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炎の魔女  作者: 御留守
第二章 ■■■■■■■■■
34/54

第三節「白き邂逅」

 ぐるぐると。ぐるぐると。目の前を赤黒い渦が惑う。

 ゆっくりと廻るソレは、千切れ、繋がり、ごぼごぼと泡立ちながら、常にその形を変え続けている。

 まるで濁った血の塊が、行き場を求めて彷徨い続けている様ように。延々と。延々と。

 私は身動きする事も、目を閉じる事すらも出来ずに、何処かへ横たわりながらその光景を眺め続けている。


 ……これは夢なのだろうか。

 不意にそう思う事もあったが、そんな思考もすぐに掻き消えた。……私は今、とても疲れているのだ。考える余裕すら無い。ぼんやりと濁った血の螺旋を眺める事だけ、それだけに集中していたかった。……何故かこの光景は私の心を落ち着かせてくれるからだ。赤黒い渦が私の中の炎を想起させるからだろうか。

 いや、それすらもどうでもいい。考えるのが、とにかく面倒だ。


(…………)


 ぐるぐると。ぐるぐると。目の前を紅い螺旋が惑う。


 ……気のせいだろうか。少し前よりも、赤の度合いが増えたような気がする。

 よくよく観察すると、何処からともなく現れた鮮血のような赤が、のたうつ赤黒を飲み込んで行っているようだった。黒々としたうねりに次々に赤が加わっていくと、目の前はまさしく炎が猛るかのように色鮮やかに色付いていく。


(…………?)


 そうして情景が色付いて行くと同時に、私の思考もまた活力を取り戻していく。それと同時に身体も僅かながら動かせるようになった様で、私は堪らず身を捩った。

 ドクンドクンと音が聞こえる。荒く息を吐く声が聞こえる。

 試すように瞼をゆっくり閉じて開いて、それを二回ほど繰り返す。


 ……それにしても今見ているこの光景は何だろう。うろ覚えだけど、確か私は森の中で探し当てた川で休憩をして……それからどうしたんだっけ。人心地がついて、突っ伏して……後の事は覚えていない。となると、私は今もあの川沿いで倒れているという事だろうか。


 ――もしそうならば、今此処でのんびりしている場合ではないんじゃないだろうか……?


(…………!)


 そうだ。あの森には狼達が居たはずだ。私がこうしてぼんやりとしている間にも、彼らが私に再び襲いかかって来ないとも限らない。折角一度は追い払ったというのに、それでは意味が無い。止むを得ず燃やした()の立つ瀬が無い。命を繋いだ努力が全て水の泡となってしまう。


 ようやく事此処に至って、私は自身の置かれた状況を正しく理解したのだった。


「――――」


 得体のしれない焦燥に突き動かされるように、私は上体を上げて両目を見開くと、眼前の紅い螺旋を凝視する。

 ……しばらくそうして見ていると、螺旋は円弧を描く速度を徐々に上げていき、蠢く黒はその奔流に飲み込まれていった。赤の螺旋は速度を更に上げ……最後には荒ぶる一つの炎となっていく。


 ごうごうと燃え盛るソレに向かい、私は右手を伸ばす。


 熱く燃える奔流が、(かいな)を伝って私を燃やす。

 しかし燃え盛る灼熱は私を焼き尽くす事はせず、まるで温めるように全身へと薄く這った。

 それはまるで炎の祝福、その抱擁。

 愛し子を抱くように、内なる炎は主たる私へと口付けを交わす。

 それに身を委ね、次第に白く変じていく視界を嬉しく思いながら――私の意識も白く霞み、やがて消えていくのだった……



■■■■■



 いつの間にか閉ざされた瞼を開き、身体を起こす。


「――! っつぅ……!」


 だが同時に起こした上体から激痛が伝わり、私は苦悶の呻きを漏した。呻きながら無意識に呼吸をするも、その度に身体の内から別の鈍痛が響いて来る。このじりじりと火傷したような感覚、恐らくは骨ではなく肉の方だろう。どっちがマシなのかは分からないけど、取り敢えずは両方痛む。


「はっ……かはっ……」


 遠のきそうになった意識を何とか抑え付けると、私はこの痛みの奔流をやり過ごそうと努める。身体を両手でかき抱き、刺激を最小限にするため呼吸は深く長く。俯いた顔からは脂汗が何度も伝ったが、これは生きている証なのだと必死に自分に言い聞かせる。これまでは汗を気にする余裕すら無かったのだ。この程度であれば生ぬるいとさえ言えた。


「すーっ……はーっ……」


 深く長く。息を潜めるように。身体に潜む痛苦を宥めるように。


「ふーっ……」


 眼前の視界はおぼろげで、まだ私がどういう状況にあるのかはよく分からない。分からないものは仕方が無いので、取り敢えず固く目を瞑った。

 ……だが、これだけは判断出来る。

 目の前の明るさから今はどうやら昼のようで。

 そして、私は何か暖かなものに包まれているのだろう、と。


 そうやって自分の身体を落ち着かせる事幾許か。


「…………」


 どれ程の時間が経ったのかは分からないけど、私はようやく落ち着きを取り戻したのだった。

 身体を押さえる両手を解き、ゆっくりと顔を上げていく。

 ようやく晴れた視界に入った光景は、私の予想だにしていないものだった。


(……ここ……どこ……?)


