第五節「葛藤」
「……なんてさ。昨日はそう思ったけど、図書館が使えないんじゃ私に出来る事なんて無いのよね……」
アドリア海を一望出来るこの町随一の高台。人々が集い一時の憩いを得る場所。
……その手すりにもたれかかりながら、私は早々に意気消沈しておりました。
「女子供一人だけじゃ市場を見て回る事なんか出来やしないし……そもそも本が出回っているかも定かじゃないし……」
遠くに見えるヴェネツィア本島を眺めながら、私はぶつくさと文句を漏らします。
眼前に広がる青く輝く海の上では無数の船が行き交い、忙しなく帆を手繰る船員や、船の横から伸びた数多のオールが動く様がつぶさに見て取れました。練習中の海軍や交易に精を出す商船でしょうか。何にせよ、私の周りでは世界が目まぐるしく働いているようです。
……かの海軍の精強さは地中海一とまで称される程なので、これもそれはそれは素晴らしい光景なのでしょうが……今の悩める私には関係の無い事でした。
「というか、そもそもお金が無かったわ。私……はぁ……」
溜息を吐きながら、改めて自身の置かれた現状を確認してみます。
「それにしても、人が来るからといって学校の皆まで早く帰らせるとは思わなかったな……いつもはそんな事無いのに……」
……そう、現在手詰まりになっているのも、教室を早々に追い出されたのが原因なのです。あれは確か授業終了直後の事でした。
『今日は大事な来客があるので、学校の皆さんも居残り等はせずにさっさと引き上げてください。分かりましたね?』
終了の鐘の音と共に現れたシスターは有無を言わせぬ声音でそう宣言すると、学校にいた全員を優しく叩き出したのです。優しく叩き出すなど中々に理解しがたい言葉ですが、アレはそうとしか形容出来ないものだったので……
「……ん? あれ、全員って事は……先生も……」
そこで私ははたと気が付きます。……もしかしたらレオン先生も町にいるかもしれません。いや、家に帰っているかもしれませんし、もしかしたら何処かで飲んだくれていたりするのかもしれませんが……探してみる価値は大いにあるはず。
昨日図書館で披露してくれた知識は、明らかに教養豊かな知識人のそれでしたし、意外と突っついてみればボロボロと情報が出てくるかも。あわよくば、色んな所を渡り歩いたと言っていたし、一足飛びに私の事について分かるかもしれない――
そんな甘い期待を抱くくらいに、今の私には余裕がありませんでした。
「まあ、無一文の私に出来る事なんてその程度ですしね……」
よし、と取り敢えずの目標を定めた私は気合いを一つ入れると、手すりに伸びた体を起こして、この場を後にしようと踵を返しました。
「…………」
……ですが不本意ながら、そこである残念なものを見つけてしまったのです。
いえまあ、残念ではありましたが、同時にお目当ての御方でもあったのですが……
「ああくそ、無一文だよ……する事ねえよ……」
……隣で件のレオン先生が人々に混じり、私と同様に手すりに伸びているのを発見してしまったのでした。
「こんな日に追い出すとか、あのおばはん悪魔かよ……本当に神の従僕かよ……いつも説いてる愛は何処行ったんだよ……クソが……」
先生は口から止め処無くシスターへの文句を垂れ流しながら、輝けるアドリア海を濁った目で睨み付けていました。絶景を一望出来るこの場とは酷くかけ離れた、あまりにも醜い負のオーラを撒き散らしております。
まるでその様は修道服を着ながらにして、呪詛を振り撒く悪魔のよう。放っておくとこのまま連行されてしまいそうです。おお、ジーザス……
「……はっ。いけないいけない」
……あまりの醜態に少々面食らいましたが、探す手間が省けたので良しとしましょう。近寄って早速話しかけてみます。
「……こ、こんにちは。レオン先生」
「あー……? ってなんだ、ベアトリーチェか。どうしたんだ、こんな所で」
「いえ、ちょっと暇を持て余していただけです……先生こそどうしたんですか?」
「俺か? 俺はちょっと金が無くて途方に暮れていただけ……ああくそっ、昨日あんなとこで喧嘩を吹っ掛けられなければな……」
「喧嘩って……何かあったんです?」
「あー……それがな……」
ポリポリと茶色の頭を掻きながら、レオン先生は事のあらましを説明してくれます。
「昨日酒場で飲んでたらよ……酔っ払った変な爺さんに絡まれてなぁ。『わしと飲み比べしろ。負けた方は勝った方の勘定全部支払うってのでどうだ』って言うもんだからよ、むしゃくしゃしてたからつい引き受けちまってな……いや、あの顔はどう見ても泥酔してたから、絶対に勝てるって思ったんだが……まさかあそこまで飲むとは……うえぇ……」
話しているうちに思い出したのか、気分も悪そうに言葉を漏らすレオン先生。
なるほど。だから今日の授業中も何処か上の空だったのですね……ここは一つ、慰めの言葉でもかけてあげましょう。
「酒の飲み比べで負けるとか……残念な大人な事この上ないですね」
大変でしたね……背中でもさすってあげましょうか?
