第十二節「燻りと戦いの花」
「むーん……」
前方を見据え、短く唸るように声を漏らす。
最早住み慣れた小屋の前で直立し、右手に構えた棒切れを突き出しながら、私はさも難題に直面したと言わんばかりに眉根を寄せる。
「むむむ……こうかな?」
時折思い出したように構えを変えて、感触を確かめる。記憶にある光景は鮮明に思い出せるのに、それを再現しようとするとどうにも上手くいかない。多分、一瞬一瞬の動きばかり見ていたので、基礎となる構えが思い出せないからだろう。砂の土台に家を建てるようなものだ。だからこそこうして参考になりそうなものも持参してきた。
ちらちらと視線を落として、描かれている絵と自分を見比べる。その差は歴然だ。
全くもってお話になっていない。……自分が。
「……こうして比べると、先生って滅茶苦茶な我流だったのね」
「センセイ?」
私の呆れたような呟きに、怪訝そうな声が返ってきた。無論この場所で返答してくれる存在なんて一人しかいない。
「そ、先生。前にも教えたでしょ。私に色々教えてくれた人」
「知ってる。で、そのセンセイとビーチェが今やってる変な踊りとどう関係があるの?」
「…………」
変な踊りとは、相変わらず失礼なロゼである。これでも私なりに努力している最中なのに。
模索するのを一旦止め彼女の方を見てみると、いつも通りのんびりと編み物に精を出していた。漂流物の中から使えそうな布や生地をほどいては、ああやって再利用しているのだ。実に生産的な趣味だと思う。
それに対して私のやっている事といったら……いや、比較するのは良くない。これにだってちゃんと理由があるのだ。
「……私はね、ロゼ。変な踊りをしている訳じゃなくて、先生がやってたみたいに剣を覚えようと思っているのです」
「ふんふん」
「実は前々からああなれたらいいなー程度には考えていたのだけど、それを後押しする素敵な逸品が、ついこないだ流れ着いたのです」
「ほうほう」
「……それがこれ! この本!」
実に興味が無さそうな相槌を返す彼女に対し、私は先程から盗み見ていたものを両手で掲げた。
「ふろす、でゅ……?」
「フロス・デュエラトールム!」
「……何の本なのそれ?」
「よくわかんないけど、剣とか槍の本! 挿絵がたくさんあるよ!」
「貴方って勤勉なんだか天然なんだか、たまに分からなくなるわ……」
ぺらぺらと写本の中身を見せる私を見て、ロゼは呆れたように半目で睨んできた。
「まあ別に頑張ればいいんじゃない? なんの役に立つのかは理解出来ないけど」
「り、理解出来ない……」
「そうね。じゃあ熊でも迷い込んで来たら、ビーチェにお願いしようかしら」
「熊って、剣で倒せるの?」
「うんうん。いけるいける」
「そっかー。まあ熊程度は倒せないと駄目だよね……」
「いや冗談だからね!? ビーチェの目標がどこかは知らないけど熊さんを通過点にしようとするのはやめて!?」
「でも、熊くらいは倒せないと……」
熊と実際に出会った事が無いから分からないけど、その程度も倒せないようではきっとアイツは殺せないだろう。殺しても生き返るような化物相手には、容赦とか油断とかそういう類いのものを抱いてはいけない。それこそ先生が言っていたように微塵に刻んでも足りないだろう、きっと。
そんな物騒な考えが顔に出ていたのか、ロゼは私の顔を神妙な面持ちで眺めると、
「……まあ、これ以上やるなら河原の方にでも行ってよ。私が見てない方が集中できるだろうし、あとついでに見回りもよろしくね」
そう言って顔を背けたのだった。
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ロゼに言われるがままに河原へと移動。小脇に挟んでいた写本を手頃な大きさの岩の上に広げ、再び木の棒を構える。
「……?」
何となく彷徨わせた視線の先で気になるものを発見。半ばまで川に浸かっていたそれを拾い上げてみる。……なんの変哲も無い、錆びた剣だった。
「んー、丁度良いか。木の棒よりはそれっぽいし」
あとロゼも此処にはいないし、と言外に付け足しながら、私は錆びた剣を撫でる。
途端に剣は赤く熱を帯び、数秒の後に鈍色に光る元の姿を取り戻した。ブンブンと二、三度振って熱を振り払う。即席の練習道具の出来上がりである。
「未だに流れ着くって事は、外では今もどっかで誰かが争いあっているって訳ね」
粗末な造りの刀身に、無表情な私の顔が映り込む。……ロゼにはあまり見せたくない顔だった。
「馬鹿馬鹿しい」
懊悩を斬り捨てるように力任せに剣を振るう。軌跡と共に火の粉が舞い、叩き付けた地面から煙と異臭が立ち上る。そのまま更に力を込めると、剣の周囲がドロリと溶け、次の瞬間には軽い爆発音が静かな河原に響き渡った。
「あ、はっ――」
思わず笑みが零れてしまう。こうして力を振るうと気分が良い。気が紛れる。自分はちゃんと此処にいるって安心出来る。
私は正気だ。大丈夫。全然大丈夫。ちゃんと狂ってなんかいない。
ロゼに依存し、振るう力で再確認しながらでも、私はちゃんと生きられている。生きる事が、出来ている。
「……違う違う。剣の勉強するんだった」
……河原に来た用事をはたと思い出し、私は写本に向き直った。自分の正気を確認するのはとても大事だけど、今はもっと大事な事があったのだった。
