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炎の魔女  作者: 御留守
第一章 業火を宿した少女
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第十節「遁走」

 駆ける。駆ける。死力を尽くして駆ける。


「はっ……! はっ……! はあッ……!」


 己が内の炎を燃やしながら、私は急かされるように逃げ続ける。

 怯えるままに。追い立てられるままに。ひたすらに駆け続ける。


「ぐっ……はっああっ……! くっ……!」


 複雑に入り組んだ家々の合間を縫い、通りを横切り、路地を抜けてただただ走る。

 すれ違う人々が物珍しそうに私を見てくるが、そんなのに構っている余裕は無い。外面を取り繕う余裕も無い。


「おっ、ベアトリーチェじゃん! んな急いでどうしたんだよ?」


 すれ違う人の一人がそんな私に声を掛けてきた。……この声は確か、アロルドとかいう名前だったかな。同じ教室の最近入ってきた子だった、と思う。新入りの癖に礼儀がなっていないな、なんてどうでもいい感想が頭によぎった。

 返事をする余裕などある訳も無く、アロルドの隣を全速力で駆け抜ける。


「ちょ……!? おいっ、無視すんなよな!?」

「貴方も、逃げなさい……っ!」


 呆気にとられる相手に精一杯の助言を投げる。……いけない。今ので呼吸が乱れた。

 乱れた呼吸は全身に回り、胴を抜けて踏み出す足へと伝わる。走る速度がガクンと落ちて、目の前は(もや)がかかったように霞んでいく。

 だけど、この駆ける足だけは止める訳にはいかない。

 ……奴らが追って来ているからだ。


「おい、逃げろって何のことだよ!?」


 ベアトリーチェの言葉に少年は反射的に返事をするも、それに答えることも無く彼女は走り去ってしまった。


「……ったく、わけわかんねー」


 少年は困惑したようにそう漏らすと、好奇心に押されてベアトリーチェが走って来た方を振り返る。


「……は?」


 そして瞬時に凍り付き、死ぬほど後悔した。

 ……黒の絶望が迫って来ていたからだ。


 彼は見た。

 獣のように四足で這いながら、こちらへと殺到する黒い人型の群れを。

 それに追い立てられる人々が、悲鳴と絶叫を上げながら逃げ回る光景を。

 ……黒い人型に捕まった老婆が、組み敷かれて頭蓋をかち割られて絶命していく、その一部始終を。


「あ、ああ、あああああああ……」


 壊れたような呻き声が聞こえる。ひどく間の抜けた声だ。それに近い。

 まるで耳元で呟かれているような、頭の中から響き渡るような……

 これによく似た声を、彼は生まれた時から知っていた。


「あ、ああああ……ああ……」


 老婆を組み敷いていた人型がこちらをじっと見ている。暗く染まったその顔に表情は無く、如何なる感情も読み取る事が出来ない。

 ……いや、こちらが受け取れる印象はただ一つだけあった。

 恐怖だ。

 それだけを与える機能を備えたかのように、悍ましいまでの恐怖の波動を顔面から放出していた。

 やがて人型はおもむろに立ち上がると、脳漿をこびり付かせた両手を振りながら、こちらへと真っ直ぐ歩き始めた。その隣で腰を抜かしていた女性はその両手を見るや、必死に足を動かして距離を取ろうと躍起になっている。……次の憐れな犠牲者とならないために。


「えあ……? な、んで……?」


 ……だが人型にはそんな女性など眼中に無いのか、ただひたすらにこちらへと進んでくる。

 歩みは小走りになり、やがて駆け足に。

 一直線に駆け出した人型が目指す目標はただ一つ。……呆然と立ち竦む少年の方へ。


「なんで……! こっち来るんだよぉっ!!?」


 少年は迫り来る人型に毒づきながら、弾かれたように逃げ出した。

 最初から全速力。この世の地獄から逃げ出すかのように、恐怖に急かされるまま――奇しくも先のベアトリーチェと同じように――後先考えずに足を繰り出していく。


「うぅ! ああああ!」


 ……だが、少年と人型ではあまりにも体格差があり過ぎた。

 片や成長期途上の少年、片や十二分に成熟した成人の体とくれば致し方の無い事だろう。

 少年の奮闘も空しく、その距離はみるみる縮まっていく。

 そして――


「ぐ……!? やば……! ぐあっ!?」


 ぐんぐんと近付いてくる足音に焦ったのか、少年は足を縺れさせるとその勢いのまま転倒した。ロクに受け身を取る事も出来ず、強かに顔面を地面へと打ち付けてしまう。


(くそ……! なんでこんな事に……)


 焦る思考とは裏腹に、衝撃に震える体は言う事を聞かない。そんなこちらを気に留めることも無く、足音はどんどん近付いて来る。


(ああ、俺ももうここまでか……もっと美味い飯食っておけばよかった……)


 死を悟った少年が今際の際に思うのはそんな些細な事。だが、日々厳格な両親に絞られて来た彼の咄嗟に出せる願いなどこんなものだ。

 死を悟り、諦め、達観するには……彼は大いに年若過ぎた。

 何を悦とし、何を苦とするのかも、あらゆる経験に浅い彼には分からなかったのだ。


 ……足音が近付く。逃れられぬ死に怯え、少年は両目をぎゅっと固く閉じる。


 近付く。近付く。近付いて――


(……え……?)


