断章「逃れ得ぬ過去」
間延びした夕刻の時間、じわじわと燃える太陽が暮れなずむ。
茜色に染まる光は騒然とする町を照らし、あらゆる浄、不浄を白日の下に暴き立てていく。
「はっ……はっ……」
そんな混沌の渦中にある町を、一つの孤影が走り抜ける。
くたびれた旅装束に身を包み、背の高い旅人帽を目深に被った男――レオンだ。
レオンは懐に忍ばせた短刀を握り、辺りに油断なく視線を投げかけながら、群衆を掻き分けて一直線に通りを駆け抜けていく。
「はっ……随分と時間を食っちまったもんだなぁ……!」
もうちょっと早く終わるもんだと思ったが、と悪態を溢しながらも、その走る速度は些かも遅くなる事は無い。過去に放浪者として渡り歩いた賜物だろうか。右往左往とうろつき彷徨う人の群れもものともせず、すいすいと進んで行った。
「ったく、あのおばはんったらよ……! ぬぁにが『打ち倒す時間が早ければ早い程、あの子を追うのが早くなるはずです』、だ! てっきりやられる振りでもしてくれるのかと思ったら、全力でぶちのめしに来やがるし! ……まあ、あっちの提案を鵜呑みにした俺の方にも問題はあるが……」
休みなく足を動かしながら、レオンは虚空へと愚痴を独り言ちる。
「しっかし、最初会った時から何となく察してはいたが……あそこまでだとは思わなかったなぁ……普段の上っ面が厚過ぎて、すっかり忘れていたぜ……!」
愚痴はやがて偽らざる本心へ。先のフローラとの戦闘を、レオンはぼんやりと思い出していた。
……フローラとの真剣勝負は、結局は互いの得物が根を上げるという形で決着が着いた。彼女は武器が壊れると同時に拳を構え、尚も戦闘を続行させようとしたのだが、それをレオンが制止する形で無理矢理に終わらせたのだ。
「戦っている時のアイツの活き活きとした表情といったら……ああ、全く! あんなんなら諸国漫遊でもして思う存分遊んでくりゃいいのによ! 何で俺に構うのかね……!?」
うんざりとした心持ちを吐き出すように天を仰いだレオンだったが、それで気を取り直したのか、再度懐のナイフを握り直す。長年愛用した得物と比べると余りにも心許ない武器だが、背に腹は代えられない。文句があるなら全て鳥野郎とフローラに叩き付けてやらねば。
(まあ、おばはんはともかく……あの鳥野郎は本当に何なんだ……? 色んな奴を見て来たが、致命の一撃を喰らって尚も立ち上がるとは……)
思考は連鎖し、ベアトリーチェと共に対峙した異形の人型について、レオンは考察を開始した。
(ベアトリーチェは、鳥野郎が黒い化け物も連れて来たのだと言っていた。そこに疑う余地は無い。……この数年、アイツは秘密を抱えてはいたが、嘘だけは絶対に言わなかったからな)
レオンは血に濡れて悲哀に沈むベアトリーチェの姿を想い、歯の根を鳴らした。
如何に異端であるとはいえ、それを隠し静かに生きる事を望んだ彼女には、何の落ち度も無い。疎まれる理由も無い。
蔑まれる理由も、家族を殺される理由も、何も無い……無いはずだ! なのに、何故……!
