一〇章 積念
(ようやくね──)
声が聞こえた瞬間、意識を奪われた。
地面から一瞬で氷柱が伸び、小屋の天井を突き破っていた。その一線上にほんの少し前まで女性の首があったが、女性はその氷柱を躱して佇んでいた。
「テラス様っ、何してんです──!」
氷柱が伸びたのはテラスの足下からだった。氷柱を出したのは、テラスなのだ。が、よくよく観てみれば、
……こいつ、……誰。
テラスの後ろ姿によく似ており、黒髪とモカ織の着物は紛れもなくテラスのものなのに、明らかにテラスより身長が高く、気配が──。
「あんた、何者。魔物の気配がする」
「まさか、魔物化したのか……!」
「カイン、しっかりして」
「解っておる……」
カクミも躊躇いはあったが両手に銃を取って警戒を厳とした。
「裸のあなた、あなたがチーチェロ様で間違いないの?」
「……」
視線ひとつ動かさない女性。
「カイン、あのひとがチーチェロ様よね」
「うむ、相違ないが……、テラス様といい、チーチェロ様といい、様子がおかしい」
吹き荒れる風雪に煽られながら、カインが小屋の中の女性改めチーチェロを窺う。
「カインです。お忘れですか」
「……」
チーチェロがテラスらしき女性を見つめて応えない。
「これはいったい、何が起きておるのです。チーチェロ様……!」
「今、考えているわ」
「悠長なこと言ってる場合?」
テラスらしき女性の右腕を伝うように、氷柱が伸びゆく。その鋭さに、背筋が凍るようだ。
……テラス様は正気じゃない。はっきりした敵意を感じる。
特性が詳しく判っていないとは言え、新たに植えつけられた穢れの影響がこんなに早く現れるとは考えにくく、生来の穢れが影響していると観たほうが無難だ。テラスの穢れは、チーチェロが植えつけられた魔竜の穢れ。すなわち、敵意は魔竜の意志。テラスが突然に攻撃したのは魔竜の意志であり、封印を施しているチーチェロを殺めるためと観ていいだろう。そも、再会を愉しみにしていたテラスがチーチェロを攻撃することがあり得ない。
「あんた、黙って引っ込まないと撃つわよ」
「あなたに撃てる」
「な──」
氷の剣が分裂し、カクミの喉許に伸びていた。
「あなたが好いていることを知っている」
「っ!けったくそ悪いヤツね……」
だが事実、手を出しづらい。撃てばテラスが傷つくことになる。
躊躇の間にカインが眼前に躍り出て氷剣を叩き割り、カクミを背に庇った。
「カイン……」
「カクミ、お主は守れ──」
誰をとは、言われるまでもない。
……止めないといけない。
密かに魔弾を用意し、カクミは意識を守備に傾けた。
テラスを守ろうとするカクミの意志は極めて強固だ。その意志を信じ、カインは彼女を守りつつもテラスらしき女性とチーチェロ、両名に目を配る。
「チーチェロ様、わたくしどもは穢れ対策について伺いたく訪ねた次第です。テラス様は、穢れに冒され、支配されてしまったようです」
「……」
「チーチェロ様は対策をお持ちと考えております。かつてあなた様自身が穢れを受けたことがその証拠です」
「……」
チーチェロの表情がわずか曇った。何を思っているか定かでないが早く情報を引き出さなくてはテラスらしき女性が再び仕掛けそうだった。
「お願いします。どうか……お教えください!」
「無理よ」
「何故です。テラス様は、大切に、守り育てるべきご息女……そうではないのですか」
「あなたは間違っているわ」
「……何を」
「わたしに穢れは残っていないわ」
「(そちらか──。)聖水を、飲まれたのですか」
「いいえ」
「では、どのような手段で。その手段ならばテラス様の穢れを浄化もしくは取り除けると考えます」
テラスらしき女性の氷剣がじわじわと地面に伸びていっている。攻撃姿勢に移行しないのはテラスの善なる意識が穢れを食い止めているのかも知れない。時間に余裕はないだろう。
「チーチェロ様がお持ちの手段をどうか、テラス様に。お願い申し上げます!」
「わたしに手段はないわ。偶然だったから」
「偶然、ですと」
チーチェロが、一つの真実を語った。
「わたしの穢れは、リプルとプル、二人に受け継がれて消えたわ。わたしは、二人に穢れを植えつけて逃れたともいえるわね」
「左様な……!」
淡淡と語ったチーチェロに、カインの背後からカクミが怒気を発する。
「あなた、それでもテラス様の母親なの?信じらんない。テラス様を、身代りにしたってことじゃないッ!」
「わたしは精霊よ。神がどうなろうと知ったことではないわ」
「神が、じゃない!娘よ!」
「娘、ね」
割れた薄氷のようにチーチェロが笑う。「あなた達は重ねて思い違いをしているわ。わたしは自由を求めている。あらゆる束縛を好まない。あのひととて同じ」
その言葉には、カインも、カッとするものがあった。
「あの方、テラクィーヌ様との結びつきすら、あなた様は否定されるのか」
「好意的に観るは自由。けれど真実は不変。わたしは、自由が第一よ」
「自由のため、テラクィーヌ様も、テラス様も、テラスプル様も、犠牲にしたと仰るのですか」
「プルにはかわいそうなことをしたと思うわ。早逝するとは考えていなかった。娘というならば、わたしの意志を継いで自由に、強く、生きられるはずだったわね」
期せずして、テラスプルの死に確信を得た。今、神界宮殿で主神を務めているテラスプルが偽物であることも判然とした。だからこそ、カインは、許せない。
「あなた様でもッ!──」
怒りが湧き上がった。「あなた様でも、それ以上の冒涜は許しません。わたくしはテラクィーヌ様も、テラス様も、テラスプル様も、皆、──害されたくない!」
「腕を広げると力が入らない。二つでも欲張り、三つ求めるは愚か」
「あなた様は……まことにチーチェロ様か」
穢れがテラスやテラスプルに引き継がれて消えたとして、後遺症ともいえる魔物の攻撃性が残っているとは考えられないか。カインの知るチーチェロと違って、どこか敵意すら感ぜさせる目差。その雰囲気が、穢れに支配されたテラスらしき女性と似通いすぎている。
「主観は見方の脚色。一つの自由、真実の断片。正解がない」
「なんの問掛けです」
「あなた達の欲する答をわたしは持っていない。リプル、哀れな子。穢れに取り込まれてしまうなんて」
蔑んだわけでもないだろう。が、チーチェロの言葉にテラスらしき女性が反応した。
「あなたさえいなければ……」
「自由になさい。受け止めてあげるわ」
「……」
「『テラス様ッ!』」
テラスらしき女性、いや、正真正銘、テラスがその手の氷剣を振り翳し、小屋を横に両断した。
……なんという威力だ!
凄まじい圧力だった。両断したばかりの小屋をそのままの形で氷結したばかりか、周辺の渦巻く吹雪を纏めて氷漬けにし、急激な気温低下の影響か地面が震えて水飛沫の如く雪がドッと煙を立てた。
「くっ、カイン、これヤバイわよ!」
「そうだな……」
未だかつてない極度の冷気。瞼を開けていると目玉が凍ってしまうだろう。上着が意味を成さず、体も凍りついてしまいそうだ。身動き一つ取れず、テラスとチーチェロの姿を見ることができない。気配を捉えると、冷気同様に激しくぶつかり合っていることが判る。
……く……己、ここは、仕方ないか。
カインは右手に魔力を込め、「カクミ、わたくしの風に炎を乗せよ。冷気を押し退ける!」
「解った!」
カウントダウンを揃える。
「『三、二、一、──!』」
カインが拳を振るうとともに、背後のカクミが炎を放つ。拳が炎を纏い、熱風を巻き起こして周囲を一気に温めると、
「禁止行為よ」
……テラス様っ!
