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炎の魔女  作者: 御留守
第二章 ■■■■■■■■■
33/54

第二節「暗闇の中で」

 月が落ちて、太陽が昇る。昇る太陽は見る者全てに暖かさと活力を振り撒きながら、中天を目指して登り続ける。そうしてじわじわと地上を照らした太陽が頂点に達した後、役目を終えたとばかりに満足したように落ちていくと、空は青から赤へ、やがて深く沈むような黒へと変じて行く。

 陽の落ち暗く色付いた空の庭園では、星々がまるで我々は最初からそこにいたのだと、さも当然と言わんばかりに広がっている。それと同時に月が再びの出番を待ちかねたかのように、しかしおずおずと控えめに顔を出す。

 それらの自然の大原則とも言うべき循環が、町を出た夜から一巡した頃。


「…………」


 私の身体は限界に達していた。

 歩き通しで全身の感覚は既に無い。痛みも、疲れも空腹感も、何も感じない。霞みがかった視界は酷く見にくく、目を凝らさないと輪郭を捉えるのも一苦労だ。

 その代わりに耳に聞こえる音はこれでもかと言わんばかりに研ぎ澄まされていて、そのおかげで無用な人との接触やその他の危険からは逃れる事が出来ていた。代償として遠回りや物陰に隠れる事も何度かあったが、仕方の無い事だ。


「……は……っ」


 今は道中で拾った木の棒を杖代わりにしながら歩いているものの、元気であった最初の頃と比べると、歩く速度は半分程度になってしまっている。体感なので合っているのかは分からないけど、きっとその位だ。でもこれも些細な問題だろう。……何時間かかろうと、いや何日かかろうとも、私はただ生き延びるだけなのだから。


「……えっ……うっ……」


 唐突に来た、喉からせり上がってくる何か――最早何度目かすら覚えていないそれを必死に押し留める。杖を持たぬ方の手で口を塞ぎ、出て来たとしても絶対に見ないよう固く目を閉じた。

 しかし、今回もそれは杞憂に終わったようだ。私は全力を尽くして喉をごくりと鳴らすと、込み上げる何かをなんとか嚥下(えんげ)する。……飲み下した口の中はどろりと酸っぱく、あの時と同じ鉄の味がした。


「えほっ……げほっ……」


 後に残った気持ちの悪さに何度か咳き込むも、私は歩くのだけはやめなかった。これでもう一昼夜丸々歩き通しとなっている訳だけど、不思議と休もうとか、ご飯が食べたいなどとは思わなかった。

 ……いや、思わなかったのではなく、きっとそう思えなかったのだろう。此処で足を止めたらもう歩き始められないのだと、此処で野垂れ死ぬのだと、本質的に理解していたのかもしれなかった。


「…………」


 霞んだ視界に難儀しつつも、私は歩きながら目の前に広がる光景を眺め続ける。

 その先には暗く染まった視界に、おぼろげながらも黒く刻まれる情景。

 耳に届くはさざめく無数の葉揺れの音。木々が揺れ、擦れ合う旋律。……もうすぐだ。もうすぐで――


(あと少しで、山の麓、その森に……)


 譫言のようにそれだけを思いながら、歩き続ける事幾許か。

 ……とうとう私は最初の目的地へと到達した。


「は……あは……はあっ……つい、た……」


 成し遂げた達成感に自然と笑みが零れる。しかし疲弊した身体では笑う事もままならず、ぎこちなく口を歪めて僅かに息を漏らすのがやっとだった。


「は……ふぅ……」


 一呼吸の間の僅かな休憩を挟んだ私は、誰もが震えあがるような黒々とした深闇の森へ向かい、嬉々として入り込んでいく。本当であれば昼間に入る方が危険も少なく、賢明なのは分かってはいたが……この時の私は疲れ切っていた。誰かに追われているのではという恐怖や、行く当てが無いというどうしようもない不安が、私の心を追い立てていたのだ。

