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一一章 冷たい熱

 

 薄明のように現れる。目を凝らすも捉えがたい、霞んで遠退いていくその姿。

 森の足運びは慣れたものだったが、山に空洞にと別の形で脚に負担が多かったのだろう、瞼を落とすと、すっと眠りに落ちた。意識はどっぷり闇の中。ひょっとしたら、その姿を意識して捉えたのは初めてのことだったか。

「リセイさん」

「……」

「聞こえていますか」

「……」

 姿と同じように存在が希薄になっているのだろうか。

「わたしが聖水を飲もうとしたことで力を失ってしまいましたか」

 応答が、ひたすらにない。

 足場の有無も確かめられない闇。耳を劈くような静寂が己の意識に等しいことを想像して、テラスは薄れたリセイの横に立ち、その視線を追った。

 それも薄明のように顕れていた。

 ……あれは──。

 闇の向こう側で、ありもしない景色。

 羽衣の女性に魔法を教わる自分。

 顔の判らぬ男性に抱っこされている自分。

 二人に手を引かれて笑っている自分。

「お母様と、お父様──」

 いつか思い描いていた幻想であり、今の自分が描き直した幻想であることを、テラスは察した。穢れであるリセイがそれを見つめている。それが何を示すか、テラスは聞かずとも解った気がした。

 リセイ。そう名乗った彼女が母を前に意識を乗っ取った理由もテラスは察した。

「リセイさんは、わたしに代わって反抗してくれたんですね」

「……」

「わたしは恵まれています。いつも、傍にカインさんやカクミさんがいてくれて。宮殿を出てからはより多くのひとびとにも出逢えました。いつもどこかで、思いがけず持っていたんですね、あれらの幻を」

 叶った幻想もある。母とおいしいご飯を食べて、カインやカクミを交えてたくさんの話をして、母が父と出逢ったときのことも聞けて、知らない過去が今に繋がっていたことに胸を打たれて、自分も、そうして未来に託す記憶や想いをいだいて生きていたい、と、思えもした。

「リセイさんは、こういいましたね。『──父親ではない』と」

 黒いひとことフロートを指して。

「あなたは……」

 小さな溜息のような息遣いで、リセイが声を発した。「幼少期からの孤独。親の愛に飢えている。生きているはずの母ですら姿を消し、あなたでも、幼い頃には憎しみが全く湧かなかったわけではない」

 テラスはその憎しみを憶えていない。あったのだろうと推測はしても実感が湧かない。それもそのはずだ。テラスには穢れがあって、もとは魔竜の意志が籠もっていたであろう穢れを核としてリセイが生まれていた。

「あらゆる負の心を、リセイさんが引き受けてくれていたんですね。わたしは夢の中のことを外ではずっと思い出せなかったから、話しても詮無いことと、──ずっと一人で抱えさせてしまって、ごめんなさい」

 名の通り、ずっと、ずっと、テラスの負の感情をリセイが受け止め続けてきた。だから、自分は心健やかに過ごしてこれた。テラスはそう思ったのである。

「謝る必要はない。あなたのことを守れるのはわたしだけだから」

「それなら、リセイさんを守れるのはわたしだけですね」

「わたしがいっているのは物理的な脅威からよ。あなたに戦闘は向かない」

「リセイさんは体がありません」

 意識とか、精神とか、いうなれば心の作用のようなものではないか。実体がなく、テラスの体の中でしか存在できない。

「フロートさんに傷つけられたときは、なぜ、わたしの体を使わなかったんですか。お母様のときのように反抗できたはずです」

「反抗は語弊がある」

「……」

「……」

 カインやカクミには言えなかったが、フロートから感じた懐かしさは、穢れの源流たる魔竜を、父として捉えていたがゆえの感覚だったのだとテラスは考えている。リセイはテラスに代わって母に反抗した一方で、フロートには反抗しなかった。その理由は──。歪んだ感情だったとしても、それが支えてきてくれたリセイの判断なら、テラスは受け入れたい。

「リセイさんはお母様と少し似ています。わたしの憶えていない昔のことを知っていて、お母様から学べたところがあるんですね」

「いつもあなたが頭の片隅で想っていたひとだから」

「真似てくれたんですね」

 穢れ。されど、自分の理性。どことなく母に似ているのは、求めてやまない両親への愛情をリセイが酌んでくれていた。自分の一部たり得た理性が穢れによって分離した人格、それこそが彼女、リセイ──。

「わたしは、リセイさんを追い出さないことに決めました」

「追い出すもとい浄化するようなことになればあなたが危うい」

「そういうことではありません」

 リセイが体を心配してくれるように、テラスはリセイの心が心配である。

「リセイさんが心健やかに過ごせるように、わたしが話し相手になりますね」

「……」

「話すだけでも心が軽くなるのはわたしがよく知っています」

 心を酌んで、支えて、行動までしてくれた彼女に、テラスは報いたい。

「……見苦しい話を避けたいわ」

 どろどろした感情を彼女に押しつけてきたせいだ。

「わたし達は、姉・妹のようでもあり、何より、わたしとわたしではありませんか。わたしがそうであるように、リセイさんも躊躇うことはありません」

 穢れやリセイが自分の一部だと認めたら、躊躇することが己を否定することと同義のように感じたテラスである。

「リセイさん。着替えも煮炊きもまともできないわたしですが、受け入れてくれますか」

「解っていて言うのは、卑怯よ」

「とんとんですね」

 テラスだって彼女の気に障ることを言っている。ならば彼女が不愉快な話をすることだってあってもいいではないか。

「わたしを信じてもらえませんか」

「……わたしは、穢れなのよ」

「それがどうかしましたか」

「事実上の魔物よ。誰にも疎まれ、駆逐される宿命にあるわ」

「世の全てのひとが、敵になってしまうかも知れませんね」

「それを判っているなら、」

「なおさら退けません」

 テラスは、リセイを仰ぎ見る。「わたしは、皆さんに尽くしたいと思います。わたしのことを解ろうともせず、それができるとは思えません」

「あなたはこれまでもひとの心に尽くせたわ。勇んで闇を求める必要なんてない」

「それがわたしのことだとしてもですか」

「あなたではない。わたしのことよ」

「リセイさんがいったことです。リセイさんはわたしなんだと。わたしもそう思うんです」

「……」

「わたしのお話を聞かせてください。お願いします」

「……、……」

 目を合わせようとしないリセイが、幻想を見つめて、呟くように言った。「時間をくれる」

「考える時間ですね」

「意見を纏めるわ。だから、──」

「ありがとうございます」

「お礼をいわれる筋合はないわ。だから、離れて……」

「いいえ、しばらく、こうしていたいんです」

「……」

 リセイの腰を抱いて、彼女のにおいを感じ、温かい感触を憶える。そこには、フロートと同じような、それでいて異なる感じがあった。父性・母性・兄弟姉妹の情、どれにも近くてどれからも遠い、心の変遷を感ずる。

