喜びの人
---
土曜日の午前、自宅で食事を終えた頃。今日の夜フットサルをしようと、友人から連絡が入った。今日は何をしようかと思っていたため、別段高ぶりも面倒臭さも感じずに参加すると伝えた。
そうしてから、ふとフットサル用のシューズが壊れていた事を思い出した。一瞬断ろうかとも思ったが、代わりに何かやる事も思い当たらなかったため、シューズを買いに行く事にした。
駅まで歩いて数分、そこから二駅隣に大型のスポーツショップがある。
椎名はどうにも、やると決めたからには形から入るタイプだ。初めて買ったフットサルシューズが今まで買ったシューズの中で一番高く、すぐに壊れた。それはフットサルを早く始めたいという欲求と、所有欲を満たす為の見た目に拘ってしまったが為に、足のサイズに合わないものを選んでおり、しかもそれはジョギング用だったのだ。一瞬脳裏に、彼女からその安直さをいつも指摘されていることが過ぎった。ただ、それでも気に入ったものが手に入らないとモチベーションが下がってしまうため、買うと決めたら購入場所の品揃えの良さは最優先だった。
普段の通学とは反対側のホームに着くと、思いも寄らぬ行列が目に入った。土曜日ならばむしろ空いているだろうと思っていた所で、その理由が分かった。少し見上げて表示されている電子案内板と、続いて流れてくる早口のアナウンス。どうやら電車が遅れているようだった。
土曜日とはいえ、電車が遅れて予定通りにいかないというのは不快なものだ。案の定行列を成す人々の表情は皆怪訝そうで、今にも怒鳴り散らしそうな人もいた。幸いにも、曜日と時間も相まって駅員と喧嘩をする者はいなかった。
そして椎名も幸か不幸か急ぐ用でもなかったため、それほど焦りや苛立ちを感じてはいなかった。周りの人々の表情や、いつ頃復旧するのかと問われて申し訳なさそうに謝り続ける駅員を観察していると、一人の初老の男性が目に留まった。それはどうにも、その立ち振る舞いが辺りの様子にそぐわないのだ。
白髪混じりの初老で、身長は170cm程度だろうか。スーツを見に纏った立ち姿は妙に凛々しく、貫禄を感じながらも、浮かべる表情はクリスマスプレゼントを貰った少年のように煌めいていた。
と、思わず見つめていたらこちらの視線に気がついたのか、ゆっくりと距離を詰めてくる。椎名は思わずたじろいだ。背中を向けて逃げるわけにもいかず、というよりそれほど危険を感じることはなかったので、彼の表情を、行動を窺っていた。そして開口一番、男性は椎名と会話できる程度の距離で立ち止まり、椎名に対して旧友を相手にするかのように問いかけた。
「君はイラついていないみたいだけど、時間は大丈夫?」
椎名は驚きながらも彼の紳士的な問いかけに、自然と応答出来た。
「えぇ、僕は大丈夫です。そういうそちら様も、余裕があるように見えますね。」
よく見ると彼の胸元には見覚えのある徽章が光っていた。その視線に気がついたのか、彼は目を開かせて。
「これは失礼、私は成田という。察しの通り弁護士をしている。もちろん仕事で君にどうこう持ちかけたいわけじゃない。これは単なる気まぐれだよ。」
「弁護士の先生でしたか。しかし、そんな気まぐれはよくあるんでしょうか。」
椎名は本心から問いかけた。
「いいや、無いね。全く無い。今日ほどの日じゃなきゃこんな事はしなかっただろうし、君と目が合わなきゃこんな気まぐれは起こさなかったと思うよ。やはり土曜日は基本的に休日だ。そんな日にこんなスーツを着込んだ爺さんから声をかけられたら、私なら不機嫌になるね。」
「ですが、それは光栄だと思うべきでしょうか。」
椎名は笑わずにそう呟いた。
「あぁいや、むしろ不幸だと思ってくれてもいい。こんな無為な時間に老人に絡まれて、半ば同情するところだ。けど話しかけずには居られなかったんだ、諦めてくれたまえ。」
「それは、僕は一向に構いません。少し共感するところがあるので。ただ、弁護士さんは、電車の遅延がお好きなんですか。」
皮肉のつもりで言ったわけじゃなかったが、言い放ってから皮肉になった、と思った。
「そんなわけないだろう、君も意地が悪いな。まあ僕が絡んだのが悪いんだけれど。」
「いえ、皮肉のつもりで言ったわけじゃ。弁護士さんが妙にお若いので驚いてるのは本心です。それに、こんな状況にしては随分と楽しそうにしてらしたので。これは僕の主観なので、間違っていたら訂正して頂きたいのですが。」
「成田でいいよ、こんな所で弁護士さんだなんて小恥ずかしい。僕はそんな皮肉、嫌いじゃないけどね。まあ、若返ったとは言えるかな。ただ、電車の遅延でワクワクできる程じゃあない。」