 だから、これが悪手だとは頭の片隅で理解しながらも……立ち止まらずに足を進めるしか無かった。

 黒々とそびえ立つ木々の合間を抜けながら、私は月光を頼りにその中へと入り込んでいく。

 道に積もる枯れ葉を掻き分ける事さえ、今の疲れた身体には酷く堪える。それに枯れ葉の下はジワリと湿っていて、用心しないと突き立てた杖が滑ってしまいそうだった。幸い転ぶ事は無かったものの、街道を歩くよりもずっと心身共に消耗していった。


「…………」


 歩く。歩く。ひたすらに歩き続ける。

 ざわざわと風に揺れる葉擦れの音がうるさい。隙間からか細く届く月光は酷く頼りない。地面には無数の枯れ葉や、朽ちた倒木。目印となるようなものは特に見当たらない。周りを見ても同じような木々がそびえ立つばかり。


「あっ……」


 ……ここに来てようやく、私は自分が遭難した事に気付いた。

 立ち止まり、一瞬だけ暗澹とした気分に陥りかけるも、すぐに持ち直した。何故なら――


「遭難なんて、今更じゃない……」


 暗黒の森の只中で、私は自嘲気味にハッと笑った。

 そう、遭難なんて今更なのだ。あの街を逃げ延びてからこっち、こちとら人生に遭難している。この程度、なんて事は無い。

 ……それにしても今回は上手く笑えたようだ。自虐する時だけ上手く笑えても仕方がないと思うけど、こういう性分なのかもしれない。


(それにしても、さっきから……)


 自分の意外な本性を発見しつつも、私は更なる発見、いや、新たなものに気付いていた。立ち止まる事はせずに、辺りをサッと盗み見る。


(光……?)


 視界の端に移るは、星々のような数多の瞬き。

 しかし、それらは天上に在らず。時折明滅を繰り返しながらも、時に下から、時に真横から。彼我の距離は定かではないが、一定の速度で動きながら、こちらを窺うように付いて来る。


(猫……じゃない。犬……? 豚、って訳でも無いし……)


 私は自分の乏しい知識を総動員させ、あの光の正体を推測する。確か、犬や猫は暗闇でも目が光っていたような、そんな気がする。夜の外出なんて殆どした事が無いから見た事は無いけど……誰かがそう言っていたような……でもそうだったら、私に付いて来る理由は、一体……?


 そんな風に静かに推察する私など関係無く、それは突然起こった。


「……!?」


 不意にガサガサと枯れ葉を踏み荒らす音がしたかと思うと、何か大きなものが私の真横――死角になっていた場所から襲いかかってきた。対応する事も出来ず、私はそのまま押し倒されてしまう。


「■■――!!」

「ぐっ……!」


 短く咆哮を上げながら襲い掛かって来た何者か。月光に照らされた相手が、その姿を夜闇からさらけ出す。

 それは私にとって見覚えのある姿をしていた。鋭く尖った顔付き。ギザギザと長く伸びた歯と爪。全身はゴワゴワとした毛に覆われており、長く引き締まった四肢は長く野を駆ける事に特化している。


(犬……!?)


 そう。私が今まで見た事のある動物の中では、まさに犬と称するより他に無いものが、目の前でその獰猛な犬歯を剥き出しにして唸っていた。

 いや、犬にしては大きすぎる。この今まさに私へと喰らい付こうとしている獣の大きさは、私の背丈を越えるか超えないか、それ位はある。確か、狼という犬に似た動物が存在するとは聞いた事があるけど、それがコレなのだろうか?

 ……それにしたって、何を食べたらこんなに大きくなるのだろう。町には痩せこけた犬ばかりだったような気がしたけど……


(って、そうじゃない……!)


 呑気に観察している場合ではない。そう思った次の瞬間には、相手は私の喉笛目がけて喰らい付いて来た……!


