一六章 神風
いつ明く。いづこに明く。
夜明けを妨げ、陽の恩恵に与るは、信奉されし偽りの神祇。
矮小の自身を知らず、世の理に逆らう梼昧を一笑に付そう。のぼせ上がった者には等しく神の裁きが下ろう、と。
だがしかし争う力を持つならばそれが無意味と知らしめることに吝かでない。
……それが、真に崇められし者の務めであろう。
高緯度にある発光中央坑道。フリアーテノアきっての利潤を産出した封印の地は、チーチェロの魔法によって大稜線から吹き下ろしていた冷気が弱まっていることを体感でき、夜暗の下にも氷の有無が一目瞭然だった。
一足先に宮殿騎士団が坑道の出入口付近に詰めかけて厳重警戒態勢。仮設の詰め所とバリケードを併設して一般神の立ち入りを禁じ、周囲の魔物を討伐して魔竜討伐作戦実行の準備を進めている。
寒気が立ち込めていることに変りはないが、分厚い氷の壁が消え失せ、入ることができるようになった発光中央坑道内部に銃士長マリアが潜入・偵察を行っているそうである。
魔竜討伐作戦はテラス、カクミ、カイン、マリアの四人で行う予定であったのを、カクミの提案で微修正してマリアを外した形に落ちついていた。作戦から外された恰好のマリアが主神テラスプルや民に尽くしたい気持を抑えるわけもなく、潜入・偵察の現場判断に繫がったことが容易に想像できた。
魔竜に操られる危険性を承知している少数精鋭が潜入する。この作戦方針に沿って考えるとマリアの単独潜入が妥当とは言え、危険なにおいがした。発光鉱石の特性や魔竜の脅威を宮殿に伝えたがそれ以前の問題がある。
……マリア殿は、この坑道を知らぬ。
封印後に宮殿騎士団に入団した者は誰も入ったことがないといえばその事実は揺るがない。発光中央坑道は多くの者に取って未知で、現在となっては戦闘能力が伴うカインのみが道案内できるといってもいい。
……おまけに、封印が解けたことで落盤が起こっている可能性もある。
坑道内部の落盤で未発見の発光鉱石が露出・散在していることが考えられる。操られるのは言うまでもないが、氷が溶けたことで脆くなった構造があった場合には落盤自体も危険だ。
宮殿騎士団と魔竜関連の情報をやり取りしてそのようなことを考えていたカインは、
ぐらっ──。
憶えのある大地の揺れに、身震いした。
……あの頃と、同じだな。
テラクィーヌ達と発光中央坑道に入ったとき体感した非自然性地震。魔竜の胎動とも表せられようその揺れに、焦燥を覚えずにはいられない。封印が解けたといっても氷のその性質上、最奥に向かって徐徐に溶けている可能性が高く、機先を制することがまだ不可能ではないはずである。行動を急がなければならない。
出入口付近を宮殿騎士団に任せ、カインはマリアを追った。
……操られず無事に最奥まで辿りついたとしても、マリア殿一人では厳しい。
急ぐのは、マリアを道案内する目的もあれば援軍として前線に入る目的もある。過度の消耗で睡眠・休憩中のテラスとリセイ、それから疲弊しきったカクミは戦闘に参加できない。状況を好転させるには、カインが最善の行動を執るほかない。自分以上の援軍を期待できない今、時間稼ぎという悪手は打ちようがなく、討伐以外の選択肢はない。それもまた本来の作戦と比べて愚策であることを誰より解っている。
……それでも、やらねばならぬ。
約一五九万年前、自分が宮殿に残されたのはテラクィーヌがテラスを想ってのことだとカインは思っていた。この日のためだった可能性はなかろうか。彼は先の先まで考えていた。テラスのことを想い、同時に、民のことを考え、魔竜討伐を託したのではないか。飛躍した考えだろうが、そう思えばこの危険な状況にも立ち向える。
……わたくし如きに過大な運命が託されたものですよ。
カクミのような際立った戦闘能力や切札がカインにはない。自称したまま凡庸で、魔竜に遅れを取ったことも忘れていない。強い意志と力を兼ね備えていたテラクィーヌやチーチェロですら事実上の敗北を喫したことも存じている。
……それゆえに、わたくしに任せてくださったのでしょう。酷なことをしますね。
主に文句を垂れつつ、発光鉱石が採り尽くされた真暗な坑道を駆け抜ける。記憶が活きる道とそうでない道、いずれも日の光が射すことなく、暗闇に昔日を映さずにはいられなかった。
……ッ!
バンッーーーーッ!
