第八節「炎の記憶」
異様な男だった。
先ず目に付くのはその仮面。鴉の嘴のような意匠の付いたソレは顔面全体を覆い、穿たれた目穴は覗こうとも黒く淀んでいる。頭にはつば広の帽子を被り、仮面と帽子以外の外気にさらされる箇所は幾重にも黒布が巻かれていた。
頭から下へ視線を移すと、全身は黒皮のガウンで覆われており、両手には皮の手袋をはめている。ここでも外気を嫌っているのか、ガウンと手袋の繋ぎ目は粗紐でぐるぐる巻きにされていた。
……そんな男が、血の滴る直剣を無造作に持ちながら、私を見つめている。
「…………」
「…………」
見つめられる私は、何一つ状況が把握出来ないまま、ただ固まっていた。
――何故、父さんと母さんは血の海に沈んでいるのか。
――何故、この男は私を天敵と呼んだのか。
――そして何故、今まさに襲い掛からんとばかりに私へと歩みを進めているのか。
まるで大嵐の日に突然外へと蹴り出されたかのような、あまりにも急激に変わり果ててしまった現実に理解が追い付かない。
「……っ……」
眼前の恐怖にたじろぎ、私は無意識のうちに一歩、二歩と後ずさっていた。
「ふむ……」
……そんな私を見て何か思うところがあるのか、男は戸口を跨ぐ寸前で立ち止まると思案するように首を傾げる。
「もしかすると、私の思い違いという可能性もあるな……ならば」
そう言うと、男は扉の裏側、見えない場所へと手を伸ばす。
次の瞬間、ずるりと音がしたかと思うと、もう一人黒塗りの人が這い出て来た。
全身を影で塗り固めたかのような、生気を全く感じない人型。
顔に表情は無く、のっぺりとした其処には鼻や口といった器官も見て取る事が出来ない。
これは……一体、なにが……
「行け。彼の者を狩り獲ってみせろ」
「…………」
短い命令を受けて、人型はこちらへと声も無く歩き始めた。
手足からはぼたぼたと黒泥を垂らしながら、一歩、また一歩とこちらへ歩み寄ってくる。
それに対して、未だに固まっている私は見届けることしか出来ない。
何か行動を起こさなければ、自分も両親のように血の海に沈むのではないか――
そう頭では理解しているものの、眼前の光景が全身を凍らせる。
「…………」
そんな私など気にすることなく、黒影は私との距離を着実に縮めてくる。
無様に両腕を伸ばしながら歩く様は、まるで救いを求める貧者のよう。
近付く毎に強くなる独特な臭いは蠱惑的に甘く、その芳しさにむせかえる程だ。
だが――
「こ、来ないでッ!」
震える体を叱咤して、私は伸ばされる腕を払いのけた。
「それ以上近付くな……!」
からからに乾いた喉で、必死にそれだけを言い放つ。
黒影は伸ばした手がじゅうじゅうと焼け焦げるのを凝視しながら、その歩みを止めた。
……見守る仮面の男は直立したまま動かない。
(これで、少しでも怯んでくれたら……!)
初めて炎を人に振るった事に激しい嫌悪感を抱きながらも、私は次の一手を探し始める。
このまま全力で逃げて、誰かに助けを求める? いや、それよりも倒れている両親が心配だ。せめて生きているのかだけでも確認したい。だけど、この二人を相手にどうやって出し抜けばいい……?
仮面の男は未だに戸口から動いていない。あれでは家に入る事など不可能だ。やはり逃げるしか――
「――!?」
焼け付く程に頭をフル回転させていた私は、突如来た衝撃に身を硬くした。
「ぐっ……!? ああっ……!」
気が付いたら、一瞬で間合いを詰めた黒影に喉を掴まれていた。
今までの緩慢な動作が嘘みたいに、動物的な荒々しさ。掴む力は恐ろしく強く、引き剥がそうにもビクともしない。
「……ぐっ……っ」
ぎりぎりと気道が締め上げられる度に脳裏がチカチカと明滅し、見上げる眼前の光景が歪む。
私を見る黒影は何の感情も抱いていないのか、相変わらずのっぺりした顔を維持したまま、無言で私を締め上げ続けている。
「……う、ぐ……」
言葉が出ない。眼前の狂気に侵されたのか、金縛りにあったかのように体が動かない。
頭に血が巡らない。さっきまで必死に考えていた事がボロボロと零れ落ちていく。
(……なんで)
……そこで、私はある疑問に思い至った。
何故か、ある一つの事だけが、剥げ落ちていく思考の中に残り続けている。
それにしてもどうして、私はこんな目にあっているのだろう、と。
(なんで、こいつらは私をこんなに殺したいのかしら……)
白く濁っていく頭で考えるのは、そんな単純な事。
(どうして、二人は斬られているのに、私は絞め殺そうとするのかしら)
(天敵とか言うのなら、自分で殺せばいいのに)
(そもそも襲うのなら夜に来れば、抵抗されずに済んだんじゃないの?)
……疑問は一度蓋を開けると、次から次へと湧いてくる。
殺されそうになっているというのに。
いや、こんな状況だからこそ冷静になれたのか。
でも、それにしても、そもそもと言うのなら――
(なんで、私はこんな奴ら相手に手加減なんかしてるのかしら……)
……根本的な所で自分が間違っていた事に、私はようやく気付けたのだった。
……炎が、異端がばれたら処断される?
