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「なんだ、健吾も来たのか。……この程度の怪我で騒ぐなんて、うちの家族は揃いも揃って心配性だな。さっき父さんからも電話がかかってきたし……向こうは夜中だぞ」
病室のベッドに横たわる姉は実にあっけらかんとしていた。
母親からの電話に出た後、とるものとりあえず学校を飛び出したぼくは、姉が運ばれた病院に向かった。そして、頭と足に包帯を巻いた姉が、病室でイケメン研修医相手にゲラゲラ笑っている姿を見た時、なんとも言えない脱力感に襲われて、廊下でへたり込んでしまった。電話越し母親の様子から、相当悲惨な事故を覚悟していたというのに……。
姉はバイクで走行中に転倒したが、スピードが出ていなかったことが幸いして、頭と足を数針縫う程度で済んだ。一応脳の検査をして問題がなければ明日にでも帰れるそうだ。母親はぼくと入れ違いで荷物を取りに家に戻ったらしく、姿は見えなかった。
病室を出ていくイケメン研修医に向かって、姉が愛想良く手を振る姿を見届けながら、ぼくは近くの椅子に座った。
「でも姉ちゃんが事故だなんてびっくりしたよ、結局、どうして事故ったの?」
高校の頃から、友達と一緒に昼夜を問わずパラリラパラリラとバイクを乗り回していた姉が転倒だなんて、想像し難かった。
「ああ、バイクで走ってたら、突然目の前に子犬が飛び出してきてさ、必死で避けたらバランス崩しちまって……」
「それで転んだの?」
一瞬、姉が可愛い子犬を目の前に、表情をほっこりさせる光景が浮かんでしまった。全く似合わない。
「いや、それはなんとか立て直したんだけど、すると今度は目の前にものすごいスピードで車が迫ってきてさ……、それも間一髪で避けたんだけど、今度こそバランス崩しちまって。……あークソッ、まだバイクのローン払い終えてないっていうのに……」
姉は苦々しそうに舌打ちする。
「車……? どんな車だったの?」
とても嫌な予感が脳裏をよぎる。
「よく覚えてねえけど、黒いワゴン車だったな。狭い道をスピード出してしかもふらついていやがった。ありゃ絶対飲酒運転だ。でなきゃ、危険ドラッグだ。警察はアタシら取り締まるより、ああいった運転手を取り締まれってんだ……」
最後の方の言葉はもう耳に入っていなかった。
体の奥底から氷のような何かが沸き上がってきて、体が震えた。
ベッドの脇に置かれているワゴンテーブルへ目を移すと、ぶるぶると震える姉の携帯電話の隣にくしゃくしゃになった白い便せんが置かれていた。これを見た瞬間、喉元が締め付けられるような痛みを感じた。
やっぱり、まさか……。
ぼくは恐る恐る、便箋を摘み上げた。
「姉ちゃん、これは?」
「ん?」
姉はぼくの手元をちらりと見ただけで、すぐに振動する携帯電話を掴んだ。「うっへー、バイト先からだ。今日は休むって伝えないとな、あのハゲ店長にまたネチネチ文句言われるな。……その紙? 知らねえよ、そんなん。医者か誰かが忘れてったんだろ。……ってどこ行く、健吾?」
ぼくはふらりと立ち上がって歩き始めた。
「ちょっと外で空気吸ってくるよ。薬品臭がちょっと辛くて」
「ちょっと待て」と、姉が引き留めてきた。「じゃあ、ついでにビール買ってこい」
誰もいない病院の屋上、出入り口の脇にある錆びた物干し竿に、干されたまま忘れ去られただろう、煤けた雑巾が一枚だけ吊るされていて、時折吹く風で寂しそうにたなびいていた。空もどんよりと曇っていて、肌寒かった。
ギイィ、と、出入り口の扉が軋んだ。そこから江麻さんが姿を現した。
「付いてきたんだ……」
「当然でしょ、貴方を守るのがわたしの役目だし。……お姉さん、大したケガじゃなくて良かったね」
「いいわけないでしょ! 一歩間違えれば、ケガじゃすまなかったんだから」
姉の病室から持ってきた便せんを、江麻さんに押し付けた。
姉が《権益者たち》の手先に襲われたのは明白だ。ぼくと博士を脅すために、とうとう姉にも手をかけてきたのだ。ぼくに降りかかる障害ならぼくが耐えればいい、博士は……まあ自業自得だ、でも周りまで巻き込むのは耐えられない……。
「研究会に出るのを止めたい」
ぼくの言葉に、黙って便せんに目を通していた江麻さんが顔を上げた。ここまで驚いている彼女の表情を見たのは初めてかもしれない。
「博士にも出席しないようにお願いする。博士だってぼくの姉ちゃんが襲われたって聞いたらきっと考え直してくれるよ。これ以上、周りを巻き込みたくないんだ」
江麻さんの目が吊り上がった。そしてどすどすと地面を力強く踏みしめながらぼくのすぐ目の前に近づいてきた。
今にも「何バカなことを!」って怒鳴りながら、腹に一発叩き込まれるんじゃないかと覚悟した。それでも、ぼくの決心は揺るがない。
江麻さんはぼくの目の前で立ち止まると、驚くべきことに、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。組織の別の担当者が健吾の家族も警護していたはずなんだけど、お姉さんの件を防ぎ切れなかったことは、完全にわたしたちの落ち度で弁解の余地はない。そのせいで健吾にも不安と心配を与えてしまって、わたしも健吾の護衛としても失格」
江麻さんの目から涙が溢れ出ていた。
「え、……江麻さん。その……」
泣いて謝られるなんて全くの予想外だった。こういう時はどうすればいいんだ?
