始章 大地の叫び
坑道には一つの星を支えるほどの活力が眠っている──。
下流階級のひとびとが汗水流して掘り出した鉱石を装飾品にして富裕層が買うことで貧しいひとびとはまともな買物ができ、それが中流・上流階級の稼ぎとなって星を巡る。たった一つの鉱石〈発光鉱石〉が、ひとびとを潤した。
魔物の蔓延る危険な星の中でも神が住まう星を誰が称したか〈神界〉と呼ぶようになって久しい。人間が住まう星と同じように金銭という名の信用が物を言い、信用なきひとびとは爪弾きにされることも同じであった。そんな星に齎された大いなる利潤はひとびとに平等の和と幸福を齎した。
神界に住むひとびとの纏め役〈主神〉が採掘権の争奪や過ぎた富による強欲・堕落を先見し、発光鉱石の独占を予め禁止、労働者数に応じた採掘量の制限を設けて等しく富を分配、さらに、貧民に仕事を割り振って、社会保障の充実化を推し進めるとともに中流・上流階級の事業にも力添えを惜しまず、不満の芽を余さず摘み取っていた。それらが幸福に寄与したことを誰もが知るがゆえに、ひとびとはテラクィーヌ・ログ・フリアーテノアを主神として崇めたのであった。
「──。今はそんな話をしている場合ではないだろう」
「申し訳ございません。民の心を伝えるのもわたくしの職務ですが、テラクィーヌ様はご存じのことでしたね」
側近男性カインの話を聞いて、テラクィーヌは問題の坑道を進んでいた。どんな坑道も、落盤事故が起きたり害のあるガスが漏れ出すなどして危険な現場であるが、それに加えてここ数箇月、地震が頻発しているということで坑道の安全確認のため現地を視察する運びとなった。等間隔に配置した貝殻に注いだ油に火を点けて燈としているが、普段働いているひとびとには退避してもらっているため、ところどころ油が切れて暗い。地震が多いのは、数ある坑道の中で最初に発見され最も採掘作業が進められたこの〈発光中央坑道〉が山に近いからだろうか。迫り出す山山の叫びが坑道に響き渡るかのように地震が起きているというなら放棄して、安全な坑道を開拓する必要があるだろう。富より大切なのは生命であるが、この坑道が最も多くの発光鉱石を産出していることから放棄の選択は採りづらい現実がある。テラクィーヌの住居もとい統治機関である神界宮殿に調査を依頼したのは事業主ではなく雇用されている下流階級であった。坑道の仕事が安定した暮しを支えている。労働者が飽和状態の小さな坑道で再就職することは難しく、この坑道を放棄するとなれば新たな坑道が見つかるまで職を失うことになる。そのため、業務続行可能であることを神界宮殿に認めてほしかったのだ。事業主に取っても痛手であるから、下流階級の申し出を後押しする形で「よろしくお願いします」と言葉添えがあった次第である。下流から上流、およそ二万八〇〇〇人の願いに、テラクィーヌは応えたい。
「観たところ、目立った損傷箇所はないな」
「そのようですね」
地質学や坑道に詳しい専門家を先行させ、安全確認が取れてから前へ進んでいるから当然のように安全であるが、テラクィーヌは勘が働く。
「──来る」
「皆の者、震動に備えよ」
テラクィーヌの一声とカインの注意喚起で、テラクィーヌ以下調査団が身構える。数秒後、体が揺れるような横揺れが発生、一〇秒ほど続いた。
「体感してよく解った。これは、通常の地震ではない」
テラクィーヌは断言した。専門家が調査結果を出す前であるから飽くまでテラクィーヌの私見であるが、坑道に満ちる魔力から導き出しているため無根拠ということでもない。
「人為的地震であると仰せに」
「いや。不自然なほどに魔力の乱れがない。人為的なものとして捉えると違和感を覚える」
「では、いったい」
「大量の活断層が定期的に少しずつ動いている、と、いうなら理解はできるが、そうであるなら自然魔力がもう少し流動していてもおかしくはない」
「人為的であるなら爆発的な魔力の流れがなさすぎて、自然現象であるなら落ちつきすぎている。そういうことですね」
「不自然だろう。単にわたしが不知の自然現象である、と、いうならなんの問題もないのだがな、そこに何者かの意図があるならば、取り除く必要があるだろう」
二万八〇〇〇人の生活が破綻すれば、同じだけの利益循環が損なわれる。利益循環の停滞は格差を生む。格差が差別を生み、和を乱す。ひとびとの生活を害している地震、これを意図している者が存在するなら早期の対処が必要だ。実害を捉えると処罰内容は既に絞られている。
「そう仰りながら、話し合うことをお考えなのでしょう」
「おかしいか」
「敵性は容赦なく排除。それがわたくしの知る主神達でした」
「星屑より小さなわたしはほかの星の主神のことを知らない。君のように渡り歩くことなくこの星の土に還るつもりだ」
