第六節「閉じた場所」
「ん、しょっと……」
己に巻き付いた葉っぱを剥がし、怪我の具合を確認する。
先ずは左腕。未だに肌こそ赤くぐずついてはいるが、痛みは殆ど残っておらず、何も問題無いように思える。多分噛まれた場所も良かったのだろう。これが肘や手首といった関節だったら、もっと治るのに時間がかかったかもしれない。いや、そもそも完治しなかった可能性もあり得る。
次に両足。こちらは腕よりも程度が軽い。ロゼが剥ぎ取ったと言った靴の跡も、ざっと見た感じでは見て取る事が出来ない。足の指を曲げてみたり、足首をぐりぐりと動かしてもみたが、こちらも特に問題無さそうだ。
私は数日振りに立ち上がろうとして……そしてふらつきながらも何とかそれを為し終えた。横ではロゼがハラハラと見守っているが、きっといつもの心配性だろう。この数日、彼の献身ぶりは身に染みて分かったつもりだ。
片手を上げて大丈夫だと意思を伝えると、私は唯一ある扉の前へと歩いていった。
「それじゃ、ロゼ。少し外を見て来てもいいかな?」
「……わかった。きをつけて」
少し残念そうに私の無事を伝えてくる彼を安心させようと、私は言葉を継いだ。
「ちゃんと、戻って来るから」
「ん……」
「ご飯、またあると嬉しいな。一緒に食べよう?」
「……うん。まってる」
私の言った事を聞いて安心したのだろう。ロゼは白い頬を少しだけ朱に染めると、控えめに手を振ってくれた。それが何だか可笑しくて、私も自然と笑みを返した。初対面の時こそ警戒したけど、彼はきっと悪い人では無いはずだ……そうであって欲しい、と思う。
「…………」
白き同居人に言葉を残し、私は意を決して扉を開け放つ。
ギィと扉が軋む音を立てる。数日の隔絶を経た外界が、私の視界に飛び込んできた――
「――!」
目の前に映る一面の緑色。耳朶に入り込むは揺らめく木々のざわめきのみ。
ただただ全てを包み込むような自然が、私の目の前を埋め尽くしていた。
「確か、私が歩いてた所は枯れ葉が積もってたはず……?」
小屋の中の窓から時折青々とした葉っぱが入り込んで来ていたので、そうなのかと思ってはいたが……実際にこうして目にすると、やはり違和感がある。まるで自分だけが時を越えてしまったような、そんな感覚。
(ロゼはあらゆる場所に繋がると言ってたし、季節というものが無いのかも……?)
一歩二歩と恐る恐る小屋の外に出ながら、私はぐるりと辺りを見回してみる。
先ず目についたのは井戸だ。石造りの控えめな造りのそれは、私一人が入るのがやっとな程に小さい。だが木製の滑車と釣瓶、それを繋げるロープが備わっているのを見るに、果たすべき機能を十全に満たすものである事は見て取れた。試しにロープを引っ張ってもみたが、からからと滑車は軽やかに動いた。そうして引き上げられた桶の中を覗いてみると、澄んだ水が入っている。どうやら枯れている訳でも無さそうだ。
「ふーん……って、あれ?」
そうして一通り確認し終えた後、何気無く振り返った私は新たな事実を発見した。
「この小屋、意外と小さかったのね……」
中から眺めていた時はあんなにも天井が高かったのに、こうして眺めてみると随分と小ぢんまりとしている。それに多分寝込んでいる時間が長かったからだろう。高い天井を見続けた為に、そういう場所なのだと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
(それに、他の家とかも無いみたい)
自分が出た小屋と井戸以外に何か無いかと再び見回してみたが、特に目ぼしいものは無い。目に付くのは鬱蒼と茂った木々と、低く生える草や茂みばかりだ。此処をこれ以上探しても何も得るものは無さそうだった。
「……少し、足を伸ばしてみましょうか」
誰に伝えるでもなくそう呟くと、私は周囲の探索を開始したのだった。
「……」
……そうして歩き出した私だったが、しばらくしてその歩みを止める事になる。
「川だ……」
眼前を覆い尽くす森林から一転、突如開けた視界に飛び込んで来たのは、さわさわと流れる清流だった。河原の先の穏やかに変じていく川のうねりは、見る者の心をどこか落ち着かせる程に静かで、それでいて重々しい。……それだけであれば良かったのだが、この川は様子がおかしかった。
(霧がかかって……対岸が見えない?)
