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船は昨日出港した場所に戻ってきた。
財団が必要とする情報を持っていなかったぼくと博士は用済みとばかり、船から追い出された。
某国へ拉致されることもなく、サメの餌になることもなく、無事に戻ってくることができた。彩夏や吉見さんとその部下たちも見つかることなく、一足先にこっそりと脱出したらしい。もっとも、博士の講演が終わった後、財団関係者はよほどダメージが大きかったのか、コーネリウス氏も含めてみんな魂を抜かれたような様子で、侵入者のことなど構う余裕はなかったに違いない。ぼくや博士のことも放ったらかしにして、再び姿を見せることはなかった。
ぼくは二人分の荷物を引きずりながら、博士と一緒に、閑散とした倉庫街を歩いていた。
「全く、帰り際に挨拶の一つもせんとは、礼儀の知らん奴らじゃ」
自分の荷物を人に持たせ、手ぶらで歩く博士がぶつくさ文句を垂れていた。
「あのう、博士?」
「何じゃ?」
博士は不機嫌そうな顔をぼくへ向けた。
「ねえ、さっきの講演で永久機関の理論に問題があったって話、……本当?」
「ああ、あれか」博士は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。「……理論を根底から覆す致命的な問題を発見したのは本当じゃ。帰ったら論文撤回の申請をせんといかんのう。まあ、弘法も筆の誤りと言うではないか、そういうこともあろう。しかしきちんと間違いは間違いだと素直に訂正しなければならん。ワシは何が何でも自説を曲げない似非科学研究者どもとは違うのじゃ」
「……そ、そう」
ここは素直に褒めるべきところだろうか? それとも、どの口が言うかと突っ込むところだろうか?
とにかく、あの時博士と心が通じ合って、芝居をうっていたわけではなかったらしい。人の心なんて容易く通じはしない。残念と言うべきか、当然と言うべきか……。
「しかし、あの財団、ワシらを利用して何を企んでおったんじゃろうかのう?」
「はっ?」耳を疑った。「……博士、財団のこと知ってたの?」
「なんじゃ、助手は知らんかったのか?」博士は分数計算ができない大学生と出会ったような表情を浮かべた。「細かいことまでは知らんが、……最初に助手があの娘を連れてワシの研究所に来たことがあるじゃろ。あの子を見てすぐに財団が何やら企んでいることは分かった。それでワシはさっさと逃げ出したんじゃ。しかし財団に多少は興味もあったから、ここまで付き合ってやった。それなのに奴らのワシに対する待遇と来たら……」
なんてことだろう、博士も財団が怪しいと分かっていたのだ。気付かなかったのはぼくだけ。……穴があったら入りたい気分だ。
ブツブツ文句を言い続けている博士の隣を歩いていると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンがブルブルと震え始めた。立ち止まって画面を確認する。
発信者の名前を見た時、心臓が一瞬止まりかけた。
〈神宮寺江麻〉
結局、彩夏たちに拉致……もとい保護された時以来、彼女と顔を合わせることはなかった。
なんとも言えない複雑な気持ちが去来する。
もう声すら聞かない方がいいんじゃないか? そう思ってしばらく画面を睨んでいたが、結局立ち止まり、通話ボタンを押した。「……もしもし」
『わたし、だけど』
江麻のためらいがちな声が聞こえてきた。
「……」
ぼくは何も答えず続きを待った。
数秒の間があって江麻が切り出した。
『……もう全部知ってる、よね』
「……うん」
感情を極力抑えて言ったつもりだったが、声が震えてしまった。
『あの負け犬ちゃんか……。やっぱりあの時、ヤッておくべきだったか』
どす黒いものを含んだ言葉が聞こえたが、すぐに冷たく事務的な声が続いた。
『じゃあ今までのことは全て忘れることね。どうせ《調査員》からも言われてるでしょ。下手に関わると本当に死ぬから。……じゃ』
電話を切ろうとした江麻をぼくは思わず呼び止めていた。
「ちょ、ちょっと待って。あの、幾つか、聞きたいことがあるんだけど……?」
『貴方の大切な幼馴染みちゃんからほとんどは聞いたでしょ。……今更何を、どうして聞きたいの?』
少し怒っているような声だった。
「……ちゃんと江麻の口から聞きたいんだ。……自分でちゃんと理解するために」
それと、江麻の声をもう少しだけ聞きたかった、という気持ちもあった。
『私さっき、もう忘れろと言ったんだけど?』
「お願い」
スマートフォンを持ったまま、誰もいない方向へ頭を下げた。
沈黙がしばらく続いたが、やがて『はあー』と溜息が漏れ聞こえてきた。
『今更誰も喜ばないし、何の得にもならないけど、健吾がそれで納得するなら……』
「ありがとう」
『な、何でお礼を言うの? わたし、健吾を騙してたんだよ』
「そりゃ、まあ、なんて言うか……」
それこそ日本人的性質故に、つい反射的に言っただけなので特に深い意味はない、が、言っちゃいけない理由も思い浮かばなかった。
『……本当に、お人好しなんだから。まあいいけど。実際、健吾が既に知っていることについて、何も付け足すことはない。わたしが最初に言った世界の自由とかなんとかは全部方便。財団はドクターの研究を独り占めしようとした。そのためにわたしは貴方に近づいた。健吾を守るためじゃない、情報を盗むために』
「《権益者たち》っていうのも、嘘なの?」
『ああそれね、……もちろん、そんなのあるわけないに決まってるでしょ。健吾ってそういう闇の組織から世界を守る話が好きそうだから使っただけ』
出会って間もない人ですら気付けるほど、中二病臭を振りまいていたんだね、ぼく。そして否定できないところがまた辛い。
「博士の永久機関をどうして狙ったの? そもそも、あんな嘘くさい論文集に収録された内容をどうして信じたの?」
『チッ……』と小さく舌打ちする声が聞こえてきた。財団としてももう触れたくないのだろう。欠陥論文に踊らされたぼくも間抜けだけど、一番踊らされていたのは財団の方だ。
『……その論文が正しいかどうかは、財団内でも判断が下せなかった。でも本当に正しくて、他の組織が奪ったら大問題だから、先んじて情報を取得することにしたの。正しいかどうか分からない時は被害を最小にする選択肢を選ぶ、意思決定の基本だと思うけど?」
……ついさっき同じようなことを聞かされた気がする。
これじゃあ、ぼくはお互いの残念な思い込みの結果に巻き込まれただけじゃないか!