「──敬服致します、主神テラクィーヌ。それでこそ、あなた様はあなた様で存られる」
生まれたときからこの星で生きていくことが定められていたようにテラクィーヌは思う。鎖のようなものに縛られている感覚ではなく、皆が平和に暮らすこの星が好きなのである。
「平和を乱す者にも、必ず目的があるはずだ。互いの目的に寄り添えば、必ず解り合える」
「敵性分子が歩み寄ってくれなければ成り立たないご持論ですね」
「こちらが歩み寄ればいいことだ」
「そのお心が折れないことを祈ります」
「……そうだな」
理解し合えたら最善とは考えている。理解し合えないこともあるとも、理解している。立場が異なればぶつかるものだ。考えが異なってもぶつかるものだ。
忠誠を誓ったカインですら、テラクィーヌの全てを認めているわけではない。その甘さを青さと捉え、懸念を持ち、警戒もすれば心配もしており、最初から理屈に染まるべきだと考えている。敵性分子との交渉は時間の無駄であり排除が最善・最速・最上の手段である、と。
調査団とともに進んだテラクィーヌは、削り出された石柱がいくつも並ぶ半径五キロメートルに及ぶ開けた場所に辿りついた。坑道の構造図を観て進んでいたのでそこが最奥であることは判っていた。労働者の生活基盤たる採掘現場の最前線で、最も安全を確保したい場所であるが、
「あれは」「鉱石か」「いや、それにしては──」
先行した専門家が声を漏らしている。仄暗い坑道。燈もないのに明るい場所であった。専門家が見つめる先にある巨大なものが光源だと判断するのに数秒を要した。それほどに大きな利潤の塊だった。
「いったい、どういうことだ」
テラクィーヌも思わず言葉を発していた。「身の丈の何倍ある」
カインと専門家を伴って、忍び寄るようにして光源〈巨大石柱〉へ向かう。加工すればいったいどれほどの利益があるか、それは発光鉱石であった。
「君はこれの報告を受けていたか」
「いいえ。事業主の話になく、依頼内容にも斯様な鉱物があるとは記されておらず、わたくしも初めて観ました」
カインが腕組。「安全祈願でもしていたのでしょう、あの中のモノに」
「ああ……」
忍び寄るようにして巨大石柱に向かったのは、その中に、生命体らしきモノがいた。
「──、竜。いわゆる、ドラゴンだな。間近で観ると、なんという威圧感か」
下手に手を出したら祟られそうだ。事業者も現場の労働者も巨大石柱を削らず、採掘の前途を祈願していたため罪の意識はなく、報告の必要性も感じていなかったのだろう。約四〇〇メートルの高さ、半径約五キロメートルの空間が広がっているのは、作業者がそれだけ長い時間をこの竜に見守られて作業していたことを意味し、竜を守り神として捉えていてもおかしくない。その辺りの意識は後程聞取りを行おう。
「テラクィーヌ様でも恐ろしいものですか、竜は」
「竜は神をも凌ぐ力を秘めている。……が、違う」
「何がです」
……判らない。なんだろうな。
発光鉱石の中に閉じ込められているからか、威圧感は先入観と思えなくもない。それに、竜というのは鉱石の中に閉じ込められるような生き物であろうか。神をも凌ぐ力があるなら簡単に出てくるのではないか。頭から尾を測れば三〇〇メートルを超えていそうな巨大な竜であるから暴れられたら坑道が一溜りもないことだけは確かだ。
「と、申しますか、竜。テラクィーヌ様」
「ああ。もしかすると、この竜が地震の原因かも知れない」
「巨大石柱が封印のようなもので、そこから出ようとしているのでしょうか」
「うむ……」
坑道の安全は保証できそうもない。最奥のここを崩して閉じ込めたところで、竜が巨大石柱を脱すれば地上にも飛び出してきそうではないか。地震が竜の仕業なら、坑道のみならず地上に暮らす皆が危険に曝されると考えて対処すべき事態である。
「鉱石は魔竜を閉じ込めるとともに盾の役割も果たしてしまうでしょう。鉱石の外に出てきたところなら、機動力たる翼を封じるにも生き埋めが最善ですね」
「作戦か」
「はい。滅しますか」
「調査が先だ」
もしも竜が暴れれば地上もただでは済まないとは言え、地震が巨大石柱から出るための謂わば殻を破るための余波であるなら凶暴と決めてかかるのは乱暴だ。攻撃されれば反撃したくなるだろう。こちらは可能な限り、手荒なことを避ける。
テラクィーヌはカインを待たせて、専門家に現場の調査を命じた。調査の間、テラクィーヌはカインとともに巨大石柱に歩み寄り、見上げた。透き通る巨大石柱は、竜の姿をまざまざと見せつけているが、今すぐ壊れそうな雰囲気はない。竜が地震の元凶なら地震を起こすほどの体力を消耗するはずで、先程地震を起こしたことで竜はしばらく休む必要がある。凶暴と仮定するなら、最低限の安全が確保されている今のうちに調査しなければ。
