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炎の魔女  作者: 御留守
第一章 業火を宿した少女
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第一節「懐かしき日々」

 ――五年前、時代は十五世紀後半。

 ヴェネツィア共和国。とある都市学校にて。


 その一室ではカリカリ、ガリガリと何かを引っ掻くような音が無数に響き渡っていた。

 執拗(しつよう)に、病的なまでに繰り返されるその音は、決して途絶える事は無く。

 聞く者の耳朶(じだ)を侵し、常ならざる感情に染め上げ、やがて――


「――やがてそれを聞き続けた者は狂気に陥り、隣人を……」

「……うっせーぞ! レオンのオッサン! あと言ってる事わけわかんねーぞ!?」

「ああ!? 誰がオッサンだ! 俺は今詩作の練習をだな――」

「才能ねーんだから諦めろよ! あと先生なんだから授業中にそんなことしてんじゃねーよ!!」

「そうよ! ちゃんと私達のラテン語を見なさいよ! 何も言わないから合ってるかなって不安になるでしょ!」

「お、おお、不安だったのか、ローザ……うん、お前のラテン語はちゃんとしてるぞ、よしよし」

「えへへー」

「おっさんおっさん! 俺のも見てくれよ!」

「んー……アロルド、お前はいつになったらパンとハムの書き分けが出来るようになるんだ……?」

「えっ……?」

「え、じゃない。パンはpanis ハムはpernaだ。最初しか合ってないぞ?」

「やーいやーい。お粗末アロルドー! その程度さっさと覚えなさいよー」

「う、うるせえっ! ちょっと間違えただけだし! ローザ! お前こそちょっと覚えが良いからって調子に乗るなっ!」

「あんですって!?」

「あうう、せんせー! 間違ったところ削ってたら指切っちゃったー!」

「ああもう、ぎゃーぎゃーうるせえっ! 何でも良いから次の算術に進ませやがれっての! んで、指切った奴は……っと、ブルーノか。唾付けてりゃ治るから適当にやっとけ!」


 ぎゃいぎゃいと(やかま)しく畳みかけてくる子供達相手に男は吼える。だが、喧騒(けんそう)が止む事は無い。


「ああくそっ、毎日毎日飽きねえなお前らも! ちょっとはお守りをする俺の身にもなってみろっての……!」


 修道服を着た教師役の男――レオンは思わず天井を仰ぎ、嘆息した。己の身の上をこれでもかと呪いながら。


 教室内はガリガリと羊皮紙を引っ掻く音に加え、生徒同士のお喋りや生徒と教師の心温まる(?)交流によって、さながら戦場の如き騒々しさだ。

 教会に併設されたこの都市学校には商人や職人の息子、上級市民の子女が集められていた。

 今日の欠席も含めて総勢二十五名。お世辞にも広いとは言い難い室内で肩を寄せ合いながら、読み書き算術といった初歩的な教養を教える授業が行われている。


 ……いや、正確に言うと、“行われていた”と言った方が正しいのだろう。

 ぎゃいぎゃいと言い争う彼らなど関係無いとばかりに、教室の上に穿たれた窓からカーンカーンと鐘の音が遠くに聞こえた。……定刻を告げる教会の鐘だ。


「あ、もうこんな時間だ! 帰って親父の手伝いしねーと!」

「あたしも帰っておかあさんのお手伝いー」

「遅れるとげんこつが飛ぶぞ! いそげいそげー!」

「おい、お前ら!? せめて片付けてから行けっ! おーい!」


 鐘の音を皮切りに、こうしてはいられないと子供達は我先にと教室から抜け出していく。

 さもありなん。元々が商家や職人の家の子ばかりなのだ。親の手伝いは何よりも優先され、そして手伝いを通じて仕事を学んでいく。そうやって家業は何代も連綿と受け継がれてきたのだ。……そんな彼らを引き留める理由など、レオンは持ち合わせていない。ガヤガヤと落ち着きなく出て行くのを、呆れながら見つめる事しか出来なかった。


「まあ、俺も分かっちゃいるんだがさ……貴重品なんだからもっと丁寧に扱えよ、がきんちょ共め……」


 残されたレオンは散らばった羽ペンや羊皮紙を手際よく拾い集めていく。その背には隠しきれない哀愁が漂っていた。


(ああ、また子供のお守も出来んのかって、神父殿にどやされそうだなぁ……面倒臭い……)


 そんな風に暗澹(あんたん)とした気分に浸っていたのだが――


 ガリガリ、ガリガリ。


「……んー?」


 羊皮紙を引っ掻く音が聞こえた。誰だろうかと首を巡らして確認する。


「って、またお前か、ベアトリーチェ」

「…………」


 そこにいたのは一心不乱に羊皮紙へと何事かを書き殴るベアトリーチェ――その年若い姿だった。

 長く伸びたブロンドの癖っ毛はボサボサではなく綺麗に()かされていて、少しくすんだ藍色のコルセと灰色のロングスカート、それらを纏める腰布に身を包んでいる。首からは手の平サイズのロザリオを紐に結えて下げており、いかにも敬虔な信徒といった装いだ。


