家族
寂しがっているだろう。
腹を空かせていないか。
父さんはここだ。
絶対に手を離すんじゃないぞ。
母さんは家に帰っている。
父さんはあの夏の日のまま、この島にいる。
二人でお前が帰って来るのを待っている。
聞きたいことは山ほどある。
話したいことも山のように。
イヅチは護役長に殴られて腫れた左頬に空いている右手を当て、布団の上で窓から月を眺める。
殴られはしても、その瞬間だって息子と繋がっている左手を放さなかった。それは昼間、護役長の奥さんに怪我をさせた時もそうだ。
「いつになったら帰ってくるんだ」
見えない左手の先には誰もいない。待ってみても返事はない。
それでも温もりが、ただただ生きている事実だけが左手から腕へ、腕から脳に伝わってくる。息子が生きている、それだけがイヅチを動かしていた。
──あなたのお子さんが傍にいない寂しさは解ります。僕にも子供がいますから。
護役長は肩を怒らせ、いつもののんびりした調子よりも早く、低い声でイヅチを威嚇した。
──かといって、八つ当たりはやめていただきたい。
しかし、イヅチも怯むほど気を抜いているわけではない。気持ちがわかるというのなら、今すぐにでも息子を返して欲しかった。
──妻と息子に危害を加えたら、僕も黙っていませんよ。
そう言われて、自分だけが悪者になった不快感が胸から広がっていく。今なら、ずっと言わなかった胸の内も簡単に晒せてしまえた。
──だったらどうだ、俺を息子のいる所に連れて行ってくれるのか!
左頬に重い衝撃が走ったのは、それを言い終わった瞬間だった──。
夏休みは一般の子供にとって、最高の休みである。宿題という障害はあれど、それさえこなせばあとは自由時間。海で泳いだりよその島に出かけたり、本土に家族旅行に行ったりと過ごし方は様々だ。ウズモはそんなクラスメイトに対して羨ましさを隠さず、誰かがどこかへ遊びに行くと聞けば見回りと称して港に見送りに行き、誰かが来ると聞けばやはり見回りにかこつけて迎えに行った。両親から許可された自由時間には友達と島の中で遊びまわって、日ごと護役の長袖と普段着のシャツという二つの日焼けの跡を濃くしていっていた。
ウズモが自分の母親を守るためにイヅチに立ち向かった次の日、汗だくで帰ってくると玄関に見慣れない靴を見つけた。
赤いエナメル製の光沢を放つハイヒール。上から見ると、少し横に広がっているようだ。島の中ではあまり見ない靴は、この家族に対する来客を意味しており、それを理解するとウズモはサンダルを脱ぎ捨てて居間に駆け込む。
「ばあちゃん!」
玄関からの足音で分かったのだろう、麦茶を前に座っていた人物はウズモを待ち構え、向かってくる孫が伸ばしてくる両手を自分のそれで「ヘエェ~イ!」と叩いた。
「ウズモ、手は洗ったの!?」
嫁が注意する。「いっけね」と慌てて洗面所に駆けていく孫の背を、紫がかった眼鏡の奥で目を細めて嫁に向き直った。
「元気でいいねぇ。4年生だっけ」
「そうですよ。最近は面倒見もいいって先生たちからの評判も良くて」
本土からやって来た祖母は、麦茶のコップの冷たさを手のひらで楽しみ、その縁を真っ赤に塗られた口につける。夏を満喫している孫の熱が移ったようで、その冷たさがありがたい。
「親の指導がいいのねぇ」
旦那の母親を歓迎する嫁は、目を伏せて静かに笑った。
「巡り合わせが良かったんですよ」
「いつまでそんなことを信じるの」
やせ細った妻は、旦那の握られたままで動かなくなった左手を一瞥すると、ため息とともに声を出す。
「私たちの息子は、もう帰ってこないわよ」
イヅチも心でため息を吐いた。確かに二人して息子を心配し、帰りを待っている。しかし明確に違う点があった。イヅチは息子の手を握っていることで生存を信じて待つことができるが、母親である妻は息子の生存について何のヒントも与えられていない。最初こそは護役の言うことに頷いて家で息子と夫を待つという選択をしたが、夫のように証拠に触れることもできていない妻にはもう、絶望の二文字が心を支配しているのだろう。
「もう、家に帰りましょう。あの家は二人では広いから、引っ越して……」
「いや、息子は生きてる。俺の左手は息子に繋がってるんだ」
帰ってくる。息子は生きている。会うたびにイヅチはそれを言うが、毎回それを聞かされて肩を落として帰らなければならない妻はもう限界だった。絶望に傾きかけてはいてもほんの少しの希望を持っているイヅチとは逆で、妻の方は両家の親から投げつけられる暴言や周囲の視線に晒され、神経をすり減らせた分が顔にはっきりと出ていた。
「私もこっちに住みたい」
こぼれた言葉は悲痛な叫びだ。今までも両親の恨み言から夫を守るべく、電話番号を教えなかった。月に一度、日数をかけてここに来ることも苦痛になってきた。もう、一人であの家に住んでいたくない。
「だめだ。あいつの部屋がそのままだろう」
息子を思うばかりで、妻に気持ちが向いていない夫の言葉は残酷なものだ。妻の目の前は、真っ暗になった。足元が崩れていく。
──だめだ…。
暗闇の中でしか聞こえない悲鳴に、眼の前の男は気付く筈もなかった。