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「転校生の噂は聞いていたけど、ケンちゃんのクラスに来たんだ……」
と、言って、彩夏はキャベツの千切りをもしゃもしゃと食べる。
「知ってたなら、教えてよ!」
ぼくはほうれん草の御浸しに箸を伸ばした。
昼休み、ぼくと彩夏は高校のカフェテリアの片隅で弁当を広げていた。
何故、昼まで彩夏と一緒なのか?
仕事で忙しい母親に代わって、姉がぼくの弁当を作ってくれる。それだけならなんて優しい姉だろう「姉ちゃん、大好き」と純朴な弟として甘えたくもなるのだが、その弁当はあろうことか、家まで迎えにきてくれる彩夏に渡されるのだ。その理由を姉に問いただしてみると、一瞬悩んだような表情を見せた後、面倒くさそうに答えた。
「健吾に渡すとどこかで無くしたり、落としたりしそうで危なっかしいから。……その点、彩夏ちゃんに渡しておけば安心だし。どうせ一緒に昼メシ食うんだからいいじゃん」
どこまで弟を信用していないのだ、我が姉は!
そんなことされては彩夏も迷惑だろうにと、思って聞いてみたところ、
「大丈夫、大丈夫。美咲子さんはあたしを信じてくれてるんだから。その期待にゃ応えないと」
などと言って、率先して弁当運びを引き受ける始末だ。彩夏はとことん姉を尊敬して、従順な態度を取っている。
こうして、ぼくは彩夏のところへ行かないと昼飯にありつけない身分なのだ。
「えっ! 知らなかったの。少し前から転校生の話は噂になってたから、てっきり知ってるのかと」
と、彩夏は目を丸くした。
「……」
はいはい、ごめんなさいねえ、学校の噂に疎くて……。
ぼくは黙って豚肉の生姜焼きに手を付けた。今日の弁当は、生姜焼き、ほうれん草の御浸し、ジャガイモの煮物、それにリンゴ——なんとウサギさん風——だ。どれも美味しく、栄養のバランスもちゃんと考慮され、それでいてぼくがこの世で最も嫌いな食材である卵やら卵やら卵やら……は、我慢できる最小限に抑えられている。無骨な姉でも掃除と料理は得意なのだ。
「……で、転校生ってどんな感じ? 可愛い?」
彩夏はほうれん草の卵とじを口に運んだ。
「うーん、可愛いって言うより、大人びた感じがしたよね。姉ちゃんに近いかも」
「ふーん、そうなんだ……。じゃあケンちゃんの好みだね?」
彩夏は健康的な歯を露にして笑った。
「なんで、そうなるんだよ。……そ、そんなことより、ぼくがびっくりしたのは、見た目とは裏腹にギャップが激しいというか……」
「ギャップ? どういうこと?」
彩夏は大きな瞳をこちらへ向けたまま、こくりと首を傾げた。
「えっと……」
ぼくは午前中の転校生の様子について、かい摘んで彩夏に語って聞かせた。
転校生と昨日初めて会った時は、てっきり年上の女性かと勘違いしたほど、本当に大人びた印象なのに、それとはあまりにかけ離れた最初の挨拶の後、直接転校生と会話はなかった。それでも授業の合間に、早速神宮寺さんと仲良くなろうと、彼女の席に駆け寄ってきた女子たちの会話に聞き耳を立てて、その不思議な印象を強くした。
クラスの女子とはすぐに打ち解けたようだった。しかし、彼女のところに集まった女子たちと神宮寺さんの間で微妙に会話がかみ合っていないように思えるのだ。
例えばこうだ。
「あたし、サヤコって言うんだ。困ったことがあったら何でも聞いて」
と、巻き毛の女子が切り出し、それに神宮寺さんが応えた。
「ありがとー! サヤコ……、ねえ、サヤちゃんって呼んでいい?」
「オーケー、オーケー。……こっちがスズカで、こっちがクミコ」
「じゃあ、スズちゃんに、クミちゃんだね。わたしのことは江麻って呼んで」
「よろしく」「よろしく、江麻ちゃん!」
「ねえねえ江麻ちゃん、どこから引っ越して来たの?」
「東京だよー」
「ええ、すごーい」「いいなあ、東京」「……東京って色々あるよね。江麻ちゃんは東京じゃどんなところへ遊びに行ってたの?」
「……えっと、あ、赤坂かな!」
「赤坂ってどこ?」「さあ?」「……普通、原宿とか渋谷じゃない。そっちへもよく行くの?」
