だった。近寄りがたい、と、敬遠されていた自分に気安く話しかけ、飛びついてきてくれたのは彼女だった。だから、テラインは、彼女が特別だった。
(我らを蔑ろにする者、目を背ける者、愚者蔓延る世界を、滅ぼしてしまえ──)
そうだ。滅せばいい。ひとびとも、世界も、摂理さえも。
……我を見ず、求めないモノ、全て。
包み、いだき、押し上げ、見守るべきものが、ここに存る。
「──、我が憶えていることは、以上だ」
巨大石柱に映り込んだ魔竜の姿に、テラスは己を観るような心地がしていた。
全てが判っているわけではない。が、自分の歩みの全てがここへ向かっていたことだけは確かであった。
「話を聞かせろといったな」
「はい」
「その意図を聞こう。我はもはや俗にいうところの精霊ではない。魔竜の穢れに支配され、魔物と化したあの日から、我は一種摂理の傀儡だ。『怨念』、魔竜はその象徴だ」
「察していました」
元テライン、現魔竜の言葉を聞く前から、その身に負った傷やフロート達の言行から、魔竜の意図するところをテラスは探っていた。決定的だったのは、焼け野となったモカ村跡地に魔竜が現れたことだった。
「そのときは全てを知っていたわけではありませんでした。でも、魔竜さんは間違いなく、あの地と関わりのあるひとだと解りました。深い憎しみ、せめたくなった気持、その身を現し、踏み躙らなければいられなかったおもいがあの地にはあるんだ──、そう思い至りました」
「……我はもう、それすらどうでもいいと思えている。彼奴はもういない」
「心を癒やしてくれるひとがもういないと捉えているんですね」
「彼奴とて同じであったろう。我が相手をせねば、水を吸うことなく根が枯れ、葉をつけるに至らず、消えゆく存在だった」
「お二人とも、互いを欲していたんですね」
「そう。我らは、互いに存在せねばならない。片方では滅びるのみだ」
「わたしがずっと傍にいてお話をします」
「……何をいっている」
「寂しくないように──」
「意味を問うているのではない。貴様は、憎き主神の血筋だと判っている」
テラインと妹分の功績を我が物として称賛された主神テラフィリ。魔竜が主神とその末裔を怨んでいるのは、テラインが看過した出来事が起因だ。
「お母様のこともありますね」
「チーチェロ……。彼奴も我の脚を止める氷壁であった。最後には我を解放した。奴も承知していたのだろう。我を封じることで摂理に反し、己を排除されかねない現実を」
(抜け抜けと……)
(リセイさん、わたしの代りに怒らないでください)
(……)
穢れたるリセイがテラスの中で息づくことができたのは、テラスの人格に加えてテラインの優しさが残っていたからではないか。だからリセイは、必ずしも「理性」ではなかった。
「主神の血を引くひととして、また、チーチェロお母様の血を引くひととして、わたしを排したい。それが魔竜さん、いいえ、テラインさんの心ですか」
「殺してやりたいとも」
「フロートさんはわたしを殺めませんでした。それが、テラインさんの躊躇いと望みなんだと思いました」
「……」
魔竜も、フロートも、間違いなくフリアーテノアの脅威だ。ひとびととその営みを害そうとしている。発光鉱石で操ることは容易く、殺し合いをさせることも容易いだろう。この発光中央坑道で宮殿騎士団の多くが帰らぬひととなり、皆を率いたテラクィーヌも、そうなった。
話を少し戻そう。
「プルさんによれば議員さんはわたしの穢れに関することでバルハムさんに脅されたそうでした。わたしの穢れを知らないはずのバルハムさんに真実を伝えられるひとがいたことになります。それがフロートさんです」
「一瞬の痛みでは我の痛みは癒えない。同じ、いや、それ以上の痛みを味わい尽くさせ、最後には滅ぼす」
「お話をしてくれているのは、殺めるつもりがないか、躊躇っている証です」
「機を待っている」
「痛みを知ってほしいと考えているのは、その心を知ってほしいという気持があるからだと思います」
「貴様は……」
鏡のように美しい巨大石柱は、魔竜の表情を繊細に写し取る。
「わたしは、ペンシイェロの木から染み出す甘い蜜が好きですよ」
「……なんの話だ」