「竜が魔法を使うことはないのでしょうか」
「君が心配しているのは、竜が魔法を使って地震を起こしているなら肉体的には疲労しないということだな」
「体力消耗による物理性地震と精神力消耗による魔法性地震、二つを使い分けて地震を起こしているなら頻発も納得です」
「わたし達に対して使ってもいいはずだが使ってこない。インターバルに入っているか、」
「この会話を聞いて隙を窺っているのでしょう」
巨大石柱とは距離にして一〇メートルもない。竜とはもっと離れているだろう。発光鉱石特有の光が妨げとなって計測しづらい。
「しかしこの光に魅了される上流階級が多い理由も納得ですね。巨大ゆえか、大地の荘厳さをまざまざと見せつけているようです」
「そうだな」
「感じませんでしたか」
「宝石に興味がないのだ」
「あなた様らしいですね」
「君もだろう」
「市場価値は理解しますが」
テラクィーヌも価値あるものは大切にすべきと考えている。飾り立てるための宝石は虚飾も同然であって興味がない。
「さて、私語は慎み仕事だ」
「ゆとりのない方ですね」
「あるべきところにあってこそゆとりだ」
「いかにも。緊張の糸を張らねばなりませんね」
「封印の中にいて声が聞こえているとは考えにくいが、こちらから向こうが観えている以上、向こうからも観えている、また、相互で声が通る、それから、魔力の探知も同様だろう、と、考えるべきだ。君は、この状況をどう思う」
「糸が張りつめているかと」
「同感だ」
先程の地震時、自然魔力に大きな変動がなかったことを竜による物理性地震だったと観るなら、体力回復のため今は沈黙し、全快とともに巨大石柱を突き破って襲いかかってくる危険性が予測できる。
「テラクィーヌ様の魔力は非常に強い。この神界の主神であることを竜は気づいているでしょう。主神を失えば神界は立ち行きません。竜になんの目的があるかは定かではありませんが、竜が敵性分子であるなら排除するほかありません。対話の余地は皆無です」
「……」
「考え込む必要がありますか」
カインが少し呆れている。「竜ですよ。あなた様より強いかも知れないのですよ。天に召されてはお終いですよ、お解りですか」
「……」
「……はぁ。テラクィーヌ様には完敗です」
「すまないね、カイン」
構造の強靭さを保つため壁を削り出す際に残された数多くの岩石の柱。それらと同じような形状の巨大石柱の周囲を歩いて話していた。カインがテラクィーヌの甘い考えに微苦笑で承服したのは、厳しい現実を見据えながら甘い考えで通れば幸いだ、と、理想をいだいている。
巨大石柱の周囲三〇〇メートルほどを歩いたところでテラクィーヌは脚を止めた。
「あれは……」
「気づいたか」
広い空間を照らすほどの光を発する巨大石柱だ。竜の姿を浮き彫りにする一方で、巨大石柱の反対側の景色を隠していたことにテラクィーヌ達は気づいた。
……女性、か。
なぜ、こんなところに。魔物がたまに出現していたと報告があるが鉱物や岩石の類だ。人型の女性というのは聞いたこともない。
……それに、なんという──。
目のやり場に困る。薄衣一枚を纏うようにして立っているので、柱の陰から覗くのは却って躊躇われた。
「テラクィーヌ様、お熱でも」
「気にするな。動揺してしまっただけだ」
「なるほど、お熱ではあるようですね」
「静かにしないか。気づかれてしまう」
「いいえ、もう気づかれているようですよ。ほら」
「っ」
テラクィーヌの背後に、ふわりふわりと漂っていたのは薄衣の女性にほかならなかった。
「いつの間に──」
「あなた、何者」
と、女性が尋ねる。
「それはこちらの台詞なんだが。あなたは、いったい、どうしてこんなところにいるんだ」
「散歩していたら怪しい気配を感じたわ」
「覗きがバレていたようですね、テラクィーヌ様」
「怪しい気配とはわたしのことなのかっ」
「冗談ですよ、主神ともあろうものが動揺して引っかからないでください」
「う、うむ……」
カインが女性を窺う。
「申し訳ありませんがここは危険なので現在立入禁止です。どうぞ、お引取りを」
「それはできないわ」
女性が右手に握るのは、空気中の水分を凝固したように現れた氷の杖。寒寒しい冷気を放ったそれを素手で握って距離を取ると、凄まじい勢いで地面が凍結していく。
「魔法ですね。主神、戦闘許可を」
「必要ない」
足が凍りついて動けないが。「心配は要らない。あなたを攻撃しに来たわけではないし、敵対するつもりもない。話し合おう。そのあとでいい、杖を治めてくれないだろうか」
「……」
女性が杖を治める気配はない。が、「その竜に用がある」と、話には乗ってくれた。
「竜に話、と、いうと、あなたはこの竜と知合いだったりするのか」
