第二節「聖人と病魔と」
「あっと、その……シスターから蔵書の閲覧許可を貰ったのですが……」
「うむ。話は聞いています。通りなさい」
「はい」
「おう、お勤めご苦労さんな。後で一杯やろうぜ?」
「…………」
「ちょっと、レオン先生……! 絡んでないで行きますよ!」
「お、おいおい。引っ張るなよ!? 一張羅が伸びる……!」
困惑する守衛に一礼して扉を潜り、修道院の階段を下へ下へと降りていく。
階段が終わり長細い仄暗い通路をしばらく歩くと、奥まった所に扉が見えた。
二人は迷う事無く扉に手をかけ、開け放つ。
「おじゃましまーす……」
室内を覗いたベアトリーチェは恐る恐るといった様子で挨拶をするも、返答は無い。
どうやら人はいるようだが、仕事に熱中するあまりに彼らへ注意を向ける者がいないようだった。
「いつも通りって感じね……邪魔しないようにしないと……」
これ幸いとばかりに、二人は音も無く地下図書館へと入室する。あまり仕事の邪魔はしたくなかったし、面倒事も御免だったからだ。
「…………」
無心でペンを走らせ写本作りに精を出す修道士達を横目に、二人は息を殺しながら書架の合間を縫って歩いていく。
「相変わらず辛気臭い場所だな……」
鎖で本棚に固定された写本に手を伸ばしながら、レオンが率直な感想を漏らす。伸ばした手は鎖に触れ、ちゃらりと固い音を立てた。
レオンの言葉を黙殺しつつ、ベアトリーチェは本棚に書かれた書名のリストへと視線を滑らせる。
……この時代において、本は貴重品だ。一冊売り払うだけで半月は食うに困らない程度の金になる。それ故にこうして厳重に鎖で繋がれて保管されているし、閲覧すら許可が得られなければ出来ない始末だ。
だからこそ駄目元でシスターに嘆願してみたのだが……
(流石に今日は素気無く断られるかと思ったのだけど……日頃の行いが良かったみたいね)
油断なく本棚を見つめながら、ベアトリーチェは内心ほくそ笑む。これでこそ足繁く教会へと通った意味があるというものだ。
まあ、他にする事が特に無かったため、自然と教会に通っていただけなのだが……結果オーライという奴である。
「おっと、お目当て発見っと」
探していた本を見つけたベアトリーチェは入室時に神父から借り受けた鍵を取り出す。そして本棚に付けられた錠前三つを即座に開錠すると、一冊の本を取り出した。
「よっと。ふー……中々重いわね」
本の大きさはベアトリーチェの胴体ほどもある。彼女の細腕には堪える重さだ。だが、傍にいるレオンは我関せずといった様子で他の本棚をしげしげと眺めている。ここぞという所で気が利かない男であった。
ベアトリーチェはそんな同伴者に半ば呆れながらも、棚の下に設けられた書見台へと本を横たえる。本を置く音でようやく気が向いたのか、レオンが興味深そうに表紙を覗き込んできた。
「……ん? 目当ての物は見つかったのか。どれどれ……って、医療書?」
「ええ、ちょっと気になる事があって……げほっ! げほっ! カビくさっ!? 誰も読んでないのかしら、まったく……」
表紙を捲ったベアトリーチェは臭い立つカビの臭いに出迎えられ、それだけで大分うんざりさせられた。だが、すぐに気を取り直すとパラパラと頁を捲り、流し読みし始める。
「ふーむ、守護聖人になぞらえて病気が関連付けられたりしているのね……興味深いわ……」
「あ? お前知らないのか? 常識だと思ったんだが」
「うちの家族、病気と無縁だからそういうの疎くて……」
「へえ……?」
レオンの言葉にバツが悪そうに答えるベアトリーチェ。病気と無縁なのに何故医療書など探していたのかとレオンは一瞬訝しんだが、すぐに自分には関係無い事だと切り捨てた。
そもそも教え子の興味分野に口を挟むのも無粋だ――そう考えたのである。
「福音記者ルカ……聖ジェンナーロ……この人は血液に関してか……」
「ああ、聖ジェンナーロは祝日になると固まった血液が液状化することで有名だ。ナポリだったか? 百年前にその『血液の奇跡』が発見されてからは、祝日はもうお祭り騒ぎだって聞くな」