瞼を開けるか否か、カインは前方に現れたテラスに拳を凍結され、一瞬にして熱風を治められてしまった。氷結を免れた空間から豪雪が押し寄せ、寒暖の勢力図がもとより悪化した。
「ぐ……」
「駄目、か。さすが、テラス様ね……」
「感心している場合ではない」
「まあね……、けど、なんか変じゃない?」
決定的な打撃を受けていないのに、冷気にあてられて凍死寸前であった。のんきに話している場合でもないが、カクミの疑問がカインは気になった。
テラスとチーチェロの衝突が吹雪に乗って聞こえてくる。遠くへ移動しているのか、それともずっと近くで戦っているのかすら判らなくなってきた。冷気で聴覚が鈍っているようだ。
「何が変なのだ」
「テラス様の攻撃、ぎりぎりのところでチーチェロ様を外してる」
「……気のせい、またはテラス様の善性が動きを鈍らせているのではないか。聴覚に頼っても正確性に欠ける」
「気配でも観てる。なんとなくだけど、最初の氷柱も、小屋を両断したときも、感じてたわ、脚の筋肉の撓りが足りないというか肩甲骨の締りが木の実採取のときより弱いというか」
「(洞察の細かさがいささか気持悪いことはさておき、)そうなのか……」
カクミの言うことが正しいなら、どういうことか。確かに疑問だ。「テラス様が穢れに支配されているのは確かなのだろう」
「それは間違いないと思う。あたしの魔物センサが反応してるし」
「お主の感覚は信用しよう。テラス様はなぜ攻撃を外しているのか」
「テラス様が必死で抵抗してるのかもね……」
カイン達とチーチェロが話しているあいだ、じっとしていたテラス。そのときから見えざる抵抗をしているなら穢れに支配されきってはおらず、魔物化もまだしていない。
「カクミ。お主なら、テラス様を止められないか」
「無茶いうわね」
「だが、」
カクミが背後で灯した炎が体を温めてくれていた。「なんとか瞼を開けられた」
「そうね──」
現実を視れば、対策の立てようもある。
飛び込んできた景色は、身震いを禁じ得ないものだった。小屋を突き破った氷柱より一回りも二回りも大きな氷柱が辺り一帯に無数に立ち並び、一部はあらぬ方向から伸びた様子で頭上を交差している。入り組んだ氷柱群を縫うようにして飛び交ったテラスとチーチェロが、氷剣と氷杖をぶつけ合うたび、氷柱が増えていく。チーチェロの瞬間移動にテラスが押されているようにも観えるが、下手に近づけば氷剣や氷柱に突き刺されてしまうだろう。それでも、
「カクミよ。わたくしがテラス様かチーチェロ様を止める。その間に、テラス様の正気を呼び覚ましてくれるか」
「攻撃なんかできないしね。死ぬならせめて、テラス様を救ってからよ」
「……信じておるぞ」
「任せなさい。あたしは、テラス様最愛の護衛よ!」
「最愛っ」
「ツッコミはいいから!」
カクミが振りかぶるようにして右手の魔弾を発射する。「道はあたしが拓く。カイン、ボケなしで突っ込みなさい!」
「ふっ、了解だ!」
肉眼では観えないカクミの魔弾。その軌道は彼女の性格からしてテラスを狙っていない。敵の行動を先読みする力は、カクミの戦闘能力の優れたるところ。テラスとチーチェロの数手先を読みきって魔弾を発射したのなら、
……あそこか!
三方から重なった氷柱群、その向こう側でテラスとチーチェロがぶつかろうとしていた。カインは氷柱群にぶつかる勢いで突撃し、眼前で、
ビシシシッッ!
氷柱群に罅が走り、木端微塵となった。カクミの魔弾が宣言通りに道を拓いてくれたのだ。カインは右拳に風を纏い、粉粉の氷を吹き飛ばすや背を向けていたテラスの手首を左手で引いて、
「ご無礼をお許しくださいッ!」
「っ!」
宙で一回転、勢いをつけてカクミのほうへ投げ飛ばした。
……よくやったわ!
カインの力に押し負けて体勢を立て直せぬままテラスが落ちてくる。
……っはは、あたしと同じサイズの癖に運動神経はよくないみたいね!
その右腕には腕ごと氷漬けにしたような氷剣がまだあったが好都合だ。
「テラス様!」
「っ、やめなさい──」
穢れに支配されているはずのテラスが、そう言ったから、
「やめるかぁぁぁぁぁッ!」
落ちてきたテラスの氷剣を自分の腹に収め──、カクミは彼女を抱き止めた。倒れぬよう、奥歯を嚙み締めて、踏ん張って、彼女を抱き締め、放さない。
「戻ってきましたね、テラス様」
「なんのつもり」
「なんのつもりもなんもないですよ。これであたしの腕からは逃れられませんよぉ?」
「愚かな真似を」
「あんたに話してんじゃない!」
「っ──」
「とっとと戻ってきなさいよ、テラス様……あなたは、本当は、こんなことできたひとじゃない、な〜んもできない、ガキンチョなんですから」
「……」
「そんでもって、バカみたいに自分犠牲に、ひとに、尽くして、連れ去った暗殺者を説き絆しちゃって、閉鎖的な村のみんなに迎え入れられて、摘師になるためにボロッボロになって、なってからも毎日筋肉痛で笑ってて、ひとがよすぎて、毎日、毎っ日、心配になるわよぉ……」
体の芯から冷えていく。意識が遠退く。瞼が落ちても、口を開く。
「あたしはそんなガキンチョなあなたが、世界で一番──、だから、もどって、こい……!」
カクミはテラスの顔面で、左手の銃を握っていた。引金を引かんと指に力を込めると同時、
「……やめて、ください」
テラスの指。カクミが引こうとした引金の反対側に、引金を抑え込むようにして。
落ちた瞼で捉えようもないが、冷えきった銃を挟んで伝う熱いものを頰が感じ取っていた。
「テラス様、おかえり、なさい──」
体の自由が戻るや、力を失ったカクミの体を抱き支えて、テラスは転倒を怺えた。
「カクミさん……、カクミさん!」
今にも途絶えそうな息に気が動転して、頭が真白になった。
……どうしましょう……どうしたら──。
カクミの腹を突き破った氷剣が消えた。傷が面に凍結していて出血は抑えられているもののダメージが大きすぎる。
「リプル、深く息をしなさい」
「っ、お母様……、わた、わたしは、なんてことを──!」
見上げた母に、
ーッ。
頰を叩かれた。
「落ちつけと言っているわ。ゆっくり、息をしなさい」
「っ……」
息が、できない。吸えない。
「ひとの身というのは厄介ね……」
「テラス様、落ちついて」
母の隣に駆けつけたカインが、テラスの顔に掌を翳した。「こちらを視て、ゆっくりと息を吐いてください」
「っー」
「そう、その調子です、ゆっくりで構いません、息を吐いて──」
カインの掌を見つめて指示通りにすると、自然と息を吸って、吐いて──、数分で落ちついてきた。
「もう大丈夫ですね」
「……ありがとうございます、カインさん」
爆発しそうな心臓を落ちつけていくと、自ずとやるべきことに思い至った。
……治癒魔法を、早く!