神も竜も長生きであるから、古くからの付合いということは考えられないことでもない。無論、女性に年齢を訊くようなことはしないテラクィーヌである。
「もし知合いであるなら地震を起こしているのかどうか訊いてみてほしい」
「それはできないわ」
「なぜ」
「封ずるからよ」
「封ずる、と。──」
竜を封じているふうに観える巨大石柱だが魔力反応は魔法のそれではない。それに、巨大石柱は神界に利潤を齎した発光鉱石であり封印の役割があるとは考えにくかった。ならば竜が外に出ることはじつは簡単ということになる。発光鉱石はそれほど頑丈というわけでもないので竜が地震を起こすような暴れ方をすれば壊れること必至である。つまるところ、地震の元凶は竜ではないということになる。すると、竜が巨大石柱の中にいるのは、発光鉱石の産出に深く関わる存在ゆえと考えられる。この星のひとびとに取ってまさしく神のように崇めるべき存在ともいえる。
「瑞兆とされるものも存在する竜だがあなたはこの竜を封ずるという。竜を凶兆と捉えているからか、それとも、あなたが凶兆なのか」
主神として、テラクィーヌには守るべきものがある。「あなたの応答次第で、わたしは、剣を抜かねばならない」
「神と争うつもりはない」
と、女性が言った。「まっすぐな眼──、守るためなら、自由を失っても構わないと考えている、眼。嫌いだわ」
「偽りを好かれたくはないからな。皆が平和に、幸せに暮らせる世界であるなら、わたしはどうなっても構わないと思っている。それが主神たるわたしの存在意義だ」
「いいきるのね。命を失っても構わない」
「ああ」
「自己犠牲ね」
凍てつく杖を体全体で包むようにして女性が問いかける。「あなたを大切に想っているひとがいたらどうなるの」
「……」
「あなたはあなたを軽んじている。それは、あなたを大切に想っているひとを軽んずることと同義だと考えないの」
「それは……、っ」
目を逸らした一瞬で女性がテラクィーヌの頰に顔を迫らせていた。
「無防備よ。力はあるのに、弱いのね」
「力を持って強くなるより、弱いままで存りたいと思う」
「……おかしな神ね」
「よくいわれるよ」
主にカインに。「わたしは、恵まれていたんだと思う。力では解決できないことがあると、解っているんだ。それが具体的にどういうことかと訊かれると応答に困ってしまうが、心に、物理的な力が通じないとはいえる」
「……そう」
テラクィーヌの肩で杖を突くようにして距離を置いた女性が、「チーチェロよ」
「あなたの名前か」
「そう」
名乗ってもらったら名乗り返すのが礼儀である。
「わたしは、テラクィーヌ・ログ。この神界、フリアーテノアの主神だ」
「フリアーテノア……ここは、そういう名前の星なのね」
「ああ。魔物は絶えないが、自然豊かないい星だよ。地上には草原が広がり、ぽつぽつと村や町もある。多少のいざこざがあっても、穏やかな世界を維持していると思うよ」
「……」
女性改めチーチェロがテラクィーヌを見つめた。チーチェロの応答を待っていたテラクィーヌだが、
「お熱ですね」
と、耳許でぼそっと言われて顔から火が出るようだった。
「か、カイン、やめてくれ。そうではないから」
「違うのね」
と、チーチェロがそっぽを向いたから、テラクィーヌはどきっとした。
「あ、あなたは、その、そういう気持で、その……」
「冗談よ」
「冗談ですって。残念でしたね、主神、っ、っ、っ」
「カイン、笑いを怺えるなら完璧に怺えてくれないか」
恥ずかしくなってきた。
「あなたって騙されやすいのね。そういうのは好きよ」
「す、好き、って。それも冗談だろう」
「今のを本気で捉えたら男として終わっているわね」
「……解っている、解っているぞ、当然に」
動揺が治まりきらないテラクィーヌを横目にカインが本題に戻す。
「それでチーチェロ殿、竜を封印するとは。其方の言動からして、足下を凍らせたこと以外は悪党とも思えぬ」
「随分と根に持つのね。もう溶けているのに」
「わたくしのことはいい。主神に対しての言動としては悪だといっている」
「カイン、そのくらいでいい。実害はないんだから気にする必要はない」
「ほお、テラクィーヌ様はお熱で溶けたので平気ですか、納得です」
「あわっ、違うぞ、断じて」
「違うのね」
「あ、あなたはっ」
「こちらが本気だから本気にしてもいいわよ」
「だろうとも。本気だからといって乗ったりしたら男として終わっている。解っているとも」
強気に言い返したつもりが、テラクィーヌははたと気づく。「ちょっと待ってくれ。確認させてほしいんだが、『本気』と言ったのか」
「小さいことにこだわる男は終わっているわ」
「ち、小さくはないっ、と、思うんだが……」
「尻窄みの声は大層恰好悪いですよ、テラクィーヌ様、っ、っ、っ」
「だ、だから怺えるなら怺えろとっ、──!」
ドンッ!