「疲れきった体の底のほうから、力が湧き上がってくるような心地がします。きっと、誰かが守り育ててくれたものなんです。村の皆さんだけではなく、目に見えないひと達の願いが守り育てたもの。だから、力をくれるんです」
「それを焼き払った我を怨め」
「怒ったところもありました。どうしてこんなことをするんだろう、これでは手を取り合えないのに、と、フロートさんを手に掛けました。その少し前から、自らに対する疑いは擡げていたんです。敵は排する──、まるで、テラインさんの話した摂理のようですね」
「……」
「魔竜さん達を殺めたこと、申し訳ありませんでした。心から、お悔やみ申し上げます」
テラスは魔竜の沈黙を聞き、顔を上げた。
「わたしは、もう、懲り懲りです。もう殺めたくありません。テラインさんはどう思ったんでしょう。わたしを苦しめながら、胸が潰れるような思いをしていないか、心配です」
「言ったはずだ。我は、もうどうでもいい。怨念のままにこの世を滅ぼせば気も晴れよう」
魔竜が右手を握る。歪んだ骨は、テラインの拳を彷彿とさせる。人型でありながら魔竜のそれとも表せられそうな鱗を纏った体は、この世の心の複雑さを象徴するかのようであった。
「気が晴れなくてもいい。我は、我がしたいようにする。その脚を止める者は誰であろうと排除する」
「長い時の中で、置き去りにしてしまった心が、きっとあると思います。それを──」
「そんなものは、ない」
振るわれた右手を氷杖の冷気で固めて止める。
「──思い出してください」
「ないと言っているッ!」
「分らず屋ッ!」
交代したリセイが氷剣を振るい、向かってきた左拳を絡め取る。衝撃で地面が割れ、睨み合った。
「テラスリプルがどんな思いでここにいると思っている」
「苦しめ。我は、貴様達を苦しめるために、ずっと、ここにいるのだから」
「じゃあなんのために封印を執拗に解こうとした。ひとを操り、環境を破壊し、……チーチェロを手に掛けてまで解放されたがっていたのはどういう理由があってのこと」
「環境破壊はどちらが先か。我はこの手で貴様達を苦しめたくなっただけだ」
魔竜が地に拳を叩きつけると、地震が発生し、地面が割れて、崩れ落ちていく。
(下にまだ空洞があったのね……。厄介だわ)
(観る限り、ひとの手は加わっていないようです。ひとりでにできたところだと思います)
(底が見えない。それに、何か変ね、何かに引き寄せられているような感覚がある)
「知っているか」
黒翼を羽ばたかせて魔竜が正面に迫った。身構えたリセイに攻撃の手が伸びることはない。
「地は公平。同じ宿命にある者同士で争う」
「空中移動中は手を出さないと」
「地は引力を生む。貴様達はその引力に操られ、夢を見る」
「この先にわたし達の夢があるとでも。だとしたら、それはあなたの見せる愚かな夢幻ね」
「そういう意味ではなかった」
(発光鉱石のことではないでしょうか)
「(なるほど。)石のこと」
「テラスリプルは気が利くようだな」
「二人で一人よ。他者を求めて夢現のあなたより、現実的でしょう」
「そうかも知れないな。怨めしいことだ」
(妹分さんを心の底から欲しているんだと思います)
「──と、いっているわよ」
「大きなお世話だ」
「どうでもいいといっている割に執着が消えていないのね」
「貴様達が消えてくれれば、全てが終わる」
「黙ってやられるつもりはない。わたしは、あなたを殺してでも、テラスリプルを守る」
……リセイさん──。
「そうか──」
「……」
崩れた足場は、今や落盤だ。最後に崩れた巨大石柱も頭上に迫っている。ともに落下していく地の底は、緩やかに、確実に、明るさを増していく。
「これは」
…………。
目にした光景に、リセイとともにテラスも息を吞んだ。
「地は、引力を生む。魔竜と一体化したも同然の我は、敗北を想定していなかった。なぜなら我は、我のみではない」
鼻が、穢れを捉えている。
縦に流れる景色の全面に発光鉱石の眩さ。その奥に、数えきれない巨影があった。
「テラスリプルは我を孤独のようにいった。が、我が孤独を脱するのは時間の問題だ。大地にいだかれた石は、我そのもの。我もまた、石そのものだ」
(魔竜さんはフロートさんを介して穢れを外へ放っていました。その穢れを発光鉱石の中で育てて、別の魔竜さんを作り出したんでしょう。その際、発光鉱石を介してひとを操る術を身につけたことも推し量れます。発光鉱石が光を失うとひとを操れなくなるのは、術者たる魔竜さんを生み出した穢れの源が失われるからだったんです)