思い出に浸ることも、思いに応えることも、長年やってきた。それを打ち砕かんとする脅威が目覚めてしまったことも、今度こそ眠らせなければならないことも、判っているが。
「マリア殿……」
落盤の陰から銃撃。反響する発砲音が耳を劈いた。魔物などの敵に発砲しているなら、カインは彼女の横につけて接近戦に対応した。銃口はこちらを向いている。
「操られてしまったか」
折れた坑道の先で発せられた強烈な閃光は燃えた火薬。それが治まると、坑道の奥が仄かに明るくなっていることに気づく。向こうで発光鉱石が露出しているのだ。反射光に照らされた坑道の中が戦闘で荒れていることも確認した。マリアが何者かと激戦を繰り広げた結果、坑道奥の発光鉱石の前に追いやられたか、発光鉱石を露出させてしまい操られたと考えられる。
……テラス様に無駄な負担を強いた失敗だ。活かさねばな。
カインは瞼を閉じた。発光鉱石の直射光を見なければ操られないと判っているものの、新たに露出した発光鉱石を見てしまう虞もある。対策は、徹底して視覚を断つことである。
……いつか訪れようこの日のために、磨いてきたのだ。
いかなる戦闘においてもテラスを守れるよう、魔竜を討伐できるよう、鍛錬を重ねてきた。最大限の力を発揮するのは魔竜と相見えたときと考えていたが、その前に銃殺されては意味がない。
……悪いが時間稼ぎもさせぬ。手にも、乗ってやらぬ。
拳を握り、魔法の風を突き出す。岩陰から放った風は坑道を崩さず、マリアも擦り抜けて奥へ一点集中、ハンマをぶつけたかのような破砕音が響いた。
瞼を細く開いて確認すれば、仄かな明るさはなくなっており、マリアが倒れていた。カインが狙ったのは坑道奥の発光鉱石。操られていたマリアが解放されたのである。理屈さえ判っていれば対処は簡単。カクミが気絶させようとして失敗し、マコトに大きなダメージが残っていたことを無視できなかった。本気で気絶させたら身体的ダメージが重く、目覚めたあとの援軍を望めなくなってしまう。
マリアに駆け寄り、銃をホルダに戻し、顔色を確認する。
「どうやら、消耗は少なく済んだようだな」
今すぐ目覚めそうにはないが、操られるまでに能力を遺憾なく発揮していたのだろう、目立った怪我がない。
……悪条件下でよく戦ってくれた。しばし休んでおれ。
近場に怪しい気配がなく魔物はいないと判断した。フロートもそうだが魔物はどこから湧くか判らないのでマリアを念のため岩陰に隠して、カインは瞼を閉じたまま先を急いだ。
……かなりの落盤が発生している。
記憶にあるものより新たに発生したものが多い。歩きにくさはあるものの発光鉱石の露出は少なく、発見・破壊して進むことができた。
ハイナ大稜線の地下空洞のような暗闇の移動が続いて時間感覚が奪われる。フロートの奇襲に警戒して進むこと何十分か、何時間か、もしか、思ったより時間が経っていないか、
……最奥だ。
カクミのように魔物を個別に察せられないが、大きな気配があることはカインにも判る。それが魔竜であることは場所を考慮すれば判然、と、いいたかったが、
……気配が、二つある。
宮殿騎士団によれば出入口は監視役が常に見張って、先行したマリア以外に潜入した者はいない。魔竜が無限に作るフロートが二つ目の気配と考えるのが無難だが、
……あの気配は──。
封印が解けたばかりの凍えた坑道で、いま初めて、カインは鳥肌が立った。
「潜もうとも無駄だ」
「っ!」
こちらが察しているのだから、向こうも察してしかるべきか。だが、その声にカインは恐怖せざるを得なかった。
魔竜は言葉を発しない。今の声はフロートでもない、と、断言できる。
……どの道、避けられぬ。あなたは、ここまでお考えだったのでしょう。
偶然ではなく、カインの思い込みでもなく、主テラクィーヌは魔竜討伐を託していた──。カインは、意を決し、最奥の空間へ踏み出した。円柱状の発光鉱石〈巨大石柱〉が天地を支える広大な採掘場は、魔竜の発する熱のためか暖かくて薄ら寒い。
カインは歩みゆく。魔竜の横、向かって左の気配から、声が掛かり続ける。耳に馴染んだ声質でありながら、決して昔日と重なることのないものだった。
「瞼を上げよ」
「魔竜の言葉など聞くに値せぬな」
「耳も閉づか。確と開けるがよいぞ」
「言葉を発しようとも魔物は魔物なのだな」
「言葉を解せぬは貴様とて同じであろう、偽りの神祇」
「わたくしは自分を神などとは思っておらぬ。確かに、種族としては神なのだろうがな、お主の言葉を借りて偽りのそれと認めよう」
「承知で参ったと。自惚れが過ぎたものだ」
「生きて帰る予定を立てておらぬ」
「ほう。自惚れでないと」
「無論、自惚れでも生還が最善とは考えておるが、貴様のような魔物は己を犠牲にしても屠らねばならぬと決意したのだよ」
「貴様一人が犠牲になったところで我は満ち足りない。次の者も食らうとしよう」
「その口を縫いつけてやりたいところだ」
瞼の闇に、テラクィーヌを思い浮かべる。
彷徨った。
他神界へすら飛んで、流れに流れた。気儘ともなく、意識もなく、意図もなく、何かが動けば動き出す風のように、流れた。
風はいつも髪と頰を撫でていた。気づけば常に傍にあって、友のようであり、家族のようであり、ときには荒波のようであり、いつも離れず傍にあった。その風を、厭う。心が叫ばしいとき、途方もなく遠いところへその意を運ぶ存在でもあった。
──偽名の男が愛を語るか!