チーチェロの左手とカインの右手が、唐突にテラクィーヌを突き飛ばしていた(!)直後、チーチェロがテラクィーヌの右手後方に吹き飛ばされ、空中で体勢を立て直して岩石柱に立った。受身を取ったテラクィーヌがチーチェロを見上げると、零れてくる液体があった。
「無事か!」
「平気よ」
「血が出ている」
「それより注意して」
チーチェロが深手を負ったように感じたが、テラクィーヌは前方、巨大石柱を注視。そこから突き出てきた何かをカインが押さえ込んでいたが、
「ぐッ!」
間もなくテラクィーヌの隣に弾き飛ばされた。「物凄い力ですね。これが、竜──」
巨大石柱から出ているのは、骨張った翼の一部である。どれほどの力があるか、遅れてやってきた突風から感じ取る。翼の位置からして、攻撃ではないとはいえない。
「敵なのか……」
「話し合いをしますか」
空間を揺るがす震動も起きている。専門家があちらこちらで立ち往生している。チーチェロの傷も深い。
……状況は深刻だ。
寸時、瞼を閉じ、テラクィーヌは指示を出す。「わたしが竜を引きつける。カイン、君の脚で専門家を退避、チーチェロも退避してくれ」
「お一人でどうにかなるとでも」
「専門家は戦闘に不向きだ。巻添えになりかねない」
「……いいでしょう。チーチェロ殿、ともに退──」
「わたしは竜を封ずるわ」
「テラクィーヌ様を頼もう」
「鈍する者は凍てつくのみよ」
カインが駆け出すと、チーチェロが杖を振り、テラクィーヌは前進した。チーチェロの放った冷気で足下が凍る。テラクィーヌは勢いに乗って地面を滑り、竜へ突撃した。
「君はなぜ攻撃をした。わたしはテラクィーヌ、この神界の主神だ。話し合おう!」
ゴァァァァァァッ!
爆発のような嘶きを上げて竜が巨大石柱から這い出んと踠く。大きく振りかぶった翼の先端に触れることもできず、テラクィーヌは風で吹き飛ばされてしまった。
「くっ、言葉を持ち合わせていないのか……」
「話し合いを試みるつもりだったの」
と、冷めた目をしているのはチーチェロ。吹き飛ばされたテラクィーヌの腕を摑んで空中を旋回、竜の翼が届かない範囲に逃れた。
「随分と甘いわね」
「言葉が通ずるなら望みはあるはずだ。まだ、諦めない」
「無駄よ」
チーチェロの断言。「あの竜は、竜ではない。〈魔竜〉、すなわち、魔物よ」
「魔竜だと。なぜこんなところにいる」
「いるものはいる。封ずるか、討伐するほかない。それが魔物」
魔物が撒き散らす悲惨。それは、戦争のないフリアーテノアで圧倒的脅威。魔物に話し合いが通じないことは、テラクィーヌも知っている常識中の常識だ。
「ここは坑道、地下なのね。自然魔力を観るに地上までは約三キロの土壌が阻んでいるけれどあのサイズの魔竜の前には木の葉と同じ」
「ドラゴンブレスか」
「飽くまで『もどき』。でも、地上まで突っきる威力がある。町も近い」
「テラウス・ニーズという流通の拠点がある」
魔竜の動きを妨げている巨大石柱が粉砕されそうな状況も芳しくないが、この坑道に続いて町が打撃を受けることになれば多くのひとに恐怖が蔓延してしまう。
「まだ話し合う」
「……」
「呆れた。まだ諦めていない」
「あなたは、そういうのは嫌いなんだな」
「やるなら一人でやって」
冷気の杖を分解、巨大石柱から出ている魔竜の翼に差し向けて瞬時に凍りつかせたチーチェロは有言実行、「わたしは封印を目指す」
「そのまま少し待っていてくれ」
「……少しよ」
「ありがとう」
氷漬けになっているのは、巨大石柱の外に出た翼のみ。鉱石越しになるが、言葉は届けられるだろう。
……怪我が心配だ。
チーチェロを治療したい。テラクィーヌは急いで魔竜の前方に回った。チーチェロのように空を飛ぶことはできないので、魔竜の足下で叫ぶ。
「地震は君が起こしているんだろう。なぜわたし達を襲うような真似をする。君が手を出さないなら、わたし達も手を出しはしない。君は、そうと解っているはずだ」
ここで作業していたひとびとを、きっと何十年も見守ってきた魔竜だ。きっと拝まれてきた魔竜だ。自分を脅かすことのない相手をなぜ脅かす。必要のない攻撃を繰り返すことはないとテラクィーヌは考えている。それは魔物とて同じはずだとも、考えている。が、
「っ!」
氷漬けにされた左翼ではなく、右翼が巨大石柱を突き破って飛び出した。衝撃で地面と天井が揺れて、落盤が発生し始めた。
……これはまずい。カインは──。
細身とは思えない腕力と俊足で専門家を抱えて退避していく。……時間稼ぎは十分だな。
「しゃがんで」
チーチェロの声に反応して、テラクィーヌは身を屈める。と、頭上を火球が擦り抜け、当たった岩石柱を熔かした。爆ぜた火の粉ですら、地面を焦がしている。
「なんて威力だ……」
「甘く観ないことよ」
「……封ずるのか」
「討伐はできないわ」
距離を置いていたチーチェロが気配もなく背後に現れていた。そのチーチェロの氷をも溶かしていく魔竜の体熱は、坑道の温度も上昇させていく。
「蒸しパンは好きだけれど自分が食べられるのは嫌ね」
「ひとは、蒸しパンにはならない」
「わたしは神ではなく精霊よ」
「解っていた」
「そう」
例外はあるだろうが、基本的に神には空中浮遊の能力などない。魔法を使った様子もないのにそんなことができる存在は、テラクィーヌの知る限り妖精や精霊くらいのもの。なおかつ、チーチェロの移動は空中浮遊に加えて空間転移のような瞬間移動があり、いつの間にか隣にいたり後方にいたりする。それは、精霊の能力に相違ない。
「わたしがあなたを守る。封印を頼めるだろうか」
「……最初からそのつもり」
「民を代表し、感謝したい。ありがとう、チーチェロ」
テラクィーヌは剣を抜き、構える。めったに使うことのない剣は新品同様だが無駄なほど訓練はしている。開かれた魔竜の眼を見据え、連発された火球をことごとく二分し、チーチェロには火の粉一つ浴びせない。
チーチェロが杖を再生、
「口舌閉ざすは我が氷杖──」
唱えつつ、左手で杖を投擲する。「──〈ディラシェラ〉、終りなき白銀を導け」
ザンッ!