今まさに殺されそうになっているのに?
両親が血の海に沈んでいるのに?
助けられるのはきっと私だけだというのに?
……いいえ。それは違う。
処断されるだなんて言い訳だ。
自分可愛さに並べ立ててきた、ただの建前。常識。
今はそんなものに何の価値も無い。
……為すべき事はただ一つ。
――降りかかる火の粉は、払わなければ。
そこまで考えが至ると、途端に全てがどうでもよくなっていく。
代わりに湧き上がるのは現状への怒り。理不尽に対する叛逆の心。
両親を切り伏せた外道相手に、遠慮する事なんか無い……
こんな化け物相手に、お行儀よく殺されてやる道理なんて無い……!
後悔なんて、全部終わった後にすればいい……ッ!
だから、今だけは――!
「が……はあ……ッ!!」
為されるがままに締め上げられていた体を叱咤し、残った息を全力で絞り出す。
「炎、よ……! 紅蓮の、調べ、よ……ッ!」
言葉を吐き、己が内に秘めた業火へと呼びかける。
同時に締め上げる両腕を再度掴み、全力で握り返す。
「我は紡ぐ、炎熱の果てを……!」
紡がれるは炎の記憶。灼熱の祝福。
「汝に業苦を……ッ! 鮮烈なる焔を……ッ!!」
握る両の手に、炎が宿る……!
そして――
「…………ガァッ!?」
掴んだ黒影の両腕を、私は力任せに焼き切った。
「がほっ! げほおっ! っぐあっ……!」
腕を焼き切られ、たたらを踏む黒影を滲む目の端に捉えながら、拘束から逃れた私は全身へと空気を循環させていく。
「ぐっ、はあっ……ああ、もう……!」
……空気が巡るに従って、自分の中で何かが膨れ上がっていくのを感じる。
これは、憤怒。悲哀。憎悪。恐怖。喜悦。
……いや、そのどれでも無い。原初の感情。
全ての感情が形を成す前に入り混じり、激情の炎となって自分の中を焼き尽くさんと燃え広がっていく。
それに伴って、ぶすぶすと全身が燻ぶるように熱を帯びる。
……まるで自分自身が薪となって、一つの焔を作り上げていくような感覚。
「……ああ、まったく本当に……」
燃え昂る心のままに私は地面を蹴り、駆け出す。
蹴られた地面は爆ぜ、蹴り出した足の筋肉がギチリと悲鳴を上げる。
……だけど、構う事は無い。
心を燃やし、手足を燃やし、本能の赴くままに。
未だ体勢を崩したままの黒影へと、私は全力で肉薄していく――
「頭に来たんだから……ッ!」
一足で距離を詰める。目標は頭部。体を曲げた今の相手なら……!
「…………!?」
駆け出した勢いのままに、私は黒影の頭へ手を伸ばす。
そして燃える左手で顔面を掴むと……全力で地面へと叩き付けた。
「ああああ――ッ!」
声にならぬ声を上げ、掴んだ左手に全力を込める。叩き付けた衝撃からか、黒影は身じろぎ一つしない。
次第にブスブスと黒煙が上がり、やがて左手ごと黒影が燃え始めていく。
そして燃え上がると同時に影のベールが剥ぎ取られ、秘された相手の顔が露わになった。
「――――!!」
そこにあったのは、干乾びて乾き切った誰かの死体。
眼窩が落ち窪み、鼻の削げた、まごう事なき死相。
……正直言って予感はあった。だけど、いざ直面すると恐怖に身が竦んだ。
死者が動くなんて、本当に、現実離れしすぎているでしょうに……!
「ゴオァ……ッ!」
「ぐっ……!? こんのっ……!」
怯んだ一瞬を見計らったのか、黒影が焼き切れた両腕でジタバタともがき始める。
しかし、両手の無い身では起き上がる事が出来ないのか、私の体へ執拗に叩き付けてくるばかりで、それ以上の事はしてこない。
だったら――
「そんなので怯む、今の私じゃない……ッ!」
「――――!?」
燃え荒ぶ頭部へと全力で右の拳を叩き付ける。一発。二発。三発。
打ち付ける度に拳が痛むが、無視して殴り続ける。
自分の恐怖を抑え付けるように。何度も。何度も。何度も。
……相手の顔面がひしゃげ、歪んでいく。もがく両腕も今はビクビクと痙攣するばかりだ。
抵抗が無くなったのを確認した私は、両手で砕けた顔面を握り締める。
そして――
「死者は大人しく灰になっておけ――ッ!」
全身全霊を込めて、死体を焼き尽くしたのだった――
【紡がれる言葉】
・ベアトリーチェは自身の炎を扱う際に詠唱のような文言を言い放つ。
・無自覚に放たれるそれは己の炎に対する恐れ、忌避感から来る自戒の言葉。
・例えるならば、ある種の達人が行う切り替えの儀式のようなものだ。
・だがそれによって昂揚感が生まれ、炎は勢いを増し、更なる言葉が紡がれる。そうして自分自身を際限無く燃やし尽くすのだ。