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朝、玄関を出ると、道路と家の庭を仕切るアルミ製の門扉を挟んで、楽しそうにおしゃべりしている二人の女性がいた。
ぼくの気配に気づいたのか、門扉の外側に立っている制服姿の小柄の少女が顔を上げた。
「ケンちゃん、おはよう! ……寝不足? また遅くまでゲームしてたんでしょ?」
あくびするぼくの姿に、咎めるような口調で少女、遠山彩夏が言った。
ぼくは「うん……そんなところ」と、軽く頷いて、門扉のところへ歩み寄った。すると突然、門扉の内側にいたもう一人の女性、我が姉におもいっきり尻を蹴られた。
「痛てっ、姉ちゃん、何するんだよ……」
「おら、ちゃんと挨拶しろや! 折角、彩夏ちゃんが迎えにきてくれたんだぞ」
姉は恐喝するような声で怒鳴って、細く吊り上がった目でぼくを睨みつけてきた。
「別に、いつもことじゃん……」
ぶっきらぼうに答えると、姉に制服のネクタイをぐいっと強く引っ張られた。
「痛い痛い、首! 首! 息が詰まる!」
必死に反抗するも、姉の力は強く逃れられなかった。
「人の優しさを当たり前と思うなんて、男じゃねえ、いや人間ですらねえぞ。『こんなヘタレで下賎なぼくを見捨てずに今日も迎えにきてくれてありがとうございます』って言いながら、彩夏ちゃんに涙を流して感謝しな!」
……実の弟に向かって酷い言いようだ。だがこれが我が姉なのだ。
「大丈夫ですよ、美咲子さん。あたしが好きでやってるんですから」
彩夏はぶんぶんと首を左右に振った。
ようやく姉はネクタイから手を離し、乱暴に突き放した。よろけるぼくを彩夏が支えてくれる。
姉は冷たい目線でぼくを一瞥すると、子供を叱っている最中に電話がかかってきた主婦よろしく、別人のように柔らかな声音で彩夏に言った。
「じゃあ、彩夏ちゃん。この愚弟をお願いね」
「はい、お任せください!」
彩夏は豊かとは言えない胸を張って、姉に向かって力強くうなずいた。
こうして、いつもと同じようなやり取りを経て、いつもの通り、ぼくは彩夏に引っ張られる形で、高校へ向かうのだった。
遠山彩夏は小学校入学前からの知り合いで、同じ小学校、同じ中学校、そして今も同じ高校に通っている。いわゆる幼馴染というやつだ。そんな立ち位置と、周囲からは明るくしっかり者だと評される彼女の性格から、ぼくのところへやってきては、「歯磨いた?」「風邪ひいてない?」「勉強やった?」などなど、いつも気にかけてくるのだ。
今、ぼくと一緒に高校へ向かっているのもその一環。おかげで未だ無遅刻無欠席、皆勤賞だ。
そんな彩夏は周囲に対して「あたしはケンちゃんのお姉ちゃんみたいなものだから」と公言してはばからない。
……どうせ自称するなら妹が良かった。「お兄ちゃん、大好き!」と言ってくれるような優しくて兄思いの妹が。溺愛したくなるほどの可愛い妹の存在こそ、王道中の王道ではないか!