仕事柄、身許を隠す必要に迫られ、偽名を通して生きなければならなかった。本名を伝えられるのは家族のみ。そうなるまでは誰であっても、たとえ恋人やその家族であっても、亡くなったひとの遺族であっても、真の名を明かせなかった。
フリアーテノア。風のように流れてあまりに小さな星に辿りついた。跳べば反作用でどこかへ行ってしまうのではないか。それほどに小さな星が、風を受け入れた。主神テラクィーヌ。威光の源たる優しい笑顔は、傷ついた過去を受け入れてくれた。
「気持のことは本人に任せるべきだろう。わたしは自分を隠したくない。君もそうだろう」
「……ですが、わたくしの役割が必要だったとは重重理解しておるのです」
「そうだろうか」
「……」
「わたしは思う。そんな仕事が必要という世界がひとに苦しみを強いてしまうのではないか。そんな世界にはしたくない、と、君を観て強く思ったよ」
「わたくしを観て」
「そうだとも。理解している。そう言った君が、一番苦しそうではないか」
「!……」
「今日から真の名を背負い、正面きって生くのだ。自分を偽るべきではない」
自分でも忘れていた心を拾い上げて、応えてくれたひとに、カインは──。
「貴様の想いに応える者は、いない」
物理的には、同じ口であろう。が、その言葉に、彼の心が籠もっているとは、どう酌んでも考えられなかった。
「お主が奪い取っていったのだ。それに飽き足らず、愚弄し、踏み躙り、冒涜したのだ、わたくしを救ってくれた主君の命を……!」
「っふはははははは──」
「……」
愉しげに笑う声は、テラクィーヌ、そのひとのもの。カインが聞き違うはずがない。けれどもテラクィーヌのものではないのだ。他者を自分と同じ「ひと」と思わぬ、虐げることを悦びとする、渇いた声でしかない。
「お主こそが偽りの神祇だ。崇め奉った主君とは似ても似つかぬ紛い物だ。わたくしどもの主君の御身、こちらの世界に返してもらう」
二つの強大な気配を二〇メートル先に捉え、カインは構えた。「来るがいい。わたくしに躊躇いなどない」
「己が矮小を知らぬなら交わす言の葉もない。お望み通り、捻り潰してやろう」
ダンッ!
坑道が揺れるような振動とともに彼の気配が迫った。
……風切り音。やはり剣を携えている。
不自然な雑音が入っていた。カインの記憶にある彼の剣と比してやや小さい。雑音は、その刃の先端辺りから発せられていた。
……折れている。
激戦に毀れたのだろう。それを、魔竜が使わせている──。
……しばしの、辛抱です。
状況を把握しきれているとはいいきれない。果して、戦ってよいものかどうか、斃して彼が救われるか。瞼を上げられない状況は、却ってよかった。
「躊躇いがないのではなかったのかッ」
振り翳される刃折れの剣を躱して、カインは手刀で気配の首を狙う。
……太刀筋が、互いに甘いな。
後手に回らざるを得ない手刀を彼は容易に躱せる。一方で、彼の動きは手加減か、それともそうせざるを得ないか、カインが思うより摑みやすい。刃折れの剣を携えた彼は操られているに過ぎない。ゆえに便宜上「傀儡」としておくが、この傀儡、テラスやリセイが対したというカクミやカインより動きにキレがない。それでも魔竜が傀儡を操っているのは、
……わたくしもとい、こちら側を動揺させる意図がある。
その意図は、カイン個人と、テラスには、きっと殊に有効であったが、
「躊躇いはないと言った」
「ぐッ!」
躱された手刀は囮だ。手刀に遅れてついてくる風の魔法を放ち、傀儡の後頭部を狙い打って前屈みになったところで腹を蹴り据え、壁まで吹き飛ばした。それにとどまらず、カインはもう一つの気配、魔竜の背後へ瞬時に回る。
「ッ!」
魔竜が息を吞んだのを風の流れが伝えていた。巨大な気配。されど、どういうことか、体格としてはテラスほどに小さなものであった。
……魔竜の進化形であろうか。
手刀で捉えたものは思うより軽く、予想より上へ弾き飛ばした感がした。光源のないはずの坑道内でなんとなく光を感ずるのは、発光鉱石がこの空間の至るところにある。好奇心に任せて瞼を開けては操られて一巻の終りだ。
……一気に決着をつける。
打ち上げた魔竜を両拳から放った風で追撃するも、
「攻撃のつもりかッ」
迫る傀儡の斬撃に、魔法が乱れる。