彼は今にもステップを踏んで踊り出しそうな陽気さで、電車を待つフラストレーション漂う思い空気の中で、一人毅然と微笑んで居た。椎名は釣られて笑わない。
「では、成田さんで。遅れましたが、僕は椎名です。普通の大学生です。それで成田さん。若返ったとは、最近何か嬉しい事があったんでしょうか。」
彼はまさにその言葉を待っていたかのように、もう一段階口角を上げた。
「そう、その通り。人間嬉しい事があるとこの歳になっても若返るもんだ。実感したね。いや実はだな。赤ん坊が産まれるんだ。」
「赤ん坊というと……奥様がご懐妊されたということでしょうか。」
「そんな堅苦しくなくたって。おめでただよ、おめでた。その名の通り、めでたいだろ?」
椎名は彼の全身を、今一度素早く観察した。それは健康そのものだったが、どこか仙人のような雰囲気を醸し出している。だからこそ直感的に、子供が出来たということが疑問に思えたが、それはすぐに飲み込むことが出来た。幾つになっても条件さえ満たせば妊娠はするのだ。
「確かに、それはおめでとうございます。」
「でも、何でって思うだろう? こんな歳のやつが、何でそんな事で喜んでんだって顔してるよ。」
気にならないといえば嘘になるが、もちろんそれほどの興味はない。しかし、殺気漂う空間で一人黙っているよりは有意義であるし、このまま話を中断させればきっと他の誰かが捕まるだろうという迫力に、椎名は黙って首を縦に振った。
「いやぁ何、話は至極単純さ。新鮮味もなくて申し訳ないと先に言っておくとしよう。ご覧の通り私はこの年だ。それでもつい一昨年の夏に、一目惚れをしたんだな。一回りも下の女性だ。それが中々、惚気話をすれば君は終電を逃す程度に、自慢の妻でね。それでもどうだろう、老体のせいか相性のせいか、子供は天からの授かりものという言葉通り、中々子供は出来なかったんだ、つい最近までね。」
彼はその職業に偽りなく、流暢に説明してくれた。中身は確かに彼の言う通り、ある種よく聞く話しではあったが、彼の喜びの表情から今まで聞いたことがない話のように、心から新鮮味を感じていた。
「何度もいろんな方法を試してみたさ。人間こうなると貪欲なものだ。始めは年齢のこともあったから諦めていた。若いころは仕事に明け暮れて、所帯を持つことも考えなかった。だからこそ対処も遅れて、後手に回った結果がこれだった。医者からは、厳しいだろうと言われてね。私も、もちろん妻も表面では納得しながら、落胆していた。それは酷く落胆していたんだよ。それがきっかけで些細なことで喧嘩になることもあった。」
椎名は黙って、相槌を打つように頷いた。もう直運転の見通しが立つ、という内容のアナウンスが聞こえてくると周りは少しだけホッとしたような空気に変わる。彼は変わらず、嬉しそうに厳しい過去を語る。
「もう、ダメかと思った時だった。いろんなことが重なってね。そんな時だった。今日は別れを告げようと……二人の結婚記念日だった。暗い心中で帰宅すると、彼女が泣きながら飛び込んできたんだ。」
「そのタイミングで、ご懐妊されたことを知ったんですね。」
「あぁ。喜びはひとしお、こういうことを言うのだと思った瞬間だよ。人間現金なものだ。今までは自分がこの世で最も不幸な人間だと思っていた瞬間から、まるで物語の蜘蛛の糸のように、一瞬で救われる。奇跡の生還だ。そうして私は今、こうして喜んでいるというわけだ。」
椎名は大きく頷いた。拍手をしようかと思ったが、それはこの空気に合わないので思い留まった。
「長々と話した割に、新鮮味がなかっただろう。申し訳ないね。」
「いえ、素敵なお話です。率直に素敵だと感じました。」
「本当かい? お世辞でも嬉しいことだよ。」
彼が相変わらず喜んでいると、椎名は少しだけ俯いて言葉を発した。
「僕は、あまり新鮮なことを体験しません。大抵のことは予想がつくというか、物語の範疇に収まっているように思えてならないんです。」
「ほう、それはまた面白い発想だ。一理あるとは思うが、例えるなら運命というものを信じているとか、そういう話かな?」
「運命、とはちょっと違うように思います。この世界は、例えば物語だとしたら、筆者の成すがまま。だから僕はそれ以上の想像を超えないし、それ以下の想像を不足することもない、と言いますか。」
「この世界の筆者、か。そんな話をどこかで聞いたような気もするね。けれど」
彼の言葉を遮るように、椎名は言った。