「あ、う、うん……も、もちろん!」
「やっぱりねえ」「そうだ、江麻ちゃんは部活に入る? ……剣道部どう? 女子で一年ってあたしだけなんだよね。どう? 見た感じ運動得意そうだし?」
「わたし、剣道はよくわからないな。それよりクレーン射撃とかサバイバルゲームなら得意だよ」
「クレーン射撃? サバイバルゲーム? そんな部活はないなあ」「ミリタリー研究会ってのがあったっけ。でもあそこって、暑苦しそうな男子ばっかだし……」
「……そうだ、東京だとテレビに映っている人たちが普通に道歩いてるんでしょ、よく見かけるの?」
「まさか……、東京って思った以上に広いし、人多いし。出会っても気付けないし」
「そうなんだ。じゃあ、江麻ちゃんの好きな芸能人は? 若手俳優のテッシーと、お笑いグループ蝸牛のツッコミの方、どっちが好き、どっちがイケメンだと思う?」
「わたしはやっぱり、渡別哲郎かな。昨日のドラマで犯人に鰻重を奨めるシーン、超格好よかったし!」
「渡別って誰?」「知らなーい……」
などなど……。
話し方こそ他の女子と変わらないのに、交わしている内容は、次元の違う世界に住んでいる者同士のようにずれている……。
「ケンちゃん。女子の会話に聞き耳たてるなんて、趣味悪いよ」
ぼくの話を聞いて、彩夏は軽蔑するような眼差しをこちらへ向けていた。
「そこを突っ込んでくるのか……。た、たまたま聞こえただけだよ。聞こうと思って聞いたわけじゃないし」
「ふーん……」彩夏が向ける視線が痛かった。「まっ、いいけど……。それより、その会話、あたしは別に普通の会話だと思ったけど?」
「おいおい、赤坂とか、クレーン射撃とか意味分からないし。それとも、今東京ってそんなの流行ってるのか?」
東京から遠く離れたこんな地方都市じゃあ、流行が伝わるのに数年かかるからなあ。ぼくが知らないだけで、実は今の東京の女子高生たちは、モデルガン片手に赤坂の高級料亭街を練り歩いているのかも。
「さあ、知らない」ぱくりと彩夏はカットされたウサギ型リンゴを丸呑みした。「でも、その子、あたしとは趣味が合いそう」
「……そりゃ良かった」
彩夏が朝に話していた刑事ドラマの大門堂刑事役が渡別哲郎という俳優なのだ。年配男性にファンが多い、渋さが売りのおじさまである。
「それに、顔と話し方の雰囲気が違うなんてのも、よくある話だと思うけどな。……ほら、男どもの視線を吸い付けるほどの美貌の持ち主であるあたしが、こんなざっくばらんなしゃべり方をしてるんだし」
いや、彩夏の顔と声は全国民が納得するほどに一致している。それに誰が美貌の持ち主だって?
「……ところでケンちゃん。その転校生と昨日会ったの?」
「えっ?」
驚いて彩夏を見る。彼女は唇を尖らせ、何かを探るような目でぼくを見ていた。
「どうしてそんな重要なことあたしに教えてくれないの……」
「じゅ、重要なこと……?」
「そう、ケンちゃんが知らない女子と会ってたなんて、とっても重要なことじゃない」
そうなのか? いや待て、外を歩いて女性と出会わない方がおかしいぞ。
「会ったというか、すれ違っただけで……。そんなことを、どうしてわざわざ教えなきゃいけないんだ?」
彩夏は今度はハムスターのように頬をぷくっと膨らせた。
「そりゃ、お姉さんを自称するあたしとして、ケンちゃんの身の回りで起こったことはちゃんと把握しておかなくちゃ」
と、言って、彩夏は紙パックのお茶をストローでズズズッと吸い上げた。
どうして何でもかんでも彩夏へにの報告義務があるのか? こういった保護者面がたまに鬱陶しく感じる。このままエスカレートしていくと、そのうち、ベッドの下やパソコンの隠しフォルダに保存している《男の大切なコレクション》についても報告しろとまで、要求してくるんじゃないだろうか。
「ん? 大丈夫。ケンちゃんが最近新しく仕入れたことは知ってるから。えっと、タイトルは確か、女子大生の……」
「ノーーーー!! シャラップ!」
慌てて彩夏の口を塞いだ。
まさか、ぼくの心の声でも聞こえたとでも言うのか! いやそれよりも、どうしてその《事実》を知っている!