……何度も立ち上がってくる、か。
傀儡であり、恐らく屍なのだ。……何度も傷つけたくはない。
運動神経はカインに劣る程度であったが、生前はもう少しまともな動きができた。体が生きているとはいいがたく魔竜の操作によって動かされているので動きが鈍っているのである。無駄に傷つければ、損傷が激しくなってしまう。
……テラス様──。
可能であれば、最期に引き合わせてあげたい。本当の意味で看取るということはできないとしても、物心ついてから会うことのできなかった父と再会させてあげたい。痛ましい姿でないほうがいいに決まっている。
巨大な気配が、二つ揃っている。左手に傀儡の彼、右手に魔竜。じわりと迫るも、その姿勢から意図を感ずる。
……巨大石柱から引き離したいようだな。
以前の形を保っているのは、魔竜が小型化して離脱できたからだろう。開けた空間の中央にかつて観た発光鉱石の巨大石柱がある。
……彼を操っているのは、まさしくあれなのだろう。
村民やカクミ、カイン自身やマリアが魔竜の操作から脱したときと同じだ。光を失うまで発光鉱石が破壊されれば操られたひとは解放される。
「貴様の考えていることは判っている。石を破壊したいのだろう」
傀儡が愉しげに笑う。
発光鉱石採掘時に残され、構造維持の役割を担っている岩石柱とともに比較的脆い巨大石柱も確実に空間を支えている。岩石柱と巨大石柱、どれを破壊しても、採掘場の天井を支えきれず連鎖的に落盤が起きる可能性がある。
「やるがいい。代りに、貴様も、この体も、永久に失われような」
「脅しのつもりか」
覚悟は既に伝えた。
カインは足下に風を起こして右へ飛び退き、岩石柱に潜んで拳を振るい風を左右に振り分けると、今度は目の前の岩石柱を破壊して落盤を引き起こした。
「貴様、自害するつもりだったか」
「ひとの覚悟を舐めるな!」
死を覚悟している。同時に、生きる道筋も見出している。どちらの確率が高いかなどいうまでもない。それでも覚悟を決めた。何かが動き始めたら勝手に動くのが、風だ。
「お主に感謝しよう。なんの覚悟もなかった過去から、少しは成長させてもらったよ──」
魔竜という脅威。主君への冒涜。遺された者への敬愛。カインを突き動かしたのは、その全てだ。
魔竜と傀儡が落盤に気を取られた隙に、左右に振った風が次次に岩石柱を破壊、坑道を支える頑強な構造が失われていく。気を失ったマリアがいる比較的細い坑道に影響が出ないことを考慮している。
「やめろッ!」
「わたくしは大層愉しいのでやめる気がない!」
破壊神なのかも知れない。壊すのがこれほど愉しいとは思わなかった。落盤を避けて走るのも愉しくて、童心に還るようだった。
……──偽らないほうがいいですね。
密かな感情を胸に、カインは巨大石柱に迫る。魔竜が物理的な死を迎えることはカクミによる討伐で明らかだ。大規模落盤で魔竜を生き埋めにできれば斃すことも難しくないだろうが、それだけではカインの望みに程遠い。大規模落盤に拍車を掛けるにも、空間中央に陣取る巨大石柱の破壊が勝利の最低条件だ。
「させるかッ!」
「御身はお主の勝手してよいものではない!」
気配で捉えるにも限界があるが、斬撃を誘導し、刃先が落盤に取られた隙に傀儡の両手首を締め上げた。
「お主は先手を打ちすぎた。後手というのは、相手の出方を観るに悪くないのだ」
「偽りの神祇が説教などと」
「偽りであろうと真実を語れぬわけではあるまい。その点、お主も噓ばかりではなかろうよ」
傀儡の動きは魔竜の意図するもの。けれども、全ての動きが自由になるわけではない。体を持つ者の性質を越えることはできない。
「残念だったな。テラクィーヌ様は運動神経がよくないのだよ。少なくとも今日のわたくしよりはな」
「貴様……!」
鍛錬した体が傀儡の動きを容易に封ずる。
轟音を立てて崩れ落ちる岩岩。それを躱して迫る魔竜の気配を感ずる。動き回って位置を摑まれないようにしていたカインだが、傀儡の感覚共有から位置を正確に割り出されるのも、魔竜自身の感覚で探り当てられるのも、時間の問題だ。
カインは、空いた右拳を振り上げる。
……これで、終りだ。
放った風が、頭上の落盤ごと巨大石柱に突撃し、間もなく、
ーーーーーイィィィンッ!
