断章「ある修道女の回想 上」
間延びした夕刻の時間、じわじわと燃える太陽が暮れなずむ。
茜色に染まる光は動くもの無き広場を照らし、あらゆる浄、不浄を白日の下に暴き立てていく。
「…………」
……否。動くものが一つだけあった。
黒衣の修道服に身を包んだ赤毛の女性――フローラだ。
彼女は穂先の斬り落とされた十字槍の成れの果てを持ちながら、広場の瓦礫に腰掛けてどこか満足そうに空を見上げていた。
偽装を建前としたレオンとの真剣勝負から既に数刻が経った。
試合は互いの得物が先に限界を迎えるという形で引き分けとなっていた。無残にも刃の根元からぽっきりと折れた揺らめく炎と十字槍の穂先が転がっているのがその証左だ。
フローラはその残骸に目を移すと、ほうっと息を吐いた。
……こうして殆ど無傷で生きているのは奇跡に等しい。あの時あの瞬間に武器が限界を迎えていなければ、為す術も無く自分は斬り伏せられていただろう。
彼女はそうして少し前の剣戟を反芻しつつ、自然と彼の者との思い出を振り返っていた。
「思えばレオン殿を教職に招いて何年経ったのでしょう……あれから二年……いえ、三年……?」
童女のように指折り数え、もうそんなに経ったのかと彼女は嘆息した。……月日など矢のように過ぎていくものだ。
こうして振り返る度に、ただ過ぎていった時間を思う度に、いつもであれば軽い眩暈すら覚えるのだが……今はひどく清々しい。
生き続ける事、三十と幾許か。
日々の生活で澱の様に溜まっていた鬱憤を先程の数十、数百に及ぶ剣戟で徹底的に吐き出したからだ。
(もし、この日の為に拾ったのだと言ったら、どんな顔をされるでしょうね……)
フローラは空を見上げながらそんな事を思い、悪戯っぽく笑う。
そこには常日頃から顔に貼り付けている厳粛さは無く、まるではるか昔に置き忘れた情熱を思い出したかのように輝いて見えた。
「意外と気付かれていたり……? まあ、もう会う事も無いのでしょうが……」
既に去った相手へと独り言を漏らしつつ、フローラは彼と出会った日の事を思い出す。
……そうだ。あの日もこんな、燃えるような夕焼けの時だったか――
■■■■■
これは数年前。
ある平凡“だった”一日の出来事だ。
「……僅かばかりですが、どうぞ」
「ああ、ああ、ありがとうございます……ありがとうございます……」
燃えるような夕焼けの空。建物に伸びる影は深く暗く。
……あの日あの時、行く当ても無く路地で佇んでいた人達に、私は施しを与えて回っていた。
パンを与え、財を与え、病んだ者には他より多く与え、鬱屈とした心を解き解そうと娼婦の話に耳を傾ける。
……私に出来る事は、そう多くはない。
けれど、私は私に出来る事を出来得る限りに行っていた。
清貧であるために。救い無き民草に慈悲の手を伸ばすために。
神の教えを、その素晴らしさを一人でも多く気付いてもらうために。
あの頃の私は修道会の一員として、またその責を担う者として、規範となるべく誰よりも精力的に活動していたのだ。
……燻ぶる己の欲望を、そうして誤魔化し続けながら。
「――お話、聞いてくれてありがとうございました。あたし、ちょっと話し過ぎちゃったかも……幻滅しちゃいました……?」
「ちゃんと聞いていましたとも。……どうにも貴方は頑張り過ぎるきらいがあるようですね。出来るなら一日ゆっくりと、そうですね……安息日には――」
「シスターごめん。それはちょっとあたしには難しいよ。休みには兄弟の世話をしないといけなくてさ……」
「そう、でしたか……」
「うん、ごめん。いつもは母さんにお願いしてるからさ。そういう時くらい休んで欲しくて……折角の助言なのに、ごめん」
「いえ、謝らないで下さい。……貴方の母も、良い子を持ったようですね。貴方達に神の御慈悲が在らん事を」
「ありがとうございます。……シスターも、どうか根を詰め過ぎないようにして下さいね? いつもみんな、見てますから。清貧だー托鉢だーって、頑張り過ぎちゃうと倒れちゃいますよ?」