六花を渦巻かせた杖が鉱石を貫き、魔竜の喉を衝く。と、瞬く間に地面から天井まで氷結、巨大石柱をも封ずる氷柱が形成され、上昇していた気温が急降下した。
「終わったわ」
と、再生した氷杖を握るチーチェロは余韻もなく飄飄としている。
「すごい手際だ」
「似たようなことをしたことがあるから」
「薄衣一枚では危ないぞ」
「……平気よ。あなたのような鈍いひとが一緒でなければ怪我もしなかったわ」
「すまない。わたしが機敏であれば……」
「この傷は偽りなき自由の証」
「そうか……」
治癒魔法が使えればよかったが、「これでいいか」と、テラクィーヌは腰に下げていた魔法薬の小瓶を取り、チーチェロに差し出した。
「放っておけば治るわ」
「いや、そういうわけにもいかない。わたしを守ってくれたあなたにはこれでも足りないくらいだ」
「あなたも守ってくれた」
「それは、作戦上の役回りでしかない。あなたはそんな役回りにないのに、わたしを守ってくれたんだ。報いたい」
「そう」
と、チーチェロが小瓶を受け取り、「わたしは熱いものに弱い。あなたが盾でよかったわ」
「役に立ったならよかった。化膿したりしては大変だから、さあ、使ってくれ」
「カノウとかよく解らないけれど遠慮なく」
チーチェロが小瓶の蓋を取って薬液をバシャッと傷口にぶっかけた。
「飲薬だがっ」
「あら。魔法薬ならたぶん効くわ、平気よ」
「いや、どうだろう、効くのか。と、いうか、染みないか」
「行動すべし」
「もう一つある。こちらは飲んでくれ」
「催促したのではないけれどありがとう、もらっておくわ」
よほど染みたのだろう、魔法薬を一気飲みして、傷口が塞がっていくのを確認したチーチェロが息をついた。「溶けるかと思った」
「氷の精霊だからか」
「溶けたら排除されたと観ていいわ」
「あなたは、その、マイペースなんだな。服装といい、言動といい、摑みどころがない」
「そう。服ならほら」
「いっ。な、何をしているんだっ、戻していいぞ」
隠れている部分をわざわざ見せるようにして薄衣を広げてみせるチーチェロの手を止めて、テラクィーヌは魔竜を閉じ込めた氷柱を見上げた。
「そ、その、あなたのお蔭で、魔竜の脅威はひとまず治まった。地震も治まるだろう。改めて感謝したい」
「じゃあ、何か温かいものをちょうだい」
「温かいもの。溶けるんじゃないのか」
「外見より繊細ではないわ」
「そうか。温かいもの……食事か」
「いいえ」
チーチェロが、そっとテラクィーヌの胸に飛び込んだ。「あなたがほしい」
「……勘違いだと事だ。確認したいんだが」
「鈍い男は嫌い」
「主神といっても特別な力があるわけではないし、財は宮殿に寄付しているから下流階級ともそう変わらない。その上、あなたも知っての通り鈍い」
「じゃあ、食事で手を打つ。綺麗事を宣うのに運命の出逢いを信じたりはしない、中途半端な青さなの。残念な男ね」
女性にそこまで言わせて、態度にまで出してもらって、応えないのは。
「……わたしで、本当にいいのか」
「あなたが大好きな話し合いで三日三晩語らってから決めても構わないわ。そのときには蒸発しているかもね」
テラクィーヌは、感じている。ひんやりとしたその冷たさが彼女の体温であることを。そのひんやりとしたぬくもりを、繫ぎ止める何かがほしい。そう、強く感じてしまった。カインにはちゃかされたが、一目で熱を上げたのは間違いなかった。
「あなたは温かいわ。こんなに冷たいわたしに触れられて一歩下がることもしない。それを本心と捉えてわたしは言っている。さあ、どうするの。くれるの、くれないの」
「そんな一方的なことはできない」
テラクィーヌは、チーチェロを見つめた。「君をくれ。わたしをあげたい。一緒に、分け合おう」
「尻窄みの声が大層恰好悪いわね」
「息継ぎのタイミングを逸してしまった……」
今また息切れだった。動揺、いや、興奮している。思わぬ魔竜との遭遇以上に、胸を打つ出逢いがあった。生まれて初めて女性を抱き締めたく思った。熱に弱いという彼女の寿命を縮めてしまいそうで抱き締められなかった。これほど自分の欲求を抑えがたいこともなかった。
「ひとの幸せがそんなに大事」
「大事だ。わたしは主神だし、何より、そうしていたいんだ。ひとが幸せなら、わたしも幸せを感ずることができるから」
「それがあなたの能力」
「そうだな」
勿論、魔法的な能力ではない。「あなたのことに関しては活きないかも知れない能力だ、抑えがたい……」