甲高い衝撃音が耳鳴りのように空間を突き抜け、轟音に紛れていった。もはや落盤に視界を妨げられて確認が難しいだろうが、光を失う程度の暴風を放ったつもりだ。光る破片もあろうことから瞼を開けるにはまだ早いが、
……わたくしの仕事は、済んだな……。
最奥を脱する細い道から可能な限り離れないようにしたが岩石柱を崩して想定以上の落盤が発生した。お蔭で魔竜ともども退避は困難だ。共鳴的に増す轟音で耳が利かず方向感覚も失われてしまった。瞼を開けたところで落盤地獄であろう。まさしく、逃げ場なしだ。
「……ふふっ」
カインは、笑ってしまった。
「何がおかしい」
と、傀儡が抵抗を諦めて頭上を仰いだ気配。「貴様のせいで、この体も腐り果てるのだ」
「いずれはそうなったであろう。主君はとうに亡くなった。氷による封印、保存された体にご意志が遺っているわけもあるまい。救えなかった過去に戻ることはできぬが、こうして再び見えたことには偶然の妙を感じてしまうのだ」
「チーチェロの仕業であろう。あの女が、可能性を残した」
「なるほど。偶然は偶然でなく誰かの思い──、なおさら、ふふふっ」
カインは笑ってしまった。最後の最後に信じた主君の身の傍で果てることができるのはチーチェロの思いに加えて、テラクィーヌの思いもあってこそである。
……あなた方の厚意に、わたくしは感謝します。
身を揺らす落盤と轟音に、カインは慣れた。
「なぜ、貴様は笑っていられる」
「なぜとな」
「……感じていないとでも言うのか」
「一夜のうち何度目であろうな。慣れてしまったよ」
刃折れの剣が腹を抉っている。傀儡の突き出したものだとは判っている。
「偽りの時間に培った体力も痛みへの鈍化も童心に還ったとて失われない。全てが、わたくしの力となっておる」
「小さな力だな」
「いかにも。だが、自分の守りたいものさえ守れれば、それで充分ではないか」
「……」
傀儡を見下ろすように、カインは落盤の下敷きになっている。凄まじい重さが背中に伸しかかっていた。意識を保てていることにカインが一番驚いている。笑っていられるのも、驚きのうちだ。
「わたくしは、お主を憎んでいる。──」
憎んでこうして対峙し、憎むべきとも思い続けてここにいる。助かる見込みのない傷を負って思うことがある。後進に託して老兵は去るのみ。それで本当にいいのか。去ることが避けられないことだとしても、去るのみ、で、いいのか。
……テラス様は、そして、リセイは──。
走馬灯でも見ているのか、たくさんの記憶の中から何かと何かの記憶が次次結びついて、可能性を拾い上げる。
言葉を持たなかった魔竜の出現。受け継がれた穢れ。主君の死。可能性を繫いだ封印。長年の見守り。カクミとテラスの絆。追放の起点。言葉を得たフロートの接触。植えつけられた穢れ。見逃された命。チーチェロへの猛攻。執拗と捉えられようモカ村への攻撃。生け贄を求めたフロート。魔竜を敵と見做したテラスの裁定。命を削ったカクミを繫ぎとめたリセイ。疲弊しきったテラスとリセイ。傀儡のマリアによる脆い防戦。機動力に欠けた屍を用いた攻防。凡庸な自身がここで一手を講ぜられたこと──。結末を誰が紡ぎ誰が手繰り寄せているか答えるなら、関わった全てのもの、と、いえるだろう。そこに魔竜やフロートや穢れが大きく関わってきたことは、紛れもない事実だ。それを踏まえてとある一つの結末に向かっている可能性を信じ拾い上げたい、と、カインは思った。
……ああ、わたくしは、不甲斐ないことだな。見逃していることがあるように思う。
しかし、この世界の風を感じている気がした。その風を、テラスやリセイやカクミに、この世界のひとびとに、しっかり伝えられたなら、胸を張れたかも知れない。その風が齎す未来が皆に取ってよい未来かは解らない。感じ方は、それぞれだ。ただ、その絵空事のような青い風を信じたく思い、迎える未来も信じたく思い、童心のカインは口を開いた。
「──わたくしは、お主を憎んでいるが、ひとに尽くす覚悟を持てた。自らの脚でそれを成すことができた。お主がいなければ、それはできないことであったろう。無論、お主の悪行を許すという意味ではないが、……テラス様がいたら、お主と、どう、……したのであろうな」
最後の言葉を、声にすることはできなかった。それをじっと聞いていた傀儡の息遣いを感じて、カインは意識を手放した。
……どうか、テラス様に、一目──。
流れゆく風を感ずる。
瞼を開けると、カクミの寝顔があった。
中天の太陽のように意識は明瞭。周囲の様子やカクミの左手から状況を察したテラスだが、リセイから伝えたい情報もあったようで話を聞くことはした。
