表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎の魔女  作者: 御留守
第二章 ■■■■■■■■■
38/54

第七節「贖いの火」

「―――――」


 突然過ぎる遭遇に言葉が出ない。身動き一つ取れない。

 ただただ吸い寄せられるように、見つけた人影へと視線を注ぎ続ける。


「……」


 静かに息を吸って、吐いていく。

 大丈夫だ。落ち着いて。こんな場所に来るような人間だ。私みたいに訳ありのはずだ。こんな所に隠れているのも、その証拠のはず。だからこうして用心深く観察すれば、きっと何とか出来るはず――

 痺れた頭でそんな事を考えながら、私は微動だにしない先方を観察し続けた。

 顔を伏せたまま倒木に寄りかかっているその人は、見た事も無いような色鮮やかな服装に身を包んでおり、肌は浅黒かった。肌だけ見れば、まるで船から運ばれてきた奴隷みたいだなと、我知らずそんな事を脳裏に浮かべた。

 ……しかし、奴隷であれ何であれ、この場所では私やロゼと何の違いも無い、ただの人間だ。そう思い直し私は頭を振って己を奮い立たせると、恐る恐るその肩へと手を伸ばし……掴んだ。


「……あの、大丈夫ですか?」


 手始めに声をかけながら、ゆさゆさと二、三度揺すってみる。寄りかかったままのその人は、眠り込んでいるのか、私に揺らされるがまま身体をフラフラと危なっかしく揺らす。

 そして、そのままバランスを崩して倒れ込んでしまった。

 同時にクシャリと低く生い茂った雑草に倒れ込む音。その拍子に隠れていた顔が露わになる――


「――!」


 瞬間、再び私の思考は硬直する。


 薄く開かれ、濁った両目。

 半開きで、何か言葉を紡ぐ途中で止まったままの唇。

 そこから見える、土で汚れた歯。

 同じように頬や額、顔のいたる所にこびり付いたままの乾いた土。


 そこにあったのは紛れもない死相。

 あの日。あの夕刻。嫌と言うほど目に焼き付けた……命の残滓。その成れの果て。


「はっ、はっ……う、ぐ……」


 早鐘のように鳴り響く胸を押さえ、一歩、二歩と無意識に後ずさる。

 逆流した記憶が私の頭を埋め尽くす。

 斬り潰した相手一人一人を思い出し、声無き断末魔が聞こえてくる。

 大鎌から伝った肉を斬る感触を思い出し、その悍ましさに両手が震える。

 ……見えないふりをしていたものが、堰を切ったように溢れてくる。


「うぐ、か、はっ……」


 私は堪え切れずに膝を突いた。しかし何とかそのまま踏ん張ると、倒れたままの死体を直視し続ける。そして、怪我をしている様子やそれに準ずるものが無い事を確認すると、自分を安心させるように言葉を紡ぐ。


「これは……私とは……関係、無い……っ」


 ぐるぐると濁り始めた視界を叱咤しながら、私は両足に力を込め、震えながらも再び立ち上がった。そして無造作に横たわった死体の傍へ行くと、薄く開いたその両目と唇を閉じてやった。……震える掌で触れたその肌は、驚くほどひんやりとしている。


「…………」


 次に私は横たわる死体を仰向けに直して両手両足を綺麗に整えると、そのまま死体にしては綺麗な顔をじぃっと見つめた。そうして横に座りながらしばらく見つめ続けていると、どくどくと脈打っていた身体もようやく落ち着きを取り戻していった。頭はまだ少しだけ混乱しているものの、ものを考える余裕はなんとかある……気がする。


「…………」


 ……こうして眺めていると、本当に自分と一緒の人間なのかと思うくらい肌の色が違う。着ている服も今の私なんかよりずっと豪勢な気がする。家の近所には貿易品を扱う商人もいたけど、こんな服は今まで見た事も無い。ヴェネツィアにも、ミラノにも、果てはフィレンツェやオスマンにも無かったと思う。私は服装には疎かったけど、これくらいの知識は持っている。


「……貴方は、どこから来たのですか?」


 だから、気が付いたらそんな事を死体に聞いていた。

 無論、返答は無い。死体に喋られても困る。


「私は、ついこの間までヴェネツィアの近くに住んでいて……今はなんでこんな所にいるんでしょうね……」


 だけど返答が無いのを良い事に、私は一人で会話を続けていた。

 我ながら馬鹿な事をしているなと、自虐気味に口角を釣り上げながらも、語る口は止まる事が無かった。


「海が近くにあって、美味しいご飯があって……海、分かりますか? 貴方のいたところにもあったのでしょうか。大きくて、水がいっぱいで、しょっぱくて、とてもすごいのですよ?」


 海を形容するのにこれもどうかと思うが……そういえば当たり前のもの過ぎて、誰かに説明した事なんて無かったっけ。それじゃあ上手く出来なくても仕方がないか。

 両手で膝を抱えながら、私は死体に語りかける。


「海はどうして、あんなに大きいのでしょうね……果てはあるのでしょうか……」


 私は死体に語りかける。


「貴方のいた国は……肌が黒いし、きっと南、かな? ヴェネツィアより南は太陽がもっと強いと聞きますし。それでこんなに焼けてしまったのでしょう? 海で働いていた大人達はみんな焼けると赤くなっていましたけど、たまに、こういう風に黒くなる人もいましたし――」