「あなたは、本当によく解らないひとね、テラスリプル」

「わたしの名は、明るい姫の意があるんだそうです。明るさの横には影があるものです」

「姫なんてわたしには似合わないけれど、影ならば、相応ね」

星影(ほしかげ)、と、いう光を指す言の葉があります」

「わたしも光だと」

「わたしが影の姫で、リセイさんが星の姫かも知れません。星は影に、影は星に、独りにならないよういつも寄り添っているんだと思います」

「なんでも都合よく捉えるのは危険よ。注意して」

「危なくなったら助けてくれますか」

「わたし頼みなのね……」

「リセイさんには、カクミさん達と同じように頼れる気がしますから」

 ずっと傍にいてくれる確信があるから安心した、と、いえば現金な話だろうが、その身が常に傍にあるとは限らないカクミやカインよりも距離感が近く、それでもってこれまで支えてくれたカクミやカイン、ほかの多くのひとびとにも尽くしていけるかも知れないとも思えて、テラスは希望が膨らんでいる。

「いいわ」

 テラスを離して、リセイが小さくうなづいた。「あなたからもわたしに繫げられるようにしておく」

「繫げられるように、とは、どういうことですか」

「起きているとき、心の中でわたしを呼びなさい。必要なことには応えるわ」

「そんなことができるんですね」

「今まではわたしが遮断していた。必要なときはわたしからも話しかける」

「いつでもお話を聞かせてもらえますね!」

「それはまだ答を決めていないけれど……、そのほうがあなたからの相談事とかはしやすくなるでしょう」

「とっても助かります。これからはカクミさん達とリセイさん、お三人についていてもらえるんですね」

「必要なときに声を掛けて。それと、一つ、了承してくれる」

 改まったリセイに、テラスはうなづいた。

「なんですか」

「あなたにどうしようもない物理的脅威が迫ったとき、あるいはあなたが気を失うようなときは、最大限、あなたに資する形でわたしが対処する。それを許してほしい」

「反抗ではなくなるわけですね」

「語弊があると言ったわ」

「そちらはリセイさんがしたいときにしてください。脛を齧りなさい、と、お母様が言ってくれましたから」

「……すごいのね、母親って」

「はい、すごいです──」

 魔竜封印のために力を尽くしてきたこともそうだが、突然訪ねたテラスの反抗をきっちり受け止めもした。

「お父様のことは悔しいですが、いま生きているお母様を大切にすることがお父様の願いだと思います」

「あなたの父親を殺めたのはわたしも同然よ。許すの」

「リセイさんは魔竜さんとは別のひとですよ」

「……じゃあ」

 リセイが眉を顰めて、「あなたを冒したフロートがカクミさんに大きな傷を負わせたわ」

「穢れを植えつけたときのことですね。カクミさんはとっても怒っていましたが、わたしを傷つけたことに対して、また、わたしが鈍かったことに対してでした。リセイさんとは──」

「わたしがあなたの体を乗っ取って対処できなくもなかったわ」

「それについては決した話です。次に同じようなことがあったら、お互いが傷つかないように頑張りましょう」

「看過するかも知れないというのに、あなたはそこに期待を懸けるの」

「決まっていないことなら、嬉しいことを考えていきたいです」

「わたしに、それができると思う」

 できない。できるはずがない。そんな不安が彼女にある。うまくいくはずがない、と、否定されることも承知でテラスはリセイに答えた。

「やろうとさえすれば、必ずできます。なんであっても、笑っていいはずです」

 眉を顰めていたリセイが、張った肩を落として、穏やかに目を細めた。

「あなたはどこまでお人好しなの。そんなだから……」

「リセイさん……」

「次は、守るわ。あなたも、あなたの大切に想うひと達のことも、必ず」

「ありが──」

「お礼をいうのは、こっちよ。ありがとう、星の姫、テラスリプル」

「こちらこそ」

 手を合わせると、拙い笑みを見せたリセイに微笑みかけて、テラスは彼女とともに再び幻想へ目を移した。

 叶えられるいくつもの幻想を摑むために、心を決めよう。

「──、わたし達は、そう生きていきましょう」

「……、そうね」

 瞼を閉じると、ひとときの間を置いて目が覚めた。夢と現実の境界線を明確に言語で表すことができるかといえば、テラスには難しかったが、瞼を開けたその先が現実であることをカクミの柔らかなぬくもりが証明している。

 まだ夜か。年じゅう吹雪に見舞われて白雪に照らされるのみの小屋を濃い闇が覆っている。

「いい夢を観られたかしら」

「お母様、……」

 氷杖の象った指が外を示し、母がすっと出ていった。テラスはカクミを起こさないようにそっと腕を抜け、木箱からとろ〜んと降りて、扉をすい〜っと開け閉めした。母がいたのはテラスが作った氷壁の部屋の前。吹雪を眺める母に並んで、氷壁に背を預けた。