「ケンちゃんのことは何でも知ってるんだから」
と、彩夏はぼくが塞いだ手を押しのけて、ニシシと小悪魔のような笑みを浮かべていた。
いったい彩夏はどこまで知っている? 何故知っている? 人気のないところへ連れて行って全部吐かせないと……、安心して夜眠れない。
彩夏に口を割らせる方法を考えていると、唐突に、頭上から声をかけられた。
「相変わらず仲のいい二人ね」
二人して見上げると、クラス委員の本田さんが食堂のトレイを持って立っていた。
「隣、いい?」と、本田さん。
今後の人生を左右しかねない機微な内容が話題に上がろうとしていたので、人を寄せ付けたくなかった。特に人脈の広い本田さんだ。彼女が握った情報はたちまち学校中、いや街中に広まることだろう。
「他の席が空いている……」「どうぞ、どうぞ!」
ぼくの声を押し退けて、彩夏が快諾しやがった。
「ありがとう」と、言いながら、彩夏の隣に本田さんが座った。「楽しそうね、何の話をしてたの?」
「えっと、ケンちゃんの秘蔵コレクションについて……」
「ち、が、う!」密談する越後屋のように手で口元を隠す彩夏と、悪代官のようににやつきながら耳を近づける本田さんに向かって叫んだ。「……今日来た、転校生について話してたんだよ」
「なんだ、そうなの? てっきり尾野くんの性癖が知れると思ったのに」
本田さんはとても残念そうに口を曲げた。
……どうして、今の断片的な話だけでそっち方面の話だと推測できる? どいつもこいつも直感の鋭い奴ばかりだ。
「神宮寺さんなら、丁度私がさっきまで学校を案内してて、それが終わって、昼食を取りにきたの」本田さんはぱっと手を振った。「神宮寺さん、こっち、こっち!」
ぼくと彩夏も本田さんが見ている方へ目を向けた。
彩夏の口から小さく「あっ」と、声が漏れた。
神宮寺さんがこちらに向かって歩いてくる。安っぽいプラスチック製のトレイがもし銀製だったら最高に様になっていたのに、と思えるほど、歩き方はとても優雅だ。他の席に座っている生徒たちもジロジロと彼女を見ていた。
「なんか凄いことになってるな」
彼女の注目度に目を見張る。
「さっき神宮寺さんと一緒に歩いていた時も、生徒だけじゃなく先生まで振り返るんだから。まあ、ああいう美人で大人びた人って、上級生にも殆どいないし。明らかに浮いている感じ」
と、本田さん評。
ぼくの中では本田さんも十分大人びた方だと思う。が、それは年相応からちょっと背伸びをした程度であり、神宮寺さんは次元が違った。大人と呼ばれるために登らなければならない階段ををとっくの昔に経験したような、そんな印象だ。
神宮寺さんはぼくたちの席に来ると、空いていたぼくの隣に座った。微かに甘いミルクのような香りが漂ってくる。
「お待たせ、本田っち!」
本田っち? 神宮寺さんの言葉にぼくは耳を疑った。こっそりと対角線上にいる本田さんを見ると、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。……なんか、可愛いな。
「安いねここの食堂。しかも超美味しそう! おっ、見て見て、この人参、ハート形で可愛くない?」
神宮寺さんは相変わらず、大人びた風情からは全く想像できない口調だった。
「こっちに星形もある!」
本田さんが心なしかひきつっているような笑みを浮かべた。
「このカレー凄いね」
カフェテリアの安物カレーのどこが面白いのか、神宮寺さんはゲラゲラと笑い始めた。
神宮寺さんとどう接して良いのか分からない。そんな彼女を受け入れられている本田さんに敬意すら覚えた。本当に受け入れ切れているかどうかは分からないが……。
「神宮寺さん、一応紹介しておくと」本田さんはカレーの具材にみとれている神宮寺さんの注意をぼくたちの方へ向けた。「彼女は遠山さん。私たちとクラスは違うけど、体育は合同ね……って、遠山さん、大丈夫?」