カクミのお腹に手を翳して全神経を集中。命を懸けてくれた彼女のために全力を込めた治癒魔法。水色の光が炸裂し、凍結した傷を瞬く間に癒やし、穴の空いた腹部を塞いでいった。
「水の治癒魔法。教えたのは誰かしら」
「現銃士長マリアです」
「リプルの力になる者もいたのね」
カクミの表情が和らいできて快復の目処が立つと、カインが母に尋ねる。
「テラス様達を犠牲にしたというのは、本心ですか」
「本心よ」
「発言と行動が反しておられませんか。あなた様は穢れに対峙しつつもテラス様を殺めなかった。その上、先程はテラス様を助けようとなさった」
「犠牲の事実に未満はない。殺めるつもりもないけれど」
「穢れ対策をご存じでないというのも、事実と」
「神の、ひとの身を冒す穢れの対処方法を精霊のわたしが知る由がないでしょう。もしもその穢れを排除したいというなら、聖水を飲んで自ら滅びるか、わたしのように、子に引き継がせるか、どちらかね」
「斯様なことをテラス様には強いられません……」
「本人も望まないでしょう。わたしはその意志を歓迎するわ」
「犠牲にしたというのに、なんという言い草です……!」
「雪崩を起こしてしまいますよ」
「テラス様……」
全快したカクミを抱えたテラスは、母を窺う。
「お母様、カクミさんを寝かせてあげたいんです。横になれるところはありませんか」
「壊れた小屋でよければ貸すわ」
「ありがとうございます」
氷を消した小屋は半壊だが、屋外の氷柱群を維持すれば風雪を和らげることができ、崩さずに済んだ。
先頭に母、続いてカクミを預かったカイン、最後にテラスが入室した。氷漬けになっていたせいか暖炉の炭に火の気がなく、開け放っていたであろう木製ジャロジ窓が何枚も破損して冷気を招いている。
「建て直しね」
「ごめんなさい。わたしが直します」
「あなたの幼い指に技能があるとは思えないわ」
見事に見抜かれている。
「それでも、わたしが直します」
「ここを使いなさい」
小屋を直すか否か結論を出さないまま、木箱の列を示す母。
脱いだ上着を寝かせたカクミに羽織らせると、カインが母を見やる。
「チーチェロ様、恐れながら申し上げたい。あなた様は言葉が足りません」
「あなた達の不足をわたしの責任と掏り替えないことよ」
「喋りすぎる者とともにおりますゆえ言語能力の劣化を多少感じないわけではありませんが、それでも、あなた様の言葉は肝心なことを欠いているように感じます」
「あなた達の不足とは重ねていうわ」
母とカインがぴりぴりしていることを感ずる。自分と同じくらいの高さの木箱になんとか載ってカクミの寝顔を認めると、テラスは木箱を降りて母を向き直る。
「お母様、改めて謝ります。いきなり押しかけて、家を壊してしまってごめんなさい」
「償いとして小屋を直すのね」
「やらせてもらえますか」
「跡形もなくなるようなことでなければ自由にしなさい」
許諾(?)を得たので、テラスは早速動く。木造と思しき小屋の柱に氷を這わせ、切断面がずれないよう繫ぎ止めた。壁も同様に、切断面を縫い合わせるようにして氷を這わせて穴を塞ぎ、窓や天井の穴には氷の板を構築しておく。
「手慣れているわね。誰が教えたのかしら」
「カインさんとこちらのカクミさん、それから宮殿騎士団のマリアさんにいろいろな魔法を教わりました」
「いずれも氷の魔法は使えないんじゃないの。氷の魔法は自分のセンスね」
「はい。……目を汚すようなところがありましたか」
「いいえ。わたしの子だからかしら、うまくできているわ」
わたしの子。母がそう表現してくれたことに、テラスは胸の中の何かがすっと消えていくようだった。
「お母様」
「何」
「助けてくれて、ありがとうございます」
「何もしていないわたしにあなたが示すべき謝意はない」
テラスは目配せ。カインが小さくうなづいたので、引続き母と向かい合う。
「息のことだけではありません。気が遠退いているとき、感じていました。お母様がわたしの力を受け流して、わたしにも、カクミさんやカインさんにも、害が及ばないようにしてくれたことを」
「彼にそっくりね」
「彼……、お父様のことですか」
「ひとが善意で動いていると思い込んでいる。自覚があるか否かを問わず愚かね。悪意で動く者が確実に存在する。わたしのように」
命を賭したカクミの言葉を聞いた直後だからかも知れない。母の言葉が、胸に刺さることはなかった。
「お母様が悪いことを考えてわたしを助けてくれたとは思いません。あれほどの魔法、」
氷柱群が物語る激戦。経過時間は定かでないが、「カインさんとカクミさん、それからわたしも、傷を負わずに済みました」
「その子は傷を負ったわ」
「お母様はあえて止めなかったのだと思います」
そうすることでテラスが正気を取り戻すと考えていたから。
「わたしが魔物になってしまうのも、遠い日ではないかも知れません。でも、カクミさんの優しさを思い出せば、ひとを襲うようなことは二度起こさないと誓えます」
「その誓いは必ず破られるわ」
「来る日のことを断ぜられますか」
「あなたが未確定のことを断じているのと何が違う。希望は断ぜられて絶望は否定するの。随分と不自由な考え方をするのね」
「……」
その言葉には、確たる力があった。
「一度は無数。物事は必然性があって起こる。偶然と表するのは、目を逸らす主観でしかないわ。なんて不自由なのかしらね、ひとって」
「いろんなことがそうなるべくして起きるなら、お母様……イタチさんが招いてくれたのも、カクミさんがここで横たわっているのも、お母様がこうしてわたしと話していることも、起きるべくして起きたことだと思います。この目でしか物を判ずることができないとしても、明るい気のままで、皆さんと生きていきたいです」
「……」
背を預けた氷杖とともに母が浮き、目を細くしてテラスを見下ろす。「何を言っても聞かないわね。話を聞くというのは、きちんと受け答えをするということと同義なのよ」
「できていませんか」
「弊害ね」
カインがテラスの横に立って口を開く。
「あなた様が去り、テラクィーヌ様も戻られず、テラス様はお一人でした。このカクミが訪れるまで、同年代の話し相手すらありませんでした。あなた様は、なぜそれを存じている」
鋭い指摘のようだったが、母の姿勢はぶれない。
「時間があり余っている」
「調べたのではなく想像していたと」
「酌み取れなかったならあなたは躾役失格。気を配ることばかりを覚えては虚ろ。ひとの秘めたる意志を酌めないようではひとを育てることはできないわ」
「ご鞭撻と捉え、感謝しましょう」
「そう、そう」
カインの言葉を無視するように母が天井の氷を見上げた。「空いた穴が気にならないわね、天窓だなんて素的だわ」
「お母様も、星を観ていますか」
「年じゅうの吹雪よ」
「心の眼で観ているんですね」
「踏み荒らされた霜のような眼よ」
「苦しいからこそ望めば麗しいものですよ。魔法が解けた暁にはわたし達の住む村にぜひ来てください」
「我我の一存で決めてはなりません」
と、いうカインの注意にはっとした。カクミの無事が確認できた途端、母と話せていることに興奮してテラスは何度も判断を誤っていた。
「村の皆さんに尋ねてからですが、お母様、許しがもらえたら、どうですか」
「魔竜のこと、封印のこと、カインが想像したのね」
「はい。お母様はこちらから動けないと聞きました」
「策もなく封印を解くことはないわ。魔竜は危険だもの」
「チーチェロ様」
カインが口を挟んだのは、一つの策である。「巨大な聖水の湖が発見されました。ご存じですか」
「知らないわ。それがどうかしたの」
「魔竜の全長を超える大きさがあります。沈めれば、討ち滅ぼすことができないでしょうか」
「可能で、危険ね」
母とカインの考えをテラスは聞くことにした。
「仰る通り、魔竜は危険です。が、魔物である以上は聖水による穢れの浄化で討ち滅ぼすことが最も安全かつ確実な策と考えます」
「聖水は持運びができない。魔竜を聖水の湖とやらに誘導するとしても、通り道の一般神が犠牲になるわね」
母の意見は極めて単純かつ根本的で隙がない。「魔物はひとの姿を見れば敵として襲いかかる。よほど強い興味を持つもので誘導しない限り一般神の犠牲は不可避よ」
「テラス様の持つ生来の穢れ、そして暴走から、確信したことが一つあります。それは、魔竜がチーチェロ様を怨んでいるということです」