「お母様はずっと起きていたんですか」

「寝なくても平気よ。封印の維持もあるから定期的に観察する」

 青いイタチがするするっと母を登って首にじゃれつく。「この子達も毎日騒がしいわ」

「何匹もいたんですね」

「基本一匹。埋まるほど増えるときがあるわ」

「もふもふで気持よさそうですね」

「存外パリパリ触感よ。何も食べないから食糧問題がなくていいわね」

 夜食のとき、青いイタチは暖炉の周りをちょこちょこ動き回っていて食事を要求するような仕草がなかった。

「リプル」

 掌に雪片の母。「いくつか質問するわ」

「はい、答えます」

「カクミとカイン、どちらが好き」

「どちらも大好きですよ」

「今、幸せ」

「幸せです。お母様にも逢えました」

「わたしに穢れを押しつけられたというのに」

「穢れであるリセイさんとお話をして、お互いに受け入れる向きです」

「騙されているとは考えない」

「直接話してみますか」

「あなたがそうと感じなかったのならそれが正しい」

「信じてくれてありがとうございます」

「彼女はあなたのために攻撃性を発揮するわ」

 反抗中のリセイといくつか言葉を交わしたようだが、それだけで彼女の心を酌んでいる母はやはりすごい。

「リプル」

 掌の雪片を風に流した母が、「改めて、謝っておくわ。あなたから父親と後の配下を奪ったこと、それによって無用な敵を作ったことを。……ごめんなさいね」

「遺されたご家族を想うと軽はずみには許せませんが、お父様のことに関してはいいんです。お母様は皆さんを守るために動いてくれたんだと思いますから」

「そこには少し誤解があるわ」

「どんなふうにですか」

「犠牲のもとに成り立つ守護は偽善。わたしは誰を守りたいと思っていないわ」

 ならば、

「お母様はなぜ魔竜さんを封じているんですか」

「吹雪がやむの待っている」

「吹雪……」

「噴火というべきかしら、どちらにせよ、わたしには目的があった。それがあなたの思う正義や善意でないことを理解しておいて」

「解りました」

 母には母の、言葉には尽くせない目的、もしかすると、幻想があったのかも知れず、その多くを語るよう催促することはできなかった。

「わたしからも一つ、訊いていいですか」

「どうぞ」

「たくさんのひとの命が失われてしまいました。それでも、その、」

 もじもじして、おどおどしてしまった。「……わたしがいたら、お母様は、幸せですか」

「あなたがそうであるなら」

 ……お母様……。

 吹雪を見上げると、寸時、目線が交わった。カインがいう父は、テラスに似てひとをよく想っているひとだった。父を愛した母も家族を大切に想うひとであることを交わった目線のきめ細やかさから察するに余りあり、テラスは寸時の、その雪花のような繊細さを信ずるに吝かでなかった。

 テラスは、リセイに負の感情を押しつけてきた。母に求めてもらえる大きな悦びをテラスは知った。今はもう、それしか解らない。それまでにいだいていたであろう負の感情の一切を想起することもできないのはリセイのお蔭だ。

(リセイさん、聞こえますか)

(何)

 心の声が伝わることに感動したテラスは、リセイに問う。

(お母様とお話をしませんか)

 リセイに魔竜としての意識があるかはともかく、穢れとしてテラスに宿る前には母に宿っており、思うところがあるのではないか。テラスは彼女に寄り添うと決めたが、リセイの判断を過去の選択で縛るようなこともしたくはない。話し相手がほしかったりしたら、柔軟に受け入れていくべきで、それがテラスの身近なひとであるなら今後も話しやすいはずだ。

(カインさんやカクミさんでもいいんですが、どうですか)

(不要よ。わたしにはあなたがいる)

 リセイが即答だった。(あなたの母親はあなたが独占すべきよ。娘なのだから)

(……解りました。カク──)

(わたしは求めていない)

 考えていることが筒抜けなのだろう。先回りの応答だった。

(お話したいと思ったら言ってくださいね)

(ないことだけれど、解ったわ)

 うなづいた気配を感ぜさせたリセイが、声のボリュームを少し大きくした。(──、テラスリプル、氷壁に摑まって)

「リプル、これに摑まりなさい」

 二人の注意が順に届いた。

 テラスが両方に摑まると、

 ドッーーーーーーー!

 地面が大きく揺れた。かと思うと、風雪の嘶きに混じって八方から地鳴りのような音が木霊してくる。二人の注意喚起のお蔭で転倒を免れたテラスは、周囲を見回した。

「なんですか」

「地震、それから雪崩ね」

「お母様、ここは危うくありませんか」

「大稜線の中でも小高い台地にあるから雪崩の心配はない。問題は地震のほうね」

 母が言い終わる前に、小屋で眠っていたカインとカクミが飛び出してきていた。

「テラス様!」

「カクミさん、どこも痛めていませんか」

「はい。そっちも大丈夫そうでよかった……」

 テラスとカクミが無事を確かめる横で、カインが深刻な顔だった。

「チーチェロ様、今の地震──」

「無関係とは考えにくい。真相は地の底か」

「なんの話ですか」

「リプルは詳しくないのね。カイン、説明してあげなさい」

「今の地震は通常の地震ではないと考えられます」

 と、切り出したカインが、テラスの摑まる氷杖と氷壁をそれぞれ観察して、「横揺れ、縦揺れ、地震にはさまざまありますが、いずれも一度の揺れで治まることはなく、基本、緩やかな震動が続くものです。雪崩と思しき地鳴りが聞こえますが、地面自体が揺れている様子はありません。従って今回の地震は──、魔竜が発生源の可能性があります」

「マジ?」

 とは、カクミが吹雪を睨んで。「ってことは封印が解けてるってこと?で、近くにいる?」

「いや、……チーチェロ様、いかがです」

「封印は解けていない。けれど、一体でも山体破壊が可能のフロートの数は知れない」

「それほどのエネルギを複数体のフロートが地面に向けたなら、先の地震を起こし得る……。テラス様、そういうことで──、って、どこへ向かわれますか!」

 カインの話が終わる前に、テラスは動き出していた。

(テラスリプル、急いで戻って)

 と、いう切迫したリセイの声を聞いていたからである。

(戻る、と、いうとモカ村ですか)

(そうよ、とにかく急いで)

「テラス様、待ってください!」

 カクミがテラスの腕をがっしりと摑んで引き止めた。「どうしたんです、いきなり走り出して。ひとの話を最後まで聞かないなんて希しいですけど、なんかありました?」

「モカ村へ急ぎましょう」

「どういうことです?ちゃんと説明して」

「えっと、リセイさんがそうしてほしいようです」

「リセイが……」

 追いついたカインと母にもリセイと話せるようになったことを搔い摘まんで説明し、モカ村への急行を求めると、

「罠では」

 と、いうカインの懸念を、

「それはないわね」

 と、母が否定した。「地震の直前、わたしが注意するより先にリプルは氷壁に摑まろうとしていた。リプルには広範囲の危険感知能力がない。リセイが注意を促し、対策を講ぜさせた。害するなら守る必要がない」

「ですが、なぜモカ村に──」

「考え事はあとでもできるわね。リプル」

 母が氷杖を差し出した。

「……お母様」

「これを持っていきなさい」

「森が凍ってしまいそうです」

「持っていきなさい」

「っはい」

 母の眼力にやられて、テラスは思わず氷杖を受け取ってしまった。すると、瞼を落とした母が早口で告げる。

「同じ穢れを有するモノの動きをリセイはわたしより鋭く感知することができる、と、するなら、それがあなただけでなく皆を守る力とも成り得る。いい。慎重かつ迅速に行動しなさい」