オロオロと思案に暮れていると、再びギイィと扉が開く音がして、看護師姿のおばちゃんが現れた。そしてぼくたちの方へ顔を向けると、「まあ」と呟き、すぐさま回れ右をし、足早に屋上を立ち去っていった。ちょっと、ちょっと看護師さん、なんですか、井戸端会議で隣の奥さんの不倫の噂を聞いた時に発しそうな「まあ」っていうリアクションは!
どうしよう、どうしよう。何とか取り繕わないと。
「江麻さん。落ち着いて、落ち着いて。別に江麻たちが悪いわけじゃないし」
「で、でも。わたし健吾に不安を与えて……」
江麻さんの声は小さく、語尾はほとんど聞き取れなかった。
ぼくは必死に過去の事例——くどいようだが、こう書いてドラマや小説と読む——から言葉を探した。
「だから、江麻さんが悪いわけじゃ……、姉ちゃんだって、不注意なところもあったわけだし。それに……、そう、一番悪いのは自分たちの利益のためだけに他人を平気で傷つける《権益者たち》とその手先だよ」
江麻さんはぱっと顔を上げた。「わたしたちのこと、許してくれる?」
「許すも何も、ぼくは怒ってないから」
「私たちのこと、まだ信頼してくれるの?」
「するする! 信頼してる!」
コクコクと首を縦に何度も振った。
「ありがとう!」
「なはっ!」
突然、江麻さんが抱き付いてきた、彼女の艶やかな黒髪がぼくの鼻に当たって、甘い香りが鼻孔をくすぐる。二の腕の柔らかさ、温もり、そしてなにより豊満な胸の感触が伝わってきた。
何だ、このベタベタな展開は! しかし、このえも言われぬ感覚には抗い難かった。
「研究会に欠席するなんて言わないで。《権益者たち》の支配を打ち壊して世界に平和と自由をもたらすため、そして健吾のお姉さんの仇を取るためにも、健吾の力がどうしても必要なの」
「言わない、言わない。もうそんな弱音は言わないから」
と、反射的に答えてしまった。
「本当に?」
「もちろん……、任せてよ」
そうだ、姉の事故に気が動転して失念していたけど、この世界の未来はぼくと博士の双肩にかかっているのだ。そしてなにより江麻さんがぼくのことを期待してくれている!
再びやる気がみなぎってきたような気がする。そして同時に、未だ姿を見ない《権益者たち》への怒りが沸々と込み上げてきた。……まあ、仇と言っても、姉は死んだわけではなく、今も病室でぼくがビールを買って戻ってくるのを待っているのだけど。
「さすが健吾」
より強く抱き締められた。ぼくの心拍数は限界寸前、血流は激しく荒れ狂っている。
先日からの懸案だった命題は、もう真だと考えていいんじゃないか?
「え、……江麻」
彼女の肩をつかもうとした時、江麻が突然口を開いた。その声にさっきまでの弱々しさはなく、毅然としたものが含まれていた。
「前に《権益者たち》の手先があの高校にいると言ったけど、実は最初からその人物の正体は見当が付いていた」
ぼくの動きが止まった。
「本当に! 何で教えてくれなかったの。誰? やっぱり山ジイ?」
ぼくたちを陥れようとしたそいつを一発殴らないと気が済まない! ぼくは江麻に詰め寄った。
「違う」江麻はゆっくりと首を左右に振った「……健吾に伝えるべきか悩んでいた。だって、健吾のとても親しい人だから……」
江麻は一呼吸置いてから口を開いた。
「その人物の名前は、遠山彩夏」