快活な娼婦はそう気遣いの言葉を残すと、満足そうな顔をして路地の暗がりへと消えていく。私はその背に手を振りながら、自然と苦笑を零していた。
(根を詰め過ぎないように、ですか……全く、これではどちらが助けに来たのか分からないではないですか)
そんなに疲れているように見えたのだろうか。確かに今日は昼の鐘からこっち、ずっと歩き詰めだったが……
(我知らず、情けない顔を晒していたかもしれませんね……)
ほうと息を吐いて私は教会への帰路に就く。既に今日の分の施しは無くなってしまったからだ。このご時世、如何に交易が盛んな町といえども、今の教会に財の余裕はあまりない。恥ずかしい話だが、昔からある蓄えを少しずつ使って糊口を凌いでいるのが現状だ。
数年単位で襲い来る悪天候による不作や、度々訪れる流行り病、それによる働き手の不足によって畑などすぐに廃れてしまうのである。畢竟、蓄える余裕など殆ど無い。
こんな所よりも、権威の集中する南方の教会領であれば、そんな事は無いのだろうが……
(無い物ねだりとは……確かに疲れてはいる、か)
こめかみをぐりぐりと指で抑え、私は答えの出ない問題を頭から追い出そうと努めた。
私一人が思い悩んでも解決策など出ない。たとえ出たとしても万人が受け入れてくれるとは限らない。そういう事は昔から嫌と言う程思い知らされてきた。
差別や偏見はこの世から途絶える事は無く。
争いは憎悪と怒りの連鎖を延々と紡いでいく。
……だから私は、今自分の手が届く場所を出来るだけ――
「……?」
……そうして歩き出した足に、何かが掴まるような感覚がした。
私は反射的に足元を見やる。そこには――
「……行き倒れ……?」
ボロボロの旅装束を着た男が倒れ、私の足を掴んでいたのだった。
■■■■■
「んうぐっ、はぐっ、うめ、うっめっ……」
「はいはい。もっとゆっくり食べなさい。喉を詰まらせますよ」
「うめぅ、うめえっ……ぐっ!? んぐぐご!?」
「……言わんこっちゃない。ほら、エールを」
「んっんご……う、んっ……ぐっ……ぷはっ! 死ぬかと思った!」
「…………」
あまりにも良すぎる食べっぷりに少し唖然としながらも、私は行き倒れていた男がパンを食べる様をしげしげと眺めていた。
この男、どこをどう見ても粗末な格好、生活臭のしない携行品、それに巧妙に隠し持っている数多の武器と、おおよそ真っ当な仕事をしてなどいなさそうだが……何故だろう。立ち居振る舞いに品の良さが垣間見える、気がする。道端に座り込んでいては品も糞も無いとは思うが。
……ちなみにこのパンとエールは道行く商人に身銭を与えて手に入れた物だ。こんな時の為に持っていた訳では無いのだが……何にせよ用意しておいて良かった。
「んぐ……もぐっ……んんっ……」
(なんだか、犬に餌付けしているみたいですね……)
……そうして食事を観察しながら待つ事数分。
男が粗方食べ終えたところで、私は話を切り出す事にした。
「……あの、ところで……」
「んん?」
「貴方は何故あそこで倒れていたのですか?」
「え、あー……」
男は私の質問を聞くと困ったように視線を宙へと漂わせ始める。
至極当然の質問をしたというのにこの反応。非常に怪しい……
「……何かやましい事でもあるのですか?」
「いや、そうじゃないんだが……うん、むしろ正しい事をした結果というか……」
「……? 話が見えないのですが……」
首を傾げ困惑する私を余所に、男は服をサッと払うといそいそと立ち上がる。
……そしてそのまま、何故か足早に立ち去ろうとするのだった。
「んじゃ、まあ、そういう事で……」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。何故そそくさと立ち去ろうとするのです?」
「え、いや、ちょーっと迷惑をかけるかと思って……」
「……行き倒れている時点で迷惑をかけていると思うのですが?」
「そりゃまあ、そうなんだけどさ。ほら、知っちゃうと後に引けない話って、結構あるだろ? そういう類いって言うか……」
