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炎の魔女  作者: 御留守
第二章 ■■■■■■■■■
45/54

断章「一方その頃」

 ふわりふわりと白い羽根が舞う。

 穏やかに吹く風を受けながら踊るそれは、陽光を受け濁った曇天を背に、己が姿を映えさせるように虚空を彷徨い続ける。

 その様は自由なようでいて、同時に酷く危なっかしい。目を離した次の瞬間には、その存在が消えていそうな程の儚さだ。

 ……やがてひとしきり舞い踊ったかと思うと、白い羽根は止まり木を見つけ、その翼を休めにかかった。

 鈍色の短く伸びた止まり木は、羽根が触れた瞬間に一度だけ微かに震えたが、白い羽根は動じる事無くその上へと静止した。


「――――」


 鈍色の止まり木――グスタフ・シュレーゲルは、己が指の上に止まった蝶を前に束の間の安らぎを見出す。

 兜の隙間から覗く、白い羽ばたき。

 その白き輝きは彼のような疎まれし者にとっては殊更に眩しく、暖かい。緩やかに羽根を開閉させる様もどこか牧歌的で、心が落ち着く。こうして見ているだけで何時間も過ごせそうだった。


 ――暗き約定と血濡れの地下にはあり得ないものが、己の指先に留まっている。

 その事実を噛み締め、微かに笑みを漏らしながら、グスタフはその輝きを慈しむように眺め続けた。

 しかし――


「……おい、戻ったぞ」

「……!」


 突如横からかけられた声に反射的に体が動き、その拍子に蝶は飛び立ってしまった。指を伸ばせども既に遅く、一度飛び立った煌めきは彼の惜別の念など知らないと言わんばかりに、悠々と飛び去って行った。

 飛び去る蝶をぼんやりと見送った後、グスタフは声の主へと視線を巡らせる。


「ここも成果無しだ。もう半島の近くにはいないのかもしれないな……」


 落胆した様子の同行者――レオンを見上げながら、グスタフは即座に立ち上がり、己の荷物を拾い上げた。

 ガチャガチャと全身鎧の音が響き、それが進発の合図となる。


「流れ着くならジェノヴァか、はたまたそれより北か……お前はどう思う?」


 レオンの何気無い質問に、グスタフはただ肩を竦めて返事をした。……元より自分には外界の知識が乏しい。長旅をした事こそ数あれど、各国の情勢、土地柄、風土……そういったものはてんで駄目だ。所詮は特権と階級でがんじがらめのまま行脚していただけなのだから、無理もないのだが。

 しかしそんな気の無い返答にも気分を悪くすることも無く、レオンは顎に手を当て思案し始めた。


「ふーむ、まあしょうがないな。近場から虱潰しだ。でもあんまり北に行き過ぎると言葉も通じないだろうからなぁ。ヴェネト語がギリギリ通じる所……いやいや、奴隷として売り飛ばされてるって事態もあり得るか……? そうなると面倒臭いな……」


 ……隙さえあればああだこうだと百面相を作るこいつは、見ていて飽きない。

 ぼんやりとそんな事を思いながら、近場の木に立てかけておいた両手剣を背中にしまう。これで旅の準備は完了だ。後は指示を待つだけ――


「……んー! 分からん! 取り敢えず北だ! 北行くぞ、グスタフ! 大分フィレンツェで油を売り過ぎたが、まあ何とかなるだろ!」


 ……これの指示に従い続けて良いものだろうか。

 数ヶ月ぶりに示された旅の方針に若干暗澹とした気持ちになりつつも、グスタフは次なる旅への一歩を踏み出した。

 当てのない旅というものも存外に悪くはないのだ――そう自分に言い聞かせながら。




「しっかし、こう、あれだな……色んな所に足を伸ばして、こうも手掛かりすら無いとは、あいつ本当にどこ行ったんだかね……」


 深緑に囲まれた街道を連れ立って歩きながら、いつものようにレオンの愚痴を聞き流す。これでもう何度目だろうか。町を巡っているのだから話題には事欠かないはずなのだが、生憎とこの男は失せ人の話ばかりこちらへ投げかけてくる。最初の内は、そこまで思い煩うのならば首輪でも付けておけと思ったものだが……今はそういった悪感情よりも、むしろ同情の方が大きい。