「……?」


 レオンの言葉に反応は無い。依然としてベアトリーチェは羊皮紙と格闘している。

 先の声が聞こえていないのかと思い、自身の教え子へと近付いてみた。程無くして羽ペンが止まり、はふぅと息を漏らしながら見上げてくる。……目が合った。


「……あら、レオン先生。もう終わったの?」


 パチパチと緑眼を瞬かせながら、呑気極まりない事をのたまうベアトリーチェ。頬には書いている途中で付いたのか、インクの染みが薄く伸びている。


「鐘の音も聞こえなくらい熱中してたのか……ほんと熱心だな」

「ええ、だって楽しいもの。父さんも母さんもよく勉強はしておきなさいって言うし。何よりラテン語って響きが好きなのよね。格調高くてカッコいいじゃない?」


 ニコニコと笑いながらそう話すベアトリーチェ。すこぶる上機嫌なようだ。


 ……まあもっとも、レオンにとっては一人でも生徒が残っていた事の方が重要だったのだが。


「はいはい。お前さんが勉強熱心でお兄さんは涙ちょちょぎれですよー。……という訳で、一緒にシスターに怒られてくれないか?」

「えええっ!? なんでよ!? 私関係無いじゃない!」

「いや、ここ数日の授業の進みが良くなくてな……このままだと降板もあり得るかも……」

「ええー……」


 レオンは同情を誘わんとそう(うそぶ)く。……実際は人材不足故に降板などあり得ないが、怒られるのは本当だ。


(あのシスター、怒るとご飯減らしてくるんだよな……こいつを言いくるめてどうにか説得してもらおう)


 教師としてはあまりにも情けないが、豊かな食事の前には些末な事だ。誇りで飯は食っていけない事を、レオンはこれまでの人生で身に染みて分かっていた。


「怒られるのが嫌ならちょっと俺に合わせて――」

「……聞こえていますよ、レオン殿」

「うげっ……その声は……!?」


 反射的に戸口を振り返る。

 そこには声の主――隣の教会のシスターが、腕を組みながらドアに寄りかかっていた。黒衣を纏ったその威厳に満ち溢れた姿は、見る者に畏敬の念を抱かせるには十分な程に貫録がある。

 ……むべなるかな。彼女こそが現在のこの都市における実質的な教会トップ――シスターフローラその人だ。

 古くからこの都市を見守り続けてきた彼女の武勇伝は数知れず。


 住民曰く、


「新しく赴任してきた神父が一日で尻に敷かれた」

「徒党を組んで襲い掛かった物取りを、素手で撃退するのを目撃した」

「説教を聞いた旅の者が涙を流しながら頭を垂れていた」


 ……などなど、枚挙に(いとま)がない。“例のシスターに目を付けられたら、明日は安眠出来ないと思え”というのがこの区画に住まう者全ての共通認識だ。

 そんなシスターにレオンは常日頃から監視されているわけだが……


「よりにもよって生徒を懐柔して保身を図るとは……貴方に誇りは無いのですか?」

「あ、生憎と誇りで学は身に付かなかったからな……」


 開き直ったかのようなレオンの態度にシスターは溜息を吐いた。


「やれやれ、貴方も性根が素直なんだか捻くれているんだか……子供に好かれるって事は邪念の類は無いのでしょうけれど……」

「おい、ベアトリーチェ。シスターが俺を褒めてくれてるぞ……明日は雨かね……」

「……多分皮肉だと思うんですけど……レオン先生はあれで褒めてもらえてると思うのです?」

「いつももっと酷い事言われてるからな……昼行燈(ひるあんどん)とか、根無し草とか、挙句は字が汚いとか……」

「うわぁ……」

「レオン殿っ!!」


 ぼそぼそと会話を交わす二人へとシスターの一喝が落ちた。見れば、羊皮紙の一枚を掲げて怒り心頭なご様子だ。


「まだラテン語を全員が書けるようにすらなっていないのですか! このパンなのかハムなのか分からない単語は何なのです!?」

「ああ、そりゃアロルドの……あー、ええとですね……そいつは一番最後に来たというか……」


 あちゃーと言わんばかりにポリポリと頭をかくレオン。何か気の利いた弁明でも考えているだろうか。


「シスター、シスターフローラ!」


 そこへ見かねたのか、ベアトリーチェが助け舟を出した。


「おほん。何でしょうか、ベアトリーチェさん」

「これから教会の蔵書を閲覧したいと思うのですが、レオン先生を借りていっても良いでしょうか?」

「お、おい……?」

「いいから……! 私一人だと分からない単語も多くて、聞きながらの方が勉強も捗るかと思うのですが……」

 抗議の声を上げかけるレオンを制し、シスターへ提案するベアトリーチェ。

「ふむ……」


 そんな彼女を一瞥し、シスターは思案する風に顎を撫でる。そうしてしばらく考えた後、息を一つ吐いた。


「……まあ、いいでしょう。ベアトリーチェさん、貴方のその勤勉さと日頃の行いに免じてこの場は矛を収めましょう。……それと、蔵書の閲覧も許可します。そこのを連れて行って知見を広めるのに役立ててください。まあもっとも、大した物も無いとは思いますが……」

「あ、ありがとうございます、シスター!」

「おいおい、シスター。俺はこの後――」

「五月蠅いですよ、レオン。どうせこの後は街に繰り出してブラブラするだけなのでしょう? でしたら未来ある若者の手助けをする方がよっぽど有意義だとは思いませんか? んん?」

「あ、はい……」


 シスターはレオンの言葉を真っ向から切り捨て、尚も不満そうな顔を眼光一つで黙らせた。そうして異論を封じた後にベアトリーチェへ笑顔を向け、こう忠告したのだった。


「ああそれと、レオンに襲われそうになったら大声で助けを呼びなさい。神父様がすっ飛んで行くとでしょう」

「ええ、ありがとうシスター。貴方に神の御加護があらん事を」

「そちらこそ。勤勉なる貴方に有意義な時間が過ごせますように」

「俺ってそんなに信用無いかね!? 襲う訳が無いだろーが! ……おーい、もしもし? おーい!?」

【ラテン語】

・元々は古代ローマ共和国の公用語として広く普及した古代言語。

・後にカトリック教会の公用語として欧州各地へ広まり、祭祀宗教言語として使用された。

・各種学術用語として現代まで存在し続けている。

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