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さすがに彩夏とはクラスまで一緒だというご都合主義的展開にはなっていない(誰にとって都合がいいのか?)。昇降口前で彩夏と別れてそれぞれの教室へ向かった。別れる時、ちゃんと勉強するんだよ、といつものように諭されてしまった。筆記に関してだけ言えば成績はぼくの方が良いのだが。
教室に入ると、お喋りしている女子グループやら、席でマンガ雑誌を読んでいる男子など、既に半分くらいの生徒がいた。
席に着いて、鞄から荷物を取り出すと《それ》が転がり出てきた。
「あっ」
くしゃくしゃになった封筒。昨日、黒いワゴン車から投げつけられたものだ。あの時はすぐに封筒を鞄の奥底に押し付けて、走るように家に帰った——ただし、途中、つぶれた卵と牛乳を買い直すためコンビニには寄った。
改めて見ると、この手紙は一体なんだろうか?
〈研究会への参加を中止せよ〉
研究会とは、昨日、博士の元に届いたリヒャルト財団から送られてきた招待状にある、研究会のことだろうか?
他に思い当たらない。
……だとしたら、これはもしかして脅迫状? どうしてこんなものがぼくに? 誰から? その意図は?
今日寝不足だったのも、ゲームをやっていた他に、この手紙が気になってしようがなかったからだ。脳内ではたくさんの疑問と不安が交互に並んでマイムマイムを踊っているようだ。
「おい、尾野」
「うわっ!」
突然背後から声をかけられ、驚いて叫び声をあげてしまった。教室中の生徒たちが怪訝そうな表情で一斉にぼくへ視線を向けてきた。
「おいおい、どうした。俺だよ」
声をかけてきたのは、同級生でぼくのすぐ後ろの席に座っている森川だった。
「なんだ、森川か……」
「なんだとはあんまりだな、お前の唯一無二の大親友である俺に向かって」
顔から足まで全身日焼けしている野球部員の森川は、大きな鞄を粗雑に机の脇に置くと、椅子にどかっと大股を開いて座った。
「出会って数ヶ月そこそこで大親友だなんて大げさな……。それに森川が唯一無二の友人ってわけじゃない。もう少し友達はいるし」
森川の他に、彩夏。それに……えっと……、まあすぐには思い浮かばないくらい友達はいる、ことにしておこう。
「何言ってる。親友に過ごした年月なんて関係ない。知り合って数か月? 今この瞬間、二人が心の底から親友と言えるかどうか、重要なのはそれだけだ!」
拳を握りしめ語る森川がちょっと格好よくて、ぼくは「おおっ」と感嘆の声を上げた。
「で、そんな親友からの大切なお願いだが、……宿題見せてくれ」
手を合わせ、頭を下げる森川。
「……」
感動した自分が馬鹿らしくなった。……まあ、いつものことだけど。
ぼくは握り締めていた封筒と便せんをこっそりと鞄にしまい、代わりに授業ノートを取り出し、黙って森川に渡した。
「おお、さすがは心の友!」と、ガキ大将みたいなことを言いながら、森川は早速自分のノートに答えを書き写し始めた。「……ちゃんとびっしり書いてある。尾野、お前凄いな。秀才だな」
「……森川と違って、ぼくは帰宅部だから、宿題する時間があるんだよ」
本当は、博士というチートが存在するのだが、それには触れない。
博士とぼくの関係は、家族や彩夏などごく一部の人しか知らない。博士はこの街で十大変人の一人として名が知れ渡っているのだ。確かに超科学やオカルト趣味に走り偏屈な性格をしていたら、そう思われていても不思議はない。そんな空気の中で、博士との関係は言い出しにくい。しかし、博士も機嫌が良ければ穏やかで宿題も教えてくれる、紳士的な人だ。何時か変な誤解が少しでも解ければ、と思う。ぼくとしてはこの街に、博士みたいな人があと九人もいることの方が不気味だ。
森川は五分ほどで、全ての宿題を写し終わった。かなりの筆記スピードだ。その頃には、生徒がほぼ全員教室に揃っていて、ワイワイと騒がしくなっていた。森川は礼を言いながら、ノートをぼくに返却した。
「そうそう、尾野、知ってるか? 今日、このクラスに転校生が来るらしいぞ」
「転校生?」
初耳だった。朝、彩夏もそんな話をしてはいなかった。何時の間にそんな話題が広まっていたのだろう?