 失ってからその価値を知るものも、この世には多いものだ――その事は何より自分自身が良く分かっているつもりだ。


「しかしよ。女子供一人が、こうも見つけられないままに彷徨っていると考えると、その方が不自然でもあるんだよな……どっかの変態にでもとっ捕まってるんかね……いや、あいつは素直に捕まるような性質(たち)でもないな。変態と言えばあの胸糞悪い鳥野郎もいるが――」


 レオンから聞いた話では、どうやら彼の失せ人は命を狙われているらしい。年端もいかない少女がどういった理由で殺されようとしていたのかは定かではないが、何れにしろ尋常な状況ではない事は察せられた。

 ……それなのに、こんなのんびりと街道を歩いていて良いのだろうかと、以前レオンに筆越しで問い質した事がある。その時は確か――


 “グスタフ。逸る気持ちは俺にだってある。あるんだが……どうにも金が無い”


 ……そう。我々には纏まった金が無かった。着の身着のままに旅を始めたのだから当然だ。食うに困る、という程ではないのだが、それでもいつ終わるとも知れない旅路。出来得る限り節約しようと最初にレオンから聞かせられていた。上等な宿や、馬を買うといった贅沢は基本的に出来ない。粗末なパンと干し肉とエール、もしくはワインが旅の道連れだ。

 自分にとっては町にいた時とあまり変わらないので、特に苦とも思わないが、レオンにとってはどうだろうか。いつも酒が足りないとか、飯が少ないとかぼやいているから、多少は堪えているのだろうか……?


「おい、さっきから俺の話を聞いてるのか? 聞き流してないよな? なあ?」


 のんびりと問い質してくるレオンにこくこくと首肯を二度返す。


「そうか、ならいいんだが。……顔の見えないお前と話してると、どうにも距離感が難しくてな……」


 そう話しながら苦笑を浮かべたレオンはそこで黙り込み、自分と同様に黙々と歩を進める作業に戻っていった。その表情は一見飄々としてはいるが……ここ数ヶ月一緒に旅をした自分には何となく分かる。

 当て推量ではあるが――こいつは明らかに参りかけている。

 ままならない現実の非情さ……否。己の無力に悔恨の念を抱いているのでは、と。


「――――」


 その事を指摘してやろうかと、足を止めて一瞬だけ沈思黙考する。……しかし、止めた。

 その前に片付けるべき雑事が出来たようだ。


「……グスタフ?」


 立ち止まったこちらを訝しんだのか、数歩先のレオンも立ち止まり声をかけてくる。しかし近寄って来ようとする彼を片手で制すると、背負った両手剣をおもむろに抜き放った。すらりと金属の擦れる音が耳朶に響き、両手に鉄塊の圧倒的な重量感が伝う。

 己の感覚を信じるのならば……方角は左の木立の間か。その先に向けて剣の切っ先を突き付ける。

 僅かな殺気――死を生業とする自分でなければ見過ごすような、本当にごく僅かなそれが感じられたからだ。


「――――」


 そうして無言のまま待つ事数秒。すぐに変化は訪れた。

 思い思いの武装を身に付けた男が三人、木々の合間から顔を覗かせたのだ。


「……おーおー、毎度ながらよく見付けるなぁ……」


 頭の後ろで両手を組みながら、レオンはまるで他人事のように言い放つ。剣呑な相手を前に随分と呑気なものだが……


「――――」


 同伴者を無視し、走り寄って来る男達を観察する。

 一人の得物は斧。手入れがあまりされていないのか、刃は所々が欠けている。走り寄る動きもどこかぎこちなく、目は虚ろ。

 もう一人の得物は長槍。これまた使い倒している様子で端の方が折れかかっている。こちらは斧の男よりも幾分か血色が良い。だがぼうぼうに伸びた髭は酷く汚らしく、ろくな生活をしていないであろう事が窺える。

 そして最後の一人は――


「――! ――――!!」


 遠目から見ても上等な剣を持った男が、得物を突き上げて一番後ろから喚き散らしている。……訛りが酷くて聞き取れなかったが、恐らくは激を飛ばすか、こちらを恫喝でもしているのだろう。隣ではレオンが「ありゃ北からの出稼ぎ崩れかねぇ」などと呑気そうに零しているが、この様子ではこちらに対応を丸投げするようだ。