「──。このテラスリプルの推測が確かなら、モカ村に現れた魔竜にも納得がいく。石そのものの魔竜は、石がある場所に存在し得る」
モカ村にも発光鉱石はあった。「そして魔竜は、自分自身である石の破壊を嫌う」
破壊したのは地表に露出していたものだけ。あのとき地中には、巨大な魔竜が誕生するほど大きな発光鉱石が眠っていたのだ。
(わたし達に発光鉱石を壊されて、モカ村の魔竜さんは自らの命を危ぶんで出てきた面もあったんだと思います)
(先のあなたの観察こそ真実でしょう。疑義はないわね)
と、いうリセイが、じつのところ、発光鉱石と魔竜の関係について黙っていたことを、テラスは承知している。それを話せなかった理由も察しているから、
(リセイさん、しばらく交代です)
(着地前にはわたしが出るわ)
テラスは魔竜と話したいことがある。
「ころころと忙しい奴らだ」
「ごめんなさい。テラインさん、魔竜さん、どちらにも話したいんです」
「我は魔竜でしかないが」
「わたしは怒っていることがあります」
「貴様が、怒っていること……」
自分の分身のようなリセイが、自分の代りに怒ってくれることに、テラスは心から感謝している。それを真似するわけではないが、テラスはリセイのために怒りたい。
「穢れを介して察しているあなた達が、なぜ、リセイさんの心を酌んであげないんですか」
「なんのことをいっている」
「本当に、解らないんですか。解らないなら、わたしの心を今すぐ覗いて、感じてください」
「……──」
落下の景色は、世に生まれ落ちてからの一生の流れを感ずるように速く、重い質量に彩られている。
「──、あなたは魔竜さんをたくさん育てて、確かに一人ではなくなります。でも、それでもあなたは独りです。この心を蔑ろにする限り、永遠に」
(テラスリプル……)
魔竜が瞼を落とし、沈黙した。
酌んでいないわけがない。蔑ろにすることはない。だからこそ、テラスは問いかけたのだ。
「テラインさん、魔竜さん、そして、リセイさん……、皆さんとお話できて、わたしはとっても嬉しいです。少し前では、考えられないほど多くのことを聞かせてもらって、教えてもらって、体験させてもらって、知らず知らず傷ついて、思いもよらず傷つけて、悔しい思いをさせてしまうこともありましたが──、全てはここに至るために乗り越えなければならないことだったんだと思います」
魔竜が、瞼を上げ、テラスを見つめる。
「貴様は、我に何を願っているという。我はもう、自然の化身でも、魔物でも、魔竜でさえもないというのに。育てた魔竜達を消すことはおろか、飼い慣らすことも飼い殺しにすることもできず、あまつさえ、生かすことさえできないというのに」
魔竜が両手を握り、頭上を落ちてくる巨大石柱を仰いだ。
「我に、何ができる。後戻りできないところまで来てしまった……」
「生け贄を求めたのは、皆さんを殺めず、生かすための道だったからでしょう」
「ひとびとを食わねばならない。我我、魔物はそういうものだ」
(共食いは)
「しない。永遠の独りとて、同胞を食うつもりはない」
その眼には決意がある。魔竜には、テラインの意志が確実に残っている。一方では、食欲が本能的なものであることに変りはなく、飢餓状態に陥った魔竜が発光鉱石を介した精神支配を行う危険性も残っている。
彼女が育てた膨大な穢れ──魔竜──を捨て置けば、フリアーテノアはまさしく魔竜の巣窟となってしまう。
「魔竜さん達に、テラインさんやリセイさんのような心はないと、あなたは思っていますか」
「ないとはいいきれない。貴様達のいうフロートは我にいいなりの傀儡でしかなく、貴様の持つリセイのようなケースはなかった。同じようなイレギュラが魔竜に生じないと断言することはできないが、飽くまで魔竜は我の穢れを切り取り増強したもの。存在としてはフロートに程近くイレギュラの蓋然性は低いと言わざるを得ない。ゆえに滅ぼすことが貴様達の選択として最善であろう」
「この世界は、この世界のひとびとは、とっても優しいんです。魔竜であるあなたさえも」
