エミナの息子
友だちと別れて、少年は蝉しぐれの中を大股で駆けて行く。神社は有事の際に人が集まる場所として高台に設けるのが望ましいと聞いたことがあるが、萍水島の紡神社は住宅地から少し離れた平地に、階段三段分だけの高さにつばくんだ場所にある。
神社の文献によれば、この島の守り神である紡グイゴがこの場所を気に入ったとあるが、ウズモに言わせればそれは守り神のみっともない姿を後世に残すわけにはいかないという当時の護役の気遣いだ。ウズモも護役という身分上、嫌でも守り神と関わらなくてはならない。そして守り神という大層な身分であるくせに、よその守り神と違い──本島の守り神とまた違った意味で人間に近い。ウズモは守り神の世話を仰せつかった護役ではあるが、よその島と比べて神様らしいところのないこの守り神が苦手だった。
神社の入り口の階段三段を一気に飛び越え、鳥居の端を駆け抜ける。何人かの参拝客がいるのもお構いなしに、左に見える手水舎で立ち止まって持っていた虫取り網を放り投げ、こんこんと湧く水を柄杓で掬って雑に両手に掛けてから両足にもバシャバシャと掛け、足元に水たまりを作って水を跳ねながら拝殿に走り、簡単に一礼した。
「神様ただいまー!」
言うだけ言って家に戻ろうとする背中に、イライラしたような声が追いかける。
「網を忘れんじゃない!」
あ、やべっ、と漏らしてウズモは薄まっていく足跡を残しながら手水舎に走り、網を拾ってそのまま家に向かうが引き戸に手を掛ける前に不穏な音を聞きつけた。男の怒鳴り声だ。
呑気に夏を満喫していた小学生はその表情を一変させ、網を持ったまま社務所に走った。少ない参拝客がそそくさと帰っていく境内にやれやれと小さな呟きが響いたが、それは誰の耳にも届かずに空気に溶けていってしまった。
「お前らはいつもそれだ!帰ってくるなんて嘘を並べてこんな体にしやがって!守り神と話ができるなら、さっさと息子を連れ戻させろ!」
社務所の中、イヅチの怒声が畳にうずくまるエミナの耳を突く。畳にはコップだったガラスの破片が散らばり、そこにエミナの額から流れた血が滴った。
何年希望を抱かせた?俺を騙して何が楽しい!とエミナにコップを投げつけたイヅチは更に言い募る。
「俺の息子がいない間に、自分たちはガキなんて作りやがって!」
興奮しきっているイヅチは卓袱台を回ってエミナの髪の毛を掴み、ぐいと持ち上げた。
「この役立たず!」
そのまま壁に叩きつけようとしたその時、突然視界に幕が張ったように不鮮明になる。駆け込んできたウズモが被せた虫取り網だ。
「オレの母ちゃんに何すんだ!」
その柄を引かれて意図せず首を反らされたイヅチは、すぐに首を戻して網の中で振り返る。護役のガキが自分には向かっていると思うと我慢できず、ウズモを睨みつけながらエミナから手を離して網を掴みウズモに向かった。
ウズモは母親の制止の声を聞かず、まっすぐにイヅチを睨みつける。
「ガキが口を挟むんじゃねえ!」
イヅチの拳がウズモに向いた。エミナが叫ぶ。
と、まるで大人の手で叩いたかのように大きく、小気味いい音が部屋に響いた。ウズモがイヅチの頬を叩いた音だ。続いてウズモのものではない声が、その口から吐き出される。
「聞きわけのない子は嫌いだよ」
まるで言うことを聞かなければ見捨てるぞと脅すような、突き放すような低く重い、女の声。ウズモは腕を組んで、見下ろした目で目の前の大人を見上げた。
「大人に向かってなんだ、その……」
イヅチはウズモに掴みかかろうとしたが、その動きはすぐに止まった。
自分を見上げるこの人物はいつも見ている子供なのに、いつもと同じように見ることができない。まるで怒りに支配された野生動物のような威圧感を纏い、触れたら危害を加えると錯覚させられる。
ウズモの目はイヅチを見下し、ちらと額から血を流すエミナを見てから再びイヅチに目を戻し、抉り込むようにイヅチの目を覗き込んだ。
「あたしの護役に怪我させるたぁ、いい度胸じゃないか」
威圧感の正体が解らずイヅチが何も言えないでいると、ウズモはその胸ぐらを掴んで更にゆっくりと言葉を吐く。
「この萍水島の守り神たるこの紡グイゴを侮辱して、タダで済むと思ってんのかい?」
その名を聞いてエミナは額から流れる自分の血に構わず、イヅチを宥めようとした。イヅチはエミナを視界に入れず、目の前の守り神の名で威圧感を放つ子供に気圧されてくずおれるように座り込む。
「子供を連れ戻させろ? できるならやってるよ。すぐにはできないからこんな手段を取ってんだ。文句があるならその左手をさっさと離して、助けに行きゃぁいい。妖怪の世界にならあたしはいつだって送ってやるよ。帰してやれないけどね! 息子共々、名も知れない妖怪も腹の中で再会すりゃあいいさ!」
ウズモの口で、萍水島の守り神はイヅチの言ったことを思い出させるように復唱して反論の言葉を吐いていく。イヅチの目からは怒りも反抗的な光も消え、微かな震えが伝わってきた。
「今までさんざん、あたしの護役に対して暴言を吐いてきたのは知ってる。けどお前がどれだけ悲しんでいるかも知ってる。あたしの縄張りでそこまで不幸面した奴をのさばらせたくないから助けてやってんだ。感謝なら受け取るが、罵詈雑言は息子への危機になって返ってくると思いな」
脅しともとれる言葉を吐くと共にウズモが手を離す。イヅチの体はその場にへたり込むのを見て、ウズモの口を借りた守り神は社務所の戸を指し示
した。
「護役の手当てが優先だ。やり足りないんなら次回にでも相手になってやるから、今日はもう帰んな」
左腕の消えた男の丸まった背中が、陽炎で歪んで見える。
それをウズモはざまぁみろというすかっとした気分で見送り、「もう二度と来るな」と呟いたがそれを聞いてしまったエミナに厳しく窘められた。
「なんでだよ。母ちゃんケガさせられたのに!」
額に赤く染まったティッシュをあてがう母を見上げて、ウズモは不満の声を上げたが、エミナは毅然とした表情でイヅチを悪く言ってはいけないときっぱり言いきる。しかしやはりウズモには理解できない。そんなことより、装束まで血の染みを作るほどの怪我をした母が心配で仕方なかった。
「いつまでも見送ったところで振り返りもしないよ」
二人の背後、頭の上からの声に見上げれば、腕を組んだ胴の長い女が見下ろしている。
「エミナはさっさと手当てをしな。傷は大したことないから、早く絆創膏でも貼って装束を洗え。血の染みは落ちにくくなるよ!」
「神様ウザ」
聞こえないように呟いたのに、ウズモの頭に神様からの拳骨が落ちた。