「っ……!」


 咄嗟に左腕で喉を庇う。それにも構うことなく、相手は私の腕へとその牙を深々と突き立ててきた。死にかけていた感覚が息を吹き返し、激痛が左腕を伝う。


「がッ、ぐぅ……この……!」


 引き剥がそうと噛み付かれた腕を振るうが、一向に離れそうもない。むしろより深く牙を突き立て、まるで死ぬまで離さないと言わんばかりだ。そうこうしている間にも、私達の周りからは複数の地を駆ける音が聞こえてきている。十中八九、コレのお仲間だろう。加勢に来られたら不味い。早く何とかしないと――


「くっ、ああああっ!」


 私は意を決して相手の頭へと右手を伸ばした。ふがふがと鼻を鳴らしながら喰らい付く相手は、これにもやはり意に介さず、射抜くような鋭い目付きでこちらを睨み続けている。そんなに私の肉が喰らいたいのか。この畜生は。


 ……ならば、その悪食こそが命取りなのだと、その身に刻んであげるとしよう。


 伸ばした右手で鼻先を掴み――叫ぶ。


「――燃えろッ!」

「■■■■――――!?」


 眼前で炎が爆ぜ、毛を、血を、肉を、焼き尽くす。

 全霊を込めた一撃は一瞬で相手の眉間を吹き飛ばし、罪無き生命を即座に刈り取った。

 ……だが私も無事ではない。


「ぐっ……ごふっ……!」


 炎の反動からか、今まで抑えていたものが溢れ、口から赤い奔流となって吐き出される。びちゃびちゃと命だったものに降りかかり、その骸を紅く染め上げた。

 私は朦朧とする意識をなんとか繋ぎ止めると、半ば露わになった足で足元を一つ踏み締め、周りの枯れ葉へと内なる炎を伝播させていく。バチバチと爆ぜる音が風に乗り、暗闇に眠る森を明るく照らす。

 その私の異常な変化に驚いたのか、周りで盛んに聞こえていた足音は鳴りを潜め、代わりにバウバウと吠える声が私を囲むように広がっていった。


「う、るさい……! 私に近寄るな……ッ!」


 負けじとその声目がけて吼え返し、木立の合間を睨め付ける。それで向こうも気勢が削がれたのか、吠える声は唐突に止むと、静かに駆ける複数の音がして……やがて何も聞こえなくなった。

 ……後に残されたのは、無残な死骸と、焼けたものの跡と、息も絶え絶えな私だけ。


「うぐっ……むうっ……」


 安堵した私は左腕に噛み付いたままの死体を右手だけで離しにかかる。がっちりと組み付いた歯は恐ろしく深く刺さっていたが、数分ほどの悪戦苦闘の後に何とか引き剥がす事に成功した。だが、傷口からは夥しい量の血が止め処無く流れたままだ。

 命の危険を感じた私は、咄嗟に右手を左腕の傷口にかざし……それを、焼いた。


「ぐっ、ううううぅっ……!!」


 じゅうじゅうと自分の焼ける臭いがする。酷く不快で、厭な臭い。だけど必要な事だから、仕方ない事だから……

 脂汗を垂らしながら、私はその荒療治を何とか耐え抜いた。赤く焼けた左腕は無残なものだったけど、取り敢えず血は止まった。もう、大丈夫。


「はあっ……! はああ……! あっああぁ……!」


 危機を脱した私は喘ぐように呼吸を繰り返す。そうして身体を落ち着かせながら、近くに落ちているはずの杖を手探りで探した。しばらくしたら無事に目当ての物も見つける事が出来たので、私は再び歩き始める事にした。

 カツンカツンと杖を突き、危なげない足取りで足を運ぶ。喉に詰まったものを吐き出したせいか、さっきよりも具合が良い。それに危険な出来事もやり過ごす事が出来たのだ。もう何も怖い事なんて無い。そう思うと、自然と笑みが零れてきた。


「うん、じゅんちょう、じゅんちょう……は、は、あははは……」


 ぼんやりとした頭でそれだけを思いながら、森の奥へと分け入っていく――



■■■■■



 ……だが。いや、当然と言うべきか。

 順調なものなど、最早望むべくもなかったのだ。


「うあ……ああああっ……」


 身体が寒い。身体が重い。前が見えない。息が苦しい。

 一時の調子の良さなど数分後には無残に砕け、後には以前とは比にならない痛苦が残された。

 それでもと呻きながら足を運ぶが、目の前に光明など訪れない。歩けど歩けど、見慣れた木立が行く先に広がる。違いなどとっくに分からない。道も分からず、闇雲に足を運び続ける。


