断章「楽土への情熱」
大の字に倒れ伏したダンテを、それでもなおフローラは執拗に踏み躙り続けた。
丹念に関節を踏み抜き、繋がる骨を砕き、臓腑へと踵を突き立てる。
そこには一切の容赦も憐憫も無く、純然たる暴力の意思のみが存在した。
その所業を為すフローラの相貌は喜悦一色に歪んだままだ。そうして絶え間無く蹂躙しながらも、彼女は吐き捨てるように挑発を投げかけた。
「どうしたのですか。先の勢いは何処へ行ったのです!」
「……」
「あのような大言を吐いておきながらこのザマとは、期待外れにも程がある……!」
「……」
「……いいえ。貴方もやはり、この程度だったという事ですか……ッ!」
「……」
しかし、その凶行もすぐに止めざるを得なくなってしまった。
倒れたままのダンテが唐突に足首を掴んだかと思うと、万力のような力で締め上げたからだ。ぐにゃりと複雑に折れた腕の何処にそんな力があるのかとフローラは瞠目した。
「……っ!」
……そしてそのまま仮面に秘されていた相貌を直視してしまう。
足蹴にしている時には気付けなかった現実が、唐突に像を結び脳裏へと這い寄って来る。
途端に冷めていく高揚、愉悦、激情。
眼前の光景にはこの世ならざるもの――絶対に直視してはならないものが潜んでいた。
「貴方……は……!」
だがそれも一瞬の事、足首から無理矢理に身体を退かされたフローラは、足を捩って何とか拘束から抜け出すと、即座に後ろへと跳び退った。先までの高揚は何処へやら、その表情にはありありと警戒の色が浮かんでいる。
対するダンテは顔を左手で覆いながらゆっくりとその身を起こしていく。何故かもう片手は街道の石畳の上を忙しなく撫で擦っており、その様は何処か不気味だった。しかしその探す指が砕け散った仮面の一欠けに触れると、彼はその破片を大切そうに顔へと運んで行き……そして、ぺたりと顔面へと貼り付けた。
「く、くくっ……あった……あったぞ……」
譫言のように言葉を溢しながら、彼は張り付けた仮面の残骸を掌で押さえ付ける。
そしてあろう事か――そのままぞぶりと己の顔へ指を突き立て、掻き毟り始めた。
「んな――」
そのあまりにも異常な光景に絶句し、立ち尽くすフローラを余所に、ダンテは己の肌を、肉を、その下に蠢く血潮を撒き散らしていく。
ぐちゃりぐちゃりと異音が広がり、腐った血肉の悪臭が白日の下に充満する。整った街道は黒き血に染まり、辺り一面は程なくして酸鼻極まる黒の地獄へと変貌した。
「……ふ、ふははは……」
しかし、その地獄も長くは続かなかった。
如何なる手管によるものか、黒き血肉が唐突に大地へと染み込んで行くのを止めたかと思うと、時を逆行するかのようにダンテの下へ集結していったのだ。
ごぼごぼと泡立ちながら、血肉はダンテの外套の内へと文字通り吸い込まれるようにして消えていく。外套の内からは、何かを咀嚼するようなごりゅごりゅという音が断続的に鳴り響き、相対する者の耳朶に名状し難い不快感を刻み付ける。
そうして全身を蠢かせながらも、ダンテは丹念に痛め付けられた全身へとその血肉を巡らし、回復させていく。砕かれたはずの仮面もいつの間にか再生しており、猛禽の異形を余す事無く再現している。そこにはひび割れた痕跡など何処からも見て取る事は出来なかった。
「…………」
眼前の尋常ならざる光景を眉一つ動かさずに見届けながら、フローラはこの異常者の――これは最早再生者どころの手合いでは無いはずだ――息の根を止める算段を思案する。
剣を以て首を刎ねる? ……いいや、それではきっと足りないだろう。
臓腑を粗方消し飛ばし、再起不能にする? 駄目だ。人の身では荷が勝ち過ぎる。
ならば、四肢を潰して動けぬうちに逃走する? 本末転倒だ。そもそもそれでは勝利した事にならない。
「……チッ」
あらゆる想定を否と一蹴し、彼女は忌々しげに舌打ちを漏らす。認めたくない事実だが、この相手は今の私では殺せそうもない。いや、あの様子ではバリスタやカタパルトのような攻城兵器があったとしても怪しいものだ。
……そもそも話に聞いた再生者とは、これほどまでに埒外の存在では無かったはず。せいぜいがゆっくりと傷を癒す程度で、あのように潰れたものを即座に復元出来る程の力など、秘蹟をすら超越したものだ――少なくともフローラにはそうとしか思えなかった。
「……待たせたな」
考えを纏めかねていたフローラはその声で思案を切り上げ、再び拳を構え直した。視線の先では完全に回復したダンテが既に立ち上がっており、放り出されていた直剣を拾い上げている。……どうやら時間切れのようだ。
「……あまり待ってはいませんとも。私としてはもう満足しましたので、そのまま寝ていて下さっても良かったのですが」
「ふん。人を足蹴にしておいて随分な物言いだな……」
ダンテはフローラの不遜な言葉に鼻を鳴らしたが、何故か直剣を構えようとはしない。その事をフローラは少しだけ訝しみ、眉根を寄せる。
「どうかしたのですか? 続きをするのでしょう。剣を構えなさい」
「……少し、話がある」
話があると切り出したダンテは己の戦意が無い事を示す為、弄んでいた直剣を石畳の隙間に突き立てた。そしてそのまま腕を組み、未だに構えを解かないままのフローラの顔を、値踏みするかのように真っ向から見据えた。
「お前には力がある。可能性がある。持って生まれた、非凡な才がある」
「……」
「故に、ここで刈り取るのは惜しい、私はそう思考する」
「……それで?」
「私に……協力して欲しい」
「…………は?」
聞こえてきた意外過ぎる言葉にフローラは呆気に取られた。思わず構えが緩み、復元された猛禽の仮面をまじまじと見てしまう。
今の先まで自分を殺そうとしていた相手――この私に、協力して欲しい……?