 目の前に映るは木組みの壁、扉、棚、椅子にテーブル。どうやら何処かの部屋に私は連れて来られたように見受けられる。部屋の広さはそれ程では無く、端から端まで歩けば十歩もかからない程度。しかし、人が暮らすには十分な広さだ。

 上を見れば同じく木組みの天井が雨風を遮るように敷き詰められており、その近くの壁には小さい開け放しの窓がお情け程度に(しつら)えてある。

 視線を再び横に戻す。

 木組みの棚の中には図書館で見た本の背表紙のような物がずらりと並んでいる。そしてその上の段には瓶や桶、それらが無造作に置かれていた。透明な瓶の中には丁寧に手折られた花や良く分からない何かが入れられていて、それだけでこの棚を使う人の几帳面さが見て取れる。

 テーブルの上には水桶と布巾、それと良く分からない植物が少々、ナイフと一緒に置かれている。……どうやら私以外にも使っている人がいるようだ。十中八九、私を此処に連れてきた人だろう。


 一通りの観察を終えた私はここまでの情報を振り返り、こう結論付けた。


「うん……取り敢えず、大丈夫みたい……」


 ……此処には私を脅かすものは無い。

 あの川のほとりで気を失って、どうして此処まで連れて来られたのかは全く分からないが……私は生き延びている。


「うっぐ……」


 たったそれだけの事で、どうしようもなく安堵した。安心した。

 ここ数日のひりつくような不安から逃れられて、それだけで堪え切れずに涙が込み上げてくる。

 ……そしてそれは、程無くして決壊した。


「う、うっ……」


 声を殺し、零れる涙を両手で拭う。

 ガサガサとかさついた指が涙で痛くて。でも、それが不思議と嬉しくて。

 私は泣きながら、生きている実感を噛み締めた。


 だが、そこへ――


 ギィと扉が軋む音を立て、次に木床を踏む足音が一つ二つ。

 足音はゆっくりと私の近くへ近寄ると、すぐ近くで止まった。


「…………」


 ぐしぐしと涙を拭く手を止め、私は足音の主を見ようと顔を上げる。

 見上げた先には緑色の裾の長い外套を来た何者か。

 外套から伸びたフードを目深に被っており、その顔は判然としない。


「――――?」


 不意に、彼――いや彼女かもしれない――は声を上げて、私の顔を覗き込んだ。フードの下からその相貌が露わになる。


「……!」


 その刹那、私は息を飲んだ。

 私を見るその顔はとても白く、今まで見たどの人間よりも美しく整っていて。

 そして、その両の目は赤く、まるで鮮血の如くに紅く色付いていた。


「――」


 息を飲み、射抜かれたかのように凝視する私を余所に、彼はまた言葉を発した。

 凛としたか細い声は美しく、けれど耳に届く言葉は私に馴染みの無いものだ。町で聞いた事はあるかもしれないが、こんな言葉を使う身近な知り合いなど一人もいない。


「え、っと、その、言葉が、分からない、です……」


 困った私は辿々しく返事をするので精一杯だった。

 でもそれを聞いた彼は、何か納得した風に小首を傾げた。

 その拍子にさらりと衣擦れの音が聞こえ、フードの下から絹のような長い銀髪が零れ出る。

 そしてえほんえほんと二度咳を払うと、再び私へと挑むように話しかけてきた。


おはよう(Ciao)


 ……これだったら分かる。


「おはよう、ございます……?」

「……!」


 返事を返すと、目の前の彼はぱあっと喜色を浮かべ、目を細めて笑った。

 そしてまた楽しそうに話しかけて来るのだ。……自分自身を指差しながら。


「私、私は」

「は、はい」

「私は、ロゼ」

「ロゼ」

「うん。ロゼ」


 どうやらこの人はロゼという名前のようだ。

 ……私も、名前を教えないと。自分を指差して、痛む喉から声を振り絞る。


「私は、ベアトリーチェ」

「ベ、べあ……?」


 ……少し発音が難しいのかもしれない。


「……いや、ビーチェでいいよ」

「……?」

「私は、ビーチェ」

「ビーチェ?」

「そう。ビーチェ」

「ビーチェ!」


 略した名前を教えると、ロゼはまた嬉しそうに笑った。良く笑う人だ。私と会えてそんなに嬉しかったのだろうか。こんな死にぞこないの、血の臭いのする人間など誰にも歓迎されない筈なのに……

 しかしその優しさに(ほだ)されたのか。はたまた、久し振りに人と言葉を交わした為か。それともこの純朴な相手がそうさせたのか。

 ……私もまた、知らずに口を綻ばせていたのだった。


【ヴェネト語】

・ヴェネツィア共和国で使われていた言語。ビーチェの話す言葉。

・共和国の発展と共に在った言語だが、後の世に崩壊すると、ヴェネツィアではイタリア語が基本言語となった。しかし、誇りあるヴェネツィア国民は世界に移住すると、ブラジル、メキシコ、ルーマニアといった移住先でヴェネト語のコミュニティを構築した。

・共和国時代のヴェネト語とイタリア語の一方言としてのヴェネツィア方言は、基本的に別物として扱われているようだ。

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