 ……是非も無い。なればこそ、降りかかる火の粉は丁寧に払わねばなるまい。


「……」


 無言のままに一歩踏み出し、二歩目で一気に加速。三歩目で飛ぶように地面を蹴り、四歩目で彼我の距離を一気に詰める。

 驚愕に目を見開く斧の男目がけ、両手剣を叩き付け――その得物の刃を両断した。


「あぅえぃ!?」


 意味不明な悲鳴を上げる男の顔面を籠手で殴り付ける。どうなったのかを見届ける暇も無く、続いて槍の男へと肉薄。一瞬の出来事に我を忘れでもしているのか、槍の穂先はこちらに向いていない。両手剣を勢いのままに地面へと突き立てて放り出し、そのまま相手の槍の中途を狙って蹴りを繰り出す。大分劣化していたのだろう。大事そうに抱えられていた得物はみしりと音を立てると、呆気無く圧し折れた。


「ひっ……! ひいいっ!!」


 兜の奥から睨め付けてやるとそれだけで戦意喪失したのか、槍の男はその場にへたり込んで無様に失禁した。これでは殴るまでも無いだろう。

 続いて最後に残った男を探し、視線を巡らせる。……すぐに見つかった。と言うよりさっきの位置から動いていない。剣を掲げたまま硬直している。

 地面に突き立てた両手剣を回収し、固まったままの男へと歩み寄って行く。


「……っ! うぉああああ!!」


 その途中で思い出したかのようにこちらへと斬りかかって来る剣の男。得物の上等さとは違い、その動きには洗練さの欠片も見て取れない。最早若干呆れつつも、その剣先を逆手に持った両手剣の柄で受ける。そうして最小限の動きで男の一撃を往なすと、踏み込んで足を蹴り払った。


「げべぇ!?」


 男は抗う事も出来ず、無様にすっ転んだ。いっそ鮮やかと称しても良い位に。


「ぐゅうぅ……」


 そして頭でも打ったのだろうか。白目を剥いて気絶してしまったのだった。……これでは話が聞けそうもない。


「おい、そこの。槍持ってた奴。そうだ、お前だ」

「……」

「おい、聞いてんのか。おーい、もしもしー?」

「うあ……あぁ……」


 そんなこちらを察した後ろでは、レオンが唯一離せそうな相手と話をしている様子だが……


「……ふぬん!」

「ぐぼぇ!?」


 ……どうやら失敗に終わったらしい。振り返って確認すると、大の字に倒れた男の前でレオンが握り拳をさすっていた。


「どうせいつも通り、食いっぱぐれたからって襲って来ただけだろうよ。さて、と……」


 適当な推測を話しつつも、レオンはおもむろに殴り倒した男の懐を探り始めた。その様子を見て自分も目の前で伸びている男へと向き直り……レオンと同様に物色を開始する。

 身銭が無い。食うものもあまり無い。ならば取る選択など最早迷う事も無い。


 略奪。

 ……否、言葉が悪かった。恵まれぬ我々の為に寄付をしてもらうとしよう。


「チッ、こいつなんも持ってねーじゃねーか……おい、そっちはどうだ?」


 後ろではレオンが残念そうに吐き捨てている。こちらはどうだろう……

 服を破り、ポケットを引き裂き、皮袋を逆さに釣るし……おお、これは……ジーザス!

 男の皮袋からまろび出たそれをしっかりと掴み、高々と掲げる!

 直後、後ろの同伴者から驚愕の声が上がった。


「そ、それは……チーズじゃねーか! しかも丸々一個……ッ!?」


 深緑の街道に快哉を上げる男二人。

 彼らのいつ終わるとも知れない旅は、まだまだ続く――

【ジーザス】

・救世主の名。主の御使い。偉大なる御方。

・信心深い民衆は得難いものを見つけた時や、驚愕した際にしばしば口に上らせる。


【チーズ】

・牛や山羊といった家畜の乳を、ある種の工程を経てその固形成分を凝縮させた食品。その歴史は古く、メソポタミア文明から、もしくはもっと古く紀元前五千年ごろのポーランドからとも言われている。

・ヨーロッパ全土にはローマ帝国侵攻の名残として、あらゆる場所でチーズ製造の技術は伝えられていった。しかし中世の長きにわたってその製造技法は停滞しており、荘園や修道院で作られる事が殆どだったようだ。

・当時に於いてチーズは農民の食事との誹りを受けており、貴族の食卓に上がる事は無かった。これはチーズが良家の健康を害すとの偏見が根強かった為である。

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