 ……何故かそのまま足音は遠ざかっていった。

 不測の事態に思わず目を開き、足音の方を向く。そこには、一目散に駆ける人型の後ろ姿が見えた。


「どういうこ――!?」


 反射的に身を起こしかけた彼の両脇を、更に二つの人型が通り過ぎていく。その風切る音に一瞬だけ慄くも、やはりこちらには何の関心も抱いていないのか、人型は一瞥する事も無く走り去っていった。


「な、何だか分からねえけど……」


 彼はへたり込んだまま辺りを見回してみる。呆気にとられ呆然と柱の影から周囲を窺う男性。あまりの恐怖にその場に座ったまま我を失っている女性。遠くには半狂乱になりながら走り去っていく誰かが見える。

 ……共通して言える事は、誰も怪我一つしていないという事。


「助かった……のか……? いや――」


 だが、あの老婆は……? 頭蓋を砕かれて死んだあの人は……!?

 恐怖に痺れた頭を駆使してそこまで思い至ると、先の組み敷かれていた現場へと目を向ける。


「……何も、ない……」


 ……だがそこには、何も無かった。

 どくどくと地を濡らしていた鮮血も。

 無残に惨殺された老婆の遺体も。身に付けていた衣類の切れ端すらも。

 何も無かったのである。

 ただ残されたのは、無傷のまま呆然と立ち尽くす群衆のみ。


「わけ、わかんねえ……」


 そんな状況に残された少年は、ただ茫然とそう呟くしかないのだった……



■■■■■



「ああくそっ、ほんとしつこいわ……っ!」


 一方その頃、ベアトリーチェは未だに追い立ててくる黒影達から逃げ続けていた。


「何か気付いたら数も増えてるし……! 随分と余裕あるじゃないの……っ!」


 疲れた体を紛らわすように悪態を吐きながら、騒然とする街を駆け抜ける。

 もし立ち止まって休息でもしようものなら、即座に追い付かれ命が狩り獲られるだろう。

 幸いにして相手は走り続ける事が苦手なようで、加減さえ間違えなければこちらが追い付かれる事は無さそうだった。

 それを証明するかのように、こちらを追う黒影達の姿ははるか遠くにあった。

 通行人を蜘蛛の子を散らすように追い立てながら、追い付けないながらも着実にこちらへと向かって来ている。


(それにしてもこの状況、どうしたものかしら……死ぬ気で仮面男からは逃げたけど、このままじゃジリ貧だわ)


 直剣を振るう仮面の男を出し抜き何とか逃げ出したはいいものの、あれからずっと走りづめで体力の消費が激しい。このままではいずれ追い付かれて、為す術も無く殺されるだろう。何処か休息できる場所、もしくは現状を打破できるアイデアが必要だった。


(休める場所なんて、あるのかしら……何処かに閉じ籠ってもあの仮面男がぶち開けて来るでしょうし……)


 あまり知性を感じない黒影達相手ならまだしも、仮面の男が出張って来たらと思うと、籠城という選択は取れなかった。如何に巧妙に完璧に隠れようとも、アレは何時間、いや何日をかけてでも私を探し当てて来るだろう。対峙したから嫌でも分かる。それだけの殺意をあの男は私に向けていたのだから。

 ……それに逃げ始めてから男の姿が見えないのも気掛かりだ。何処かで高みの見物を決め込んで、こちらの足掻く様を見ているのかもしれない。だとすれば、逃げる、隠れるといった消極的な行動は下策だと判断せざるを得なかった。


「……となるとっ……!」


 とある考えに辿り着いた私は、がむしゃらに走るのを止め、目抜き通りから路地へと曲がる。

 目指す方角は職人街。

 多種多様な職業がある中で、製鉄や道具作りを生業とする人達が集う区画。あそこには昔一度だけ行った事がある。目当ての物があるとすれば、あそこしかないだろう。


(確か、前に行ったのは新しいお鍋を買いに行った時だったかしら……父さんと一緒に……)


 ふと懐かしい思い出が脳裏によぎる。しかし、すぐに頭を振ってそれを追い払った。

 ……感傷に浸っている場合じゃない。今は一刻一秒を争う状況なのだから。


(こんなのは早く何とかして、早く二人の所に帰らないと……!)


 血の海に倒れ伏す二人を思い出し、決意を新たに再び走る速度を上げる。

 あれだけの血を流しておいて無事に済む訳が無い。出来るだけ早く事態を解決して、お医者様を呼んで戻らないと。

 ……こうしてあいつらの気を引いているうちに誰かが見つけてくれて、手当でもしていてくれるといいのだけど。それは望み過ぎというものだろう。

 だから私が、助けないといけない。

 ここまで自由に育ててくれた両親をここで失う訳にはいかない。

 まだ親孝行も、喜んでくれるような事だって、何一つだって出来ていないのだから――


 そうして思案を巡らしながら、私は目的地へと続く角を曲がる。

 ……二人とも既に事切れているという可能性から、必死に目を背け続けながら。

 いつまでも消えない不安を振り払うように、私は走り続けた。


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