森川は大きな鞄からメロンパンを取り出して、食べ始めた。
「山ジイが見たことない生徒と一緒に校長室へ入っていったって……。男か女かはまでは分からねえけど。まさか、……ハグハグ……、こんな地方の変哲もない高校に、……モグモグ……、転校生だなんて、……クチャクチャ……、驚きだよな」
山ジイとはぼくたちのクラス担任のあだ名だ。正確には山路先生。社会科担当、四十代独身、趣味は鉄道。
「ふうん。確かに珍しいね」
と、言いながら、ぼくの制服にまで飛び散ったパン屑を払う。
「モグッ……? 淡白な反応だな。尾野は転校生が気にならねえのか?」
「別に、それほどでも……」
体育祭、合唱祭、クラス内レクリエーションなど行事が目白押しで、同級生は一心同体家族みたいなものだといった雰囲気の中学校までと比べると、高校はクラス内の連帯感は薄くなりがちだ。もちろん仲良しグループや部活動を通じた固い結束は作られるが、クラス全体として大きなまとまりは感じられない。勉強を共にする仲間、程度だ。そんなところに新しい人が入ってくると言われても、正直それほど感慨は湧かない。
「綺麗で、可愛い女の子だったら良いよな……」
そう言って、森川は顔をにやけさせた。
「今のクラスの女子だって、可愛い子はいるだろ?」
「例えば?」森川が不審そうな表情でぐっと顔を近づけてきた。
「例えば……」森川の暑苦しい顔から逃れようと教室を見渡した。「本田さんとか……」
教室の前の方で、数人の女子に囲まれ笑顔を見せている本田さんがいた。彼女はクラス委員で、勉強、スポーツも万能、しかも人気者だ。クラス内外を問わず彼女に気のある男子は何人もいるらしい。
しかし森川は苦虫をつぶしたような表情で、胸元に両手でバツを作った。
「ダメダメ、あいつは笑顔が作り物っぽい。裏じゃあ何考えてるか分からない、とんだ腹黒女だ。女蟷螂だ、オスをムシャムシャと食べる……。中学時代、俺はあいつに何度ひどい目にあわされたことか……」
「誰が、腹黒女で女蟷螂ですって?」
気づいたら、本田さんが目の前にいた。ぼくたちの視線に気づいてこっちへ来たらしい。
彼女の表情はニコニコと微笑んでいたが、何故だろう、首元に死神の大鎌を突き付けられたような恐怖を感じた。
「いえ、そんな滅相もございません」森川も同じ危機を感じたらしい、ぶるりと体を震わせた。「本田って綺麗だよなって話をしてたんだ、……な、なあ、尾野」
森川の見事な掌返しに唖然としたが、ここは大親友として話を合わせることにした。「う、うん。そうそう、勉強もできて人気者ですごいなって」
「……本当に?」
本田さんはあからさまに疑っているような表情だったが、丁度タイミングよく、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。同時に、クラス担任の山ジイが姿を現した。本田さんはそれ以上何も言わず自分の席に戻って行った。ぼくと森川は「助かった」と、ほっと胸をなでおろした。
全員が席に着くと、お経の山ジイという異名を持つ山路先生は、一言聞いただけで眠りを誘いそうな抑揚のない声で言った。
「今日からこのクラスに新しい仲間が加わります」
教室は静かなままだった。みんな既に知っていたのか、それとも関心がないのか?
山ジイは廊下に向かって声をかけた。「じゃあ君、入ってくれ」
次の瞬間、静かだった教室の様子が一転、男子も女子も「おおっ」と声をあげ、入ってきた転校生に視線を釘付けにされた。
教室に入ってきたのは女の子だった。
全身から大人びた雰囲気が発散されていて、同年代のクラスの女子たちとは明らかに一線を画していた。長い黒髪をなびかせて山ジイの元へ歩いていくその姿は、非常に洗練されていて、ファッションモデルを彷彿とさせた。しかし、口元はきつく結ばれ、長いまつげに彩られた細長の目から発せられる視線は厳しく、威嚇すらしているようだった。
綺麗で格好いい、でも、取っ付き難そう。それが教室に入ってきた転校生への第一印象だった。
だから、彼女の自己紹介を聞いた時、クラス中が呆気にとられた。
「いえーい、初めまして、わたし、じんぐうじ、えま、って言います!」
挨拶している横で、黒板に《神宮寺 江麻》と転校生の名前を書いていた山ジイは、バキリとチョークを折ってしまった。
「時期外れなんだけどー、家の関係でこの高校へ転校してきたんだよね。ちょっとドキドキしてどーしよなんて。でも、みんなよろしく!」
転校生はニッと歯を剥き出しにして笑った。
容姿が放つ威圧的な雰囲気からは全く想像できない軽薄とも言える挨拶に、教室中の全員が戸惑っていた。
そりゃそうだろう。見た目とのギャップがあり過ぎだ。
目の前に熊が現れても半分閉じた瞼が持ち上がることはないと思われている山ジイですら、折れたチョークを持ったまま、ポカンと口を半開きにしている。
どう扱ったらいいだろう? そんな雰囲気が漂う中、一番始めに順応したのは、我らがクラス委員、本田さんだった。
「よろしくね、神宮寺さん」
本田さんは一人パチパチと拍手した。そしてようやく、一人、また一人と、拍手の輪が広がっていった。
「よろしくー、よろしくー、ブイブイ」
転校生は教室を見渡しながらVサインを見せつけていった。
「な、なんだ。あれは……」
背後から、森川の戸惑った声が聞こえてきた。
森川の気持ちはわかる、ぼくも同様だ。しかしそれよりも気になったのは、転校生、神宮寺さんの声がどこかで聞き覚えがあったのだ。……しかもつい最近。
「どこだったっけなあ……?」
全く思い出せない。人の声が直ちに聞き分けられるほど、ぼくの対人コミュニケーションスキルは高くない。
「じ、神宮寺の席は、……とりあえずあそこだ」ようやく衝撃から立ち直った山ジイは、彼女の座る席を指差した。なんとぼくたちのいる方向だ。「尾野……じゃなかった、森川の右隣の机だ」
「了解でーす」
神宮寺さんは、兵隊の敬礼のようなジェスチャーをとると——姿だけなら、有能なエリート士官のようだ——、軽やかな足取りで、ぼくと森川の方へ近づいていた。ぼくのすぐ脇を通り過ぎようとした時、彼女の足がピタリと止まった。
「あっ?」
彼女の驚いたような声に、ぼくは顔を上げて、神宮寺さんの顔を見た。品定めをするような彼女の細く鋭い目がこちらを見つめていた。
「君、この高校にいたんだ。……昨日は災難だったね」
神宮寺さんはそう言った。
ぼくは首を傾げる。彼女とはどこかで会ったような気はする。しかし思い出せない。
「わたし覚えてない? ……ああ、そうか」神宮寺さんは片方の手で自身の髪を後ろで絞るように掴んだ。広いおでこが露になる。
「あ、ああ!」
ようやく思い出した。昨日、博士の研究所から自宅への帰り道で会ったジョギング女性だった。