「胸に刻みます」

「いい返事よ。急ぐなら徒歩は無駄が多すぎる。これを使いなさい」

 言うや吹雪を摑むように左手を振り翳して母が一筋の風を作った。折り重なる吹雪の衣が、一筋の風に割かれ、また、引き寄せられるようにして道を作っていく。

「空中に氷の道ができていきますね」

 と、カインがうなづきつつ、「これを滑っていけばモカ村に辿りつけますか」

「あなたは情緒を知りなさい」

「悠長な描写を入れるときでもないかと」

「それもそうね。リプル、魔法が数秒しか持たない」

「それを早く仰るべきでしたね」

 苦笑したカインがテラスを抱えると速やかに氷の道へ跳び載る。と、氷の坂と風の流れに従って体が運ばれていく。



「お母様の魔法、すごいです!カクミさんも早く行きましょう」

「はいっ、すぐ追いますから先に──、って、もういないっ……」

 氷の道は圧倒的速度で移動できるようで、二人の姿が吹雪の闇に吞まれた。

「もう持たないわよ」

「二度いわなくても解ってますって」

 忌憚なく尋ねたかったからカクミは残っている。「テラス様と一緒に暮らしたいですか」

「可能ならば」

「気持をいいなさいよ」

「鋭いのね」

「傷つけられたくない」

「ともに過ごせることが最上よ」

「……」

「こちらからも一つ訊くわ」

「なんです」

「あなたはあの子と一緒にいたい」

「当りま──」

「流れ星のような生き様はあの子を傷つけるわよ」

「──」

「あなたがどれだけの覚悟でリプルに尽くしているかは解っているつもり」

 ……。

「あの子は結果に満足することはないわ。思い込みが激しい者同士、機微に聡くいきなさい」

「……解ってますよ」

 数秒しか持たない氷の道が維持されている。チーチェロに負担が掛かる。遅ればせながら、カクミは、氷の道に載った。

「じゃ、行きます」

「さようなら。恒星たるあなたを望むわ」

「……チーチェロ様も、溶けないでくださいよ」



 風に流されて消えた背中に、チーチェロは微笑む。

「あなたがいれば、わたしは溶けない──」

 封印の維持がある。殿の彼女のすぐ後ろから魔法が解けるように仕込み、消耗を抑え、

「さあ、」

 無数の黒い人型を振り返る。「随分と厳しい娘だこと」

「貴様を──」

 口を開いた者から氷漬けにして足蹴にし、破壊する。

「分身の癖に大したものね、経験値がないのかしら、頭がないのかしら、どちらにせよ、期待できないわね」

 吹雪の闇に紛れて高速で迫る者どもを、一体ずつ処理する。愉しい来客を追い出すような動きを見せた相手に容赦はしないが、せめて去った分だけは、

「あなたの熱をわたしに頂戴」



 風が、雪が、景色が、体を煽るようだ。吹き飛ばされそうな風圧にテラスは言葉も出なかった。空から地上に飛び降りたらきっとこんな感覚になるのではないか、呼吸のしづらさとともに感じたこともないような爽快感が軌跡を描く。ツィブラの馬車もかなりの速さであるが、このスライドは生きてきた中で最も素早く体が空間を分け入っている。

「いやはや、さすがチーチェロ様ですね。斯様な魔法があるとは感激です」

「ほわわわわ……」

「テラス様は喋るのも無理そうですね。無理せず口を閉じていてください。レディたる者、変な虫を寄せつけるような顔をすべきではありません」

「ひゃわわわわ……」

 空気が口に入り込んで言葉が出ない。

「ひゃっほー!」

 と、テラスの前に躍り出たのはカクミである。「ただいま追いつきました〜、寂しくありませんでしたか、テラス様〜」

「らわわわわわ……」

「おやや、テラス様は変顔まで可愛いときたらもう抱き締めるしかないですね〜」

「早速変な虫が来おっか」

「も〜、また虫扱い?」

「先程の移動速度はハエ並だったな」

「衛生害虫っ」

「一部掃除屋の側面も持つがな」

「なんか嫌な表現。と、まあ、冗談はここまでとして、行先はモカ村でしたね」

「はわわわわ……」

 テラスは言葉で答えようとしたが無理だったのでうなづいた。朝と夜の境目を大地に刻む太陽。カクミが横について風雪の示す真昼を見下ろす。左手のネオギス山脈を躱して緩やかなカーブを描いた風雪は大地の裂け目フロートソアーの直上を突っきっている。その先、南西にかすか見えるのがモカの森のはずだが。

 ……赤く揺れて──。

「カイン……」

「まるで火映のようだな」

 ……火映。

「夜でもないのにあれほどはっきり見えるというのは……」

「リセイの言葉、信じられそうね」

 テラスはカクミに支えてもらって背後のカインを向く。これなら風の影響を受けずに口を開けられる。

「燃えているんですか、ペンシイェロの森が……」

 カインが顎に手を添え、

「魔竜は、強力な炎を操りました。分身であるフロートが炎を扱う可能性は高いでしょう」

「そうですか……。(リセイさん、フロートさんは炎を──)」

(使う。急ぎなさい)

(……)

 恐ろしい事態が起きてしまった。……森は、モカ村の大きな財です。

 それを失ったら顧客云云という話ではなくなってしまう。モカ織自体が絶えてしまう。

 氷杖を持つ手が自然と固くなっていた。すると、しゅるっと首の周りを回って頰ずりをするカクミではない何かがいた。

「イタチさんです、どうしてここに」

「テラス様が気に入ったんじゃないですか?」

「チーチェロ様の氷杖に引き寄せられたとも考えられなくはないが」

「……今の村は危ないです」

「チーチェロ様も深刻そうな顔でテラス様を見送ってたわけですし、使いのイタチが理解してないとは考えにくいです。ま、とりあえず襟巻程度に連れてきましょ、……炎除けになるかも知れませんしね」

「それはかわいそうです。溶けてしまいますから戻って帰してあげ──」

(テラスリプル)

(っ、はい……)

 リセイが呆れた声だった。

(何を躊躇っているの)

(躊躇っているわけではありません)

(あなたなら、瞬時にモカ村へ向かえる。そうしないのはなぜ。できないとは言わせない。無自覚。いいえ、あなたは自覚があるわ)

