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事件の幕は翌日の早朝に上がった。
エプロン姿の姉がトカゲかヤモリの如く、玄関の扉にへばりついて、ドアスコープから外を覗き見ていた。ゴキブリを見ても眉ひとつ動かさず退治できるほど豪胆な姉が、両手で握り締めている竹箒をプルプルと震わせている。
そんな姉の姿を見た瞬間、ぼくは全身に冷水をぶっ掛けられたように震えあがった。
まさか、家の前に怪しげな連中が押し掛けているのか!
ぼくと博士が財団の主催する研究会で発表することを阻止しようと企む《権益者たち》の魔の手が、既に迫ってきている?
「姉ちゃん、逃げて!」
そう叫ぼうとするも、緊張しきった口はうまく動かない。
手が震えて、学生鞄を取り落としてしまった。その音に気付いて姉がこちらを振り返った。
意外にもその表情は笑っていた、しかも下品なくらい意地悪そうに。
「健吾、お前も隅に置けないな」
姉はそう言って、竹箒を玄関隅に立てかけると、こちらへ向かってきた。そして、「?」と、首を傾げているぼくの脇を通りかかる際、肩に手を置き「しっかりやんな、色男」と言い残して、そのままキッチンの方へ行ってしまった。
……ますます意味が分からない。
どうやら、銃火器を持った黒ずくめの男たちにこの家が取り囲まれている、という状況ではなさそうだが、じゃあなんで、姉はドアスコープから熱心に家の外を覗いていたのだろうか?
疑問を抱えながらも、玄関の扉を開けた。明るい日差しがサーッと流れ込んでくる。思わず目を細めた。
徐々に視界がはっきりとしてくる。
ようやく姉が外を気にしていた理由が分かった。
家の入口、ステンレス製の門扉の前に、学生服を着た二人の女子が立っていた。
彩夏と神宮寺さんだ。
彩夏がいるのは、それが彼女にとって毎日の日課だからだ。そして転校生である神宮寺さんがいるのは、昨日、ぼくに危害を加えようとする輩から守ると宣言してくれたからだ。であれば、二人がこの場にいることは必然……。
ぼくの姿に気付いて、二人が一斉に手を振ってくれた。
「おはよう、ケンちゃん!」「尾野くん、おはよう」
互いに相手の声を掻き消そうとする大きな声に、ぼくは体が強張った。
二人ともぼくに対してはとても朗らかな態度を見せ、同時に隣にいる相手とはそっぽを向きつつも、槍で突っつき合っているような雰囲気だった。
昨日の昼休み、彩夏は神宮寺さんを見ると逃げるように去っていったし、神宮寺さんも難しい表情で彩夏のことを見ていた。そして今も二人の間にピリピリとした空気が張り詰めていた。どうして二人がこんな態度を取っているのか分からないけど、犬猿の仲とはこのことだろう。
今日休もうかな、そんな考えが頭をよぎった。しかし風邪でもないのに学校を休んだりしたら、姉にどんな目に遭わされるか想像すらつかない——本人は高校時代、サボリの常習犯だったにも関わらず、だ。
観念して、恐る恐る門扉を開けた。
その途端、ぼくの右腕が健康的な彩夏の手でがっしりと掴まれた。
「早く行こ、遅刻するよ」
彩夏は力強く引っぱる。すると今度はぼくの左腕が白く透き通った神宮寺さんの手に掴まれた。
「じゃ、行きましょう、尾野くん」
神宮寺さんもぼくを引っ張り始めた。
な、な、な、なんだこれは!
彩夏とは普段から一緒に学校へ行っているとはいえ、小学校以来手をつないで歩いた記憶はないし、神宮寺さんも昨日の態度から察するに、人にベタベタとくっつくようなタイプじゃないと思っていた。それが今はどうだろう、右腕には彩夏の小さく柔らかな手ともちもちとした頬の感触が、左腕には神宮寺さんの細くとも力強い手と弾力のある膨よかな胸が当たる感触が伝わってきた。
一体何があった! ぼくはいつの間にこんなフラグを打ち立てていたのか!
「ねえケンちゃん。昨日は結局なんの用事があったの?」
彩夏が顔を近づけてくる。その表情はいつも通り、眩しいくらいの笑顔で、昨日の昼休みのことなどなかったような様子だった。
「え、ええっと……」
なんて答えようかと、ぼくは左側にいる神宮寺さんに顔を向けた。すると右腕を彩夏に強く引っ張られた。
「ちょっと、ケンちゃん。よそ見しない。話をする時は人の顔を見てって、小学校の頃に習ったでしょ」
「えっ、ちょっと待て。ぼくの左隣に神宮寺さ……」
「左? 誰もいないでしょ」
彩夏はニシシと白い歯を見せて微笑んだ。
……おいおい、無視しているのかよ。
すると今度は、左腕が引っ張られた。
「尾野くん。さっきから何一人でぶつぶつと呟いているの? 気持ち悪い」
ええっ! こっちも無視ですか!
「怖いのは分かるけど、そんなびくびくして歩かなくてもいいから。もっと堂々として歩かないと、ただの不審者に見られるでしょ」
いやいや、こんなおっかなびっくり歩いているのは、狙われる恐怖からじゃなくて、神宮寺さんと彩夏の間で静かに弾けている火花のせいなんですよ!
再び右腕が引っ張られた。
「何怖がってるか知らないけど、ケンちゃんはあたしのことを信じていればいいんだよ。あたしはケンちゃんのお姉さんなんだから、姉の義務として弟に群がる害虫は排除しないと」
ちゃんと隣を意識して聞いているじゃないか!
今度は左腕から。
「尾野くんは女性経験が少なそうだから、一点忠告しておくけど、独占欲の強い女には気を付けなさい。『わたしは彼にとっての〇〇なんだから』とか何とか言って、自分を特別視する女性とは後々泥沼の諍いが起こるから」
最初の一言は余計だよ、……って、こっちも途中で彩夏の口真似までして、意識しまくっているじゃないか!
また右腕。
「ケンちゃんは普段、あたしや美咲子さんからしっかり教育を受けてるから分かると思うけど、人によってコロコロ態度を変える女性って、その本性を知った時に絶対問題が起こるから気をつけてね」
そして左腕。
「尾野くんも好きな女性のタイプってあると思うけど、わたしに言わせると、TPOを理解しない人間とはあまりかかわり合いにならない方がいい。いつでも誰でもどこででも笑顔見せときゃなんとかなる、だなんて子供の発想だから」
二人の様子に、「フー!」「シャー!」と、犬と猿が牙をむき出しにして威嚇し合う姿を想像してしまった。会ってたった一日でここまで仲が悪くなれるものなのか?
本当は彩夏には昨日メールがちゃんと返せなかったことを謝って、それから昼休みで見せた態度のことをちゃんと説明してほしかったけど、神宮寺さんがいる前では難しい。それに、神宮寺さんともこれからのことをもっと相談したかったが、彩夏を巻き込みたくはなかったので、こっちも今は難しい。
そもそも、とてもそんな会話ができる雰囲気ではなかった。
しようがないので話題を変えることにした。ぼくは二人とは顔を合わせず前を見たまま言った。
「と、ところで好きな俳優さんって、誰だったっけ?」
「「渡別哲郎!」」
彩夏と神宮寺さんの声が見事にハモった。
仲が悪すぎて、実は相性が良いんじゃないか、この二人?