「けれど、成田さんの話は新鮮でした。まるで物語のような話だったけれど、そこには確かに成田さんの想いがあって、物語からでは得られない”喜び”を感じた、というべきでしょうか。とにかく、僕にとって初めてと思えるほど、新鮮だったんです。」
椎名がそういうと、彼は思わず吹き出して、やはり少年のように笑った。電車を待つ数人が、こちらに視線を移したのがわかった。
「あぁ、これは失敬。しかし、君は面白いね。やはり声をかけて正解だった。まあそれは、確かに確かに。こんな老人にこんなタイミングで話しかけられて、唐突に話しかけられるという物語はそうないだろうな。けれど君の言う”新鮮”という言葉は、どことなく真理を突いているように思えるね。ただ、それには少し希薄に見える。君の言う物語、がね。」
「希薄、と言いますと。」
唐突にアナウンスが響く。駅員が慌てていたのか、一瞬ハウリングしてノイズが響くと、列を成している乗客は数人驚いた様子で。それでも運転再開、という言葉が聞こえると各々携帯を耳に当てて連絡を始めた。椎名はそのアナウンスを耳で聞いていたが、彼を見据えたまま会話を続けていて。
「君は人生を、とある筆者の描いた物語と表現した。実に斬新で、それこそ新鮮だと私は思う。やはり他人の人生とは刺激的で、新鮮なものなのだよ。しかし、しかしだ。それにしては君の、君の人生は些か新鮮さが足りない。これは年増なりの助言、老婆心だが、新鮮味とは自らの味覚を変化させていくことだ。一度味わったものを、もう一度味わうときに、それが新鮮かどうか感じるのは、当人次第だろう?」
「一度味わったものが、二度目でも新鮮になる、と?」
「あぁ、そうだ。君は何が好きかな。私はラーメンが好きだ。一回目に食べたときはスープから頂いた。なら二回目は麺から頂いてみよう。三回目は胡椒を少し多めに。そんな小細工をしても、感じるのは当人なのさ。同じと思えば同じだが、違うと思えば違う。毎回美味しいと喜ぶことは、可能じゃないか。要するに、私が筆者ならその物語を、もっと面白いものにしたいと思うがね。」
椎名はその言葉を、すべてうまく飲み込めずにいた。ただただその成田という男の言葉に、これまで感じたことのない新鮮味を味わいながら。
「と、偉そうに語る私も、今回の経験あってこそ、だ。人間負の感情に流されたままでは、人生を不味くしてしまう。適度なスパイスと、幸福が必要なのさ。私は今、こうして君のような見ず知らずに幸せだと語れる程度には、人生を謳歌している。嬉しいと感じることは、少なくとも悪いことではないからね。と、そろそろ電車が来るようだ。」
彼の言葉を聞いて我に返ると、ホームに電車が飛び込んできた。彼も同じ電車に乗るのだけれど、何故か電車に乗る前に話し切っておかなければならない予感がした。
「成田さんは今、幸せですか。」
彼は噛みしめるようにして頷き、微笑んだ。
「あぁ。喜びは人を進化させる。もともと私はそういう仕事がしたくてこの職に就いたのだけれど、時が過ぎると忘れてしまうものだ。やらねばならぬこと、優先しなければならないこと。そういうものをリセットしてくれるのは、君の言う新鮮味かもしれないね。人生の豊かさに繋がる、そういう生き方を。学ばせてもらったよ。」
電車はゆっくりと列に止まる。立ち尽くしていると一斉に降車してきた人の波に、彼と分断されてしまって。
それが収まる前に我先にと電車のドアへ飛び込む人の波。相反する波に飲み込まれるように車内に吸い込まれると、一瞬だけ彼の顔が見えた。
やはりそれは、喜びの顔だった。
二駅先で降車した時に、彼の姿は見当たらなかった。降りた先、ゆっくりと発車する車内を見ると、不快な乗客が各々、それを紛らわせるように携帯の画面に視線を落としていた。
スポーツショップまで歩く道中で、椎名は思い出していた。
彼の言う、喜びとは。椎名は釈然としていなかった。
一度経験したことは、喜びにはならない。それは考え方を変えたところで、記憶に残っている以上、新鮮味はないのだから。
けれど、それでも彼の発した言葉には芯があった。その表情と、言葉の熱。頭では理解できぬような、滲み出る”喜び”が。
それでも椎名は、もう一度彼に会えば、”新鮮”とは思わないことを確信していた。
その上で彼、成田という男が椎名にとって”喜びの人”であることを、脳内に刻み込んで。
改札を、電子式の定期券で通過する。電子音と共に、改札の小さな扉が開いて、駅の構内から出る。
何の新鮮味もない、いつもの光景だ。皆が当たり前にそうしている。
例えようのない感覚を携えながら、ゆっくりとショップへと歩き出した。
-----