そう。川の途中からまるでミルクのような濃霧が垂れ込めていて、その全容がまるで掴めなかったのだ。試しに手近に転がっていた石を霧の先に投げ込んでみたが、音も無く飲み込まれてしまった。さざ波一つ立たないその様は、まるで先の見えない虚空がぽっかりと目の前に開いているかのようだ、
「どこへも行く事は出来ない、か……」
ロゼの綴った文字を思い起こしながら、私は目を凝らして霧の中を見続けた。しかし、いや、やはりと言うべきか。何一つ見出す事も出来ぬまま、いたずらに時間だけが過ぎていく。
流石に時間の無駄だと判断した私は、川の下流に行けば何処かへ出られるのではないかと思い立ち、流れに沿って歩いてみる事にした。見たところ、川は私から見て右から左へと流れ続けている。辺りを見ると流れ着いたと思しき大きな倒木があった。これを帰る時の目印として覚えておこう。何も今すぐここから出て行きたいという訳では無いのだから。
「何はともあれ、やれる事はしておかないとね」
うーん、と一つ伸びをしてから、私はまだ見ぬ場所へと再び歩き始めた。
ザクザクと河原の砂利を踏み締めながら、下流への道をひたすらに歩く。
歩きながら周囲の観察もしているが、この河原には流れ着いたと思しき物品が大量にあった。
ひしゃげ捻れた、鉄製または木製の生活用品の成れの果て。建築材らしき木材の破片。悪臭を放つ生ゴミの山。見た事も無いような動物の死骸。そしてガラクタとしか形容出来ない、その他殆どの有象無象――
「まるでゴミ捨て場ね……」
気が付いたら私は吐き捨てるようにそんな事を呟いていた。でもその理屈だと、私も……
「私もおんなじ、廃棄物……か」
己の考えにハッと自嘲気味の苦笑が漏れる。
だがきっと、それも当然の事なのだろう。つい先日社会から鼻つまみ者、いや、排除すべき害悪として殺されそうになったのだから、こんな場所に来る資格は十二分に持ち合わせているはずだ。あの時死にかけていた事だって、多分それに拍車をかけた気がする。
退屈紛れに転がっていた甲冑の兜と思しき何かを蹴飛ばしながら、私は下流へ、下流へと足を向け続ける。
そして――
「……あれ?」
もう何度蹴飛ばしたのかも定かではない兜の先を目で追うと。
いつか見た大きな倒木が、再びその姿を見せたのだった。
「…………」
何かの間違いだろうと思い倒木に駆け寄るも、その形、枝の伸び方、大きさ全てが先の私の記憶と一致する。絶対に、これは見間違いなんかでは無い。
私は下流に進み続けた結果、上流から戻って来たのだ。
……これが意味する事はただ一つ。
「この川は、ぐるりと無限に循環している……?」
あり得ない結論だとは思うけど、実際にそうとしか考えられなかった。ひょっとしたらあの霧の先から別の流れと繋がっているのかもしれないが、現時点では調べようがない。どれだけの川幅があるか、深さがどれ程なのかも分からないのだ。調べるにしても、それなりの準備が必要だろう。
……それにしたって、水は上から下へ流れるというのは誰でも知っている道理ではあるけど、まさかこんなインチキみたいな場所があるなんて……
「いや、でも、ううん……あり得る……のかな……?」
よく考えてみたら、海だってそうだ。寄せては返す波の流れも、小さい頃からずっと不思議だったのだ。何故誰も何もしていないのに、満ちては引いてを繰り返すのだろうと。何故天気が荒れると、海もまた同じく荒れ狂うのだと。
「大きさが違うだけで、ここも海みたいなものなのかしら……」
懐かしい海の記憶を脳裏に思い起こしながら、私は自分を強引に納得させた。……この場所がどう出来ているのかは、あまり気にしても仕方がない。どういう場所であれ、此処で生きていかなければならないのだから。
「……それにしたって、見間違いじゃない、よね……?」
しかし、それでも疑念は払拭しきれなかったので、私は念入りに倒木を調べてみる事にした。
「枝も、太さも、こうだったはず……うん……」
近寄ってぺたぺたと木の肌を触りながら、私は自分を納得させるように呟きを漏らす。
そうして先程見た場所以外の所も見てみようと、何とはなしに影となっている裏側も覗いてみる。
「――!?」
そこでまたしても私は、今日何度目になるのか分からない発見をする事になった。
「……ひ、と……?」
木影にうずくまるようにして、何者かがそこに隠れていたのだ――
【井戸】
・地下水を汲み上げる為、地面を深く掘った設備。稀に温泉や、石油等も。
・中世の都市、城に於いて、飲み水の確保は最優先で解決すべき課題だった。その為、井戸の作成にかけられるコストもまた最優先で割り振られていた。
・南ドイツ、ハーフブルク城の井戸の深さは百メートルを優に超える。この事からも、彼らが如何に重要視していたかが窺えるというものだ。
・余談ではあるが、井戸を確保できない貧しい領主は水槽に雨水を貯める事で水を確保していたらしい。