「……すみません。全く話が見えないのですが……」
「とにかく、色々と面倒なんで……」
……そんな風にぐだぐだと押し問答を続け、無意味に時間だけを消費していた私達だったが、
「……ああっ!? こんなとこにいやがったかテメェ!」
……更なる闖入者によってそれも中断させられてしまうのだった。
(……やれやれ。今日は面倒事の多い日ですね……)
心中で溜息を吐きながら、私は新たな迷い子の姿を見やった。
見るも無残なまでに悪辣な人相。剃り上げた頭。粗野に過ぎる服装にその着こなし。おまけとばかりに腰には剣呑な鉈まで下げていて、典型的というにはあまりにも度が過ぎていた。
……言わずもがな、ならず者の見本のような人物が行き交う人々を散らしながら大股でこちらに近付いて来ているではないか。
「これはまた見事な……いえ、残念と言った方が正しいでしょうか……」
「アアッ? 何か言ったか?」
「コホン。いえ、何も。……こちらの御仁に用ですか?」
「んだよ! 決まってるだろーがッ! そいつに盗られたモンを返しに貰いに来たんだよッ! こいつ、ちょこまかと逃げ回りやがってよォォゥ!」
男は私の言葉に額の血管を浮き立たせながら返答を返してきた。相当頭に来ているようで、全身を茹でダコのように赤くし、これでもかと言わんばかりに激情を全身で表現している。
だがそんな男の様子など何処吹く風。行き倒れの男はいけしゃあしゃあと次のような言い分を返す。
「俺は別に盗ったんじゃない。あんたが人から巻き上げた分を少し拝借しただけだ」
「それを盗ったっつーんだよォ!?」
「いいや、盗ってない」
「いいや、盗ったな!」
「盗ってない。借りただけだ。あー、そうだな……十年後には返す」
「返す気が全くねーじゃねぇか!? ふざけてんのかテメエ!」
「なんだ、信用が無いな……ちょっと待ってろ。借用の誓約書でも書いてやる」
「お、おう……?」
「……あ、そうだった。紙もペンも無いぞ。困ったなー……んじゃ、ちょっとそこまで買出しに――」
「――お待ちなさい」
押し問答をなあなあで切り上げ、走り去ろうとする男の肩を私はガッチリと捕まえる。
「ちょ、ととととっ。シスター!?」
「傍から見ていたら貴方の方が悪いとしか思えないのですが? 何を盗ったのかは知りませんが、彼に返してあげなさい」
「いやいやシスター? ここであっちに返したら俺の立場が――」
「いいから。早くしなさい」
「ってもな……っだ!? いだだだっ! ちょっと!? 肩がもげる!?」
「早く、しなさい?」
「はいはい分かりました分かりましたよ返しますって!」
こちらの肉体言語による説得で諦めたのか、私が手を離すと男は観念したようにそう言い、懐から何かを取り出して歩き始めた。
そうして粗野な男の前まで行くと、その何か――どうやら小振りな皮袋のようだ――を突き出したのだった。
「……ほらよ。散々逃げ回って済まなかった。今は反省している」
「おお、おお、そうかいそうかい。いやなに、返してくれりゃいいのさ。神の御加護ってのもあるもんだなァ。シスター、ご協力感謝しますよっと」
「……」
先までの怒りは何処へやら、男は上機嫌そうに赤ら顔を緩ませこちらへと近付いて来る。そしておもむろに皮袋へと手を伸ばした。
だが、その手が届くか届かないかというところで――
「……おら、よおッ!」
――行き倒れの男は相手の股間を全力で蹴り上げたのだった。
「――――ッ!!? ――――!!」
「んなっ……!? ちょ……」
「もういっちょッ!」
そしてダメ押しとばかりに、股間を抑えた相手を殴りにかかる。
完璧な姿勢で放たれた右フックは過たず顔面を捉え、憐れな犠牲者は為す術も無く地面に転がっていった――
【エール】
・麦製の醸造酒。古来ヨーロッパに於いてはホップを加えたものをビール、ハーブなどを加えたものはエールと呼び分けていた。
・ヨーロッパの地下水は硬く、飲むのに適さないものも多い。故に、これら醸造酒が発展する事となった。




