言えなかった言葉
暫く麗の写真を見つめてから、空は秋子と連れ立って外階段を降りる。自宅の1階が雑貨屋の店舗になっていた。オーナーの秋子が、1人で切り盛りする近所で唯一の雑貨屋だ。
しかし10年前から、常連さんと麗に会いにきてくれる空の為にしか店は開けていなかった。午前中の仕事も、庭の手入れといった店の仕事とは何ら関係の無いことであった。
アンティーク調の木製のドアを開けると、冷たい空気が漏れてくる。可愛らしい鉛筆やキャラクターが描かれたノートに 、リボンがついた髪ゴムなど、女の子達が喜びそうな商品が所狭しと棚に陳列していた。
麗が亡くなって半年ほどは、クラスメイトが沢山家を訪れ、麗の思い出話をしてくれた。それが1年経ち、1年半、2年と経つうちに、訪問者の数はどんどん減っていき、今も変わらずに1ヶ月に1度手を合わせに来てくれるのは、空だけだ。
そして、いつの頃からか、空は手を合わせた後、秋子と夕飯を食べていくようになっていた。言い出したのは秋子の方だ。夕飯を食べていると必ず秋子は麗と空の思い出話をする。空はそんな秋子の話をいつも悲しげな笑みを浮かべて聞いていた。
「おばさん」と空に呼びかけられ、秋子は思い出の中から戻ってくる。
「おばさん、あのさ、私…」
「どうしたの?」と空の顔を見つめる秋子の視線は、しかしすぐにテーブルのうえの空のコップへと移った。
「あら、空ちゃんお茶のおかわりいる?」と言いながら台所へ向かい、お茶の入った容器を持ってくる。秋子は空の返事も聞かずに、お茶をコップにとくとくと注いだ。
「はい。お茶、ここに置いておくね」
「……ありがとう」
空の言葉の最後にため息が混ざっていたのを、秋子は気づけなかった。
空との夕飯のお喋りの時間は、秋子にとって楽しさを感じられる唯一の時間だった。
「今日はどうしてこんなに早かったの?」
「えーと、もう自由登校期間に入ったから。センター試験も終わって、高校生活に一段落ついたんだ。なんとか第一志望の大学も合格できたし」
大学、という未来をさらりと語れる空を、秋子は羨ましく見やる。
「大学に入ったら、またお友達が増えるんだろうねぇ」
「どうかな?入学式は優達と行こうと思ってるけど、あんまりノリ気じゃないんだよね」
空の口から麗以外の友達の名前が出てくると、秋子は少し切なくなる。「入学式といえば」と話を奪いとり、違う話題に変えてしまった。
「空ちゃんと麗は本当に昔からずっと一緒だったわね。だからか、食べ物の好みとかも似てて。今日の夕飯も麗が大好きだった食べ物ばかり…」
「そうだね。おばさんの作ってくれる料理はどれも美味しいもの」
「ふふ、ありがとう。好きなだけ食べていいのよ」と秋子がご飯のお代わりをよそおうとした時、
「ありがとう。でも、私……」空は口篭る。
「ん?」と小首を傾げた秋子を見つめ、空は姿勢を正した。
「井上先生から連絡ありました?…明日の卒業式のこと」
井上先生は、小学校3年生の時の空と麗の担任だ。縁あって、空の高校に転勤してきて以来、高校3年間空の担任であった。秋子の顔色が変わったのを、空は返事と受け取った。
「来てくれますよね?」と心配そうに確かめてくる。
「それは…ほら……」
「来てください。私達、麗と一緒に卒業…」
「麗は死んだのよ!!」
秋子は昂った声で空の声を遮ってしまう。大人気ないと知りつつ、止められなかった。
「空ちゃんが8歳から過ごした10年間を、あの子は持っていないの。8歳のまま、永遠にあの日に置き去りのままなの。卒業なんてできないわ」
長い間があった。空の目には涙が溜まり、瞬きをした瞬間、涙が頬を伝って流れ落ちた
「ごめんなさい」と空は震える声で謝った。
「ごめんなさい、おばさん。麗を死なせてしまってごめんなさい。私があの時、もう少し早く振り向いていたら…私が死なせたも同然だった。あの時私が轢かれれば…麗が…麗が生きていたのに。私なんかよりも麗が……ごめんなさい」
ごめんなさい、と何度も謝り続ける空を、秋子は呆然と見下ろす。この子はそんな風に思っていたのか…。言葉を失った。
麗の事故のショックで一時は声を失ったものの、医師や両親、友達や先生のあたたかいフォローによって空は徐々に元気を取り戻していった。麗の写真に手を合わせ、秋子と夕飯を食べ、学校であったことや麗以外の友達について屈託なく話してくれるようになった。麗の死はとっくに空の中で『消化』されたものだとばかり秋子は思っていた。
「空ちゃん…貴女ずっと…?」
ずっと、そんな苦しい気持ちを背負ってきたの?おばさんに申し訳ない、麗に申し訳ない、私が私がって思いながら、毎月顔を見せてくれていたの?
空は俯いて泣き続ける。元気を取り戻したとはいえ、空はあまりのショックから心臓と肺の複雑な合併症を引き起こし、今でも定期検診を受け、毎日薬を飲んで抑えなければまた再発して命に関わるかもしれない状態になってしまったのだ。
それに元々空はとても内気で物静かな女の子だった。反対に麗は活発で、いつもクラスの中心にいるような女の子だった。いつも2人が一緒にいたおかげか、麗がいた頃は何もなかったが、麗がいなくなってからクラスで空をいじめるようになった。
しかし空はそれに屈することなく、最後まで耐え抜いて今では昔の空を知る人間にとって驚にを隠せない程に明るく活発な少女に変わっていた。
空は空で、必死に過去と向き合い、『今』を生きようとしていたのだ。
秋子は頭を下げた。
「おばさんこそ、ごめんね。空はちゃんの気持ちに気づいてあげられなくて、ごめん。空ちゃんだって辛かったよね。なのにおばさんばかり…本当にごめん」
そして食べ始めた時と殆ど減っていないおかずに目をやる。
「空ちゃん、好きな食べ物はある?」
空はぱっと顔を上げると、まだ涙に濡れたままの頬を紅潮させて頷いた。
「私、甘い物が好きなの。特に…苺とか。だから苺が食べたい!」
「オッケー。今日のデザートは苺にしましょうか!」
30分後、洗い物もすっかり片付け終わり、2人は苺を食べていた。
「空ちゃん、苺美味しい?」
「うん!おいしい!」と幸せそうに笑う。
そして空は上目遣いで秋子を見て、小さな声で聞いた。
「明日の卒業式……来てくれますか?」
秋子は頷く。それが空に対して今の秋子が示せる、1番よい形の誠意だと思った。