今の彩夏の顔は、笑顔でも拗ねたような膨れっ面でもなかった。幽霊でも見たかのような驚愕した表情を浮かべ、じっと転校生の方を見ていた。唇がプルプルと震え、心なしか青ざめているようだ。
「おい、彩夏?」
いつもと違う彩夏の様子に、ぼくも気になって声をかけた。すると彩夏ははっと我に返ったかのように、ぼくを見返してきた。
「な、なに、ケンちゃん?」
やけに緊張したような声だった。
「何かって、どうした、気分でも悪いのか?」
彩夏はぼくと本田さん、そして神宮寺さんを順に見ると、ゆっくりと立ち上がった。
「あたし、先に行くから……」
「お、おい」
引き止める間もなく、彩夏は弁当箱を手に持って、何も言わず早足でカフェテリアを出て行ってしまった。
体調不良だろうか、それとも何か気に触ることでも言っただろうか? まさか、昨日転校生に会ったことを彩夏に伝えなかったことを本当に根に持っているのか?
でも突然席を立つような失礼なことをする奴じゃないんだが……。
しかし今は彩夏のことよりも、この場を収めないと。
「ご、ごめん」
ぼくは二人に向かって謝った。
「尾野くんが謝らなくても、別に気にしてないから。……気分でも悪いのかな、遠山さん」
本田さんは心配そうに彩夏が出て行った方を見ていた。
一方、神宮寺さんを見ると、彼女のの表情から先ほどまでの笑顔がなくなっていた。能面のような無表情を彩夏のいた席に向けていたのだ。
その表情に驚いて、ぼくはなんと声をかけていいのか分からなかった。
「う、うん?」
ぼくの視線に気づき、神宮寺さんは慌てた様子でぼくと本田さんの顔を交互に見ると、「ご、ごめんごめん。ちょっと考えごとをしてたから」と言って、笑った。しかしこちらもどことなくぎこちなかった、ような気がした。
彩夏がいなくなった席でぼくたちは昼食を続けた。神宮寺さんの口数は明らかに減り、時折難しそうな表情を浮かべていた。本田さんが話題を振っても、神宮寺さんは笑って一言二言返事をしたが、すぐに会話が途切れた。
ぼくは女性を楽しませるような会話術なんて全く心得ていないので、黙って座っているしかなかった。
さっきまでの楽しい雰囲気から一転、重い空気がテーブルを包み込んでいた。
……どうしてこうなったのか? さっぱり分からない。
本田さんが一足先に食事を終えたぼくの顔をじっと見つめていた。そして口だけをパクパクと動かしている。
『ごめん、先に席立っていいよ』
そう言っているようだ。
お言葉に甘え、ぼくは弁当を片付けて、席を立った。
「じゃあ、ぼくは先に行くから。本田さんたちはゆっくりしてて良いよ」
そう言い残して、カフェテリアを後にした。
……ふーっ、ようやく体が軽くなった。女の子と食事をするのも大変だなあ、彩夏と二人の時は窮屈さを感じないのに。
さてどうしようか? 午後の授業までまだ少し時間はある。教室で寝てるか、図書館で寝てるか……。それとも彩夏の様子をやっぱり見に行った方がいいだろうか? あの様子は彼女をよく知ったるぼくから見れば、明らかに不自然だった。
その時、後方からこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
「あの、尾野くん」
振り返るとそこには神宮寺さんがいた。
彼女はへらへらと笑っているわけではなく、真剣な表情で真っ直ぐぼくを見ていた。
……これはどうしたことだ?
「なに、急に?」と、言おうとする前に、神宮寺さんは背を伸ばして唇をぼくの耳元近づけてきた。甘い匂いが鼻孔をかすめる。
「尾野くん。放課後、ちょっと時間をくれない? 話をしたいの、……二人だけで」
そう言って、神宮寺さんは踵を返すと、早足でカフェテリアへ戻って行った。