(──。そうして、先頃までカインさんが戦っていた。戻ったこの感覚が確かなら、魔竜ともども落盤の下に……)
(……)
皆が、決意して挑んだ。その結果がどうであれ、カクミとカインが魔竜を討伐するため命を賭したことを咎めることはできない。それほどの相手であることは、父母の過去に学んだ。
(あなたは、どうしたい)
(カクミさんをテラリーフ湖の皆さんに任せて、発光中央坑道へ向かいます)
リセイの問にテラスはただちに答えた。
坑道内の落盤に宮殿騎士団が気づいて宮殿まで話が伝わっている頃だ。カインが解放したままマリアが坑道内に取り残されたことで救援部隊が潜入、カインの救出に乗り出している可能性もある。
リセイの懸命な治療のお蔭でカクミの息が整っていることは確認した。魔竜の感覚を介してカインの無事を確かめられない現状、一刻も早く救出に向かうべきだ。
(二人がよくやってくれたわ)
(憂いが残っています)
(魔竜が、ほかにいる可能性……)
(リセイさんは感ぜられますか)
(判らない。今のところ、ここに現れた魔竜と坑道の魔竜の感覚を感じない。フロートの感覚をちらほら感じるけれど、それを介して魔竜が生存または発生している様子はない)
フロートの感覚の外で生存していたり新たに発生していたとしたら判らない、と、いう意味では心配が尽きないが、目に見える脅威は去ったと考えていいだろう。
(発光中央坑道のあの巨大な空間は、鉱夫達が石の採掘をより広範囲で効率的に行うため拡充していったもの、とは、あなたの知識にある。構造破壊による大規模落盤の中で生き残れるほど安全でないことも想像に固い)
(救いの手は要らないと考えていますか)
(心構えが必要だわ)
カインの死を。
(ありがとうございます。急ぎましょう)
(ええ)
カクミを触れて瞬間移動、テラリーフ湖のティンクにカクミを預けたテラスは、次に、ハイナ大稜線へと移動した。
小屋が木端微塵に破壊されており、母の姿はなかった。吹雪の影響もあるが、母のにおいを感じ取ることもできない。
(封印が解けたのはチーチェロが害されたためと観て間違いない。恐らく、どこかで……)
息を引き取っている。
(事が済んだあとに。独りは、きっと寂しいです)
(……そうね。行きましょう、少しでも早く会えるように)
(はい)
精霊たる母から授かった瞬間移動の力が、テラスの欠点を補った。カクミやカインのように走れなくても、リセイのように機敏でなくても、会いたいひとのもとへ急ぐことができる。
それでも、欠点は欠点として残ってもいる。純然たる精霊でないテラスは知っている場所でなければ瞬間移動できない。カクミとカイン、二人を伴って封印を確認するため訪れた発光中央坑道の出入口前に移動するのが限界だった。ここから先は自分の脚を使うことになる。
出入口脇で手当を受けていたマリアが迎えてテラスの行先を向く。
「いま入るのは危険だと言ったところで止まるひとではないだろう。気をつけていくんだぞ、テラス様。部隊が揃い次第、あたし達もあとを追う。無理はするな」
「はい」
坑道を入ってすぐ振り向き、「マリアさんも体に気をつけてくださいね」
「うむ、またあとで」
テラスは暗がりの坑道を早足で進む。先の大規模落盤の影響か足場が悪く、一〇〇メートルも進まぬうちにリセイに交代した。
(膨張した氷が入れた罅で壁面が崩れ落ちたようね)
(ところどころに木で枠を作った跡がありますね)
(補強材ね。そうまでして欲した石が魔竜の力を媒介する)
(たくさんのひとの生活を支え、潤した素的な石でした)
(誰も求めていない危険を自らの手で招くなんて、皮肉な話ね)
(誰も求めていないとは限りません。危ないことは、望みなのかも知れません)
(魔物は危険を望む。そういうこと)
(いいえ。とても大きな望みのためには、危ないことが付き物だと思うんです)
(わたし達が把握している以上の欲が、魔竜にはあるということ)
これまでの魔竜達の動きを振り返ったとき、ひとを食らい、力を身につけること以外に、目的があるのではないか、と、テラスは考えるに至った。
(一つの欲といえるのかも知れません。ただしそれはわたし達も持っているものではないかとも思います)
(と、いうのは)
(ひとを求める気持や、羨む気持や、妬いてしまう気持、それから、愛おしいと感じている気持や、労わろうとする気持まで……)
(魔竜やフロートに慈愛はなかったように記憶している。あなた、どこまでお人好しなの)
(あなたがそうだからです、リセイさん)
(……わたしは、あなたよ)