「もっと正直になれば自由になれるわよ。わたしは温かいものが好きなの。触れて溶けても構わないわ」
「わたしは構う。あなたが消えてしまったら、嫌だと感ずる」
「そういうところは正直なのね」
「精一杯だ、息が苦しい。なんだろうな、胸が弾けそうなこの感じは、初めてだ」
「喉を氷漬けにしたから」
「そうだったのかっ」
「冗談よ」
「そ、そうか、冗談か。それはそうだな、息苦しい以前に死んでしまうだろう」
テラクィーヌは、チーチェロの冗談の質がなんとなく理解できてきた。「うまくやっていけそうだ」
「変態ね」
「冗談だろう」
「これは本音」
「あわわ……」
「ふふふ」
「あ、……ふふふ」
笑った彼女が、身に纏った薄衣のように儚くも観えれば、強い存在感を放っているようにも観え、複雑な認識に戸惑うようにして、しかし、愉しくて、嬉しくて、テラクィーヌはつられて笑った。
そのあとカインとともに退避した調査団と無事合流、発光中央坑道の放棄・閉鎖を決定したテラクィーヌは、ほかの坑道にも魔竜が存在するのではないかと考え、チーチェロを封印役として神界宮殿に迎え入れ、全ての坑道の調査に乗り出した。廃坑とした発光中央坑道は勿論、調査のあいだ立入禁止となる坑道で働いていたひとびとや事業主には発光鉱石の搬送によって補強が必要になると予測されていた道路の補修や新たな道路造成事業に当たってもらうことにし、給金保障とともに道路関連事業で不足していた人材を十二分に確保することができた。
利潤の循環はやや鈍化した感を否めなかったが、廃坑とした坑道以外で魔竜が発見されることはなく、その間に補修・造成した道路が採掘業務の再開と利潤循環を大きく支えることとなり、一時の鈍化による不満が民に広がることはなかった。ただし、不満は溜まるものだから放置はできない。道路関連事業と併せて新たな採掘場開拓も進めて発光中央坑道で働いていた者の再就職先を確保するのは当然として、魔竜を含めたあらゆる脅威に対して現存する坑道が使えなくなることを考慮し、予備の採掘場や事業拡大も進めた。発光鉱石の運搬業務が定常といっても荷台を曳く馬や荷台にも寿命がある。魔物が蔓延る町の外で馬の繁殖をすることは難しく、一方で町の中で一畜産業を行うことに反発的な町民も存在するため日中だけでも町の外で安全に放牧できるよう宮殿騎士団が魔物討伐の任に当たった。荷台の確保もとい木材の確保に関するサポートも宮殿で行い、運搬業務も滞りなく進められた。
そういった業務を宮殿に勤めるひとびとの協力を得て、また、チーチェロとカインの公私に渡るサポートを受けてテラクィーヌはこなしていった。主神は誰にも及ばない優れた特殊能力を持つ、と、いう都市伝説が前主神時代からあったが特別な力が自分にはないとテラクィーヌは自覚していた。幸いにして人望はあったから足りない知識や経験を皆から借り、主神としての業務を着実にこなしたのだった。ただただ、皆が平和に暮らせるよう、それだけを願って走り続けていた。
そんなテラクィーヌに取って、嘲るように飄飄と冗談を嚙ましながらも常に傍にいてくれるチーチェロやカインの存在は極めて大きく、代えがたいものであった。秘書兼護衛のような立場であったカインと異なり、魔竜封印のため宮殿に入ってくれたチーチェロは、その役割が一切ない状況が続いて宮殿内でも存在意義を問われていた部分がなくはなかったが、それでも傍にいてくれたのである。特別な感情が深まらないはずはなく、もとからそんな感情を差し挟んで仕事にも誘ったから、彼女が日差の中で薄氷のように消えていかないか、テラクィーヌは不安に思うようになっていた。言うまでもなく簡単に消えるような存在感ではなく、精霊である彼女がいつまで自分のもとにいてくれるか気になって、もしくは本当に物理的かつ生命的に姿を消してしまうことがあるかも知れない、と、危機感すら覚えて、行動を、決意した。
発光鉱石は宝飾品に用いられることが多い。決意の行動にも役割を果たすことができたかも知れなかったが、テラクィーヌは発光鉱石をあえて選ばなかった。神界宮殿の屋上にチーチェロを呼び出したのも、あえて昼だった。
「──わたしの、妻になってほしい」
特別な力はない。特別なプレゼントも用意できない。冗談に引っかかり、騙されることばかりのテラクィーヌだが、
「あなたが守ってくれたように、あなたのことを、わたしが守る。あの太陽を、その証としてあなたに贈ろう」
「溶けてしまいそう」
呆れたような言回しだったが、その言葉をテラクィーヌは前向きに受け取った。
「あなたも、わたしにお熱だということだな」