「当然ね。傷を受けたあのとき、わたしは魔竜と対峙していた」
「そのあと封印まで施しました、二度に渡ってです。チーチェロ様への怨みは極めて強いものとなっていることでしょう」
「と、カインは言っているわ。リプル、あなたはどう思っているの」
母が窺う。「この策に、賛成、反対、それとも別案があるかしら」
「賛成はできません」
と、テラスははっきりと言った。カインの策は、魔竜誘導を母に行わせることを前提としている。母があまりに危険であるし、魔竜を知る母がいうには一般神への被害がゼロになるとも断ぜられない。封印を解いたあと、発光中央坑道から魔竜をどんな形で誘導するかによっては作戦初期段階で生き埋めになる危険性もある。聖水を用いることは良策といえるが、──テラスは気になることがある。
「魔物……ひとの形をした黒いひとがさっき現れませんでしたか」
「〈フロート〉のことね」
カインが首を傾げた。
「名前がつくような有名な魔物でしたか」
多くのひとに危害を加えるなどした魔物を神界宮殿や民間が討伐対象とする際、個体識別を行うため名前をつけるのが一般的だ。
「聞き覚えのない名です」
「わたくしもです」
と、テラスと目を合わせたカインが、「フロートとはどんな魔物ですか」と、チーチェロを窺う。
カクミを脅かした驚異の魔物。ひとびとに被害が及ぶことを当然予測しており、対処する必要があった。
「フロートと聞いて、思い当たることはないかしら」
「フロートソアーですか」
「そう。誰しも知る魔物蔓延る危険地帯、大地の裂け目フロートソアー。その危険性の高さから、あの魔物にも名を用いたということよ」
「隙を衝かれたとはいえカクミさんが傷を負わされたんです。その力は極めて強いものといえますね」
「テラス様、お忘れなきよう、そしてチーチェロ様にもお伝えしたい、そのフロートに、テラス様も脅かされたということを」
「話を聞くわ」
母がカインの目を視る。「どういうこと」
「テラス様の先の暴走が果して生来の穢れゆえか、わたくしは断じきれない部分があります。と、いうのも、フロートと思しき魔物にテラス様は穢れを植えつけられた可能性があります」
「……」
氷のような母が、ほんの一瞬眉を顰めたようだった。
「幸い、カクミのお蔭でテラス様は正気を取り戻されましたが、魔物化のリスクは時間の経過とともに高くなるものと考えています」
「魔物化するかどうかは心次第ね。穢れに支配されるのと同様、弱さが穢れを野放しにする」
「……改めて伺います。フロートは何者です」
「あなたは知っているわ」
母が、新たな真実を語る。「フロートは、魔竜の分身よ」
「な、んですと。魔竜とは、あの魔竜、ですか」
「ええ、そう。わたしが坑道に封印している魔竜。その分身がフロートであり、フロートは魔竜であるということもできるわ」
穢れを植えつけられた可能性を話してくれたカクミが、合わせてテラスに話してくれたことがある。
「わたしとカクミさんは、そのフロートさんに見逃されたものと思われます。穢れを植えつけられた上で、もしかすると、魔竜さんの回し者にしようと考えていたのかも知れませんね」
「テラス様、そんなに冷静に話さないでください、これは……一大事です」
「でも、少し判ったことがあるんです」
「何がです」
「じつは──」
人型の黒い彼改めフロートに対してテラスが感じた懐かしさ、それに、みんなより早く接近を察知できた理由も魔竜の分身であるなら当然だろう。テラスの生来の穢れは魔竜がもととなっており、謂わばフロートとは穢れを分けた家族のようなもの。テラスはそう伝えた。
「──。それを家族とはいいたくありませんが」
話を聞いたカインが額を押さえて一部を認める。「要するに、テラス様は最初から、フロートと魔竜の繋がりを察知していたということになりますね。無論自覚はなかったでしょうが、そうなると、新たに植えつけられた穢れがフロートの、いいえ、魔竜の意志で深化することが懸念されます。これは、極めて危険です」
「倒すべき魔竜、その魔竜を倒すべきリプルが魔竜の穢れを継ぎ、新たに植えつけられもしている。皮肉な話ね。仮にリプルが魔竜討伐に動き出したとしても誰も信用しない」
「……」
母の言葉にカインが反論できない。
が、
「わたしは違うと思います」
テラスは真向から母に意見した。「わたしはモカ村に移り住んで強く感じました。ひとびとの心に寄り添うことができたなら、必ず、ひとびとも寄り添ってくれると」
「あなたは異質なのに」
「異質──」
その言葉に、何か引っかかったテラスだが、話を続ける。「村のひとびとは、わたしに生まれ持った穢れがあることを知りながら、これを託してくれました」
「木の実ね」
「村で採れる木の実の中でも特に希しいものです。村の皆さんはこれをわたしに預けて、言ってくれたんです。『心からお待ちします』と。わたしは、皆さんの言の葉を信じます」
「……」
母が木の実を見つめ、「信頼を寄せ合ったひとびとを傷つける恐れもあるわよ」
「何があっても傷つけません」
「それは誓い、それとも、望みかしら」
「望みであり、誓いです。わたしは皆さんに尽くしたいから、もう、穢れに取り込まれたりはしません」
揺るがぬ意志を聞き届けたと言わんばかりにどこからともなく青いイタチが現れテラスの肩に駆け上がって頰ずりした。
「あわわっ、ひんやりです──、このイタチさんはお母様の仔ですか」
「……使いよ。とはいっても、ひとに懐くような性格はないはずだけれど」
「チーチェロ様」
カインが微笑。「これぞあなた様の娘、テラスリプル・リア・フリアーテノア様です」
「……そう」
降りた氷杖を腕にくるめるほどの小ささにして、母が微笑む。「最後に観たのはまだこんなに小さなときだった。魔物も同然の穢れた存在だった。なのに、今は」
「あ──」
「素晴らしいわね、どうしようもなく」
ひんやりとした青いイタチと同じように、ひんやりとした両腕と耳許の母の声が沁みた。
「その穢れを取り除くことは、わたしにはできない。けれど、ひょっとするとあなたなら、その穢れと真向から向き合い、何かしらの解決策を見出せるのかも知れない」
「お母様……」
テラスは、目の前の細い体をぎゅっと抱き締めて、雪より冷たいその体温を憶えた。
……お母様のにおい。
埋もれた記憶が蘇るような、優しいそのにおいも憶えた。
「リプル……、ごめんなさいね」
その言葉こそが、母の本当の想いだとテラスは肌で感じた。
「わたしこそ、もっと、早くに訪ねなくて、ごめんなさい……」
テラスが神界宮殿にいたのとは違う。母は真に独りでここにいた。想像するには余りある孤独をどのように凌いでいたかは、テラスが一番解っている。自分にできることをし、いつも、大切なひとのことを思い出して、想像して、また、自分にできることをしている。
……これからも、わたしはわたしのままで。
母のように懸命に生きていこう。
憶えた母と離れると、カクミに添寝してそんなことを考えた。
チーチェロに頼まれて小屋の外に氷壁の一室を作ったテラスがカクミと添寝すると、カインはその氷壁の一室で吹雪を眺めた。同じようにしてチーチェロが天井の吹雪を眺めている。
「お話があるんですね」
「亡くなった彼からの伝言があるわ」
彼とは、テラクィーヌにほかならない。唐突に知らされた死亡事実はカインの胸に重く刺さったが、敵対姿勢を見せていたチーチェロがテラスを受け入れたのは一つの幸。そんなチーチェロが伝えるテラクィーヌの伝言を聞かないわけにはいかない。
「なんでしょう」
「リプルのことを頼むと言っていたわ」
「……」
「あなたを心底信頼していたのね。それは正しかった。今のあの子を育てたのは、あなた」
「いいえ、わたくしだけの力ではありません」
「カクミ──、彼女は何者」
「貧家に生まれた、類稀なる娘です。わたくしが及ばぬほど、テラス様を想っている……」
「そう。相性がいいのかも知れないわね。二人とも、思い込みがひどそうだわ」
「相変らず厳しいですね」
「優しさだけでは過酷な現実に堪えられないわ」
「……そうですね」
カインは、自分が生ぬるい世界で生きてきたのだと感じてしまう。テラスと同じ立場であったら強く心を保てたか。カクミと同じ状況で命を懸けられたか。テラスと同じように正気を取り戻し、カクミのように満足できたか。