魔竜やフロートと、似て非なる存在。そう。
(ですが、リセイさんはわたしのことをとっても大切にしてくれます。リセイさんや魔竜さんのあいだで体や心の感ずることをやり取りしているとしたら、魔竜さんの感じてきたことをリセイさんが、リセイさんが感じてきたことを魔竜さんが、それぞれに感じていたとしてもおかしくないんじゃないでしょうか)
会話同様に、リセイの脚が止まることはない。
(「どうして」と、あなたも憤りを感じたはずのモカ村焼失はどう説明するつもり。返答次第では村民を敵に回すわよ)
(わたしでさえ胸が痛いんです。皆さんの痛みは計り知れません。思い出してほしいんです。炎の塊に焼かれたのは、モカ村だけではありません)
(森と、森の声……)
(それだけでもありませんでした)
(フロートのことをいっている。あれは攻撃のための自爆よ。攻撃効率を向上させること、相手を恐怖の沼に突き落とすこと、それらを狙った奇策でしかないわ)
(そうでしょうか。感ずることをやり取りしているのに、痛いことを、わざわざさせるものでしょうか)
(魔物というのはそういう生き物よ。共食いすることも知っているでしょう)
(魔竜さんにそういった営みがあるかは判っていません)
(少なくともフロートはあなたを襲った。共食いに匹敵する卑劣な行為を、強いた──)
が、だからこそ、テラスは考えてきたのである。なぜ、テラスの危機にリセイが抵抗しなかったか。なぜ、フロートがあんなことに幸せを感じたか。
言葉は、言葉のままの意味しか持たないのではない。発したひとが抱えた気持や歩んできた道程が詰まっていて、それをともにしてきたひとには全く別の意味を持つことがある。
裁定の前に聞いたフロートの言葉が全て。
テラスは、そうは思っていない。
(魔竜さんがどう考えているか、)
(話をしようなんて考えているの、性懲りもなく)
(判らないままで終わらせていいことでは、きっとないと思います。魔竜さんは、フリアーテノアに住んでいるんです)
(フロートの言葉を真に受けるべきではない)
(そうでなくても、わたし達、フリアーテノアのひとが向き合わなくてはなりません)
(ならばあえていわせてもらう。一人で向き合うべきことではない)
(大きな岩です)
(話を聞きなさい)
(道が塞がれてしまっていますね。向き合いましょう、リセイさん)
(対象をあからさまに掏り替えたわね……)
リセイが右手の氷剣で岩を衝き、凍結させて引き抜きざまに砕いて道を拓く。と、ごろごろと転がる岩や小石に巻き込まれまいとリセイが後退した。
(話しているあいだにカインさんのいた場所にまで来ていたようね)
(急ぎましょう。魔竜さんのことはまたあとです)
(そうね。酸素が薄くなっている……)
仮に生きていたとしても、空気を吸えなければ死んでしまう。燃費のいいリセイが氷剣を操り岩を砕いて砕いて砕き続ける。氷結した岩は深部まで砕かれ、崩れるのとほぼ同時にリセイの右手後方へ引き摺り出されるので前方は道が開けて、後方は小石や砂の山になっていく。
(救援が駆けつけたときに邪魔になるわね)
(押し流しておきましょう)
(あなたは加減を知らないからわたしに任せて)
(お願いします)
肉体や氷剣に限らず、燃費のいいリセイである。水魔法を弱めに放って砂礫を押し流して、落盤の処理に戻った。
(感覚共有で判っていたことだけれど、カインさんのところまでまだ遠いはず。あなたは眠っていてもいいわよ)
(起きています。本当なら、わたしの手で助けるべきひとですから)
(わたしを自分としては扱わないのね)
(わたしの代りにしてくれることを眠って待つのは心苦しいです)
(解った。まだ万全とはいえないでしょう。無理はしないように)
(はい)
カクミやカインが魔竜と戦っているあいだ、のんきに眠っていた。何を言われてもテラスは起きている予定だ。
……カインさん、どうか、健やかで。
祈りが通じたか否か。
「このにおいは……」
(リセイさん、お願いします)
(急ぐわ)
リセイが嗅ぎ取ったにおいは、カインのものだ。安堵と不安が併走しているものの、リセイの懸命の作業は功を奏する。転がり崩れた岩を見ることもなく、見つけた背中を引っ張り出して、テラスが魔法で外傷を治療しつつ息を確かめた。
「カインさん、しっかりしてください!……気がついていないようです」
(呼掛けを続けるのよ)
「(はい。)カインさん、聞こえたら応えてください!」
(治癒魔法が効いているなら命は助かる。魔法も維持よ)
「カインさん!──」
(息が整いつつある。精神力消耗を抑えて継続よ)