 私は死体に語り続ける。

 失ったものを懐かしむように。失ったものを羨むように。……延々と。


「美味しいご飯、知っていますか? 私は海で獲れる物なら大体好きでした。いつもの変わり映えのしないパンとスープに、それと父さんが持って来てくれたお魚やシュリンプとか……獲れたてのものって、海の味がするんですよ。温かくて、しょっぱくて、焼いたり煮込んだり、どうやって食べても美味しいんです」


 綺麗な死体にどことなく父さんの面影を思い出し、私はほうっと息を吐いた。似ても似つかない相手に、私は何を重ねているのだろう……


「…………」


 語る事も無くなった私は、ぼうっとしながら死体を眺め続ける。

 海と食事の話しかしていないが、今の私に話せる事なんてこれくらいだ。先生や両親、追手の話をしようにも、未だにそれらとは自分の中で折り合いがついていない。話せば少しは気持ちに整理が付くのかもしれないけど、何をどう口にすればいいのかさえ、今の私には分からなかった。

 それに、相手にも都合というものがあるだろう。厄介事を一方的に聞かされて喜ぶ人間など何処にもいないはずだ。……たとえそれが、既に死した人間であろうとも。


「さて、と……」


 しばらくそうして時間を潰した私だったが、次にはある決断をして死体へと向き直った。

 ……脳裏に散って逝った数多の人達を思い浮かべ、言葉を投げかける。


「話を聞いてくれたお礼です。ここで朽ち果てるのも無念でしょう」


 この人をこのまま捨て置くのは忍びない。私に出来る事をしなければ。

 身体が、魂が腐り落ちていくその前に。不浄なる有象無象に蹂躙されるその前に。

 ……憐れなる迷い子へ。私の出来得る救済を。


「……私が貴方を看取ってあげます」


 その言葉を皮切りに、私は死体から一番目立つ物――金色の複雑な装飾品を剥ぎ取り、倒木の枝へと掛けた。

 そして次に死体の両手を握ると、自身の炎をじわじわと送り込んでいく――


「朽ち逝く死者に、慈愛の炎を」


 労わるように言葉を紡ぐ。

 これから初めて行う事に怯え、ひどく緊張したが、不思議と身体は震えなかった。


「寄る辺無き骸に、永遠の安息を……」


 伝う炎が服を燃やし、皮膚を燃やし、骨を燃やし、湧き始めていた蛆や蝿をも焼き尽くす。

 辺りには最早嗅ぎ慣れた人の焼ける異臭が立ち込めていくが、私はそれらを努めて意識しないよう、己の責務を終える事だけを考えた。


「これは贖罪……罪の炎……あの日置き去りにした数多の魂へと手向ける、鎮魂の狼煙……」


 燃える臭いに泣きそうになりながらも、私はあの夕刻の死者達へと思いを馳せる。


 目の前で頭を割られた浮浪者。

 目の前で瓦礫に飲み込まれていった奴隷の人。

 何処かであの化物達に襲われたであろう人達。

 そして、私が自分で斬り潰した数多の死体。父さん。母さん。


「遅くなってごめんなさい……でも、私は絶対に忘れないから……」


 誰とも知らない死体と過去の犠牲になった誰かを重ねながら、私は己の罪を焼き尽くしていく。


「ごめんなさい……救えなくて、ごめんなさい……」


 過ぎ去った全てに謝りながら、眼前の死体を燃やし尽くす。

 次の刹那、首が焼けてぐにゃりと傾げ、私は焼け続ける顔面を直視した。


「――――」


 その穏やかな死相はどこか満足そうで、けれど寂しそうで……まるでこれから一人で旅立つ事への不安を抱えているかのようだった。

 私は彼を安心させようと、無理矢理微笑んでみせる。


「大丈夫。もう苦しむ必要は無いのですよ……」


 物言えぬ骸はその瞼を開ける事も、閉じた口を動かす事も無いままに、呆気無く焼けて落ちて灰になった。


 人型に残った灰の山を見ながら、私は燻ぶる炎を落ち着かせようと、ただじっとその場に座り続ける。


 これで少しは救われただろうか。

 死んだ人間にこんな事をして、本当に良かったのだろうか。

 いや、そもそもこんな所に来た人間だ。私が覚えておいてあげないと。

 でも、もっと他に良い方法があったかもしれない……だけど、私にはこれ位しか――


 ぼんやりとそんな事が頭に浮かんでは消えていく。

 後悔とも達成感とも程遠い、得体の知れない後味の悪さだけが澱のように残っている。

 取り留めのない思考はぐずぐずとその場に残る私を蝕み、頭の中に黒い染みを作っていくかのようだった。

【贖罪】

・犠牲や代償、または善行を捧げて罪を贖う事。罪滅ぼし。

・キリスト教に於いて、神の子は十字架にかかって犠牲の死を遂げた。その事によって人類の罪は償われたのだという。

・これに神の愛と慈悲を見出すか、それとも与えられた怒りと罰を理不尽と思うのかは解釈が分かれる所だろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