「比較することもないわ。あなたは土台を作った。価値あることよ」
「これからも力になって差し上げたいと考えています」
「必要ないわね」
「お役御免と……」
「やることを新たに探せばいい。生きている限り成長できるわ」
テラクィーヌと多くの騎士は成長できない。
「申し訳ございません。チーチェロ様の疑惑を払拭することはできそうもありません」
「彼と騎士団を殺した罪。事実だけれど、わたしは不自由な裁きを受けないわ」
「償いを十分にされていると考えます」
夫を失いながら悲しむ暇もなく、娘との大切な時間を削って魔竜を封印してきた。
「チーチェロ様の真意をわたくしは量りかねています。母としてのあなた様を疑う余地はないとも考えています」
「あなたはリプルの躾役。その立場を守ればいい。皆が皆、好意的主観である必要はないわ」
「お強いのですね」
「脆いものよ」
チーチェロがカインの右腕を視る。「彼女の炎を纏った旋風。あれが弾けていたらわたしの封印が弱まり解除された危険性があった」
土壇場でカクミと放った合体魔法だった。テラスに止められたから不発した。それでよかったのだ。封印解除は計算外だ。
「──禁止行為、か」
合体魔法を止める直前、迫ったテラスが言った。穢れは魔竜由来であることからあの言葉には単純な意味しかなかったと考えられるが、カインは気にならないでもない。
「なんのことかしら」
「いえ、……、チーチェロ様に伺いたいのですが、魔竜は封印に抵抗していたのでしょうか」
「フロートがたびたび現れる。それが魔竜の意志よ」
「封印から出たがっていることは疑いようがない。そうなると、わたくしとカクミの魔法を止めたのは単純な意味のみということに……」
封印弱化は魔竜が歓迎すべき状況。カインやカクミが冷気に抗って動けるようになると状況が不利になると考えてテラスはそれを止めたのだろう。それはそれとしても、気になる点は残っているが──。
「穢れは穢れよ。怨念のように極端な意識の塊。あえていえば、非常に利己的な意識の塊ともいえる」
「……魔竜の分身たるフロートの数をご存じですか」
「単細胞生物とか雌雄同体とかいうのがいるでしょう。恐らくそういうものよ」
「分裂または一個体で生殖が可能で無数に増殖する……厄介ですね」
「魔物には時折いるでしょう」
「スライムや植物型の魔物がそれに当たりますね」
一個体は弱小の類だが気づけば増えているので手間が掛かる厄介者である。そのどれもが穢れを撒き散らしかねない危険性を有しており、戦えないひとびとは聖域の中での暮しを余儀なくされる。モカ村などは人口が少なく一定数の戦える人材がいたために存続しているが、非聖域で滅亡していないのは稀なケースといわざるを得ない。
「フロートがその特性を有するなら、魔竜本体も……」
「そも魔物というのが湧く存在だから気にしても無駄ね」
「フリアーテノアの脅威です。討伐後、増殖を防ぐ手立てを講じなければわたくし達、神の敗北は明らかです」
封印するほかないような魔竜であるならなおのこと。討伐はもとより増殖を防ぐ必要に迫られる。
「あなたは討伐するほかないと考えている」
「ほかに手はありますまい……。テラクィーヌ様を筆頭とする多くの仲間の、弔い合戦です」
「頭が固いわね」
「……よくいわれます。聖水による浄化が確実かつ効率的と考えますが、チーチェロ様はほかの作戦がおありですか」
「わたしは封印にほぼ全ての力を注いでいる。余剰の力はこれだけ」
氷杖。それだけでもあの氷柱群の半分を作り出していたのだから尋常ではないが、魔竜に対してはチーチェロとテラクィーヌの力を合わせても全く足りなかったのが現実だ。単純な力勝負では負けてしまう。
「リプルに任せるわ。封印を解くつもりはないけれど」
「解かずともフロートが厄介ですね」
以前のことを考えると、魔竜本体が封印の中で力を蓄えている可能性が高い。それに加えて分身である人型魔物フロートが無数存在するとしたら。
……カクミが不意を衝かれること自体が極めて異常な状況だ。
ほかの追随を許さぬ実力だったからこそテラスの護衛にまで抜擢された銃士長、それがカクミだった。そのカクミが一方的に伸された相手がまさか無数存在するとしたら、フリアーテノアではそれなりに古い神であるカインも太刀打ちできそうにない。
「ところであなた、水属性魔力を持ちながら治癒魔法を未だに使えないのね」
「……」
「澱ね」
「面目次第もありません」
テラスのように気が動転した経験が、カインにもあった。カインは落ちつくことができず、治癒魔法を使えぬまま──。
「あなたは先細りね」
「年寄として扱われています。広い必要も、明るい必要も、ありません」
「リプル達の足を引っ張らないように」
「サポートはさせていただきますが」
「実績がなければ自称と終わる」
「本当に、厳しい方ですね……。議会が障壁となっています」
「リプルの敵ね」
「詳しく、お訊きにならないのですか」
「想像がつくわ。あの子がやること・なすことに若いという理由一つで邪魔立てしている」
「少し前までは似たような状況といえたでしょう。聞きませんか」
「時間があるわ」
「では、──」
ここに至った経緯を話したカインは、特に、フロートの暴行に関してチーチェロがどのように反応するか観ていたが、氷像のように表情ひとつ変えなかった。
「──。老け込んでいるわね。それはもとからだったかしら」
「甲斐性なしと自覚しています」
「ひとの身は大変ね。睡眠は摂っているの」
「十分に。心配なのはカクミのほうです」
「あの子は不思議。魔物の気配が判るというのは希しい体質だわ。リプルのことを気に懸けていることも。まるでリプルを守るために生まれ、それを己の自由と履き違えているかのよう」
「間違っているかのような仰り方ですね」
「間違いでもないわ。理由もない信奉は崩れやすい」
「カクミには、恐らくちゃんとした理由があります」
だからこそ命を懸けられた。「ただ、その理由以前から、わたくしは彼女がテラス様と深い運命をともにしているように感じてなりません。他者を信頼するというのは口でいうほど簡単ではありません」
「人間不信」
「柔軟性を失いました。意固地になって、自然と警戒してしまいます」
面に出さないナイーブな内心もある。神ゆえに体の衰えとは縁遠いが、心は少しずつ。
「わたしには解らないわね。わたしは生まれたときから大して変わっていないわ」
「チーチェロ様の小さな頃というのは想像がつきませんね」
魔物とは異なるとはいっても精霊の生態もまた謎が多いのである。精神構造どころかどのような精神構築がされるのかもカインには判らない。
「リプルについて解る部分があるのでしょう。それで十分だわ」
「……そうですね」
守るべき存在のことを理解しているか否か。それは、とても大きなことだ。「わたくしに、理解・納得させてください」
「ひとのことはよく解らないわ」
「精霊のことです。チーチェロ様は、テラス様を娘と仰った。しかし、……」
理解できないことがあったのだ。ずっと。「テラス様を、テラスプル様も、いつ身籠もられたのですか」
カインはテラクィーヌの側近としてチーチェロともよく会っていたが、テラス達が生まれる直前も、チーチェロの体に大きな変化がなかったのである。代理母か。だとしても、その代理母からどのようにテラス達を引き渡させたのか。そんな様子は、チーチェロのみならずテラクィーヌにもなかった。
カインとしては長年の疑問だった。魔竜の出現やテラクィーヌ殺害疑惑と同じようにタブー視したから口にもしなかったが、そんなカインの気も知らずチーチェロがあっさりと答えた。
「精霊の力で作ったわ」
「精霊の力で」
「精霊のわたしに取っては力は当り前の知識よ。ひとびとが呼吸をして食べて寝るような至極普通の、ね。ひととひとの行為と等しくて遠い、尊い行為といっておくわ」
男女の行為には違いないのだろうからカインは深く突っ込まない。
普通のことをあえて説明することはない。夜の営みについてもそうだ。
「聖水を他神界などに求められたことは」
「穢れを浄化してはならない」
「テラス様やテラスプル様のお命が危ぶまれた」
「リプルの無意識魔法は今もある」
「……はい」