(……)

 できることなら、今すぐ駆けつけたい。それは本心だ。その手段をテラスは確かに持っている。どんな魔法か、構造を理解しているわけではなかったがそれを行使することも無意識的に可能だった。しかし。

(フロートさんと戦うことになるかも知れません。リセイさんはそれでいいんですか)

 リセイがフロートや魔竜と対峙することを、テラスは望まない。摑むべき幻想は、戦いではないはずだったのだ。それなのに、

(わたしが対処する。それが答)

 リセイがそう言った。

(本当に)

(心配りするのはあなたの美点と認めた上で今は否定するわ。あなたは今、決定的な間違いを犯そうとしている、いいえ、既に犯している)

(……)

(言わなくても解るわね)

 村のひとびとが危険な目に遭っている。森の損失のみならず命の危険も。モカ織の存続は、森の維持とともに村民の生存が絶対条件だ。摘師のテラスが生き残っても、布を織り、染め、縫う三役を担えない。森の維持には森の声の力も不可欠であろう。テラス一人では何もできない。もたついていては何億もの夜を越えてきたモカ村の全てが失われてしまう。

 袖の木の実を取る。陽光に黒く光る美しさを、まだ見ぬ輝きを、村のみんなと再び採りに行けるように、

(わたしは動きます。でも、リセイさんに、戦いを望んでほしくありません)

(これが最後よ。到着を急ぎなさい。わたしはあなたから奪いたくない!)

(っ──)

 リセイの言葉に、決意が漲っていた。彼女を想うなら、真に村を想うなら、どうすべきか。馬車と比べれば速いがスライドの速度は時速五〇〇キロメートル前後、村まで二〇分は掛かる計算だ。それでは、遅い。

「カクミさん、カインさん、わたしに触れていてください」

「もう抱き締めてますけど」

「何か考えがありますか」

「村に飛びます」

 三人と一匹では初めてのことだったが、できない気はしなかった。カクミが支え、カインが肩に手を置き、青いイタチがじっとしているのを確かめて、テラスは強く念ずる。

 ……モカ村へ!

 風雪の軌跡すら超える速度で、体感的には重圧もなく瞬時にモカ村の広場に降り立った。気圧差であろう、体が重いような、頭が内側に押し込められるような、そんな感覚はあったが、目に映った光景にこそ肌を(こそ)がれるような衝撃が走った。その衝撃が体を煽る熱風のせいでもあることは言うまでもない。

「森が──」

「やっぱり燃えてるわね……」

「気を確かに。冷静に次の行動を」

 カインが周囲を見渡す。「村民の姿がない。気配は……、火勢のせいだな、魔力流動が邪魔で感じ取れぬ」

「燃えてない家もある。水田もあるからみんな焼け死んだってのは考えにくいわね」

「カクミよ、テラス様を頼む。わたくしはまず村民を捜す」

「了解」

 最寄のサカキ家へカインが駆け込むと、カクミが窺う。「テラス様、どうします」

 カインの言う通り、炎と空気の激しい流れが妨げとなってひとの気配を感ぜられない。気配で村民の居場所を探るのは難しい。ならば直接肉眼で確認しようとは思うが、腕を翳していても服ごと溶けてしまいそうな眩しい景色を直視するのも限界がある。

「森に近い家ほど燃えています」

「出火元は森ってことか……」

 広場南の水田が村内で最も火の手が及びにくいのにひとの姿がない。フロートの出現を認めて屋内避難を促したか、消火活動のため森へ入っているのだろう。屋内避難なら火の手が最後に及ぶであろうサカキ家かナカ家であるが、両家を確認して出てきたカインが、首を振った。

「森の消火に向かったか、フロートを追ったか、村民全員が二手に分かれているというのは乱暴な推測ですが、この危機的状況なら女子どもが消火に向かっているでしょう」

「なら、男達はフロートのほうね。テラス様はどっちへ行きます」

「あっ!」

 青いイタチが小動物的高速移動で北へ向かっていく。

「待ってください、溶けてしまいますよ!」

「ったく、あのイタチ、とんだお邪魔虫じゃないの!」

「あれはいつものおムシと同じだ」

「オぉヌぅシっ」

 テラスが走るよりカインが抱えて走るほうが速く、青いイタチの居場所がすぐ見えた。

 テラスの家。手遅れなほど火が回っている。近づけばテラスでも溶けてしまいそうだ。どうする。

 ……全て、燃えてしまいます──!

(テラスリプル、イタチさんを見なさい)

 庭に入っていった青いイタチが、その小さな体で運ぼうと押しているのは、

「鉢植えです!」

 カインに降ろしてもらい、テラスは鉢植えを拾い上げる。身を焦がすような熱風に煽られながらも息づく蒼さ。この芽は、生きている。あとは給金袋と──。

 自室へ踏み出したテラスの肩に青いイタチが登ると、家から骨を折るような不気味な音が立って、カインが叫ぶ。

「退避!家が崩れます!」

「っ!」

 カクミがテラスを抱えて退避する。

 ……これでは──。

 近づくことも危険だ。そう諦めかけたテラスを通りに降ろして、カクミが踵を返し、続くようにカインが動く。

 崩れ落ちんとした家をカクミが横に撃ち抜き、カインの風が吹き飛ばした。倒壊を免れたテラスの部屋にカクミが跳び込むと、火の点いたものをはたきながら戻った。

「あ〜ぶない、危ないっ、ナイスアシストぉ、カイン」

「お主の行動はなんとなく解る」

 無言の連携でハイタッチをした二人にテラスは、

「ありがとうございますっ」

 と、お辞儀して、カクミに氷杖を向けた。「ここに」

「はいっ」

 近距離で放られたのは給金袋。氷杖の先端に当たってカチッと凍り、炎が消えた。

「おぉ、アイスパワすごっ」

「なんとか、無事ですね」

 テラスの魔法でも同じことができたが、とっさの思いつきで氷杖を使っていた。氷漬けにこそなってしまったが袋とお金が半分ほど形を残している。

 ……よかったです、全て、燃えなくて。

「テラス様、これもどうぞ〜」

 カクミがテラスに羽織らせたのはモカ織の着物。いま着ているものと同じものだが、給金袋と違って燃えてもいない。

「耐久性は宮殿の折紙つきだが火が燃え移ることもないとはな」

「肌触りもいいけど、完璧な防御性能ってことよね。着せやすいワンピース型でよかったわ。二重で着とけばテラス様の保護もできて一石二鳥よ」

「お二人とも、本当にありがとうございます」

 皆からもらった大切なもの。日頃から気に懸けてくれるカクミとカインだからこそ、それを守ってくれた。

 持物が揃って一息つくと、リセイが促す。

(安心するのは早いわ)