魔竜が真に魔物であれば今このときもテラスは害されてしかるべきだった。そうならないことが、魔竜に確かな意志があることの証明。その意志を支えている心に、優しさがある。
「……ときどき、判らなくなる」
「何がですか」
「貴様は敵だ。事実、貴様も我を敵としたことがあった。こうして、話し合いの場を設けたことにも悪意があるのではないかと思わないでもない。だというのに、穢れを介して感じる心に偽りを感じない……。我は、それを、確実に知っていた」
「あなたも持っているものだからです」
妹分を受け入れていた心。見ず知らずのひとびとにも尽くそうとする心。あるいは、テラスのそれよりも彼女のそれのほうが度量が大きかった可能性もある。彼女は、ひとびとに限らず生命の営み全てを考えて、皆をいだく大地に願いを懸けていた。そんな彼女が必要とした「ひと側」の纏め役だったはずのテラスは、役目を投げ出すことを決めてしまった。テラスプルの貢献を鑑みれば、投げ出さず歩む道もあっただろうことは明白だ。魔竜たる彼女に憎まれ、怨まれながらも、彼女に受け入れてもらえる生き方ができたはずだった。その道からテラスは外れ、彼女のおもいを受け止めるべき系譜の象徴的役目を失ってしまった。
過去は変えられない。と、理解し合う道を諦めるのでは追放を受け入れたときと同じだ。
やれることがある。自分にしかできないことがある──。
テラスは氷杖から冷気を広げ、足下に氷柱を伸ばして降り、落下してくる落盤や巨大石柱までを凍結して全ての動きを止めた。暗い足下が深い地下を示す。壁面の発光鉱石は既に減り、奥に潜んだ影も同様。
多くの魔竜を見上げるここから、始めよう。
「魔竜さん達と、わたしが対します」
(テラスリプル──!)
「貴様は、もう殺めたくなかったのではないのか」
「わたしの心は感じてもらえているはずです」
「……それでもやるというのか。それが、自分の役目であるなら」
「あなたに苦しみを強いた過去の主神テラフィリの罪を、わたしに償わせてほしいんです」
「償うために、我の同胞を殺すのか」
「ちぐはぐなようですが、魔竜さんが暴れることをあなたが許しているとは、わたしは思っていません。モカ村を焼き払った魔竜さん、自らの身を焼いてまで攻めたフロートさん達、皆さんの眼を通して、あなたは感じていたはずなんです。そうでなければ、わたしの話をこうして聞いてくれることはなかったとも思っています」
自分が放ったフロート達と別の魔竜がモカ村を失わせたことを、眼前の魔竜は望みながらに苦しんでいる。
「あの地を選んだのは、仕返しだったんですよね」
「……」
魔竜はうなづかず、一つ、呼吸をした。長く、長く、重いそれは、胸のうちの全てを纏め、胸のうちの全てを吐き出すように。
「我も──、もう、殺めたくはない」
テラインが育んだ大地に妹分が育てた森、そこに住んでいたひとの血筋。それらがペンシイェロの森とモカ村の起源であることは、テラインの話から察せられる確かな事実だ。テラインが両拳の骨を折りながら食い止めんとし、妹分が力を尽くして止めたからこそ、モカ村は黒い影ことフロートソアーに囲まれていたのだ。救われた森がどのような経緯で現代まで存続していたかは残念ながら判らない。だが、ペンシイェロの森から成るモカ村は、テラインと妹分の生きた時代から失われることがなかった。テラインと妹分、どちらが欠けても失われるはずだった自然の循環が失われなかったことが真実の断片だ。魔竜の話を聞いたテラスは、その断片に迫ることができた──。それゆえに数多の魔竜と対することを決めた。
「あなたの心も、皆さんの命も、大自然の営みも、テラインさん達のように守りたい。わたしは、そう思っています」
「……主神への、チーチェロへの、怨みが消えたわけではない。ただ、我に取って、貴様は、あまりに都合がよすぎたな」
魔竜が、拳を下ろし、
「よろしく、頼む」
と、頭を下げた。「どうか、同胞に健やかな眠りを」
「任せてください」
(……正気)
とは、リセイの困惑の声だった。(あなたの魔法でも、わたしの氷剣でも、今、落ちてきた場所にいた魔竜を捌ききれない。いったい、どれだけの時間が要ると思っているの)
(わたしは時をいくらかけてでも担いたいです)
(時間だけをいったんじゃない)
