第十四節「傲慢で切なる願い」
「――それで、結局剣の練習は出来たの?」
「んー、まあそこそこ? 剣以外に長物とかも説明されてたから、その辺も少々」
「ふーん。ビーチェにしては飲み込みが早いね?」
「うん、自分でも結構驚いてる。多分先生とか、他の人の動きを無意識で参考にしてるのかも」
薄暗い小屋の中、私達は空になった机上の鍋を囲みながら顔を突き合わせていた。時刻は既に夜半。高くに開いた窓からはさわさわと涼やかな夜風が部屋に入り込み、壁を隔てた外からは控えめな虫の鳴き声が聞こえてくる。
室内を照らすのは鍋の横にある一本の蝋燭と、時折差し込まれる月光のみ。それでも、暗闇に浮かぶビーチェの顔はどこか楽しげだった。
「にしてもさ。なんで疲れてもう帰るー、って時に限って猪と遭遇するのかなぁ……? まあ、全力で追いかけて仕留めたけど」
「知らないよ……猪に聞いてよ。もう死んでるけど」
先程胃袋に収めた夕食を思い出し、私は少しだけげんなりしながら言葉を返した。夕方、外で夕食の準備をしている時に、この友人はあろう事か件の猪を引き摺って帰宅してきたのだ。
「なんか突っ込んで来たから消し飛ばしておいたわ」などとのたまう彼女の言葉を全面的に信じるのなら、あの爆散した顔面はすれ違い様の一撃によって破壊されたものらしい。それだけでもにわかには信じがたい話ではあるのだけど、そのまま仕留めた肉塊を片手でこの小屋まで運んで来たというのだから……のほほんと水を汲んでいた私がその光景を見て思考停止したのは致し方の無い事である。
……仮にも女子ではあるのだから、慎みというものをもっと大事にしてほしい。
「なんていうか、最近特に図太くなったわよね……貴方……」
「そんな事無いと思うけど。むしろこれ位が普通?」
「いや、普通の女子じゃないわよ……というかそれ何してるの?」
「猪の骨、スープにしたら美味しいかもって。夜じゃ墓場にも行けないし、砕いて水に漬けて、一晩置いてみようかなと」
「そ、そう……」
私にそう説明しつつ、ビーチェは食べ終えた猪の骨をボキボキと粉砕していく。……素手で。普通の女子を気取るのならせめて道具の一つでも使って欲しかったけど……いや、うん。そっとしておこう。
「それで」
「ん?」
「ロゼは今日どうだった? 編み物してたんでしょ?」
どうだった、と聞かれて昼間に考えていた事が脳裏によぎった。けれど、瞬時にそれを掻き消して当たり障りのない言葉を返す。まだだ、まだ決着をつける時じゃないから、せめてその日まで普通にしておかないと。
「長い布が一枚。そこに置いてあるでしょ。アレ」
「……あれで何作るの?」
「知らない。まだ決めてないわ」
「また決めてないんだ。手を動かすならもうちょっと計画的にやった方が良いと思うけど」
「別に暇潰しだし……今回も素材だけは沢山あったから」
「ふーん……まあ別にいいけど」
間の抜けた返事を最後に、ビーチェはそれ以上何も言わなくなった。多分、話がこじれそうになるのを気遣ったのだろう。生活に必要不可欠な事柄――衣食住やそれに関係した事以外の時、私達は必要以上に相手へと口出しをしないよう、お互いに取り決めをしておいてある。二人共、良き隣人として過ごすにはそういったものが必要なのだと十分理解していたからだ。
そしてそれっきり会話を打ち切った私達は、どちらからともなく蝋燭の灯りを消し、部屋の隅のベッドへと潜りこんだ。数年前は藁敷きの粗末なものだったこの寝床も、今ではそこそこ立派な毛布と寝台二つへと変化している。せめて寝床くらいは立派なものが欲しいと、ビーチェが勝手に改造してしまったからだ。あの時はそんな事はしなくていい、眠れるのならどれでも同じだと繰り返し言ったものだが、渋々使い続けている内に今ではすっかり気に入ってしまった。……我ながら現金なものだとは思う。
(あったかい……)
厚手の毛布で全身を包みながら、私はぼんやりと開け放しの窓の外を見つめて時を過ごした。真っ黒な空に散らばる星々、そして齧られたように欠けた月。それだけの光景だったが、見ていると不思議と心が安らいでいくのを感じる。肌を焼く日光が蔓延る昼とはうって変わって、夜はどこまでも優しい。私みたいな弱い人間にはこれくらいが丁度良いのだろう。
この分なら今日もすぐに眠れそうだ――
「……ねえ、まだ起きてる?」
微睡みながらそんな風に考えていたのに、隣から聞こえたそんな言葉で現実へと引き戻されてしまった。
「……起きてるけど。どうかしたの?」
「別に用があるって程じゃないけど、なんとなく」
「…………」
なんとなく、そう切り出してきたビーチェの方は振り向かず、私は毛布に閉じ籠ったまま次の言葉を待った。
「ロゼは、ここを出て行きたいとは……思わないの?」
普段の快活さとはかけ離れた、重く澱んだ声音。それはまるで、不安を押し殺し、孤独な夜を振り払おうとしているかのような――
ああ全く、これで何度目だろう。私と違って夜になると途端に弱気になるんだから。
「思わないよ。私には行く当てが無いもの」
「でも――」
「でも、もクソも無いのよ、ビーチェ。これは変えようのない事なんだから」
「ロゼはいつもそう言うけどさ。理由は教えてくれないの……?」
「うん。教えられない」