(……はい)

 テラスは西の森へ足を向ける。

「溶けに行くつもりですか?」

「森から燃えたのだとすると、火を消そうとしている皆さんは川へ向かったでしょう」

「あ、そっか、汲んでぶっかけるにも都合がいいと」

「モカ村の女子どもは男衆に劣らず勇ましいですからね」

 と、カインがうなづく。

 ほかの危険性にもテラスは目を向けている。

「男のひと達がフロートさんを追っていったとして、もし見失っていたら」

「ヤバイですね、それ。無防備な消火活動中に襲われたら一巻の終りですよ」

「テラス様、お運びします。そのほうが速い」

「そうね。鉢植えはカインに任せてあたしに乗っかってください」

「鉢植えごと運ぶつもりだったのだが」

「片手くらい空いてたほうがいいわ」

「……承知した」

 カインに鉢植えを預けると、登山のときのようにカクミにおんぶされてテラスは森へ突入した。

 行く先先が、赤く、爛れるよう。

 ……悲鳴──。

 薪にしたり、炭にしたり、灰にしたり、そのあと魔物除けの材料にしたり、肥料にしたり、村の生活では多くの木を燃やしている。そのとき何度も燃える木の音を耳にしているが、それらの心休まるような音色と異なり、

(熱い……!誰か、助けて──)

 森の声が、悲鳴を上げている。

(森の精霊さん、どこですか!)

(わたしは、もう……)

(っ)

(あなたは、どうか、守り抜いて……──)

(精霊さん……。精霊さん……!)

 応答が、なくなった。

「森の精霊さんが……」

「何か言ってますか?」

「声が、遠くなって、消えて……」

 熱風のせいか。喉が焼けるようで、声が出なかった。

「カクミ、急ぐぞ」

「うん……」

 黒ずむ植物と枝葉を落とす木木。視界の歪みを振り払ったテラスは、一つ一つ、眼に焼きつけた。今の村民が大切に守ってきた森。今の村民にそれを伝えてきた祖先。密かに見守ってきた森の声。多くのひとびとが守り、継承してきた環境が、失われようとしている。

(これで解ったでしょう。急ぐべきだったと)

(リセイさんを想ったことと事の成行きは別のことですよ。単に、わたしが鈍かったんです)

(村民の無事も判らない現状で言えること)

(はい)

 状況は最悪だ。悪く考えるだけ無駄である。なら、少しでも状況が好転するように悲観せず前向きに行動すべきだろう。

(わたしを気遣ってくれているカクミさんやカインさんにも報いなければなりません)

(……川の下流へ向かって)

(皆さんがそっちに)

(いいえ。村民の位置はよく判らない。ただ、フロートがそちらから迫っている。村での争いを、なんとしても止めるわ)

「──。カインさん、カクミさん、南西へ。フロートさんを迎え撃ちます!」

 一行が方向を変えるか否か、森の悲鳴に轟音が重複した。



「来るわよ!」

 揺らめく視界でも音がはっきりと聞こえる。南西から木木の叫びと風切り音。

「テラス様、カイン、動かないで!」

 テラスを降ろすと右手の銃を握り、浮遊するトラップの魔弾を仕掛け、突撃してきた黒い影を地面に撃ち落とした。それを観ることもなく後方に追撃の魔弾を放ち、仕止めた。

「同じ手は食わないわよ」

 振り返れば、土塊を被った黒い影が薄黄色の光を放って消えていくところだった。

「さすがはカクミだな」

「ヤツの動きの傾向が解ったわ。直進的突撃と見せかけて後方から不意打ち。前回もこれだった。たぶん、分身だから難しい戦法は考えられないんじゃないかしら。つまり、バカね」

「油断するのは早いがその調子なら次が来ても処理できそうだな」

「そうね。それに、テラリーフ湖のヤツよりなんか軽い気がした……」

「軽いとは」

「魔弾を弾かれなかったし……、穢れかな、なんか、薄っぺらいっていうか、存在感が薄いっていうか」

「……、む、テラス様は」

「……!」

 目を離した隙に、いなくなっていた。

「南西からフロートが来ると仰っていたな」

 カインが先に駆け出し、カクミは追った。

 ……魔物の気配が、多くなってる気がする。

 斃したフロートが陽動役だったとしたら。

「此度の襲撃、何かがおかしい」

「……目的がよく判んないもんね」

 森の焼失(?)魔物がそれをして得があるか。魔物とて、食料(ひと)が必要だろう。悍ましい話だが村民を適宜生かしたほうが利が多い。根絶やしにするような破壊を行うものなのか。