「あっ――」


 ……しかし次の瞬間には杖が地面を滑り、そのまま私は盛大に転んでしまった。受け身を取る事も出来ずに、身体を強かに地面へと打ち付けてしまう。


「い、たい……」


 身体を起こそうとしたけど、手に力が入らない。見れば自分でも可笑しくなるくらいに震えている。……でもそれも当然か。こんなに寒くて、痛くて、苦しいのだから。


「いたいよ……とう、さん……」


 思わず零れた弱気な言葉に、私は失くしてしまったものを思い出す。……何を甘えた事を言っているんだろう。自分で斬り殺したのだから、居る訳が無いのに。


「…………」


 口を衝いて出たものを心の内で恥じながら、せめて震えだけでも早く治まらないかと、地面に横たわったまま虚空をじっと睨んで過ごす。だがいつの間にか曇った空は何かを映す事も無く、ただいたずらに時間だけが過ぎていった。


「…………?」


 しかし、まんじりと時間を浪費する私の耳に、さらさらと何かが流れるような音が滑り込んで来た。首を振り、音の出処を何とはなしに探してみると、どうやら地面を伝って聞こえているようだった。この音は何だろうか……?


「…………」


 地面に耳を押し当てながら、私は音の大きくなる方へとじわりじわりと這って進んでいく。地面に服が擦れて土塗れになっていくが、この際どうでもいい。むしろ血生臭さが消えて丁度良い位だ。

 そうして時も忘れる程に熱中して音を追い続ける。その結果――


「み、ず……?」


 私はコンコンと流れる川のせせらぎへと行き着いた。思いもよらぬ発見にしばし呆然と見つめるも、やがて火に集う羽虫のようにふらふらとその清流へと近付いていく。


「…………」


 さわさわと流れる川の流れが、星の瞬きを反射してとても綺麗だ。その一つに触ろうとして、私は手を伸ばす。

 水面に触れた指先は、しかし星々を掴む事も出来ず、暗い水面に波紋を刻んだ。


「つめたい……」


 ヒンヤリとした清流が、澱のように溜まった疲れを癒してくれる。私はその水を掬い上げると、痛む身体へと流し込んだ。


「んっ……あ、んんっ……」


 二度三度と飲み下すと、忘れていた充足感で心が満たされていく。それでも身体が満足するまで水を飲み続け、十分に飲んだところで焼けた左腕を水に漬ける。一瞬だけじゅうっと湯気が上がったものの、すぐにそれも落ち着いた。冷たく慈愛に満ちた感触が、痛みさえも取り除いてくれるようだった。


「きもち、いい……」


 しかし、そのあまりの慈悲深さに安堵した私は……


「く、うぅん……」


 安心のあまりに意識を手放してしまったのだった。



■■■■■



「―――――」


 ……そして、それを見ていた者が一人。

 動かなくなった異邦の少女の近くへと慎重に近寄ると、


「…………?」


 思案するように、値踏みするように。紅い目でそのあどけない寝顔を見つめるのだった。


【狼】

・イヌ科イヌ属に属する哺乳動物。北半球に広く生息し、多くの亜種を持つ。

・中世に於いては現代よりも遥かに広範囲にその生息域を広げていたようで、害獣として人々を悩ませた。しかし武器を持たぬ農民には彼らを狩ることは難しく、狼狩りに特化した職業――狩狼官もまたその職権を乱用するばかりだった。それ故に欧州では長くの間、黒死病やトルコ人に比肩する恐怖の象徴として君臨し続けていたようだ。

・ちなみにイギリスでは狼狩りは市井に開かれており、税の代わりに狼の首を献上する制度があった。その為か、彼の地では十六世紀頃に絶滅させられていたようである。

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