幼いテラスでさえ穢れの影響を強く受けていた。それを知るチーチェロが、聖水を使わずして命の危険を察知したとしてもなんら不思議ではなかった。本人の口からそれを聞けたのが大事だった。
……ほっとした。
テラスが、天涯孤独になってしまわなくて。テラクィーヌが亡くなったと察したとき、テラスプルに続いて、と、カインは不安だった。テラスはチーチェロを拠り所にできる。カインのように、彷徨わずに済む。
「ふと思いましたが、テラクィーヌ様はチーチェロ様のことを理解していたのですか」
「知らないわ」
「即答と……」
「六花一片見澄ます断片」
「それは」
「わたしもまたテラクィーヌを理解していなかったという意味よ」
「ひとの心を捉えることは難しいということですね」
「うまくいっているのなら、それこそが最上の関係だわ」
「お二人がそうでしたか」
「想像に任せるわ」
テラクィーヌとチーチェロは、うまくやっていた。そうでなければ、いつ伝えられるかも判らない伝言を覚えていなかっただろう。チーチェロには優先すべきことがほかにもあったはずなのだ。テラクィーヌの言葉だったから覚えていた。その言葉が自分の心と繋がっていたから忘れなかった。そういうことではないか。そんな二人の子のうち、亡くなったテラスプルに関してカインは一つの疑問を持っている。
「思い過しならよいのですが、一人、テラスプル様らしき人物に心当りがあります」
「蝶の痣があったわね」
「お気づきでしたか……」
「あなたが運んでいるときにちらっと」
娘かも知れない人物を発見したのに周囲には全く感ぜさせなかったチーチェロ。「テラスプルのものとよく似ているわ。成長に従って大きくなっているようにも見受けたけれど」
「しかしチーチェロ様は、亡くなったと明言されましたね」
「この眼で確認したもの。彼もね」
「ご遺体は、陵墓ですか」
「彼が埋葬したわ。余所者のわたしの子でも、主神の血筋には違いないでしょう」
「ええ、それは勿論。ですが、カクミは……」
「彼女の素性が気になっている。瑣末な疑問に気が及ばなくてごめんなさいね」
底冷えの寒山の如くちょくちょく厳しいチーチェロが疑問を解消する。「わたしの知っているプルは黒い肌ではなかったわよ」
「そう、ですか──」
テラスプルが生きているならそれに越したことはなく、そうであったなら、じつは姉妹であるテラスとカクミは思わぬ再会を果たしていたのだ、と、事実を感動的に告げることもできただろう。二人がきっと大悦びするはずなのに、カインは、なぜかほっとした。
「末広がりにはカクミの存在が重要ね」
「はいぃっ」
「『あなたが』とは言っていないわ」
「ぬ……」
「自覚があるんじゃない」
「……」
ほっとしたのはそういうことだ。ただ、そう感じてしまっている自分に反吐が出そうでもある。二人の悦ぶ姿を老人らしく見守っていたかったはずなのに、
「もっと頭が固くならないものですかね……」
「裸で頂上に登ってみるといいわ」
「雪像になる予定はありませんので遠慮申し上げます」
「残念」
何をもって残念なのか。
さておき、何気ないチーチェロの言葉にカインは引っかかった。
「ここは頂点ではないのですね」
「あなた達が通ってきたのはイタチが掘った穴よ。頂点は遥か上」
「予想より早く着いた感がしましたが、なるほど」
青いイタチはチーチェロの使いであるから、地下空洞がチーチェロの生活拠点となっている小屋にほぼ直通しているのは当然のこと。
「なぜ、頂点ではないところに拠点を」
「近場に木が生えている地帯がある。小屋を建てるのが面倒くさかったから」
「な、なるほど」
単純明快だった。木木を伐採して運ぶにも頂点までとなると尋常でない労力が掛かる。その辺りもチーチェロは自由気儘に動いていたということ。封印魔法を維持する上でも必要な労力カットだったことだろう。
「ちなみに中腹より少し上。最大限かつ安定して寒気を利用するためには山の中央辺りに陣取り視野と感覚を広く保ったほうが都合がよかったわ」
「晴れることもあるのですね」
「極めて稀。そのときは晴れていないところから雲を多少借りて寒気を保つわ」
毎日のように、いや、今も、そうして封印を保っているチーチェロに、カインは頭が下がる思いであった。ただ、どうしても、念のために訊いておきたい。
「最後に一つ、伺います」
雪の流れに時代を思う。「テラス様の穢れはどうしようもありませんか」
「向き合うべきはリプル自身よ」
厳しい彼女らしい応答だった。周りのカイン達がいくら心配しても、いくら考えを巡らせても、最後はテラスが穢れをどうにかしなくてはならない、と。
「──、そうですね、わたしもそう思います」
にっこりと笑って、彼女はそう言ったのだった。ほんの数秒前まで泣いていたのに、話を聞いた途端に応えようとして笑みを零す。
ひとの声に耳を傾ける姿勢やひとの想いに応えようとする心構え、あるいはひとの不安の芽を摘もうとする意気込み。何を差し置いても何を犠牲にしてもたとい自分が死ぬほど苦しかろうともそれらを伏せた上でひとに尽くすことができてしまう天性の才能が、彼女には不憫なほどに備わっているようだった。
カクミは最初から細かく洞察したわけではなかった。彼女が善良であることを察していたから、憧れとともにフィルタを掛けて観ていたということもできれば、特別な観察や心遣いを取っ払っても問題が起きないほどに大切な部分を分ち合えていると、一種の楽観視をして、思い込みをして、その見方を彼女に押しつけて過ごしてきた。それでも彼女が不満の一つも口にせず、あれから泣くこともなく、言葉通りに幸せそうで、愉しそうで、まさしく無問題であり、差支えもなく、一方で、ひどくつらそうで、ときどき、目を背けたくなった。
──わたしは、お母様にも見放されてしまったんでしょうか。
軟禁の孤独感は、世界のあらゆる憂いを彼女に思わせたのかも知れない。そうして、彼女自身の、つらい現実と直面させてしまったのかも知れない。
無理をしているふうではない。そう思ったから目を背けたくなったのに、彼女の泣顔は胸に刺さって、ますます目を背けたくなった。
いつも彼女を視ていた。目を背けたくなっても、可能な限り視ていた。自分はそのために、ここにいるのだと考えていた。
そして、言ってしまったのだ。
──泣いててお母さんが悦びますか?あたしはそうは思えません。
それから彼女は自分のことで泣くことがなくなった。
ひんやりと冷たくて温かいものを、頰に感ずる。誰の感触か、なんて、考えるまでもなく、カクミはその感触を満喫した。
……テラス様。
添寝していた彼女がなかなか顔を見せなかったから、カクミは見ないようにした。
「気にしてないんで、無理しないでくださいよ?」
「……」
「やっぱ気にしてたか……」
寒寒しい小屋。冷たい木箱。体温の低いテラスまでが冷気に染まっているとはカクミは思わない。
「昔あたしが言ったこと、憶えてます?」
「どんなことですか」
「ほとんど憶えてないと思いますけど、泣いてたらお母さんは悦ばない、っていう、あたしの言葉です」
「それは、憶えています」
「……アレ、訂正します」
頰に感ずる一層の冷たさが単純な我慢とは思わない。が、呪いのように彼女を縛りつけ、無理をさせているとしたら、あのときの言葉の意味を少し変えたいとは思うのである。
「テラス様のお母さんは、テラス様の頑張りをきっと理解してるんで、多少泣いても叱ったりはしないと思います。なので、キツイことがあったらせめて遠慮なく口に出してください。あたしだけでもいいしカインでもいい、お母さんにでもいいし、ほかの信頼できる誰かでもいいんで、抱え込まないでください。テラス様が最後は笑ってくれてるのがあたしの理想なんで、そうしてほしいんです」
頰ずりをするように、縋りつくように、テラスが密着した。普段であれば鼻息を荒くして抱き締め返してあげるところだったが、そんな気分になれなかったのは、彼女が、怯えていた。
「わたし……もう、カクミさんを傷つけません。ほかの皆さんのことも、傷つけません。だから、カクミさん……」
「はい、なんです」
「──、わたしが次に皆さんを傷つけようとしたら、撃ってください」
「……」
皆を傷つけない。そう心に誓っている。その上で、もしものときのための皆の安全を考えている。
……テラス様は誓いを破ることはない。そう信じたい。