「疑いたくはないが、リセイが裏切っているのではないか」

「テラス様のお人好しをいいことに」

「あり得ないことではあるまい」

 それだから穢れに冒されてしまった。テラスの話が通ずるのは飽くまで善たる者のみ──。

「くそ……!バカはあたしか!」

「とにかく全速力で向かうぞ」

「ちゃんとついて来なさいよ、お爺ちゃん!」

「ただのジジイと思うてくれるな」

 幹が焼け、自重に堪えられず横転する巨木があちらこちらに。延焼は取返しがつかない深刻さになっている。全速力で向かうにも、視界が揺らめき、足場が悪化していては。

 ……テラス様が魔物化してる気配は、今のところないけど──。

 村民の気配も感じ取れていない。感覚に頼った探知に確証を求めてはならないだろう。

 しばらく灼熱を走ると、何かの鉱石が突き出したエリアに入った。

「あたし、こっちのほうって入ったことなかったから初めて観たんだけど、これって発光鉱石じゃないの?」

「火炎で見づらいが、そのようだ。テラス様は斯様なものがあるとは仰っていなかったな」

 摘師の仕事で森に頻繁に出入りしていたテラスが、目新しいもののことを事細かに話すのが一行の恒例であった。その中に、発光鉱石やこれに関連しそうな話は一つもなかった。

「植物群が覆っており、燃えたことで露出した可能性があるな」

「苔むした岩とか、そういう感じか。発光鉱石って高く売れるって話だし、ひょっとしたら、モカ織にこだわらなくても生活資金を得ることはできたのかも知れないわね……」

「森の維持が絶望的だ。復興資金にはなるだろう……」

 テラスには切り出しづらいことだが、カクミもカインと同意見だった。テラスや村民の心境を思うと、気が沈んでしまう。

 ……あの芽が、最後の一本になっちゃうのかも知れない。

 カインが運ぶ鉢植え。テラスが、そして、村民が絶望せぬように、鉢植えを死守せねばならない。そのためにはテラスや村民を連れて安全地帯に避難する必要もあるが、

 ……何、この感じ──。

 村存続の必須条件を脅かしかねない状況を、カクミの感覚が察知した。

 思わず立ち止まったカクミを、カインが振り向く。

「突如に脚だけ老いたか」

「違う、気をつけて……、屈んで!」

「ぬっ!」

 指示通りに屈んだカインの頭上を槍が飛んでいき、次には、カインに飛びかかる男性の姿があった。その男性の腕を絡め取り動きを封じたカインが目を見張る。

「マコト殿……!どうしたのか」

 モカ村防衛の要たるマコトが、

「……」

「応えられぬ、か」

 その目が、何も捉えていない。拳を握り、力任せにカインを殴りつけようとしている。

「様子がおかしい。マコトだけど、なんか、変な感じがする。なんなの、これ」

「精神魔法か」

「何それ」

「なんらかの感覚を支配し、操るのだ。攻撃性のみを高めるような操作を受けているのか、普段の何割か、腕力が増しているようだ」

 マコトを雁字搦めにしてなんとか抑え込んでいるカイン。その頭に載った鉢植えが危うい。カクミはひとまず鉢植えを左腕に抱え、右手の銃でマコトの鳩尾を打つ。

「っ……」

 呻きこそすれ、気絶しない。

「困ったわね、コレ。どうする?」

 カクミは周りを囲む気配に目を向けた。カインもまた、そちらに目をやった。

「なんの冗談なのだろうな」

「現実とは、思いたくないわね……」

 村の防衛に当たる男性陣、それに加えて非戦闘員であるはずの女子どもまでが、農具や刃物を手に迫ってくる。

「フロートってこんなこともできるわけ?」

「知らん。魔法を新たに身につけたか、何かカラクリがあるのか、何にせよ……」

 手を出せない。

「マコトみたいなゴリならまだしも、マイや双子ちゃんになんて……」

 刃物を持っていようが、殴ったり、撃ったりできる相手ではない。

 ……なんで、こんなことになってんの。わけ解んない……!

 テラスを追うことに集中したいが、燃え盛る森に放置しては村民の命が危うい。ハイナ大稜線の地下空洞では道を照らしてくれた発光鉱石が、操られた村民に後光を与えるようで今ばかりは不気味だった。

「『……』」

 虚ろな村民がじわりじわりと迫り、一人、また一人と、突っ込んできた。普段そうしないだけで、もとからそれだけ動けたということか、村民の動きは目で追うのがやっとというほどに速く、騎士のそれに並ぶほど攻撃が鋭い。

 ……なら、多少手加減なしでも!

「カクミ、よせ」

「っ、つったって!」

 農具や刃物を叩き落とし、浮遊魔弾に掛けて遠方へ吹っ飛ばすが、摑みかかってくる相手が五人にもなると捌ききれなかった。

「だっ、いま殴ったのシンかコラァッ!師匠を殴るたぁいい度胸だなオイッ!」

「カクミ、冷静になれ。皆、操られて、本人の意志では動けぬのだ」

「解ってるけど、んあぁっ、なんかムカつく!」

 腹や脚なら鍛えているのでしばらく堪えられる。頭をボカスカ殴ってくる者はどうしたものか。記憶があるならあとでお仕置きだが。

「これ以上バカになったらどう責任取ってくれんのよぉ」

「大丈夫だ、お主はもとから底抜けのバカだからな」

「ひとを錆び落ちたバケツの底みたいに、──ッ!」

「どうした、カクミよ」

「……あんた、刺されて──」

 マコトに加えてコウジとティンクを纏めて拘束していたカインを、後方から数人が刺していた。刃渡り何センチメートルか、半分以上は体に吸い込まれて、なおも──。

「どうということもあるまい。どうやら、操っている者も馬鹿なのだろう。骨に当たって内臓に達せぬというのに引き抜きもせぬとはな」

「けど、そのままじゃ、あんた……」

「血を流すことには慣れておる。お主達のように穢れに冒されたのでもないのだから擦り傷の類であろうよ」

「馬鹿……」

「痛みはさほどでもない。老いると痛覚が鈍るらしいな」

「馬鹿!」

「ぐっ……」

「カインッ!」

 片腕で三人の拘束を維持し、刺した数人を脚で絡めて踏みつけ、尻に敷くカイン。

「案ずるな。少しばかり、若いときのように、粋がってみた。しばらくしたら、もとのジジイに戻るさ」

「テラス様なら治療できる。呼んでくるから……待ってて!」

「その状態でか」

 カクミだって、何人もの女子どもを拘束して、反対に拘束されもして、殴られっ放しで、身動き一つ取れそうにない。

「どうすりゃいいのよ……」

 銃が使えない。鉢植えに手を伸ばす者を頭突きで追い払うのがせいぜいだ。手が、ない。テラスもいない。フロートが迫っている。村民が操られている。どこをどう対処していいのか。

 ……二、四……一五。村民は、ここに全員いるみたいだ。

 それが確認できただけでも進歩としたいがカインが重体、自由に動ける村民が数名いる。操っている者の裁量でいくらでも状況が悪化するだろう。

「なんで村民全員がここにいる。避難も消火活動も魔物対策もしてないって変よね。それぞれの作業中に操られたの?それにしてもみんな固まって現れたのはおかしい……?」

「…………」

「カインっ……喋ったらヤバいの?」

「……ああ、すまぬ、気が遠退いていた。老衰かもな」

「ボケてる場合じゃないでしょ!」

 カインがまともな応答を寄越さないことの恐怖を、一瞬間の応答の遅れが察せさせた。

「はぁ……はぁ……思うに、」

 カインが俯き加減で話した。「皆の、いや、操っている者の役割はわたくし達を引き止めること。先のフロートと同じ役割であろう。リセイが裏切ったか否かに拘らず、目的はテラス様の孤立だろう」

「……やっぱ、そうなる」

「テラクィーヌ様と、チーチェロ様……二人の子だ。わたくしは……魔竜を斃せるのは、彼女しか、いないと、考え……る」

 ……なんで、今、そんなこと──。

 拘束を維持する体力も尽きそうなカインがカクミに伝えるのは、

「ここは、わたくしに任せて……、テラス様をお守りしろッ!」

「……ん!」

 奥歯を嚙んでカクミはうなづき、纏わりついた村民を振り払って、南西へ向かう。

 ……カイン……カイン!火葬されるには、あんたは若すぎるわよ!