「おい、ベアトリーチェ……?」
「……ああ、すみません。少し心の声が漏れてしまいました」
「もしかして、お前いつもそんな事思ってたのか……!?」
「いいえ? いつもではありませんよ。大体一日に二、三回ですよ?」
「毎日じゃねーか!? くそっ、なんか勤勉で良い子だけどムカつくなって感じたのはそういう事か……!」
「レオン先生がガッカリ人間なのがいけないのです。シスターには毒とか吐きませんよ、私」
「ああ、そうだろうさ。あの鉄面皮にはしっかりおべっか使っとけ。あれには冗談も通じやしないんだからな……」
「ええ、言われなくともそうしますので。それにしても……」
良い子だけどムカつくだの、あのシスター相手に鉄面皮呼ばわりだの、色々と突っ込むべきところはありましたが……それとは別に少し気になる事がありました。
「あ? どした?」
「むしゃくしゃしてた、って事はやっぱり昨日の本の……」
……そう。私は昨日の先生の後ろ姿を思い出していました。
業火に苦しむ誰かを、先生は楽にしてやったと言っていました。その意味が分からない私ではありません。私が先生を図書館に連れて行った所為で、無一文な現状があるのだとすれば……少し悪い気分にもなります。
……ですが、私が気を遣っていると即座に気付いたのでしょう。先生は片手を私の前に伸ばすと弁解の言葉を投げてくれました。……渋面を作りながら、ですが。
「……いいや、お前が気に病む事は無い。あの程度で気分を悪くする俺が悪いんだ。お前には何も責任は無い」
「でも……」
「でも、は禁止だベアトリーチェ。……お前は頭は良いが、悩みすぎるきらいがある。もっと年相応に、能天気に生きてみろ。そして若いうちに楽しめる事はちゃんと楽しんでおけ。……こんな時代だ。明日には死んでるかもしれんしな」
「はい。先生……」
……驚いた。あのレオン先生からこんな真剣な気遣いの言葉が出て来るなんて……思わず殊勝に頷いてしまったではありませんか。
いつもは授業を面倒だと言いつつ、退屈そうに教室をブラブラしているものですから、私達の事など仕事の種の厄介な子供達くらいにしか考えていないのだとばかり思っていましたが……図書館での一件といい、意外と面倒見は良いのかもしれません。
いえまあ、これだけで判断するのは我ながら早計だとは思いますが……私には、彼が信頼出来る大人のように思えました。
「…………」
「お、おい。どうした? 急に黙られると困るんだが……」
……そう考えると、どうしても抗い難い、甘い誘惑が首をもたげてきます。
“この人に洗いざらい白状してしまって、一緒に調べてもらった方が良いのではないか?”
……そんな、あまりにも自分勝手な誘惑が。
もちろんこれは先生が信頼出来る人間であればこその選択肢です。
なにしろ私のそれは、解決手段の手掛かりさえ見出せていない、厄ネタ中の厄ネタ。
秘密がばれたら即処断コース間違い無しの、異端の極北。
……こんなもの、誰かと共有するのはあまりにも危険過ぎます。私の目算が外れたらと思うと目も当てられません。
なのに――
「あの、ちょっと相談したい事があるんですけど……」
早く解決したい、楽になりたいという焦りが突き動かしたのでしょうか。
私の口は自分の意思に反して、二の句を継いでしまっていたのでした……
【アドリア海】
・イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海域。
・十五世紀だと東側……バルカン半島はオスマン帝国が支配していた。
・対して西側は教皇領、及び諸侯が思い思いに支配する混沌具合。その中でヴェネツィアは比較的安定して最北部を領有していた模様。
・ニシンやウナギが良く獲れる、らしい。