「………は、ははは、あははははっ!」
放心からようやく立ち直ったフローラから零れたのは……哄笑。
意味不明な状況に置かれた人間の発するそれは、しかしダンテには理解出来なかったようだ。
「何が可笑しい」
「……はぁ……貴方、馬鹿ですか? 私はついさっきまで貴方を殺そうとしていた相手ですよ?」
「知っている。だから、その強さを見込んでの事だ」
「死なないからって、見定め方が乱暴に過ぎると思うのですが……」
「死ななければ何とでもなるものだ」
「……まあいいでしょう。協力するとして、私に利点は?」
フローラの挑むような質問に対し、ダンテは顎に手を当て、数秒の後に答えを返した。
「私の求道の先には、苦難と闘争が待ち受けている。……それが対価だ」
「他には?」
「……利点になるかどうかは知らぬが、私の目的を話しておこう」
「貴方の……? つまらない話だったら承知しませんよ?」
「それは貴公が判断する事だ。では、他言無用に願う――」
■■■■■
――数分後。
「…………」
「――と、いう事だ。端的に言えば、私の目的は世界を――」
「…………」
「……おい。聞いているのか?」
「…………ぷぷっ」
「ぷ?」
「ぷっ、くくくく……! はははははっ!!」
「何故笑う」
「くくくっははははっ!! 貴方って、ほんっとうにお馬鹿さんですね!? あはははは!!」
「……想定外だ」
ダンテの目的――その全容を聞き届けたフローラは呆気に取られ、己の常識があまりにも矮小である事を思い知った。
そして今度こそ爆笑し、時此処に至る。
「ふっ、あははは……ふぅ……貴方のやりたい事は、よーく分かりました。そして出来得るだろうという事も、先の貴方を見れば概ね納得出来ます」
「…………」
「貴方であれば――いえ、貴方のその力であれば、この世に変革をもたらす事は出来るのでしょう」
「そうか。笑われたのは遺憾だが、理解してもらえて何よりだ」
「そして私の返答ですが……是非、協力させてもらうとしましょう。貴方の描く“楽土”とやらを、私も見てみたくなってみました」
「…………」
「この世は間違っています。改革では無く、戦争でも無く、そして神の救済でも無い。根本的な変容が必要だ――貴方の言う事は何一つ間違っていません」
「そうだ。この世は、人間は変えなければならぬ」
ダンテの言葉に「そう簡単に変われればいいのですがね……」と聞こえぬように呟きながらも、フローラは二の句を促していく。実際、彼女にとってそこは些末な問題でしかなかった。
「……それで、具体的に私は何をすればいいのでしょう? 生憎と、拳を振るう事くらいしか出来ないのですが」
「特には何も」
「……何も無いと?」
「ああ。……私が盤面をひっくり返した後、存分に暴れてくれればそれで十分だ。それだけで世界はその航路を変えていくだろう。何年先になるのかは分からぬがな……」
「……よく分かりませんが、貴方の言った事は理解しています。その意に従うように動くとしましょう」
「頼んだぞ。……終末の鐘の音が鳴り響く時、その時にローマで落ち合おう」
「はいはい。私のような者にでも分かる合図で頼みますね。……ああ、それと」
短く信頼の言葉を告げたダンテはそのまま立ち去ろうとしたが、フローラが意味ありげに右の拳を突き出しているのに気付くと、意味が分からないと言わんばかりにその場に立ち尽くした。
「…………?」
「はぁ、全く……常識とか交流とか、そういうのは大事にするべきですよ?」
その様子を見てフローラは半ば呆れながらも、眼前の異形に問うた。
「貴方は楽土に何を望む?」
「……人類に永遠の繁栄を。我々に永久なる安息を。我は楽土に望む」
ようやく意図を察したダンテは、流れるように言葉を紡ぎながら右手を突き出す。
「では、私は尽きせぬこの渇望に癒しを。闘争の為の闘争を。貴方の描く楽土に望みましょう」
ダンテの言葉に即興で合わせながら、フローラは彼の右手に拳を合わせる。
コツリと小さく音が鳴り、一瞬だけ交わった旅路は、その合図を以て岐路へと差し掛かった。
「それでは、今度こそさようなら。また会う日まで」
「……ああ、同胞よ。くれぐれも内密にな」
「当たり前です。と言いますか、こんな事を誰かに話しても気が狂ったとしか受け止められませんよ?」
「そうなのか。既に気が触れているのかと思ったのだが?」
「……貴方、足蹴にされた事をまだ根に持っていませんか……?」
「フッ、想像に任せるとしよう」
ひとしきり軽口を叩き合った二人は互いに背を向け、街道を歩み始める。
そして一度も振り返る事無く両者は進み……やがて街道の先の深緑へと消えていった。
一人は見据えた信念に身を焦がし、己が求道を邁進する。
一人は己を燃やし尽くさんとする渇望を抱え、強者を求めて戦火を彷徨う。
互いに抱える欲望の形は違えど、それに捧げる情熱は、何処か似ていた。
己の理想とする世界を蒼穹に描きながら、またこの数刻の邂逅から未知なる可能性を感じながら、彼らは別々の旅路を歩んでいく。
何気無いこの日の約定から、二人は未来の共犯者となるのだ――