河原に座って、じっくりと一頁ずつ丹念に眺めていく。
豊富な挿絵。何となく理解出来るイタリア語と思しき注釈。前の所有者の書き込みだろうか、空いている余白には乱雑な殴り書きがぽつぽつと。
「……んー……」
さっきはロゼがいた手前、あんまりこういう感想は言えなかったけど。
これは、その、あれだ。
「わ、私には難しい……かも?」
正直言ってチンプンカンプンだった。あまりの理解出来なさに反射的に写本を閉じる。
「……って、何やってるんだか……」
すぐに思い直して再び写本を開く。
理解出来ないなら出来るまで向き合えばいい。真似出来ないなら真似出来るまで繰り返すのみ。
先生に教わっていた時や、ロゼと言葉を交わせるようになった時、自分はそうやって乗り越えてきたはずだ。忌々しい事に――いや、幸いにして時間は腐る程あるのだから、今回も根気良く付き合っていけばいい。それだけの事だ。
「うん、最初から順番に見ていこう」
一つ、自らを奮い立たせるようにそう呟くと、写本の挿絵を一枚一枚丁寧に動いてなぞっていく。
……今は不格好で見るも無残なのは重々承知している。というか、こうしてやっている最中でさえ自分は何やってるんだかという思いでいっぱいだ。
でもどうせ誰も見てはいないのだから、やりたい事、やれる事を出来る限りやるべきなのだ。
この行為は間違いなく己の人生、その未来で役立つのだから。私はそう信じているのだから。
(未来ね……そんなものがあればの話だけど)
心中で自虐しながらも、私は不器用に、真剣に写本と格闘し続けた。
ひたすらに挿絵の構えを真似て、振るう。分からない時は分からないなりに動きやすく。四肢に炎を巡らせながら限界ギリギリの速度でなぞっていく。
「……っ」
……こうして己の力と向き合っていると、必ずあの日の情景が脳裏に浮かぶ。
平穏が全部台無しになって、全てを失ったあの日。
あの時は逃げるので精一杯だった。だけど今は違う。違うはずだ。
この数年で私は成長した。背も少しは伸びたし、野草の見分け方や動物の狩り方、捌き方だって覚えた。それに何よりも――
「はあッ――!」
気合を乗せた斬撃と共に、炎の刃と形容すべき一閃が遠方の不運な木々を薙ぎ倒していく。ブスブスと不機嫌そうに煙を上げる剣をジッと見る。この程度ならまだ使えるはず。
「…………」
こうして振るう力は、数年前とは比べ物にならない程に強くなってしまった。
精々がものに火を着ける程度の力、そう信じていたこの異能だったけど……今ではご覧の有様だ。
ものを燃やし、己を燃やすまでなら数年前でも既に出来ていた。
今やったような斬撃も、広場でフローラを脅す時みたいに全力でやれば何とか出来た。
でも、今は違う。
少し力を込めれば、炎をまるで意思を持ったかのように操る事が可能だ。いや、可能になってしまった。
例えば拾った石に力を入れたとすれば、石を矢のように飛ばす事が出来た。
例えば目障りな大岩に力を込め続ければ、チーズのように溶かす事さえ出来た。
例えば――これはとても身体が痛むから乱用出来ないけど――周りの空気に伝えて続ければ、自分の周り全部を燃やしていく事も……出来てしまった。
この数年に興味本位で試し続けた結果、私の異能は人間の範疇を大いに逸脱してしまったと言えるだろう。
客観的に見ればそれだけの事。でも、主観的に見ると――自分の事なのでそう見ざるを得ないけど――これはとても恐ろしい事だと、私は思う。だって――
(私は多分、人間じゃない。こんな事が出来る人間なんていない。いる訳が無い)
そうだ。こんな人間いない。いてはいけない。
(私もロゼも、アイツだって、みんな化物だ。同じ化物だからアイツは私を恐れたんだ。きっと)
何度も辿り着いたその結論、その事実に、私は改めて絶望する。
「…………」
確かめるように手を握り、開く。震えは無い。既に諦めた事だから。
……諦めたけど、今はすべき事がある。それまでは死ぬ訳にはいかない。
「……必ず……アイツだけは……」
知らず握り締めた剣がドロリと溶け、河原に鈍色の染みが広がっていく。
……どす黒い激情をのせた呟きは鉄の出す悪臭と混じり、すぐに消えていった。
【フロス・デュエラトールム】
・綴りはFlos Duellatorrym 直訳すると戦いの花。
・北イタリアの剣豪、ジョバンニ・デッレ・バンネデーレ――黒隊長ジョバンニをモデルに書かれたこの本は、素での組討、短刀による二刀流、長剣、長柄武器を扱った、完全なる指南書である。著者は当時のフェラーラにおける宮廷剣術役、フィオレ・ディ・リベリ。千四百十年に出版された。
・人々がより頑丈な鎧、より強力な武器をと求め続けた結果、巷では生半な斬撃の通らないような騎士が跋扈していた。
・その結果……意外にも活躍したのは片手剣もしくはレイピアだった。これらの武器は重厚な鎧の隙間から急所を突く事が出来たからだ。
・これらの戦場の変化、及び文芸復興の機運もあってか、武術にも革新がもたらされた。相手との位置関係、距離、得物の長さ、軌道を客観的に観察し、相手を傷付ける最適解を幾何学の原理を利用して導き出す――後の世でルネッサンス剣術と呼ばれるそれらは、このようにして育まれたのだ。