「……どうしても?」
「……貴方からしたら理不尽だと思うのは分かる。でもこれだけはどうしようもないの。ごめんね……」
何もかも一切合財暴露してしまいたい衝動を必死に抑えながら、私は謝罪の言葉を並べ立てる。隣からはいつものように息を飲む音が聞こえてきたが、耳を塞いでそれも聞こえないふりをした。しかしそれでも、胸に燻ぶる罪悪感だけはどうしようもなかった。
私はこの先どれだけの間誤魔化し続ければいいのか。どれだけ隣の友人を裏切り続ければいいのかと思うと息が詰まりそうだった。こんな酷い私に何年も暖かく接してくれている彼女に、報いる事が出来なくて悔しかった。
……それでも、絶対に言う訳にはいかない。
更なる絶望に誘うくらいなら、この程度耐えられるというものだ。
「……ごめん。同じ事何回も聞いて。もう寝るね……」
遠くでそんな声が聞こえて、身動ぎする気配が少し。そしてすぐに静寂が満ちてくる。
耳を塞いでいた両手を戻し、毛布から這い出て、隣のビーチェの様子を窺ってみる。こちらに背を向けた彼女の身体は、規則的に肩を上下させながら寝息を立てていた。……どうやらすぐに眠ってしまったようだ。
「ごめん。ごめんね、ビーチェ……」
いつの間にかガタガタと震えていた身体をかき抱きながら、私はまた独り言を――いや、誰とも知らぬ誰かへと、懺悔の言葉を漏らす。
(ごめんなさい……生きていて、ごめんなさい……早く死なせて下さい……誰か……)
――私の傲慢で切なる願いなど、結局彼女の近くで口に出せるはずも無く……またしても心の中に澱み、積もっていくのだった。
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それから数日後。
私はビーチェを一人残して、いつものように食材を降らせに墓場へと赴いた。
「私、なにやってるんだか……」
仏頂面のまま小石を蹴り飛ばしながら、墓場へ続く道をのろのろと歩く。天気は曇り。太陽が苦手な私にとっては有難いけれど、自分の沈んだ心が見透かされているようで、少し気分が悪い。
「はぁ……」
……あれから結局ビーチェとは上手く仲直りできないままでいる。これまでであれば、どちらからともなく謝罪の言葉を切り出して、それですぐに仲直りしていたのだけれど、今回は何となく――本当に些細な擦れ違い、間の悪さ、居心地の悪さなどが積み重なり――話す事が出来ないでいた。ビーチェの方も今回は何か思う所があるのか、私と対面しても口を噤むばかりで、必要最小限の事でしか口を利いてくれない有様だ。
『ここを出て行きたいとは……思わないの?』
ビーチェに問われた言葉をぼんやりと思い出し、眉根を寄せる。
……こんなのは今までにも何度だって言われて来た事だ。何も問題なんてありはしない。
それは、最初に言われた時なんかはビックリしたし、今更になって希望を抱いて良いものかと困惑したりもした。けれど、それも最初の数回の事であって、ビーチェと二人でずっと過ごしている内に気にならなくなっていったものだ。
ああ、彼女が来ても何も変わらない。この森には何の変化もありはしない。私は此処で生き続けながら、やがて死んでいく。それは決して揺らぐはずも無い。
そう思っていた……はずだった。なのに――
「なんで私、苛ついてるのかな……」
心の内のわだかまりを吐き出すように、今の心境のありのままを呟き、声に出した。
……そうだ。何で私はこんなにも苛ついているのだろう?
もう言われ慣れたはずの言葉が、何故今更になってこんなにも心をささくれさせるのだろう。
なんで私はビーチェに対して怒っているのだろう。
どうしてこの数日間。彼女と早く仲直りをしなかったのだろう。
「……」
……分からない。
なんで、とか、どうして、といった疑念や感情ばかりが溢れてきて、上手く考える事が出来ない。
「わかんない……わかんないや……」
頭の中が酷くぐるぐるして気持ちが悪い。さっさと食料を降らせて帰ってしまおう。
そう思った私は虚空へと手を伸ばした。……気付いた時にはとっくに墓地へと到着していたからだ。すぐに黒雲が垂れ込め、風が吹き、叩き付けるような猛烈な雨が降り出す。その何度繰り返したか分からない光景を滲む視界で捉え、私は安堵した。
混乱した脳内、いつもと違う非日常的な出来事に一定の区切りを付けるのは、その対極にある日常――常日頃より繰り返してきた習慣である。
その習慣に、私は縋る。
それがたとえ刹那の間だけでも安息をもたらしてくれるのだと、そう信じて。
――だが、今日この日ばかりは、それは日常には為り得なかった。
やがて雨風と共に食料が降ってくる。
――まるで非日常が連鎖して行く様に。
降ってきた食料は叩き付けられた衝撃で四肢がぐしゃりと圧し折れ、そのままその長い手足はもぎ取れた。
「…………え?」
――異常は影のように這い寄り、覚悟を決める暇すら与えてはくれない。
叩き付けられた反動のまま、食料は地面で弾み私の方へとゴロゴロと転がってくる。四肢がもげたおかげでそれが止まる事は無く、まるで空樽のように滑らかに。
そうして最後に。
ちょうど私の足元で止まったそれと、目が合った。
「――――」
それは苦悶の表情のままに息絶えた、人間の死体だった――