 応える声は当然なかった。

 馬鹿な話を、また、延延としたい。そのためにも、彼の胸を借りて急ぐほかない。

 ……テラス様──!

 炎に包まれた視界の全てに冷気が駆け抜けたのは、心が叫んだそのときだった。同時、青いイタチがカクミの胸に飛び込み、炎の揺らめきもろとも氷結した美しい世界が広がった──。



 頭上の陽光に照らされ、後方の炎に煽られた影は、異様の黒。森を突っきってきたか、煤を被ったか、地肌の黒さ以上の黒さを感ずる。負の感情が多少なり湧いていたか。

「あなたは、カクミさん達のもとへ」

 青いイタチを森へ送ると、テラスは影の背に向かう。

「フロートさん」

「……来たか」

 振り向いた影フロートが微笑を湛えていた。「我はまこと幸せ者だ。貴様のような愚か者と出逢えたことが、な」

(耳を貸すことはない。わたしに交代しなさい)

(少しお話をします)

(懲りないわね。……少しよ)

(ありがとうございます)

 テラスは、フロートの眼前に立ち、その翼を見つめる。

「初めに気づくべきだったんでしょうか、あなたが魔物であること、底に沈めた心を」

「魔物に心があるとでも。貴様を穢した我に」

「あなたは、それに、魔竜さんにも、きっと」

「テラクィーヌ並びにチーチェロの娘、ひどい思い込みだな」

「お父様とお母様を知っているんですね」

「奴らは主神とその眷属なのだろう。貴様はその末裔であり後に神界を統べる存在。我らの目的には主神の協力が不可欠だ」

「フロートさん、それに魔竜さんが目指すことはなんですか」

「絶えることのない生命」

「……長い時を、生きたいということですね」

 フロートが肯んずる。

(テラスリプル、あなたには供物を捧げるよう強要する腹積りよ)

「あなた達はひとびとを食べるつもりですか。こちらが滅びないよう、場を整えるためにわたしを求めているんですか」

「承知しているのだろう。我の本体に貴様の父も、母も、大軍さえも、敵わない。して分身である我は無限に訪れよう。抗うのか。抗うまい。さあ、従え、博愛主義の主神の娘」

「……」

(解ったでしょう。話し合いの余地は最初からない。わたしに交代しなさい)

 リセイの言う通り、フロートには話が通ずるとは考えにくい。一方的に神を食らい、本体である魔竜を生き存えさせることを目的に動いている。そのために母を襲い、封印を解くことも併行していくだろう。分身であるフロートの暴虐ですら、山を崩し、大地を揺らし、森を焼き払う。魔竜の復活はフリアーテノアの危機であり、まこと、魔竜はフリアーテノアの敵と断ずることができる。

(テラスリプル)

(……、ここは、わたしにやらせてください)

(何を言っているの)

(わたしに取っては違っても、リセイさんに取っては()()()()はずです)

(っ──)

 リセイが何に息を吞んだか解るから、テラスは氷杖を固く握る。

「フロートさん、わたしがあなたを裁定します」

「貴様達の通念における悪と断ずるに易い我をわざわざ裁定、か。笑わせてくれる」

 動かぬフロートを、テラスは見つめる。

「わたしは、フロートさんや魔竜さんを殺めたいわけではありません」

「森を焼いたのが我だと気づいていないのか」

「あなたに取っては森を焼くことも正しいことなんでしょう。魔竜さんを助けるため、ひいては自らを助けるために」

「そんな貴様なら悦んで生け贄を捧げてくれような」

「それはできません。わたしに取っては、この星に住む皆さんが守るべき家族です。一人たりとも、傷つけられたくありません」

「おかしな話だ」

 フロートが瞼を閉じて薄笑い。「我とてこの星に住んでいる。養ってほしいものだな」

「家族は、家族を食べたりしません」

「……貴様も同じか」

「お父様にも、同じこと訊きましたか」

「五億夜もの時を経て同じ答を寄越されるとは。期待外れだ」

 父も、同じようにフロートと話し合いをし、同じ答に辿りついたということ。

「フロートさんが、お父様を殺めたんですか」

「チーチェロが封印を施す直前だ。本体の断頭を狙う奴の心臓を刺し抉った」

 フロートが恍惚とした表情で語った。「他愛もない博愛主義者だった。所詮は己の価値に寄るべくして寄った不完全なる紛い物だったが、余興程度には愉しめた。テラクィークの代りに聞くといい、『幸せな時間をくれて、ありがとう』」

「……」

(テラスリプル……)

 テラスは寸時瞼を閉じ、半眼を開き、氷杖に力を込める。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「……皮肉も通じないか」

「わたしの父の最期を、期せずして知ることができました。母も知らなかった、きっと看取りたかった最期を。わたしはそれを母に伝えることができます。その感謝です」

「っはははははは!滑稽、滑稽だぁッ!」

 翼を広げて迫るフロートを躱して、テラスは氷杖で牽制、上空に舞い上がったフロートを観るまでもなく、溢れ出す冷気を振り上げる。

「あなたをこれで、断ちます!」

「──ッ!」

 振り上げた冷気が一直線──、目では追えない速度のフロートを捉え、その身を左右に両断していた。

「あなたは、わたし達の敵です」

 不意打ち。背後から迫るもう一体を氷杖から伸ばした氷柱でフロートソアー方面へ突き放して消す。

「何人で訪れようと、」

 次次に訪れようと、「わたしが皆さんを守ります!」

 視界を埋め尽くす無数のフロートを細氷(さいひょう)で絡め取り、氷杖を突き立てた地面から爆発させた氷柱群で殲滅した。

 ……ごめんなさい。わたしが遅れたばかりに──。

 氷柱群を消すとフロートの姿はなく、においも消えていた。

 消した氷柱群の冷気を森に送り込む。せめて炎を消し、その木木の姿を残したかった。

 昼下りの森は寂寞とした輝きに閉ざされ、陽光にさめざめと泣くようだった。




──一一章 終──




 

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