意志とは異なる部分で暴走してしまう危険性がある。テラスがそれを口にしたということが何を意味するか想像がついたが、カクミは彼女から現状を聞きたい。
「チーチェロ様とは、しっかり話せたんですか?」
「穢れを消せるのは、わたしがこの世を去るときだという話でした」
「……」
後戻りができず、対策もなかった。
……くそ……──。
生まれながらの穢れがある。それでもテラスを守れていたら、暴走するようなことにはならなかったのではないか。あのとき守れなかったことが、未来に影を落とした。
テラスを見守る。その意志は、追放後のいっときに限った覚悟ではない。その覚悟はほかの誰にも譲れない。テラスの決断に、応える。
「任せてください。いざとなったら、あたしが、テラス様を止めます」
「お願いします……」
息が詰まるような密着だった。毎夜のように抱き締め合って横になっていたのに、これほど胸が冷たく、これほど熱くもある抱擁はなかった。互いの脈を感じ、互いの脈が遠くもある。別離──。遠いはずの未来が確実に迫っていることを感じてしまう。テラスには感ぜさせたくなかった気持を自ら感ぜさせてしまっていることに、カクミはまた自責の念を禁ぜられなかった。
起き上がると、テラスはカクミの体に異常がないか再確認した。特段の変化はないようだったが念のため治癒魔法を施していると、カインと母が合流した。
「水の治癒魔法の使いすぎは体に毒よ」
とは、母の言葉であったからびくっとしてテラスは魔法を止めた。
「冗談だけれど」
「チーチェロ様、笑えない冗談はおやめください」
カクミが眠っている間に話したことや母と二人で話していたことを共有して、カインが今後の行動について話してくれた。
母も話した通り、穢れの除去はテラスの死亡と同義であり、危険とは判っていても放置するほかない。曰く、強い意志でもって穢れに取り込まれることなく自我を保つことがある程度は可能とのことだが、それも永遠とはいかないそうである。従って、村民に再び理解を求めることになるが、今後のテラスは村外での生活、それも、ひとの住んでいない場所での生活が望ましいということになった。魔竜と魔竜の分身であるフロートに対しての対策を練らなければならないが、その前に、発光中央坑道への立入許可を取るため神界宮殿に赴く必要があるとの見解も示した。
「──。どうせならここに住む」
とは、話を聞き終えた母の言葉。「答えなくていいわ。顔を観れば解る」
「お母様、ごめんなさい……」
「自由になさい。ここに来てくれたから親孝行は充分よ」
「ありがとうございます」
「わたしには立派な脛がないけれど、子は黙って親の脛を齧るものよ。わたしはそのほうが嬉しいわ」
「重ね重ね……」
テラスは頭を下げた。
カクミが手をぱんっと合わせて、木箱の横に置いてあったバスケットを掲げた。
「どうせなんで、チーチェロ様も一緒にどうです?ご飯ですけど」
「そんなものがあったのね。わたしは食べなくても平気なんだけれど、ひとの生活に触れたせいか無性に食べたくなることもある。蒸しパンはあるのかしら」
「えっ、蒸しパン?あったらよかったですが、ないです、すいません」
「無理を押し通すつもりもないわ」
バスケットの蓋を開けようとしたカクミとそれを横から覗くテラス。期待感に満ちた目で見下ろす母の後ろで、カインが一人難しい顔だった。
「カクミ、少し待て」
「何よ、いまさら彩りウンヌンいうつもり?」
「違う」
カインが神妙に指摘するのは、「やはり、少し思い違いをしていたのやも知れぬ」
「ん?なんのことよ」
「そのバスケットはわたくしが預かっていたが、テラス様の暴走後、地面に放っておいたものだ」
「それがどうかした?あぁ、あの激戦に巻き込まれなかったのは運がよかったっちゃよかったとは思うけど、あんたはあたしの彩りに巻き込まれるサダメよ」
「そんなサダメはご免なのだが……、真剣に話したいことがある。チーチェロ様に一つ、お伺いしたいことが増えました」
「何かしら」
と、言いつつ、母が先回りで答えた。「わたしは保護していないわ。バスケットをわざわざ攻撃したりしていないけれど、そも、目に入っていなかったわ」
「ならば、誰がバスケットを守っていたのでしょう」
「お母様でなければ、カクミさんではありませんか」
「いや、あたしは毎時毎分毎秒までテラス様に釘づけなんでバスケットは二の次でした」
「その言葉もいささか気味が悪いが」
と、カインが青ざめた顔をしたのは一瞬のことで、まじめに切り出す。「わたくしも守っておりませんでした。そこで、先程のテラス様の氷壁の魔法です」
小屋の外に作った氷の壁による急拵えの部屋だが、
「わたし、と、いうより、わたしの穢れが守っていたとカインさんは思うんですか」
「その通りです」
「ちょっと待って」
と、カクミがバスケットを開けて、中身を取り出す。「サンドイッチ系が多いからもとからホカホカじゃないけどさ、それでも結構常温よ?氷の魔法で保護したんならカッチカチに凍っちゃうんじゃないの?」
「いや、あの氷の壁は外界との温度を高度に遮断しているようだった。外の部屋には扉もつけてくれましたね」
「はい。開けっ放しではカインさんが寒いかと思いました」
ちょっとした気遣いが、カインの思考に確信を与えていた。
「テラス様があのような魔法を使えることを知りませんでした。いつ覚えたのです」
「いつの間にかです。予め学んだりはしていません」
「魔法というのはテラス様に限らず術者の気質が強く出るものといいます。氷の壁はまさしくテラス様のお心遣いによって構築されているといっていいでしょうが、恐らく、構築自体は穢れも行えます。だから『いつの間にか』なのでしょう」
「そんなことってあるの?」
と、カクミが訝しむ。「言っちゃ悪いけど、あたしは感覚派術者だから勉強なんかせずに魔法使ってるわよ。子どもんときからそれでなんとかなってたし、だからといって穢れを持ってたわけじゃないわ」
「お主は生まれ・経歴・料理に至るまで変り者だからな」
「もうカインったら、ベタ褒めするじゃないわよ」
「褒めてはおらん。ともあれ、お主に限っていえば攻撃性の強い魔法が常であろう。トラップにしても同様だ」
「まあ、そうね」
「テラス様の場合、穢れを持って生まれたがゆえに穢れと同化して育ち、逆をいえば『穢れ』はテラス様と同化して育ったことになる」
「要点を纏めなさい」
と、チーチェロが促すと、カインがうなづき、一言に纏めた。
「テラス様の『穢れ』は、もはや、テラス様であるということです」
「それ、これまでと何か変化のある纏めだった?」
と、カクミが首を捻る。「穢れを浄化したらテラス様が死んじゃうんだから、当り前のことじゃない」
「大きく違うさ。バスケットには、お主の手料理が入っていたのだからな。中身はなんだ」
「ボケたの?玉子ハムサンドがメインよ」
「それはテラス様の好物だろう。それを穢れが、いや、あえてここでは『魔物』としておこうか、魔物が、テラス様の気持を忖度して行動したというのか」
「……あ!」
「あまつさえだ、そのバスケットは断熱しているとはいってもわたくしの現在の貯蓄から捻出した安物の断熱材とパッキンを使ったものに過ぎない。あの寒波の中では、氷の壁がなければカッチカチであったろうよ」
「自虐入ってるけど理解できたわ。穢れが忖度して氷壁を展開してなかったら料理が全部パーだったわけね」
カクミが取り出した玉子ハムサンドは、パンも具材もそのものの食感を維持している。氷の壁が目玉も凍りそうな外気温から守っていたことを示している。
魔竜由来の穢れを持っているという意味ではテラスとフロートは魔竜の子世代という扱いになるだろう。フロートがテラスを傷つけたのに対して、テラスに宿った穢れはバスケットを守っていた。攻撃と守備。性質が、明らかに異なる。
「魔竜の穢れは、もとの凶暴な性質を残しつつもテラス様の人格に吞まれてるってことよね。あ、でも、それならチーチェロ様に攻撃したのはなんなの。反抗期……?」
「その可能性が高い。お主もいうように魔竜本体の意志がやや残っており、封印に曝された怒りなども混じっているのかも知れぬが、それが先行していただけなら、バスケット保護に気を割くまい。暴走中のテラス様はチーチェロ様にやや押されていたからな」
「めっちゃ好意的に観れば、親子ゲンカしたあとに仲直りの料理を取っておきたかった、とも考えられるわね」