リセイが、叱るように声を荒げた。(あなたの心が持たない……!そういっているのを解りなさ──)
(解っています)
リセイの心遣いも、自分の限界も、理解している。それでもテラスは、何夜・何星霜を掛けても、やり通すと決めた。
(わたしは、思ったより危ういことが好きなのかも知れません。皆さんが感じてきたことを、感じたいのかも知れません)
(あなたがその役目になく、矢面に立つ必要がないのよ。それでもあなたは十分に傷ついた。わたしが、全てやる)
(わたしは、わたしがやるといったんです。リセイさんには、別にお願いしたいことが──)
「む……」
ぼたっと魔竜の肩に落ちて、氷柱をするするっと移動したものがテラスの肩に登った。
「チーチェロのもとにいたイタチめが……」
「あ、睨んじゃダメです、魔竜さん達のこと、引き受けてあげませんよ」
「む……、狩るつもりもなく、そんな眼になってしまったようだ。許せ」
魔竜が頭を搔いて溜息。「不意を衝いて落ちてきた雪紐のようだ。貴様に懐いているのか」
「なかなか素早い子で、テラリーフ湖から追いかけてきていたようですね。あ、──」
青いイタチ。これに自我は存在しない。チーチェロの魔法で動き出した氷そのものだから体温が低い。
「渡りに船。まさしく、イタチさんですね」
「まさしくとは」
「とっても幸せということですよ」
「よく解らんな。動物を生命の証とするのは、理解できる気もするが」
魔竜が首を傾げると、リセイが言葉を発した。
(わたしとの話がついていない。あなたがわたしにお願いしたいこととは何。それは、あなたの負担と同等以上のもの)
(同等以上です。わたしは、罪を強いるつもりですから)
(罪ですって)
感覚を共有し、心も察せられるリセイがテラスの考えを読み取れなかったのは、テラスがそれを瞬発的に思いついていたからである。
(主神テラフィリはお祖父様だと聞いたことがあります。恐らく、モカ村に訪れたことのある主神さんが、同じひとです。テラフィリさんへの偽りの誉に対して、また、誉を拒まなかったテラフィリさんを訝って、テラインさんは怨念に取り憑かれ、魔竜になってしまいました。すなわち、ひとの誉を奪うことや自らを偽ることは、罪なんです)
(他者の名誉を掠め取る行為を罪とするのは理解する。でも、自らを偽ることは罪かしら。あなたが自らの思いを否定されたあの日から──)
(言わなくても、憶えています)
主神となって間もない頃のこと。テラスは、一つの偽りによって功績を築いた。けれども、それが露見し、主神としての発言権と功績を失った。テラス体制の神界宮殿における主神司令型議会制が、そのとき、確立した。
(わたしが偽ったためです。議会の皆さんの考えが正しかったんですよ)
(あなたは意思を封じられた。冷たい悲しみに負けじとひとびとを想って、長年したためて表に出さなかった、いや、出そうにも、出せなかった!……ひとは、ひとは……波風を立てないよう、不用意なことをしないよう、気を遣って本心を隠すことがあるわ。それも、一つの偽りよ。そんなことまで罪に問うの)
(リセイさんのいう例なら罪があるとは思いません。わたしがいっているのは噓をまことのようにすること、それを、背負わせること。ですから、罪を強いる、と、いったんです)
(わたしに噓をつけと)
(やれるかどうかは判りませんが)
(どういうこと。いったい、なんの噓を)
(今に解ります)
氷杖と刃折れの剣を氷柱に立てると、テラスは両手で青いイタチを撫でた。
「ごめんなさい。あなたを貸してください」
青いイタチが暴れることなく手のうちで落ちついたので、テラスはひととき集中した。
……お母様は、穢れがたまたまわたし達に引き継がれたといいました。
テラスとテラスプル、じつの娘に穢れを全て押しつけた恰好で魔物化を免れたとも。
それは、都合がよすぎる。
……お母様は、いくつものを真実を隠していました。
全てではないだろうが、テラスはいくつかの真相を見通している自信がある。その一つが押しつけられた穢れについてだ。
……穢れを引き継がせた。それが真実です。
押しつけた恰好になったことも一つの真実だ。いま問題なのは、動機よりも手段だ。穢れの継承が偶然でないとしたら、確実の手段があったと考えるのが妥当である。テラスが知る神の力にそんなものはない。だとしたら、それは精霊の力だ。