「もし永久機関が本物だったとして、それを奪ったらどうするつもりだったの?」
『それは……聞かない方がいい。知ったら、本当に健吾をドラム缶にコンクリ詰めにして、東京湾に沈めないといけなくなるから』
どこの組織の制裁だよ! 今時、ヤクザでもそんなことしないだろ。
しかし、江麻の凄みのある口調から、この話は本当にこれ以上詮索しない方がいいと感じた。
『まだ聞きたいことはある? ……なんだか警察と名探偵に、断崖絶壁の海岸に追いつめられた犯人の告白らしくて、これもこれで悪くないね』
妙なツボを刺激したらしく、江麻の声がこころなしか明るくなったような気がした。……断崖絶壁の海岸? この単語もさっき聞いたような。
「あとは……、学校で幾つかあったぼくに対する嫌がらせ、あれは江麻がやったの?」
『一部、ね……』江麻の声が小さくなる。『いかにもイジメっぽく、上靴に画鋲入れたり、机にイタズラしたり。だって、健吾って逆境に晒されるほど意地を張って、研究会に出てくれそうだったし』
これもさっき同じことを言われた。スパイとは人の性格を掴むのがとてもうまいのか、それともぼくの性格があまりに分かりやすいのか……。
『あとは、下着事件。あれもわたし。……そ、相当恥ずかしかったんだから』
「ぶはっ!」
江麻が急に恥じる乙女チックな声を出したものだから、驚きで色んなものが口から飛び出しそうになった。
あれは自作自演だったのか。……どうりで予備とかなんとか準備が良かったわけだ。
モデルみたいな顔立ちなのに、お笑い芸人並みに体張ってるな。
ふと彩夏の顔が脳裏をよぎった。立場が違っていたらもしかしてあいつもこんなことするのか……。い、いけない鼻が熱くなってきた。
「え、えっと、他には?」
一二度大きく深呼吸して心を落ち着かせてから、江麻に先を促した。
『脅迫状を何枚か。下着事件の時や、机にイタズラした時の脅迫状は、わたしの仕業』
「えっと……じゃあ他のは?」
『他……? あとは知らない。学校への匿名電話とか残りはあいつ……幼馴染みちゃんが健吾を研究会へ行かせないように妨害したんでしょ? 手の込んだ切り抜き脅迫状が出てきた時は、ちょっと悔しかった、こっちはパソコンから打ち出しただけだったから』
……変なところで張り合うな、江麻も彩夏も。もしかして立場を超えれば二人はとても仲良しになれるんじゃないだろうか? 好きな俳優も一緒だし。
「江麻と最初にあった時やぼくの姉ちゃんを襲った黒いワゴン車は? あれも江麻の仕業?」
『いいえ、それもあちら側、《調査員》の仕業でしょ』
はっきりと答えた。ぼくの人の言葉を分析する能力はとても低いと今回痛感させられたが、それでも今の状況で江麻が嘘をついているとは思えなかった。
双方から否定された、黒いワゴン車。
……本当に《権益者たち》って、いないんだよね?
背筋が凍りつくような感覚がして、鳥肌が立った。
『聞きたいことはそれだけ……?』
通話口の向こう側で、江麻がそわそわしているように感じられた。本当は彼女はこの電話をしてはいけないのかもしれない。それでも、ここまで付き合ってくれたのか……。
残された時間は少なそうだ。
前を見ると、ぼくを置いてさっさと一人先へ進んでいく博士の後ろ姿が小さく見えた。「ま、待って。最後に一つ、結局、江麻はぼくを騙していたの?」
『はあ? ……最初にそう言ったでしょ。わたしは貴方たちから情報を盗むために近づいたんだ、って』
江麻の呆れたような声が聞こえた。
「……江麻がぼくに言った言葉は全て嘘なの?」
『……』
返事は返ってこなかった。ぼくはぐっとスマートフォンを強く握る。
確かに江麻はぼくを騙した、でも短かったとはいえ彼女と過ごした時間全てが嘘で塗り固められているとは思いたくなかった。いくつも見せてくれた彼女の表情の中に、わずかでも本当の彼女がいたんじゃないか? そう思わずにはいられない。
ようやく、ためらいがちな口調で返事が返ってきた。
『そ、そんなこと……。それこそ自分で考えたら? 人を信じるかどうかなんて、最後は自分次第なんだから。……じゃ、さようなら』
プツリ、と通話が切られた。
ぼくは後ろを振り返る。
ボーゥッと、寂しげな汽笛を鳴らし、船は出港していくところだった。