「へええ……すごいのね!」
ポツリと漏らした呟きに反応し、レオンが持てる知識を披露してくれる。その意外なまでの博識さにベアトリーチェは内心舌を巻いた。……やはり無理矢理にでも連れてきたのは正解だったようだ。
ベアトリーチェは感心しながら再び頁を捲る。書き連ねられる病気と聖人の羅列に若干混乱しつつも、何度か頭の中で整理し、時にはレオンに尋ねながら読み進めていった。時間は有限なのだから、あまり一つ一つに時間をかけてもいられない。
「それにしても聖人かぁ……何だかこうして読むと凄い人ばっかりね。同じ人間とは思えないわ……」
……偉業の数々を読んでいると、自然とそんな言葉が漏れてしまう。こんな人達が実際にいたなんて想像もつかない。自分のような町娘とは雲泥の差だ。
「……あっ」
そんな事を考えながらしばらく捲っていると、ある聖人の所で手が止まった。
これが、これこそが私の求めていた情報かもしれない。
そんな予感を眼前のラテン語から感じながら。
「ねえ、レオン先生。この聖アントニウス……『聖アントニウスの業火』って何かしら」
努めて感情を押し殺しながら、レオンに何か知っている事は無いかと聞いてみる。
「おいおい、よりによってそれを聞くかよ……」
ベアトリーチェの質問に、レオンは苦虫を噛み潰したような顔で毒づく。
「『聖アントニウスの業火』……それは一種の呪いだ」
「呪い……?」
「ああ、それに侵された者は最初は手足が燃えるように熱く感じ、やがて黒ずんでいく。そして最後には焼け焦げて千切れる。その尋常ではない苦しみから、修道生活の父――聖アントニウスの受けた業苦のようだと言われている。それ故に『聖アントニウスの業火』……未だに対処法の少ない、聖なる炎。俺から見たら性質の悪い呪いでしかないがな」
「……っ」
レオンの説明で手足がもげる想像でもしたのか、ベアトリーチェは顔を青褪めさせた。追い打ちをかけるようにレオンは話を続ける。
「俺も色んな所を渡り歩いて、実際に見もしたが……アレに罹った奴ほど悲惨なものも無い。毎日熱い熱いと下痢や嘔吐でのたうち苦しみながら、ある日には四肢がもげているんだぜ? そんな奴に何も出来る事なんて無い。生きながらの死だ」
「そ、それでその人は、どうなったの……?」
レオンの渋面は次第に苦悩の色に染まっていく。……ややあって、ポツリと返答があった。
「……殺してくれと泣き叫ぶもんだから、楽にしてやった」
「楽に……」
「……この話はここまでだ、ベアトリーチェ。……お前も気を付けろよ。俺はお前の泣き叫ぶ姿なんて真っ平御免だからな」
「……はい、先生。ごめんなさい」
「謝る必要は無い。知っておくことで何か変わるかもしれないからな。……ああ、それと――」
「……?」
「黒き病……黒死病の事も調べておくといい。百年前、この世界を蹂躙した流行り病。数多の命を刈り取った、対処不能の最悪の病気だ」
「黒死病……」
「……それじゃあな。俺は先に帰る」
そこまで言い残すと、レオンは出口の方へと歩いていった。……多分、嫌な事を思い出したからだろう。肩を怒らせて去っていく背中からは、やり場のない怒りが透けて見えるようだった。
「聖アントニウスの業火……黒死病……」
一人残されたベアトリーチェは医療書に再び視線を戻すと、レオンの言いつけどおりに黒死病について調べ始めた。
「……はぁ」
……だが、しばらくして溜息を一つ吐くと、本を閉じて本棚へと戻してしまう。
そして、己の掌をじっと見つめ始めた。
「どっちもハズレ、か……なら、私は……」
誰にともなく放たれた呟きは虚空へと溶けていく。
「私は、なんだというのでしょう……?」
隠していた感情――失望を露わにしながら。
【聖アントニウスの業火】
・聖なる炎。燃える呪い。
・治療法としては転地療法や旅に出る事。だが、この時代それが実践出来る者は稀であった。
・別名、麦角中毒。