断章「黒血の萌芽」
夜の帳が降り、辺りには重い暗闇が垂れ込める夜。
時折思い出したように吹く風は焦げ臭い臭いを運び、野に山に空気を撹拌させていく。柔らかな月光は風にたなびく草花を優しく照らし出している。
そんな極々ありふれた情景の中、異彩を放つ者が一つ……いや、二つあった。
一つは黒に染まった仮面の男――ダンテ。
もう一つはその背にダンテを乗せ街道に佇む、青褪めた軍馬。
両者は今しがた通り過ぎた大門が閉ざされていくのを見ながら、何をするでもなくその場に止まっていた。
「…………」
ダンテは一言も発する事無く、閉じていく門を見続ける。それを知ってか知らずか、大門はみるみる狭まっていき……やがて街道と城壁内を完全に隔てた。
閉じる様を見届けたダンテは軍馬の首を巡らせ、街道へとその足を伸ばす。そして城壁から十分に距離を置いた後、軍馬から飛び降りた。
……あの後ダンテは町中を駆け巡ったものの、ベアトリーチェを見つける事は出来ていない。為し得た事と言えば町の被害を確認する事くらいなもので、無駄足だったと結論付けざるを得なかった。その事を思っていたのか、ダンテは短く落胆の呻きを漏らすと、円弧を描く天上の月を見た。
「……」
今宵は満月。
魑魅魍魎はその魔力に踊り狂い、謳い、人を惑わす。古来より人ならざるものの伝承にはそういった逸話が事欠かない。
昔、本に見たライカンスロープを何とはなしに思い出しながら、ダンテはその輝きに憑かれた様に空を見上げ続けた。空には月の他にも綺羅星が一面に瞬き、見る者が見れば心奪われる光景である。
「…………」
そうして見上げる事数分。
ささやかな楽しみを享受していた彼だったが……思わぬ邪魔者にそれを台無しにされてしまう。
「おっと……」
風に乗って運ばれてきた朧雲が、あろう事か満月をすっぽりと覆い隠し、その御姿を隠してしまったのだ。
ダンテは軽く溜息を吐くと、元来た方向――城壁に囲まれた町へと向き直る。……束の間の休憩は終わり、務めを果たす時が来たようだ。
彼はおもむろに膝を突くと、地面に手を押し当て何事かを探り始めた。
「先程走り通して思ったが……この町は見所がある」
ダンテは先程集積した情報を脳内で取捨選択しながら独り言を漏らす。
この町は人口も多く、施設の充実度も高い。また余所との交易が活発な点も見過ごせない。火事によって家屋が焼け落ちた点は痛いが……なに、すぐに元通りになるだろう。
「星詠みにて示された災厄、それを捕り逃したのは大きい……」
ダンテは地面を探り、探り、町に残された縁を探し当てる。
活動を停止した傀儡が二十六体。その内五体満足なものは六体。
未だに活動を続け、身を隠しているものが八体。
合わせて総計三十四体。彼の者を追い立てるように使役していたが、都合の良い事にその骸は町中に散らばっているようだ。薄い所には生き残ったものを向かわせることにしよう。
「だが次善の策――いや、我々の礎の為に、此の地には踏み台になってもらおう」
涼やかに澱んだ声音を吐き出しながら、ダンテは傀儡達を操作する。
……浮浪者や欠損者の肉体は扱うのが難しい。単純に筋肉量が少なかったり、健常者とバランスの取り方が違ったりする為だ。
それでもダンテには健やかなる者、未来ある者達を手にかけ、傀儡にする事など出来なかった。それは後々自分達の首を絞める事になると、過去に教訓として学んでいたからだ。
「人は強く、そして弱い。群体としての強さ、個体としての弱さが極端に過ぎる……」
だから適度に、間引く程度に傀儡を見繕った。
……彼は知っている。
過度に増え過ぎたもの、腐り死にゆくものは周りに少なからず悪影響を与えるものだと。
いつも、いつの世も、あらゆる時代にあっても……人とはそういうものらしい、と。
「だが、だからこそ、私達の同胞として相応しいのかもしれないな」
傀儡を操作し終えたダンテは悩ましげにその仮面を揺らす。だがすぐに気を取り直すと、何事か呟き始めた。
「――告げる。仮初の同胞よ。その身を、その魂魄を解放する。……世話になったな」
次の瞬間、横に佇んでいた軍馬が音も無くその場に身を伏せ、やがて横になった。
「地に還り、他と混じり、黒き奔流となりて、我らと共に在れ。我ら、汝らの敵に非ず」
ダンテは呪文のように言葉を紡いでいく。
紡ぐ言葉に合わせて軍馬はその肉を溶かし、骨を砕き、内臓を蠢かせ、大地へと飲み込まれていった。
「全にして一、一にして全。生命の到達し得る一つの窮極。我らはその答え也」
時を同じくして市街に残された傀儡の死体、生存体もその身を溶かし、大地へと還っていった。
幸か不幸か、その有様は月無き宵闇に紛れ、人知れず速やかに成された為、誰の目にも止まる事は無かった。
それは直視でもしていたら即座に正気を失うような、悍ましく名状し難い光景だった。
人の理から逸脱した所業。……否。人には到達出来ない、完全なる冒涜の秘儀。
「…………」
ダンテは全ての傀儡が地に溶け去った事を確信すると、そのまま意識を地の底へと向ける。
三十四と一つの澱み蠢く血肉を、地中にて撹拌させ四方へと分かつ。
散らしたそれらを町の隅々にまで行き渡らせ、土壌へと同化させる。
浅層に潜る虫、暗がりに潜む獣、流れる水を伝い、あらゆる場所へと伝播させていく。
全てを為し得るまで彼は石像のようにその場に止まり、集中を解く事は無かった。
……そうしてどれだけの時間が経っただろうか。
(これで良し……記念すべき我らが第一歩、か……)
全てを為し終えたダンテは唐突に立ち上がると、踵を返してその場を後にする。
歩む先は深く暗く、暗闇の重く立ち込めた街道の先の先。
(芽吹くまでには一年、二年……それとももっと先か?)