……自分の体から穢れを切り離す手段。それがあったはずです。
テラスがひたすら集中すると──、
「──なっ!」
「……できました」
手から零れたときには、青いイタチがひとの姿を得て立っていた。それは紛れもなくテラスの姿である。モカ織の着物もそっくりに再現したもう一人のテラスには、確かに人格が宿っている──。無数の氷面に映り込んだ姿をテラス自身も見分けられない。
「ど、どういう、こと……。何が、起きた」
彼女が戸惑うのも無理はない。正面に佇むテラスの姿を見たからだが、こんなことができるとはテラス自身が知らなかった。心の準備ができるはずがない。
テラスの姿をした二つの人影、その一方が、一方を窺う。
「テラスリプル、いったい何をした」
と。その人影はまさしくリセイである。
「イタチさんにわたしの姿を取らせて、穢れとわたしの魔力を切り離しました」
「この魔力──。こんなことって──」
愕然として両手とテラスを交互に観るリセイの横に、魔竜が佇む。
「貴様も使えたのだな。それは、魔力を切り取り別の個体を作る力だ」
「フロートさんや魔竜さんを作った穢れがテラインさんの持っていたものであろうことから手を思いつきました」
「我の持つ魔物の力と貴様の力では厳密には別物だが、結果は似たようなものだな」
似て非なる結果。
摘師修業初日、倒れるようにして帰宅したテラスは、カクミが夕食を作ると聞いて手を挙げた。
──わたしも煮炊きをしてもいいですか。
──これからはそういうのも自由ですし、一緒に作っちゃいましょ〜っ!
テラスはカクミの笑顔を見た瞬間、疲れが吹っ飛んだ気がした。玉子サンドイッチを作るというカクミが台所に入ると、踏台を用意してくれて、身長の低いテラスでもカクミとほぼ同じ目線で調理の手伝いができた。卵や野菜、ボウルや包丁、マッシャや鍋、どれも直接触れたことがなくて、カクミが一つ一つ渡してどのように扱うかを丁寧に教えてくれた。不勉強で物覚えの悪いテラスは手伝いの中で何度も失敗して足を引っ張るのみに終わった。けれども、カクミが終始とろっとろに笑っていたから、弾む思いを封じ込めずにいられた。
カインを呼んで囲炉裏を囲むとできあがった玉子サンドイッチを食べつつ、調理中の出来事を話した。二人が食べる速さを合わせてくれたから、テラスはゆっくり食べて、穏やかに、それでいてわくわくと話すことができた。
──テラス様の自立も、遠い話ではないのかも知れませんね。
と、父親のように、あるいはお祖父さんのように、カインがいってくれた。
三人で食べた食事はおいしくて、忘れられない。
ずっと胸が躍っていた。服を着せてもらっているときも、みんなの話を聞いているときも、暖かな囲炉裏を囲んで話を聞いてもらっているときも、森を歩いているときも、社にお祈りするときも、誰かの声や息遣い、機織りの音色に森の声、動物達の賑やかさ、風と土のにおい、いろんなものを聴いて、ずっと。
そんな場所に還りたい。還りたくないわけがない。
正しい行いと偽りの行いが同じ結果を生むことはない。似たような結果を生み出しても皺寄せが発生してしまうのが偽りの行いだ。ただ一方で、皺寄せがあってなお、あんな幸せな時間が待っていることをテラスは知らなかった。そのとき、そのとき、偽りも真剣に導き出した答だったから今があるのだと、そうしてこれからもそうであるのだと、テラスは疑わない。予測している皺寄せ、そうでない皺寄せ、全て乗り越えてまたあの場所に還ることも疑わない。
同じ姿をしたリセイが、
「──ちょっと待ちなさい」
と、テラスの胸に指を突きつけた。「あなた、これをしてわたしに何をさせるつもり。……嫌な予感しかしない」
「体をともにしていたときに感じたことでしょうから、その予感は当たっています」
「本気なのね……」
「はい」
テラスは、即答した。「リセイさんには、わたしの代りに日の下に出てもらいたいんです」
「……」
俯いて、目を離さないリセイ。
魔竜が口を開く。
「なるほどな。同胞を滅するにも時間が掛かる。あるいは、一生、地上には出られないかも知れない。リセイは貴様を騙り、皆を安心させる役目を強いられる」
「はい。リセ──」
「断るわ」