リセイの指示を受けて治療と呼掛けを行ったテラスは、カインが右手で摑んでいたために一緒に転がり出てきたひとが気になっていた。治癒魔法が効かず、亡くなっている。
刃折れの剣の柄をそのひとが摑んでいる。カインがこのひとに刺されたことは疑いようもない。が、魔竜やフロートではない。姿見があれば見比べただろう、黒い髪と低い鼻──、自分と似ているひと。
(テラスリプル、何度いわせるつもり。精神力消耗を抑えて)
(ですが……)
(亡くなっている。……落ちついて、やめるのよ)
無意識に治療しようとしていた。カインの怪我が完治しかけていると観るや、なおさらに。
(また眠るつもり)
(……)
カインの治療に専念し、完治を確認すると、テラスは魔法を止めた。
テラスは気づいていた。自分の乱れた息が聞こえる坑道は、岩や土、カインのにおいに紛れて、懐かしいにおいがすることに。
(リセイさん)
(何)
(リセイさんは、カインさんを刺したひとを知っていますね)
(断言するのね)
(あえて伝えなかったのではないかと思いました。リセイさんも、とっても優しいですね)
(……カインさんの態度で、察したわ)
(リセイさん、表に出てください)
(カインさんを運ぶのね)
(それに、いつまでも代わらないと、……)
フロートの言葉を裏づける傷が残った体は、半身が焼け爛れてもいる。そんなひとに、テラスは飛びつきそうになってしまう。
(いいのよ)
と、リセイが言った。(どうやら魔竜は討伐された。世界に、時間の猶予がある。あなたが自由に振る舞うことを咎める者はいない。わたしは、あなたを待ちたいわ)
(……ありがとうございます、リセイさん。少しだけ、少しだけ、待っていてください)
痛痛しい体。その身の一部を、モカ織の裏地を用いた鎧が覆っている。焼け爛れていない左頰に頰を寄せて、テラスはそっと呟いた。
「おかえり──」
息が切れて、言葉が出なかった。
もっと早くに訪れていたら何かが変わっただろうか。そんなことを考えて、封印の妨げがあったことを気にせず、己の行動力のなさを咎めた。
息が苦しい。酸素が薄いのではなく、零れ落ちる感情の激しさが胸に押し寄せて、息を吸うのも自由にならなかった。氷のように冷たい体を労り、抱き寄せることしかできず、それだけが息苦しさを癒やした。癒やしても、癒やしても、癒えることのない息苦しさに押し潰されそうになるものの、──感覚が捉えたものに無頓着ではいられない。
(テラスリプル──)
(……判っています)
癒やすことのできない傷だらけの体にもう一度触れたあと、テラスは左手の氷杖を握り、斃れたそのひとの手から抜き取った刃折れの剣を右手に握った。
「お借りしますね。必ず……帰ってきます」
(代わって。わたしが突っきる)
(お願いします)
カイン達を氷壁で守ったテラスはリセイに交代、刃折れの剣に纏わせた氷剣から枝を伸ばして網の目にし、道を塞ぐ落盤を氷結した。
デッドスペースに砂礫となって崩れる岩石。覆い隠されていた広大な採掘場、その中央に巨大な発光鉱石の柱が佇んでいた。
(カインさんが破壊したはずの巨大石柱よ)
(壊れていなかったんですね……)
操られる危険性。瞼を閉じたリセイに、
「恐れる必要はない」
と、声が届いた。「貴様は、我の穢れを引いた存在。操りたくても操れない」
「信じるとでも」
「貴様達の判断に任せよう」
(こちらが二人いることを察している、か)
(見た目がリセイさんになっていますからね)
(それもそうね)
(わたしの見た目になることはできないんですか)
(不可能ではないわ。この姿は飽くまで対外認識のためよ)
リセイが親切に教えてくれたので、テラスは微笑する。
(いつか、カクミさんやカインさんにリセイさんがおいたする日が来るといいですね)
(あなたに成り済まして入れ替り生活。なかなか愉しそうね)
(穏やかな世になったら、愉しんでみてください。お二人とも笑って許してくれます)
(……そうね、そんな日が来るように)
(行きましょう)
テラス達は、鍛錬を重ねていない。カインのように瞼を閉じて動き回ることはできない。
瞼を開き、己が対峙すべき存在を見据え、踏み出す。空間を閉ざすほどの落盤があったとは思えぬほど歩くに難がない。
(リセイさん──)
(もういわなくていい。ここまで来たら、あなたに付き合う)
発光鉱石が埋め尽くした採掘場で、一際輝く巨大石柱を見上げるのは、黒翼を有する人型。砂礫を踏み越えて、綺麗な地面を歩み、テラスはその人物の横に並んだ。
「お待たせしました。あなたのお話を聞かせてください」
──一六章 終──