「ぐっ……!」
言葉と共に己の剣持つ手を握り締める。無力さを噛み締めるように。
「畜生……落ち着け……ッ!」
しかし今は感傷に浸る時ではないと、レオンは己の思考を無理矢理に停止させた。……アイツの事を考えるのは、今は止そう。
そもそも逃げおおせたとも限らないのだ。今無闇に入れ込んで、冷たくなったアイツの姿を見でもしたら、きっと……
「全くよ……変わっちまったな、俺も……」
冷たくなった人の成れの果てなど、今までに腐るほど見て来たというのに……数年ぬるま湯に浸かっただけでこのザマだ。
人間というものは、驚くほどに、脆く、儚い。
それは何も外面や肉体だけではなく、その精神もまたそうなのだと、レオンは己の身を以て思い知った。
「……それはそうと、今判断するには材料が少なすぎるか。今度会ったら微塵に刻んでやるのは決定しているが……」
レオンはブンブンと頭を振り、努めて冷静に判断を下した。何しろ一度対峙しただけの存在だ。人智を超えた恐ろしい力と、決して油断出来ない剣の技量があるとだけ覚えておけばいいだろう。……それだけでも十二分に脅威なのだが。
「ったく、化け物が……」
言葉と共に纏まらない思考を投げ捨てると、レオンは唐突に走る足を止めた。……目の前の光景が、目的地へ着いた事を知らせた為だ。
「マジかよ。門が閉まってやがる……」
眼前に広がるは左右に際限なく広がる城壁。簡素ながらも堅牢に作られた大門。門を守る衛兵の姿はまばらで、しかし、その全員が緊張に身を強張らせている。
レオンの到達した東の門は、何人たりとも通さぬよう、厳戒態勢の只中にあった。
「…………」
それを見たレオンは眉間に皺を寄せながら、しばし立ち尽くす。
そして数秒の後に踵を返し、再度ごった返す群衆の中へと走り出した。……次なる目的地を目指して。
(アイツは……ベアトリーチェなら、外に出て行くはずだ。だったら……)
……秘密を抱えたベアトリーチェは、誰にも相談する事無くその日常を送り続けた。
それはただ保身の為だったと彼女は言うかもしれない。だが、レオンにはそうは思えなかった。思えるはずが無かった。
「俺みたいな人でなしでも分かる。……アイツは、優しかったからな……」
レオンは在りし日の思い出を脳裏に浮かべ、微笑を漏らす。
不器用で、要領が悪くて、人付き合いが苦手で……それでも誰よりも直向きだった、教え子との思い出を。
アレとはもう、何年の付き合いになるんだったか……フローラと知り合ってすぐだったような気もするし、一年ぐらい経ってからの出来事だった気もする。……昔を思い出す事なんて、本当に久し振りだ。
だけど、ああ、そうだ――
(此処での思い出は、存外に悪くな――)
……だが、暖かな憧憬も一瞬の事。
途端に思い出す。
血煙の舞う、憎悪の戦場を。
怨嗟の叫びを。嘆きの慟哭を。苦痛の視線を。
怯える誰かが剣を突き出す。
勇猛なる騎兵が、槍を振るう。
遠方から突き刺さる殺意が弓矢をつがえ、頭上から雨の様に降り注ぐ。
馬上から指揮を飛ばす将兵が怒号を上げ、敵を殺せとがなり立てる。
暖かな思い出の下から、暗く、それはまるで蠱惑する様に。
過去の紅き思い出が、のたうちながら這い出て来る――
「――――!」
逆流した思考が身体に流れ込み、たたらを踏む。駆ける体から冷や汗が吹き出し、レオンは近くにあった建物の壁へと思わず寄りかかった。
「はっ……ぐっ……」
……酷い眩暈は数秒の後に治まった。レオンは体勢を立て直すと、再びゆっくりと歩き始める。
「少し、油断したか……」
額から垂れる汗も拭わず、レオンは自嘲気味に独り言ちる。
「未だ我が魂、彼の戦地にあり、ってか……笑えねえな……」
身体の不調は既に消え去った。冷や汗でこびり付いた服に嫌悪感を露わにしながらも、レオンは振り切るように走り出す。
「昔は昔、今は今。……そう割り切りたいもんだが……全く。上手くいかないもんだ」
レオンはそう嘯いて自身を慰めようとしてみたが、特に効果は無い。暗い思い出は未だ脳裏にこびり付いたままだ。
仕方がないなと一つ眉根を寄せると、帽子を目深に被り、ただ耐えた。
……数年の安寧の日々を経て、それでも尚、彼の心は忌まわしき記憶――戦場の只中にあった。
何時如何なる時に思い出すのかは分からない。いつだって唐突に、鮮明に思い出されるのだ。
ある時は授業中、またある時は食事中に。酒場で酒を飲んでいても……あまつさえ用を足している時に思い出す事さえあった。
ふと気付いた時に、まるで慣れ親しんだ隣人の様に、記憶の淵から這い出て来るのだ。
「戦場なんて金輪際ごめんなんだが……まあ、そういう生き方しか知らなかったからな……因果応報ってやつか」
愚痴を零し、悪態を吐きながらも、レオンは夕陽に燃える町を走り抜ける。
夕陽によって長く伸びた影は、彼の足元をぴったりと離れず、音も立てずに粛々と付き従う。
それはまるで、暗い過去の様に、
……それはまるで、彼の為した罪の様に。
どこまでも、どこまでも。離れる事無く付き纏うのだった。
【心的外傷後ストレス障害】
・強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらす精神的障害。俗称PTSD。
・戦地から帰った者の多くは、殺人や負傷、またはそれに準ずるような精神的苦痛から多大なストレスを受け、心を病んだ。
・これが解明されたのは近年の事……しかし、人間は五百年前も同じ苦痛を味わったはずだ。いや、むしろ昔の方がなおの事苦しみを抱えていたのではなかろうか。
・軍人が神職に就いたという事例は古来より数多くある。……癒せぬ心の慟哭を、神はお救いになられたのだろうか?