事実、彩夏は見た目だけなら、可愛い……という評価は脇に置いておくとして、低い身長、発達前夜の胸、そしていつも子供っぽくニシシと笑っている童顔と、まだまだ中学生、いや頑張れば小学生と間違えられても無理はない、典型的な妹キャラだ。
それなのに、既に喧嘩っ早い実姉に虐げられている状況下で、何故、自称姉にまで口うるさく管理されなきゃならんのだ! 彩夏はぼくなんかよりもずっとしっかりとした性格で、まあ確かに誕生日も半年近く彩夏の方が早いけど、やはり納得がいかない……。
実際、彩夏が「お姉さん」として、気をかけてくれることに悪い気分はしないし、感謝することも多い。しかし、肩身が狭いことこの上なく、ぼくの一挙手一投足に対して口を出してくることに、最近は鬱陶しいと感じることもないわけじゃない。
「……でね、そこで大門堂刑事が犯人に言った台詞に超しびれちゃった。なんて言ったと思う?『かつ丼は嫌いか? じゃあ鰻重を食え』って。これで犯人が号泣してすべて自白したの。というのも、犯人の実家が鰻屋さんでね、刑事の言葉を聞いた犯人は子供の頃の気持ちを思い出したの。刑事がちゃんと犯人の人となりを知ったうえで接してる人情に厚い人だってわかる、今シーズン一番の名シーンと思わない? ……って、ねえ、ケンちゃん聞いてる?」
その声にはっとして、ぼくは隣を歩く彩夏へ視線を向けた。彼女のくりっとした大きな瞳がこちらを見つめていた。
「あ、ごめん……」
「聞いてないの? せっかく大門堂刑事が体現する男の美学ってやつを教えてあげているのに……」
そう言って、彩夏はアヒルのように口を尖らせた。
大門堂刑事というのは、彩夏が毎週欠かさず見ているテレビドラマ《特命刑事一課》に出てくる定年間際のベテラン刑事のことだ。
彩夏は刑事モノ、特に走ったり拳銃で派手にドンパチする系のドラマや映画が大好きなのだ。今時の女子高生にしては相当変わった趣味だと思う。
彩夏の趣味は、彼女に依ると、吉見のおじさんの影響だという。おじさんもこういうドラマが大好きで、家は刑事ドラマやヤクザ映画のDVDで埋め尽くされているらしい。
その吉見のおじさんを、ぼくはずっと昔に一度だけ見たことがある。その姿を見た時、ぼくはすくみ上ってしまった。二メートル近くもある大男で、真っ黒なサングラスをかけ、頬には大きな傷があったのだ。おじさんの職業は不明。周囲から建築会社の重役だとか、警察関係の人らしい、という噂が聞こえてくるが、仁義と任侠の世界に生きる、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者、と言われた方が納得できる。
そんな彩夏の家庭は少々複雑だ。父親は彩夏の小さい頃に蒸発、その影響で母親は心身を悪くし、そして謎の遠い親戚、吉見のおじさんが同居している、ということまでは知っている。とくにおじさんについては色々と想像できてしまうシチュエーションだけど、あまりに機微な話なので、詳しくは聞けていない。しかし、そんな複雑な家庭から、よくもまあ、名前の如く、真夏の日差しを浴びた向日葵のように明るい子が育ったものだと、不思議でしようがない。
「何か考え事?」と、心配そうな様子で彩夏が訪ねてくる。「困ったことがあったら、なんでもあたしに聞いて。なんたって、あたしはケンちゃんのお姉さんみたいなものなんだから」
……また「お姉さん」だよ。
「う、うん。まあ、色々……。家のこととか」
彩夏のことを考えていた、とはさすがに恥ずかしくて言えない。
「なるほどねえ」何を納得したのか、彩夏はうんうんとうなずいた。「それにしてもケンちゃん、美咲子さんと、本当に仲いいよね?」
美咲子は、ぼくの姉の名前だ。
「どこが? さっきのあれ見ただろ。普通に殺されそうだったんだから。姉ちゃんとは、ことあるごとに喧嘩ばっかりだよ」
正確には、喧嘩以前に、圧倒的力差により、瞬時にぼくが屈服させられるのだが。
「でも、喧嘩するほど仲が良いって、言うでしょ?」
「限度があるだろ」
「そんなことないよ。そもそも、ケンちゃんが高一で、お姉さんが大学二年でしょ。普通、そんな年で姉が弟にあれこれかまったりしないって。美咲子さん、ケンちゃんのことが大好きなんだよ」
「そ、そうかなあ……?」
確かに、ぼくの母親は友達と共同経営しているブティックの仕事で夜遅くまで働いていて、朝は起きるのが遅い。そんな母親の代わりに、姉はずっと昔から、朝ご飯やら洗濯やら、更にはぼくのお昼の弁当まで作ってくれるのだ。そこは素直に感謝している。だがしかし、それ以上に、八つ当たり的に尻を蹴られたり、風呂上がりに肩を揉まされたりと、いじめられ、こき使われている記憶の方が多いぞ。ぼくに言わせれば暴君だ。
彩夏の目には、そんな姉が聖女のように映っているらしい。人の認識とは実に多様なことか。
「そうそう、美咲子さんのさっきの言葉、格好良かったね。あれも、ケンちゃんに対する愛あればこそ、出てくるんだよ!」
実はあの言葉、最近、三ヶ月ほど付き合っていた彼氏と別れたイライラから発せられたことを知っているので「ふーん」とだけ答えておいた。
「……やっぱりいいよね、姉弟って」
そう、彩夏が小さくつぶやく声が聞こえた。