ダンテは今しがた残してきた同胞の未来を思いながら、漆黒の外套を暗闇へと溶かしていく。
……月光は未だに隔たれたまま。暗黒の大地を照らすものは無し。
(彼らに祝福を。真なる安寧を。争い無き世の為に、我らは尽力しよう)
己が内に秘めた決意を胸に、ダンテは決断的に進み続け……やがてその姿を完全に消した。
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時は少し進み、城壁内部の何処かにて。
「うぃーひっひーっと……ちくしょーめー……」
ある一人の酔漢が明かりも持たずに夜の帳に包まれた町を歩いていた。
外見にさしたる特徴も無い、ただの何処にでもいるような、そんな男だ。
「ったくよー……火事とかよー……空気読めっての……俺んち燃えたらどうしようもねえじゃねぇっか、っつーのー……」
男は今日あった不幸を思い出しながら、ふらりふらりと危なっかしい足取りで通りを歩き続ける。火事後の往来に人は無く、それが男の気を大きくしていたのかもしれない。
この男、それなりの事情があってこのような振る舞いをしている訳だが……それは今ここで記す内容でも無いだろう。
「うっぷっ……うぃ……?」
やがて男は飲み過ぎた酒気にあてられたのか、よろりとグラつくとそのまま倒れ込んでしまう。……倒れる先には掴む事の出来るような物も無く、そのまましたたかに地面と熱いベーゼを交わしてしまった。
「う、っぺっ! っぺえっ! ってててぇ……んだよぉ……」
男は無様に悪態を吐くと、体を起こそうとし……いや、そのまま座り込んでしまった。
そしてそのまま漆黒の夜空を呆けたように見始めたのだった。
「きょーも、おつきさん……きれーだな……」
夜空を見上げながら、男は酔い痴れたように言葉を漏らす。
男は月が好きだった。
夜が、星が、暗闇の中で己を照らす瞬きが、何よりも好きだった。
……だがそれも、ここで語る事では無い。
ここから、今ここで起こる事こそが重要なのだ。
「……いでぇ!? いででででっ! な、んあなんだっ!?」
そんな風にぼんやりと空を眺めていた男だったが、突如悲鳴を上げ始める。何事が起きたのか、彼は足を押さえながら――押さえる足のくるぶしには齧られたような怪我の跡があった――必死に辺りを見回しだした。
すると路地の暗がりのその前で、こちらを窺う何者かを見つける事が出来た。
「ひいっ……!?」
男の見つめる先には小振りな獣。貪欲の象徴。
獣は月光に淡くその身を浮き上がらせながら、穢れた赤黒い目で男を見つめ返している。
……それは人と共に寄り添う獣。丸々と太った、黒い鼠だった。
「な、なんだ、ねずみか……んだよ……びびっちまって損した……」
男は拍子抜けしたようにそうぼやくと、立ち上がって歩き始める。
時折噛みつかれた足のくるぶしを痒そうに引っ掻きながら……やがて町の暗がりへと消えていった。
それを見届けた鼠もまた満足したように一声鳴くと、路地裏へと駆け去って行く。
……この僅かばかりの邂逅。
これが最初の分岐点。
男は気付いていない。
噛まれた所が黒く色づいた事を。
己の体が温かいのが、酒気によるものではないという事を。
ゲホゲホと咳き込むのは夜風の寒さによるものではない事を。
……そしてそれが続いたのはほんの一刻だけで、元通りになってしまった事も。
男は知らない。
己の体へと、既に“黒き病”が入り込んでしまった事を。
虫から獣へ。獣から人へ。
……人からまた人へ。人は船に乗り、海を越えた見知らぬ土地へ。
この日を境に、黒き病は遍く大地へと伝播していったのだ……
【ライカンスロープ】
・狼男。半人半狼。ギリシア語のリュカントロポスが語源。狼を意味するリュコスと、人間を意味するアントローポスから来ている。
・中世においては異端なる者、カトリック教会の権威に逆らいし輩には、時として追放刑が与えられた。この時の受刑者は狼と呼ばれ、罰として七年から九年の間、月明かりの夜に狼のような耳を付けて毛皮を纏い、狼のように叫びながら野原を彷徨わなければならない掟があったという。
・彼ら追放者は生きるために度々人里に現れ、略奪をおこなった。この事が多くの耳目を集め、歪曲されて広まった結果、魔女は狼に変身出来る能力があるのだと、広く信じられるようになってしまった。