リセイが右腕に氷剣を纏う。「わたしは、あなたを守るために生きたいと、心から思っている。それを疑うような真似を、あなただけはしないで」
怯えるように氷剣を構えたリセイに、テラスは首を振って応えた。
「わたしであるリセイさんにしかできないことだから、任せたいんです」
「噓……どうして。わたしは、あなたなの。あなたがいないと……わたしは、生きられない」
「リセイさんもテラインさんと同じで、独りだったんですよね、わたしが気づくまでずっと」
一五九万年。テラスより孤独だったのは誰だった。リセイは、テラスを騙った。そうしたのは、どうしても、テラスにそう思わせたかった。そう思わせることで、テラスが自分を捨てることはないと信ぜられたからである。
夢の中で出逢った「リセイ」は、リセイが作り出した一つの偽りだった。
が、テラスは、それを噓とも思っていない。
「……寂しい思いをさせてしまって、ごめんなさい。それに、わたしが独りにならないように見守ってくれて、ありがとうございました」
テラスは、心を込めてお辞儀をした。
「テラスリプル──」
「リセイさんも知っているように、わたしはとっても頭が緩いです。リセイさんのようにいろいろなことを広く考えているとは言えません。自分を守ることも、運動もできなくて、危なっかしくて、ひとに尽くす手立ても至らないところが多くて、リセイさんがたくさん手を貸してくれていたんだと思います。けれど、わたしは、わたしの力とわたしの心で、皆さんに尽くしたいんです。リセイさんの助けに頼らずに」
「自立したい。そういうこと」
「リセイさんに取っても、一つの機となると思います。知っていますか」
「……何を」
「ひとは、どんなに離れても、心は近くにあるものなんですよ」
「──」
テラスは、目の前のリセイを感じている。体の中にいなくても、リセイの心を感じている。同じように、ここにはいないカクミやカインの心も感じている。触れ合った多くのひとびとの心も、感じている。その心が、自分のために苦しんでくれることも、感じている。
「わたしは、わたしのために怒ってくれたリセイさんに頼みたいんです。リセイさんなら、誰よりもわたしのように、皆さんのために動いてくれると信ぜられますから」
「…………」
唇を嚙んで、リセイが黙りこくった。氷剣が溶けることはなく、地中の光を湛えて美しく閃いた。
「抗うわ」
リセイがぽつりと述べたのは、優しさだった。「この選択は間違っている。あなたがいなくなったあとのカクミさん達の気持を考えたでしょう。それでどう。わたしに代役が務まると本気で考えた。そうだとしたら幻滅よ……」
「幻滅してください」
テラスは、左手に氷杖を、右手に刃折れの剣を握り、リセイと向かい合う。「わたしは、この意を曲げるつもりがありません」
「っ……、……そう」
リセイが、左腕にも氷剣を纏い、対した。「一回の勝負で決めるわよ」
「負けたほうは、ここでのやり取りを皆さんに話してはいけません」
「地中に残るのはわたし。すぐにあなたのもとへ戻るわ」
「わたしは伝えません。リセイさんも、よろしいですか」
「約束するわ。体に一撃を入れられるか、氷柱から落ちたら負け。いいかしら」
「解りました」
「動じないのね。あなたは、覚悟するととこんと強い」
「リセイさんを始め、皆さんのお蔭です。肝が据わりました」
「運動神経は言わずもがな。今のあなたが一秒も持つわけがないでしょう。走り出した瞬間、わたしの一撃を受けた瞬間、氷柱から滑り落ちて即終了よ。大丈夫、わたしが、あなたを助けてあげるから黙って負けなさい」
「まぐれでも勝てば、わたしの意を受け入れてくれますか」
「ええ。今までのわたしと同じと思うと痛い目を見るわよ」
「言の葉を返します。ごめんなさい。またつらい思いを、させてしまいます」
「……」
「……」
いくら語ろうと語り足りない。されども語るべくもない。お互い、目を視れば本気が解り、退けないことも解る。幾度ぶつかろうと武器を手放さないことも、勝敗が決した瞬間に手を差し伸べることも、その先、どちらが地上に出ても互いがつらい思いをすることも──、全て解っているから、
「わたしは負けない……!」
「はい……」
氷は、ぶつかるや全てを包み込んでいった。
──一七章 終──