お弁当を持ってきたのは母とともに食べることを想定していた。大好きなカクミの玉子ハムサンドを母と並んで食べて、これまでの話をたくさんしたかったのだ。
「──あわわっ!」
「おっ?テラス様が希しく大きな声で……、どうしました?」
「あわわっ、です」
「まじめに小さく言い直しましたね。で、どうしました?」
促されたテラスは、思い出したことを口に出す。
「夢で、そう、夢でわたしを見たんです」
「はい?」
「夢ですよ、夢。眠ったときに見る大きくなったわたしです」
「話が見えませんて。ほーれほれ、落ちついて〜、順を追って話してくれます〜?」
「はい〜」
カクミの玉子ハムサンドにつられて落ちついたテラスは、夢で見たもう一人の自分と、その自分が発した言葉を伝えた。断片的で、全てを思い出せていないとは思うが、
「──、で、大人びたテラス様は『リセイ』と名乗ったんですね」
「リセイって、欲求を抑えたりする理性のこと?」
と、カクミがカインを窺う。「大人なテラス様は、もしか穢れが形を取った姿なのかも知れないわ。テラス様が暴走したとき、身長があたしと同じくらいになってたし」
「そうなんですか」
「あ、そっか、テラス様は自覚ないんですね。そうですよ、大きくなってたんです、で、気配は魔物になってたんで、あたしらは魔物化したんだって捉えてたんですけど」
「リセイさんがわたしの穢れだったとは全く気づきませんでした。とても優しいひとだと感じたので、大きなヘビさんを始めとする魔物とは遠い感じもします」
「そりゃあテラス様の人格に吞まれてたらそうでしょうね。ってか、お蔭でカインの推測が正しいって証明されたわね」
「そうだな……」
「浮かない顔ね」
「いや、予想外な事態だからな。リセイなる穢れと、魔竜、それからフロート……。対峙してどうなるかと」
「なるほどね……」
カインの懸念は、カクミの懸念でもあるようだった。「テラス様、フロートにされたこと、覚えてるんですよね……?」
「はい。半ばから覚えがないんですが、──」
「いろんな規則に引っかかるので具体的には話さなくていいです」
と、カクミが手で制して、「テラス様はフロートに対してもほかのみんなと同じように話を素直に聞いちゃって──。けど、それに絆されたのかフロートも殺しはしなかったわけよね。まさか、魔竜の封印を解くのにそれが必要だと考えてた、とか?」
「いや、そんな回り諄いことをするとは考えにくい」
と、カインが否定した。「封印を解くなら、チーチェロ様に全分身を集中して波状攻撃を仕掛けるのが妥当ではないか」
「陰気な想像ね」
と、母が微笑した。「何万人来ようと無駄だけれど、カイン、あなたまだ気づいていないわけではないわね」
「ええ……」
「なんのことですか」
テラスの問に、カインが丁寧に答える。
「魔物の、よく知られた生態があります。襲撃した相手を食うことで、その魔力を奪うというものです」
「ああ、それは聞いたことあるかも」
と、カクミがうなづいた。「フロートはそれすらしてないわよね?あたしはどこも食われてないし、テラス様もそれは同じ」
「ああ。だが、魔竜の穢れを持って生まれ育ったテラス様は、チーチェロ様の手前いいにくいが──」
「魔竜の分身ともいえるわね」
と、母が爽やかに。
「……ええ。その分身をたまたま見つけたのがテラリーフ湖だったのだとしたら、カクミよ、どうだ」
「どうだ、って、言われても」
無理解のカクミに教えるように、母が答を置く。
「共食い」
「え……」
「あの魔竜は分身を使ったりして、それなりに知恵もあるわ。共食いする魔物が存在することを考慮すると、育った力を食えばそれだけ強くなれるとも考えてしかるべきよね」
「まさか、テラス様を育てて、食うつもりで見逃した──!」
「あなたもね」
と、母がカクミを見つめた。「あなたは聖水を飲んで穢れを浄化したからあえて狙ってくることはないかも知れないけれど、強い力を奪えれば魔竜の力は絶対的なものになる。分身的リプルを食らった上で穢れを植えつけたもう一人を食らえば非常に効率的」
「なんてヤツなのよ……、イカれてるわ」
「推測でしかないけれどね」
話したのが母だっただけで、その推測はカインの中にもある。
「カインさんはどう思いますか」
「チーチェロ様のお考えが正しいかと。可能性でしかありませんが、特にテラス様は気をつけられたほうがよいでしょう」
食われることは死ぬことと同義であるから、死なぬように気をつけなくては。新たな穢れを植えつけられることや一撃による致命傷の危険性を考えると、攻撃を受けないように気をつけるという意味もそこに含まれる。
カクミが玉子ハムサンドをテラスに渡して、宣言する。
「今度こそ、守る。だから、テラス様はテラス様のしたいことを優先して」
「わたしのしたいこと」
「そう。さすがのテラス様も魔竜と対話なんて考えてないだろうけど、フロートとは会話が成立したんでしょう?話す必要を感じたらそうしちゃうのがテラス様だと思ったから」
「カクミよ、それを布石というのだよ」
「フセキ?」
「テラス様はお主の言葉のせいで魔竜との対話の余地を見出すかも知れぬ」
「えっ」
カクミが苦笑した。「んなことないですよねー?」
「いい考えだと思います」
「NO〜〜〜〜ぅ!フセキだったぁっ」
「言わんこっちゃない……」
カインが呆れるが、母が対話の実現を否定した。
「フロートは喋っていたけれど、魔竜は喋らないわよ」
「そういえば、魔竜はそうでしたね……。しかし不思議ですね。魔竜は言語能力を持たなかったのに、分身であるフロートは人型ゆえか言葉を操るとは」
「魔物の中には人型でなくても喋る個体が存在する。リプル」
母が細雪の静かさで伝えた。「言葉を解したとしても魔竜との対話はあり得ない。なぜなら、魔竜はフリアーテノア最大の敵、テラクィーヌ達の死の原因たる存在よ」
「お父様の──」
「元主神として、フリアーテノアの一神として、あなたが魔竜を討伐すべきことを忘れないように。姿勢を崩せば、フリアーテノアが敵になるわ」
魔竜との対話をしたとして、説得できる可能性は極めて低い。母がそう考えている。夫であるひとを殺された立場としてもその考えが揺らぐことはなく、娘であるテラスのこと、ひいては民のことを想って、考えをより固めたようだった。魔竜と対峙することそのものが大きな責任を持つことであり、失敗は許されない。
……わたしも、肝に銘じなければなりませんね。
魔竜と向き合うときは魔竜と対決するそのときのみだと。
「村に戻ったら神界宮殿へ行きましょう」
「発光中央坑道の立入許可をもらわないとですもんね」
「はい」
「今日はひとまずここに泊まるといいわ。布団もお風呂もないけれど」
「お母様はいつもどこで眠っているんですか」
「この上よ」
と、氷杖にうっかかる母。「わたしの杖は形を変えられるから」
「便利そうですね」
「あなたも作れば。魔法と同じように感覚で扱えるわ」
と、言いながら、母が杖の先端でグー・チョキ・パーを作った。拍手したテラスの横でカインが溜息を漏らした。
「そうしていつかはわたくしの首を冷やして驚かせてくださいましたね」
「古いことは忘れたわ」
「消灯後、自分しかいないときの出来事となれば、ひとによっては卒倒しますよ」
「わたしなりにひとの世に慣れてみたのよ、きっとね」
「次からは穏便な手段を」
カインがテラスを向く。「魔法の杖を作るのは面白そうですが、村では危ういですね。生態系を崩しかねません」
「そうですね。森を駄目にしてしまってはいけません」
母の杖から冷気が降りている。暖かい土地に作られたモカ村、根差す木木は一定の暖かさがなければ生育不良になって枯れたりしそうだ。
などと、森の心配をするのも、最後かも知れない。仮にリセイが良心的だったとしても、穢れを持ち続け、意識しないところで暴走する現実を直視したとき、皆の安全を担保することがテラスにはできない。穢れと向き合うべきは村のひとびとでもカインやカクミでもない。向き合うべき者が危険を承知で他者を巻き込むことはあってはならない。
……わたしが、皆さんの穏やかな暮しを守らなければ。
魔竜封印という重い役割を母が果たしているように、皆のためにやれることをやろう。テラスは密かに決意をした。
──一〇章 終──