「……少しだけ、大人になったのね」
「あなたの言葉だけだよ、理解できるのは」
「そう」
太陽の下で鼻を鳴らしたチーチェロが、朝焼けに消えゆく霜のように美しかった。
「太陽は熱すぎて受け取れない。その代り、」
「わたしをあげよう。そしてできれば、あなたを、わたしにください」
「それを言わないといられない。あなたはまだまだ青いわね」
「言葉を伏せるのは難しい」
伝えたいことを素直に伝えたい。隠すことで伝わることもあるのかも知れないが、可能な限りはっきりと伝えたい。そんなテラクィーヌにチーチェロが言うのは、
「『あなた』はやめて」
「じゃあ、『君』かな」
「『お前』のほうが嬉しい」
「そう、なのか」
ぞんざいに扱うようで気が引けたが。「じゃあ、チーチェロかお前、と、呼ぼう。それでいいか」
「素直なのがあなたね。よろしく」
「ふふっ、こちらこそ、よろしく、チーチェロ」
誓いの宝飾品がなくてもチーチェロが日差のもとで飛びついてきてくれたから、正直な行動がこの結果を手繰り寄せたことをテラクィーヌは確信した。
程なくして、テラクィーヌとチーチェロのあいだに女の子が生まれた。とても小さな子で、坑道で初めて観たチーチェロのように神秘的な存在に思えて、テラクィーヌはその子に触れることすら躊躇ってしまった。
〈テラスリプル・リア〉
子に、その名を与えた。将来、テラクィーヌのあとを継いで主神となる子。チーチェロの両腕にすっぽり収まる小さな命。大きく育つことを願って、桃のような頰を撫でた──。
神界存続に関わる問題が発生したのは、約五年後のこと。発光中央坑道の魔竜の封印が解けたのである。
報告を受けたテラクィーヌが、チーチェロと宮殿騎士団を引き連れ、再度の封印あるいは討伐を視野に入れて、坑道に突入した。
テラスリプルの躾役となっていたカインは、日が替わったそのとき定時連絡がないことを確認して、発光中央坑道へ調査団を出した。星が動くも予想以上に早く帰還した調査団の報告にカインは耳を疑った。
……生存は絶望的、だと。
テラクィーヌも、チーチェロも、同行した宮殿騎士団も、誰一人、帰る見込みはない、と。
調査団の報告を信ぜられず、ぐっすり眠っているテラスリプルを抱えてカインは現場に向かった。「危険」とされていたから馬車から覗く程度だったが、
……まさか、まことに。
冷気が立ち込めて視界のぎりぎりまでしか馬が近づけなかった。夏だった。高緯度の夜とは言え、発光中央坑道は遠目に観ても分厚い氷に閉ざされていた。外見では全容を望めないので内部の魔力反応を探った。それで解ったことがいくつかあった。その氷がチーチェロの魔力によって発生していること、氷に埋め尽くされた坑道最奥に封印魔法があること、封印魔法が拡大していること、また、同坑道最奥でテラクィーヌと宮殿騎士団の面面が、氷漬けになっていること──。
……テラクィーヌ様。
テラスリプルを、ぎゅっと抱き締めていた。……。
テラスリプルの寝顔を観て、カインは冷静になった。
状況から察するに、チーチェロが坑道ごと魔竜を封印魔法に掛けた。その証拠に、チーチェロのものと思われる魔力が発光中央坑道の東約七五キロメートルの〈ハイナ大稜線〉から流れてきていた。チーチェロ一人の魔力では坑道を丸ごと氷結することはできない。ハイナ大稜線に立ち込めた氷属性魔力を利用した封印魔法であることが推察できた。すなわち、チーチェロは無事、しかしながら、魔竜を封印するためにハイナ大稜線に残って魔力の操作を続ける必要があるために神界宮殿へ戻ることはできない。
状況は切迫している。魔法は精神力を消耗する。封印するにも限界があるということだ。ゆえに魔竜は必ず復活する。それまでにカインが成さねばならないことは、一つである。
……テラス様をお守りせねば。
テラクィーヌ亡き今、テラスリプルが主神の座に就くからだけではない。封印に限界が来ると判っているなら、討伐する策を考える必要がある。剣に秀でたテラクィーヌ、魔法に優れたチーチェロ、二人の子であるテラスリプルが必ずしも二人のような力を持ち得るとはいえないがたった一人の主神の血筋という立場は力以上の威力を有することもあるだろう。テラスリプルとともに宮殿騎士団を鍛え上げ、来る魔竜との戦いに備えなければならない。そのためにはまず、幼いテラスリプルを、守り抜かねばならない。
テラクィーヌと仲間の騎士に黙祷を捧げたカインは、何も知らない寝顔の成長を願い、瞼を閉じ、口を固く結んだ。
──始章 終──